【本編完結】恋人にしたい殿下と何も知らないトレーナー&SP隊長   作:渚 龍騎

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投稿が遅れてすいません。
今回は本編でのファインが帰国した後のお話です。


22 その言葉は聞こえない

 

 

 

 〝光〟あるところに〝闇〟がある。

 

 〝闇〟あるところに〝光〟がある。

 

 

 

 世界は常に二つに一つ。この世を分断つさせるのは、常に光と闇。求めていた先に残っていたものは、常闇を照らす輝きか、はたまた光を飲み込む無限の暗黒か──その先から帰って来た彼女は、眩い煌めきに照らされていた。

 

「──トレーナーっ!!」

 

 レースが終わり、ファインモーションは控え室に戻る最中で彼の姿を見つける。忙しない様子でトレーナーに駆け寄り、飛びつくようにしてトレーナーの胸に顔を埋めた。その勢いが乗って、ファインモーションの身体は僅かに浮かび、トレーナーは彼女の身体を支えて勢いを殺し切れずにくるりと回った。

 笑いが混じる。地に足を付けて、ファインモーションは埋めていた顔を上げ、その喜びを誰よりも最初に彼に告げた。

 

「──勝った! 私、勝ったよ!」

 

 ファインモーションを抱き締めて、トレーナーは何度も頷きながら「見てた」と同じ言葉を呟く。その声には浮かれの色は含まれず、抑えきれない感情を吐き出すように、微かに震えていた。

 様子が明らかに違うと感じて、ファインモーションは首を傾げた。

 

「トレーナー……?」

 

 見上げた瞬間、トレーナーはファインモーションを強く抱き締めた。胸に顔を埋められ、トレーナーの表情を伺うことができない。だが彼の息遣いを耳で感じられ、鼻をすすり、嗚咽すら混じった声が聞こえた。

 

「見てた……! ずっと見てたよ」

 

 何度も、同じ言葉を告げ続ける。ファインモーションはその言葉を受けて、困惑を振り切ってトレーナーの背中に手を回した。

 

「ありがとう、みんなの声が──私を押したんだよ」

 

 篠突く歓声の中で、頭に直接響くような聞き覚えのある声。その中でもより一際強く、激しく聞こえたその声は、暗黒で瞬いた光となって先の先へと導いてくれた。

 

「ほんとに、最高だった。君の、トレーナーで良かったよ……本当に、良かった……!」

「もー、なんでキミがそんなに泣いてるのー?」

 

 抱き締められた腕が緩み、ファインモーションはトレーナーの腕に触れながら顔を上げる。その瞬間、見下された彼の顔を見て、思わず笑いを溢した。

 

「ふふっ、もうすごい顔してるよー?」

「うわ、本当だ」

 

 ようやく離れた腕が名残惜しく感じながらも、ファインモーションは腕を伸ばしてトレーナーの涙の跡に触れる。拭って、その軌跡を描く涙が自分の勝利に対するものだと理解するのは簡単だった。いままで見たことないほどに感情を露わにして、トレーナーが涙している。それが嬉しい──この感情はトレーナーの新しい一面を見れたことに対してなのか、はたまたトレーナーが自分の勝利を喜んでいることに対するものなのか、それともどっちもか。どれにせよ、この胸に巡った感情は喜色で彩られていた。

 

「トレーナー、鼻水すごいよ?」

「うわ、べちょべちょだ……ティッシュは……」

「私の服の裾、使う?」

「それはちょっと遠慮しとく。あとで隊長にしょっぴかれそうだし」

 

 トレーナーがポケットからハンカチを取り出して拭う。その様子に思わず微笑んで、ファインモーションは彼の手を取った。

 

 

 

「ほら! 今日はまだ終わらないよ! これからまだまだ沢山の楽しいことが待ってるんだから!!」

「その前にシャワーを浴びないとね」

「覗いちゃダメだよ?」

「揶揄うんだったら、髪も尻尾も乾かさないよ」

「はーい」

 

 

 

 ふふ、と笑みを浮かべたファインモーションの手を握り返して、トレーナーは歩み出す。遠くから響き渡る歓声は、いまだ鳴りをひそめることなく、勢いを増して二人の背中を祝福していた。

 輝く煌めきを受けながら、ファインモーションの思い出に刻み込まれた一つの光は恍惚と輝いている。

 

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 

「おかしい……」

 

 

 

 最初に漏れたのはその一言。腕を組みながら、目の前の光景に溜め息を吐く。首を傾げて、手元に広げた説明書と目の前の惨状を見比べた。

 説明書を縦や横に変える。ただ字が逆さまになって読み辛いだけ。それから頭を掻いて、もう一度見比べる。説明書に書かれた図は、スッキリとしていてどのコードがどこに繋がっているのか一目瞭然。だがしかし、目の前にあるのはぐっちゃりと汚らしく、どれがどのコードなのかまるで分からない。

 

「なにこれ」

 

 もはや出たのは困惑の言葉。パソコンに、ただ小型カメラを繋げるだけの作業なのだが、いま眼前に広がっているのは地獄絵図のそれ。コードがどこから伸びているのか、もう既に外す作業だけでも多大なる時間がかかりそうだった。

 まさか自分がここまでの酷いとは思いもせず──いや、思い返してみれば、思い当たる節が多い。

 

「俺の読解力がここまで酷いとは……」

 

 自身の手に負えないと理解したトレーナーは、説明書を放り投げて部屋を後にし、応援を呼びに行った。

 その犠牲に選ばれたのは────、

 

 

 

「あァ? なにやったらこーなるンだよ」

 

 

 

 乱雑に伸ばされた黒髪を掻き上げて、エアシャカールは呆れながらキレの長い瞳をトレーナーに向ける。彼は頭に手を当てて「それほどでもないさ」と自信ありげな表情を浮かべた。

 

「褒めてねェよ」

 

 苛立ちの込められた一言を告げ、エアシャカールは呆れの色が強く滲んだ表情で溜め息を吐く。それに対してトレーナーは心に一撃を喰らいながらも、説明書をエアシャカールに見せた。

 

「俺も分かんないけど、この通りにやったら、あの地獄絵図が生まれてしまった」

「生まