【本編完結】恋人にしたい殿下と何も知らないトレーナー&SP隊長 作:渚 龍騎
今回は7月+8月のお話です。
七月。今までの爽やかな涼しさが嘘のように感じるこの季節。そして同時に、
太陽の光が最も熱く照り輝き、動植物が活発に活動する時期といっていい。日本の多くの地域では、亜熱帯高気圧の一つである太平洋高気圧に広く覆われてしまい、高温多湿でありながらも晴天が持続することが通常であった。
ひと夏のアバンチュール。
多くの学生はその言葉に思いを馳せて、この季節に詰め込まれたイベントが待ち遠しいだろう。長い月日の休みに恋心を奮わせる者もいれば、ただ課せられた課題を片付けるだけの者もいる。そして序盤に有り余った体たらくを晒して、夏休みの終盤に追い込まれて後悔をした者も、中にはいた。
だが、トレセン学園に所属するウマ娘たちは違う。夏は休養の季節ではなく、世間が夏休みを謳歌する中で、彼女たちは更なる高みを目指して合宿へと赴くのだ。それはもちろん、王家たるファインモーションも例外ではない。
ただ立っているだけだというのに、額から汗が滴る。それを首に掛けたタオルで拭いながら、砂浜を駆けていった彼女の背中を見つめていた。
砂浜に来た彼女の笑顔は目に焼き付いている。
『みんなと一緒に来られるなんて夢みたいだよ! こうやって砂浜を裸足で踏む感触も、何もかも……感じる全てが〝特別〟って気持ちなんだ!』
当然だが、トレーニングではない。
それならば、アップ? いや、それも違う。彼女の背中を追い掛ける友人たちが、なにやら色々と声を上げて懸命に足を動かしていた。
本来夏合宿は、自身の限界を上げる強化の為に訪れるものだったが、ファインモーションにとってはそれよりも、嬉しさと楽しさの喜色に溢れた感情が強かった。
『あっ! ヤドカリさん発見っ! 新しいおうちを探してるのかな? よしよし私も手伝っちゃおうかな。きっと砂浜のどこかに理想の物件が──』
そう言って、ヤドカリの家を探す為に駆け出したファインモーション。彼女の背中を追い掛ける友人たちは、既にトレーニングを始めてしまったと勘違いをして駆け出してしまったが、それはそれでトレーニングにはなる。なぜ全員の面倒をファインモーションのトレーナーが見る羽目になったのかは、彼自身もよく分かっていなかった。
覚えているのは────、
『ファインのトレーナーさんにご指導頂きたくて!』
『この機会に、トレーナーさんから学びたくて、良ければ私たちも参加させていただけないかと……!』
夏合宿に向かう朝。突然そんなことを言われ、困惑こそしたが、一緒にトレーニングをすればファインモーションにもなにか得られるものがあると思い──断るのも申し訳なかった為に、快く了承してしまった。
一緒にトレーニングをするのは構わないが、突然言うのはやめてほしい。なにせ、トレーニングメニューをファインモーションだけのものしか作っていない。ファインモーションは周りよりも頭一つ抜けた才能と実力の持ち主。そんな彼女の為にしか考えていないメニューを──過小評価するつもりではないが──あの友人たちが簡単にこなせるとも思えない。かと言って、彼女たちの距離適性などもまったく分からない状態で、トレーニングのメニューを考えるのは、かなりの無理難題だ。
「…………考えるか……」
ポツリと呟いて、砂浜に座り込むとトレーニングノートを取り出す。ボールペンのノック部を押してから、顎に手を置きながら走り出した彼女たちの姿を思い出していく。走り方や息遣い、振り方、角度、記憶力はそれなりに良い方だと自負している
「ってことで、二人の分も簡単にだけど考えたよ」
ファインモーションに振り回されたであろう二人が、肩を大きく上下させながら帰還。そんな二人に比べて、ファインモーションは至って元気な様子。足下には大量の貝殻が積まれたバケツ。どうやら幾つもヤドカリの家を探しては走り回っていたらしい。
二人は膝に手を置いて、息を整えながらトレーナーから差し出された紙を受け取った。
「ファインに振り回されると思って、休憩後のトレーニングメニューを考えておいたよ。君たちの脚質とか知らなかったから、今の走りを見て、俺の予想になっちゃったんだけど……」
そこまで言って、トレーナーは言葉を止める。トレーニングメニューの書かれた紙を取ってからも、二人は大きく息を吐いては吸ってを繰り返して呼吸を整えようとしていた。そんな二人の疲れ果てた姿を見たトレーナーは苦笑して、
「大丈夫?」
「なんで、はぁ……ファインって、あんなに……タフなんですか……?」
「いや、あれはタフというか、なんというか……」
二人に水筒を手渡して、トレーナーはファインモーションに視線を移す。彼女はバケツを片手に持って、ヤドカリに呼び掛けながら懸命に探していた。
ファインモーションは頑張り過ぎてしまう点を除けば、スタミナに多少の不安はあれど長距離も走れる。それでも今回の場合はタフ過ぎるというよりも──、
「楽しみ過ぎて疲れを感じてない、だけ、かな……」
この瞬間を全力で楽しんでいるからこそ、疲労よりも楽しさの感情が勝ってしまう。だからファインモーションは疲れを感じてないと言えるのかもしれない。それと、可能性はもう一つ。小さな子供がどこからか湧き出る無限の体力で遊び尽くして、帰る時には爆睡しているそれと同じである可能性も無きにしも
「取り敢えず、二人は休んで」
二人に休息を促して、彼女たちからの質問に答えながら、トレーナーはトレーニング後の予定を組み始めた。遠目から送られるファインモーションの視線に気が付かず────。
◆◆◆◆
ぼんやりと立ち並んだ燈火が、心地良くも感じられる喧騒に揺れる。整然とした連なりに紅く灼いた光は、群青の空に薄く広がっている。視線を下ろして、左から右へ、正面に戻してから奥まで立ち並んだ屋台を見つめた──時折り見える眩い光に目を眇め、辺りに席巻している喜色の喧騒は、横にいる彼女の
彼女の表情は、なにやら不貞腐れているようで、不満を募らせているようでもあった。
「もしかして、楽しくない……?」
見下されたファインモーションは、その手に握った赤く染まっているリンゴ飴を舐めてから「楽しいよ」と一言。告げられた声色は、朗らかに発言と真逆の感情が色濃く滲んでいた。トレーナーは眉を寄せた。
夏祭りとは年に数日しか開催されない数少ないイベント。ファインモーションにとっても、滅多に訪れることのできない日である。この日を全力で楽しむ為に、トレーナーは予定を立てて望んだ──だがしかし彼女の顔は不満そのもの。
「ファイン、どうかしたの……?」
恐る恐る問い掛けて見れば、ファインモーションは不満とは別に羞恥に似た色を頬に浮かべた。
困惑。分からない。ファインモーションがなにを考えているのか、まるで分からない。だが、これだけの大イベントをはしゃいでいないのも事実。思考を悩ませていると、ファインモーションは身体を寄せてトレーナーの腕を僅かに掴む。片手に持ったリンゴ飴を口元に当て、周りの喧騒にも掻き消される声でなにかを呟いた。
「キミは……れ、の……」
「ごめん、聞こえなかった。どうしたの?」
慌てて耳を傾ける。トレーナーを呼んだ声だけは聞こえたが、それ以降の言葉は聞き取れず、再度もう一度だけ言ってもらえるように促した。するとファインモーションは掴んでいた手を放して、半ば無理やりトレーナーの肩を掴んで自身の顔の近くに寄せた。
今度はハッキリと。だがその声色は普段のファインモーションとはどこが違う雰囲気を纏っていた。
「キミは、誰のトレーナー?」
告げられた言葉を耳にして、トレーナーは思わず「え?」と更に困惑。予想もしていなかった言葉は、トレーナーの思考回路を
なにせ〝誰のトレーナー?〟と問い掛けられるとは、思いもしていなかった。なぜならその問い掛けは、トレーナーにとって至極当然の答え一つしかないのだから。なにか裏があるのでは思考を巡らせるが、最早それだけの思考能力は残っていない。ゆえに、答えられたのはたったこれだけ。
「もちろん、君のトレーナーだよ」
「君って誰?」
「ファイン」
もちろん、当然である。だがファインモーションは「フルネームで」と言って、納得していないようだった。それに対してトレーナーは困惑しながらも、周りの喧騒に掻き消されぬ声で答えた。
「ファインモーション。アイルランドの王家の子女、URAファイナルズの初代
そして──と声を紡いで、最後に最も大事な部分をファインモーションの瞳を真っ直ぐ見つめながら、
「俺が初めて出会った、たった一人の大切なウマ娘。君以外に考えられないよ」
ファインモーションが羞恥から視線を逸らす。その真っ直ぐ向けられた瞳を直視できず、外へ向けてからもう一度トレーナーの表情を伺うと、彼はどこか意地悪めいた顔色を滲ませて、僅かに口角を上げた。
「え、いま笑っ……」
そしてその表情から汲み取れる意味を理解して、ファインモーションは声を荒らげた。
「──ひっどい! 嘘ついたの!?」
驚愕のあまりに信じられず、その台詞を吐く。トレーナーは軽く微笑みながら笑ってみせ、逼迫するファインモーションに仕返しと言わんばかりに告げた。
「嘘ではないよ。ただ、見たことのない反応を見てみたかっただけだよ」
「私はお遊びだったの……?」
「言い方悪いって。俺の事を揶揄ってくる仕返し」
こっちの気も知らないで──ファインモーションは不貞腐れるように頬を膨らませてから、純粋な乙女心を弄んだ悪党に鉄槌を下す為の一撃を考えた。
トレーニングの時に芽ばえた感情。トレーナーが友人のウマ娘の相談に、真剣に乗っている時──ファインモーションが感じたのは、胸が締め付けられるような感覚。友人に対して、憎悪に似た感情と羨望が同時に渦巻き、内心で暗い炎が燃えていた。
────ああ、それはもっと体幹を意識しよう。
優しい声色が。
────その考えは間違ってないから、もっと先のコース展開を考えると更に良いかもね。
否定せず。
────ほら、また膝が伸び切ってない。けど意識はそれでいいよ。無理に直そうとせず少しずつで。
私以外に向けられて。
────いいよ、その調子で。
トレーナーに抱いた感情も、友人に向けてしまった新しい感覚も、燐のような青白い炎となって巻き上がる。憤怒に似ている気もしていたが、これが〝嫉妬〟であると理解するのは、そう難しくはなかった。
自分の運命を恨むことはなかった。
他人の人生を妬むことはなかった。
それで嫉妬を感じることなどなかった。それなのに彼が他人にその優しさを向けているのが、なぜか許せなくて、なぜか羨ましくて仕方がなくて。
ずっとそれは私に向けられていたものだったのに。ずっと向けられていたからこそ、他人にその優しさが向けられようと、それが彼の優しさなのだと理解していた。そのはずだったのに────、
やってやったと言わんばかりの表情を浮かべていたトレーナーが顔を離す。驚愕で見開かれた瞳を僅かに閉じてから、ファインモーションはトレーナーの服の裾を掴んだ。
この歳で他人に嫉妬をするなんて、子供だと思われるかもしれない。他人を妬む行為は、恥ずかしくてはしたない。だがそれでも、彼が他者ばかりに目を向けて、優しい声色をしていることが、羨ましかった。
「ねえ、随分ほかの娘と仲良く話してたね」
ぎゅっと、僅かに裾を握る手に力が入る。普段のファインモーションと違った雰囲気を感じたトレーナーが、困惑の色を表情に浮かばせながら答えた。
「仲良くっていうか、相談に乗って上げただけだよ。たとえ担当じゃなくても、困っているならば真摯に向き合う。それがトレーナーだからね」
優しい。その言葉ばかりが、彼を象る。その優しさが、自分のものではないと知っている。彼が魅せる優しさは、誰のものでもない。彼は誰かが困っているなら、利益やメリットなど考えることなく無償の優しさを差し伸べ、自分を犠牲にしてでも助けてしまう。だからこそ────
「二人とも、凄いって褒めてたよ」
「それなら良かった」
分かっている。
友人は彼を取ろうとなど考えていない。
知っている。
彼は、決して私から離れたりしない。
信じている。
どんな時でも、彼はずっと支えてくれる。
優しく微笑んでくれたトレーナーの瞳を見据えた。
いま自分がどんな
そんな彼女の様子をおかしく思ったトレーナーが、祭りの奥へと視線を向けてから、自分の身体へ寄せるようにしてファインモーションの肩を掴んだ。
「心配しなくても、俺は君のトレーナーだよ」
その声が、祭りの喧騒を塗り替えるように聞こえて、ファインモーションは困惑しながらもトレーナーを見上げる。彼はただ夜空を
「誰の所にも行かないし、ファインのトレーナーで有り続ける。でもまあ、今日はファインとあまりいられなかった分、これからは君との時間だよ」
────嗚呼、ただの杞憂だった。
心配なんていらなかった。
灯籠の炎が、ぼんやりと立ち並んだ光と共に風に揺られる。祭りの喧騒も、胸の鼓動も、彼の声以外の音が聞こえず、ただ横で彼を見上げていた。
彼の腕が肩を掴んで身を寄せている。ファインモーションはそれから抜け出すと、トレーナーと正面を向き合って顔を上げた。表情から浮かれの色を消して、端正な顔に僅かな寂寥の瞳を向ける。しかしその瞳には、真剣な色が強く滲んでいて、ファインモーションは両手を前に組んだ。
声色を低くし、正面を切って告げた。
「貴方が私を導くこと──これを至上命令と心得なさい」
雰囲気が一変して、ファインモーションの真剣な表情にトレーナーが「え?」と声を漏らして困惑の色を見せる。いままでで見せたことのない鋭い眼差し。そこにあるのは〝少女〟ものではなく、女王の如き〝殿下〟と呼ばれる人物の顔立ちだった。
いままで見たこともない表情で、いままで聞いたこともなかった声色がトレーナーを射抜いた。
「貴方は私だけを見ていて。私以外の者のもとに行くことは許しません。それをしっかりと心得なさい」
いままでなかった強い口調。それはまさに女王と呼ぶに相応しい声色でもあった。
困惑を見せるトレーナーに、真剣な眼差しを向けるファインモーション。その間を割って入る者はおらず、祭りが齎す周りの喧騒も、ファインモーションの見せる面構えが、その可愛らしい容貌に相反して辺りに席巻していた。
トレーナーの困惑が沈黙を象る。それが数秒ほど続いて、ファインモーションが吹き出すように笑った。
「あははっ! びっくりした?」
トレーナー、更に困惑。口に手を当てて笑うファインモーションが「ごめんね」と謝罪の言葉を言いながら、ぽかんと口を開けるトレーナーを見つめた。
「さっき乙女心を弄んだ仕返しだよ」
「やられた……マジか……」
「とってもマジだよ」
悪戯染みた顔色が、僅かな笑みに混じってトレーナーを揶揄う。だがその本心は、自分が抱いてしまった嫉妬心と杞憂を隠すための行動でもあった──そんなこと、トレーナーはまったく知らない。
隠すための欺瞞ではあるが、察しの悪いニブチントレーナーは絶対にその嫉妬心を気付くことはない。だから、ファインモーションは彼の手を握り締めて、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
今度は、ウソも隠しごともない。ただ恋する少女の、純粋な本心だけがその声に込められて────、
「でも、キミには私を見ていてほしいな。みんなとこの場所に来れたのは嬉しいけど、あんまり他の娘ばかり相手されると、少しだけ妬いちゃうな……」
少し──否、〝
僅かに恥ずかしさを募らせながら、ファインモーションは「あはは……」と笑う。今日が祭りの最中で良かったと、ぼんやりと立ち並んだ提灯が紅の光で良かったと、頭の隅で思ってしまった。きっといまの自分の顔は、朧気な提灯の光と同じ色をしているから。
「私、キミのトレーニングノートが好きなの。私との過去と未来がたくさん描かれているでしょう?」
過去に残された筆跡。未来を見据えて描かれたトレーニングノート。それはすべて、ファインモーションの為に記されているこの世にたった一つのもの。トレーナーがどれだけファインモーションに尽くしているのか、一目瞭然のものだった。
だがしかし、そのトレーニングノートは今日でファインモーションだけのものではなくなり、友人とのトレーニングメニューがそこに描かれてしまった。
そのことが、なによりも────。
「だから……他の娘の事は描かないでほしいなー、なんて……あはは……」
ワガママは百も承知。子供だと思われてもいい。それでも、二人だけのトレーニングノートに、過去と未来を描いていきたいと願う。そこには誰かの介入もなく、ただ彼には私のことを書いてほしい。
その
呆れられたかもしれない、とファインモーションは目を伏せる。落とした視線が自分の手に向けられて、寂しさをごまかす為に指同士を絡めていた。
痛いほどの沈黙が、周りの喧騒と共に流れる。そして指同士を絡めていた自分の手を見つめていると、その手がトレーナーによって取られた。
「ごめん、気付けなくて。でも、さっき君といられなかった分、この時間を考えてここにいる」
トレーナーはポケットに入っているトレーニングノートを取り出して、後ろの辺りのページを見せる。そこにはいままで描かれていたトレーニングとは違う内容が記されていて、ファインモーションはその内容に目を見開いた。
「今日は夏祭りだからと思って、トレーニングの合間に予定をいくつか立ててたんだ。どの屋台に行ったらファインが喜ぶのか、君ならどこでも楽しむだろうけど──更に楽しんでもらえるような場所はどこなのか、考えてたんだよ」
そう、心配など最早必要なかった。
トレーナーはどこまで行ってもファインモーションのトレーナーである。結局のところトレーナーはファインモーションを第一に考えて、ファインモーションの為ばかりを試行錯誤しているのだから。
胡乱な不安はただ杞憂である。その証左に、トレーナーはファインモーションと共に此処に立っている。ファインモーションは俯いて、緩ませてしまった口角を隠しながら、トレーナーに聞こえない声で呟いた。
「
呟いた声を聞き取れず、トレーナーが「ん?」と首を傾げる。慌てて「ううん」と首を振り、自身の未熟さを噛み締めながら、トレーナーの手を引いた。
「それなら──寂しかった分、私を楽しませて?」
「ああ、仰せの通りに」
トレーナーがファインモーションの先に立つ。そのまま爽やかに笑みを浮かべて「君に見せたいものがある」と、彼女の手を引いた。辺りの喧噪を過ぎ、雑踏の流れに逆らいながら、ファインモーションはトレーナーの背中を懸命に追った。
光の射す方へ、カナタトオク、時折こちらの様子を伺って振り返るトレーナーの優しさを暖かく感じながら、引いてくれる
やがて人通りが減り、それに合わせて周りの喧噪も遠退き、さっきまでの騒々しさが嘘のようなほど音が消えた。風に揺られた葉が囀り、凸凹とした石段を彼に支えてもらいながら一歩ずつ踏み締めた。
空が鋼青に満ちた自然は、芳しく唆るものがある。それは故郷を思い出すような、芽ばえた郷愁の念が強くなる漠然とした感覚があった。
「トレーナー、どこに向かってるの?」
「良いところがあるんだ」
ファインモーがふと感じた疑念に、行き先は答えずたったその一言だけ告げて、トレーナーは歩みを続ける。祭りの騒ぎとはまるで違った静謐の中──行き先の分からない不安と同時に、彼がいる故の安心感が強く、彼の背中をただ追い続けた。
そして辿り着いたのは、少し小高い場所だった。人の手が加わる前は、きっと心地の良い爽やかな風が吹いていたであろう場所。見下ろした先には、祭りのぼんやりとした橙色の輝きがいくつも立ち並び、その中が活気に満ち溢れているのが見え────、
「綺麗……」
まず感じたのは、その一言だった。
ここが何処であるのかよりも、その先に見えた景色を吐露していた。鋼青に伸びる灯り、そのまま視線を上げていくと、頭上に広がっていた光景が、ファインモーションの目を見開かせた。
群青の空に架かった星々の河。白い帯のように連なる星は、頭上で美しくも儚い色で瞬いていた。
その名は────天の川。
未だに未知が広がる宇宙が魅せた大河。奥に広がる約1000億個の星が並ぶ雲状の光の帯。ギリシャ神話では、ゼウスが自身や子どもを不死身にする為に女神ヘーラーの母乳を飲ませようとし、それをヘーラーが払い除けた際に流れ出したのが『
だが天の川で最も有名なのは、誰もが一度は聞いたことのある東アジアの神話────、
「〝七夕伝説〟って知ってる?」
それは中国を起源として語られる〝織姫〟と〝彦星〟が七月七日の年に一度のみ〝天の川〟を渡って会うことのできる物語。その話は、僅かでありながらファインモーションも、詳しくはないが知っていた。
「織姫と彦星の話だよね。聞いたことはあるよ」
〝織姫〟と〝彦星〟
「元々織姫と彦星の話と、七夕の七月七日は特に関連付けられていなかったんだ」
七夕といえば、織姫と彦星。織姫と彦星といえば七夕。最早そんな風潮すらある時代に、七夕とは関連付けられていないと言われれば驚きもする。
この伝説は漢の時代に
「だけど、後の南北朝時代の『
その日に行われた裁縫の上達を願う『
ファインモーションはトレーナーから語られる真実に頷きながら、彼がどこか遠くへ意識を向けているのに気が付き、その表情が悲しげな雰囲気を纏っていた。それがなぜなのか分からず、賑やかさを保っている遠くの祭りを見つめて口を開いた。
「そうだったんだね。織姫と彦星は、一年に一度しか会えなくても、お互いを愛し合ってた。とてもロマンチックだよね」
「愛し過ぎた結果、一年に一度しか会えなくなっちゃったけど」
「あははっ、それでも愛し合えているんだから、とても凄いよ」
「……そうだね」
ファインモーションの手を握っていたトレーナーの手に、僅かに力が入る。表情からも見て取れたトレーナーの漠然とした不安が気になり、ファインモーションは彼を見つめた。
「でも、どうして急にそんな話を?」
七夕伝説の話なら、織姫と彦星の話だけで良いはずだ。わざわざ七夕との関連を話す必要はない。
問い掛ければ、トレーナーは「敵わないな……」と小さい声で呟いてから大きく息を吐いた。
「最近、ファインがどこか遠くに行っちゃうんじゃないかって思う時があるんだ」
「私が?」
元よりファインモーションはアイルランドが必要とする逸材。延々とこの国に居座るわけがない。この時を過ごせているのも、最早奇跡に近い。許された短い時の中で、既にファインモーションがいる日々しか考えられなかった。
まだその時は来ない。それがわかっているからこそ、終わりを考えて不安に駆られる。それはトレーナーだけでなく、ファインモーションも同じだった。
「だから思った。たとえ離れても、彦星と織姫のように年に一度ぐらいは会えないかなって」
恥ずかしさを隠すように、トレーナーは僅かに笑いを溢す。そんな彼の愛しく感じる仕草を笑って、トレーナーの手を握り返した。
「一年に一回じゃなくて、もっといっぱい会お?」
良かった。キミが遠くを見ていて。
良かった。色が見えない程の夜で。
良かった。キミが同じ想いでいて。
きっとキミは私と同じこの
トレーナーは前を向いたまま答えた。
「そうだね。会えるなら、たくさん会って、俺が見つけたラーメン屋を紹介でもするよ」
「それは楽しみ!」
お忍びで日本に行ったりして。
誰にもバレないように二人で遊んで。
手を取って、目的地に着くまでで離れていた時に起こった出来事をお互いに話して。お互いに笑って、お互いに進んで、お互いに手を取り合って、たまには喧嘩もしたりして。
「いつの日か、俺もアイルランドに行ってさ」
「その時は私がアイルランドのオススメの場所に連れて行ってあげる!」
「それはいいね、楽しみだよ」
────未来を語った。
離れても大丈夫だと、互いに言い聞かせるように。
────過去を望んだ。
あの時の想い出も良かったと、互いに話し合って。
────
運命を愛して、二人で歩もうと、手を取り合って。
ファインモーションの未来は変わらない。
トレーナーの未来も変わらない。
二人の運命は既に定められて変えることのできない流れにある。ファインモーションはその運命を愛さなければならず、トレーナーはその運命に抗う意思を持っていた。
結局のところ、二人には終わりがある。出会いと邂逅の果てにあるものは、悲しみの降り積もった単なる別れという名の終わり。
想い出は別れを惜しむ悲しみとして変換され、その際に齎された喜びも、なにもかもが悲しみに変わり果てる。だから出会いとは残酷なのだ。
いずれ来る別れを知っていても、その時に訪れる悲しみを覚悟していても、結局は意味がない。
「今日ここに来たのは、ただ天の川を見に来ただけじゃないんだ」
そう答えて、トレーナーは自身の腕時計に視線を落とす。一秒ずつ刻んでいった先、トレーナーがファインモーションに「あっちの空を見て」と指を指して視線を促した。
そう言われて、ファインモーションは疑問に思いながらも視線を向ける。トレーナーが口を開くと同時に、空へと伸びる一条の光が消えた。
「この奇跡を待っていた」
刹那────光の花が咲いた。
軽快な爆発音と共に、色とりどりの閃光が舞い散る。鋼青の空に目一杯に咲いた花は、ファインモーションの瞳を照らして、闇に呑まれる世界を彩った。
一際大きなその
「君は言った。特別なこと、楽しいことは花火に似ているって。限られているからこそ、尊くて素敵な思い出として心に残る──君はそう言った」
あの日、初めて彼と過ごした夜。空に咲く花火を見て、ファインモーションはそう言った。
特別なこと、楽しいこと、それは花火のようにあっという間に終わってしまう。限られた時間のみに咲くからこそ、どんな事でさえも美しい思い出として、その心に刻み込まれる。花火も、想い出も────。
「確かにそうかもしれない」
けど──その言葉が次を繋いで、
「想い出は新たな奇跡を生む。だけど花火は、その時にしか見れない」
トレーナーが空を見上げた。
天に架かる橋、空を彩る花、相まみえる二つの光が遍いた天空。どちらも時期や、天気、気候、なにもかもが整わなければ見ることのできない光輝。
花が咲き、光が弾ける。海よりも深く、吸い込まれるような空を、宝石のようなファインモーションの瞳が映す。その奥に生まれるいくつもの花が、彼女の鮮やかな瞳を彩った。
「花火は確かに儚い。けれど想い出は、儚くも、その者たちの心に永遠と残り続ける」
トレーナーがファインモーションの手を取った。
真っ直ぐにその瞳を見つめ、遠くで夜空のキャンパスを彩った花火が、二人の表情を淡く照らす。ファインモーションの頬は仄かに紅く染まっているものの、トレーナーは恋色のないただ真剣な表情を浮かべていた。
「だからまたいつか、この夜を見に行こう」
約束──トレーナーは未来を見据えた。
未来の夢想。確証なんてないのにも関わらず、トレーナーは嘘の色を滲ませていない真剣な眼差しで言い切った。そこには絶対に決める覚悟が感じられた。
当然、ファインモーションの答えはただ一つ。
「うんっ、約束だね!」
ファインモーションが小指を立てて、トレーナーに腕を伸ばす。それに合わせて、トレーナーも同じように小指を立ててファインモーションの小指に絡めた。
指切り──それは約束を尊重し厳守する為の誓い。これで二人は、この約束を破ることはない。
「ああ、約束だ」
その答えに、二人は笑った。
確定された約束──それ即ち〝確約〟。未来を限られた二人が、その先にある運命を変えようと描く。まるでそれは、今も尚、夜空に弾けて、咲いて、彩られる花火のようで。
その瞬間────他よりも一際大きな花火が、二人を祝福するように夜空に咲き誇った。
◆◆◆◆
「ねぇトレーナー!」
合宿先の宿にある広間。ソファに座っていたトレーナーを、ファインモーションがなぜか気分を高揚させながら呼んだ。お風呂上がりなのか、ファインモーションは髪を伸ばしていて、いつもは見られない新しい姿にトレーナーは目を奪われていた。
「どうしたの?」
火照ったファインモーションの姿から、視線を逸らして反応を示すと、彼女は正面に立って両手を叩く。そして笑顔を浮かべたまま口を開いた。
「これから皆と怖いはな──」
「──嫌だ」
ファインモーションから告げられる言葉を察して、トレーナーは無理やり遮って首を振った。
「判断が早いよ! これから怪談──」
「──絶対に嫌だ。言い方変えてもダメ」
食い気味に否定。今のトレーナーはどんな言葉が迫ろうと、全てを否定する覚悟があった。
「もー! そんなに怖い話が苦手なの?」
トレーナーの唯一の弱点は、ホラー系統のものが苦手過ぎること。それはファインモーションも知っていることだったが、ここまでとは思わなかった。
「苦手でもないし、怖くもないけど、嫌だ」
「…………」
大人の悪意地。トレーナーはあくまでも、ファインモーションに『ホラーが苦手』だということを知らせたくないようでもあった。自分が子供だと思われるのが嫌なのか、なぜそこまで怪談話が嫌いなのかは、この調子では答えるはずもない。
そこでファインモーションは思ってしまう──全力で怖がるトレーナーが見てみたい、と。他人の嫌がることはしてならないと分かっていながらも、普段は冷静沈着なトレーナーの新たな一面が気になった。
そこでファインモーションは決断した。
「じゃあじゃあ散歩に行こっ!」
「──肝試しだろ!? 絶対にイヤだ!」
────絶対にトレーナーを怖がらせたい。
「私が一人で歩いて誰かに襲われてもいいの?」
────絶対に怖い話など聞きたくない。
「隊長に頼むから安心して」
こうしてファインモーションはなんとしてでもトレーナーを怪談話に連れて行こうとして、トレーナーはそれを全力で断るという終わりの見えない連鎖が始まってしまった。珍しく言い争う二人の声は、宿中に広がったとかなんとか────。
────あーあ、折角いい話だったのに。
因みに、止めようとした隊長及び友人諸々は、話の内容に苦笑しながらその行く末を遠くから見守っていた。
この番外編は4月から1月までの話を書いて終わりのつもりです。今回は7月+8月なので、次回は9月。そして10月、11月、12月、最後に1月の話を書いて終わりです。
最後まで見ていただければ幸いです。残りも、よろしくお願い致します。もしも自分用に作っていた設定などが見たいという声が多かったら、それも最後にアルファで付け足したいと思います。
感想や評価があればよろしくお願いいたします。
あと今後の更新などは、変な呟きと共に私のツイッターアカウント@hokattya258でお知らせしていますので、ぜひ興味があればよろしくお願いします。
設定などあるなら見たい?
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あるなら見たい
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別に無くてもいいかな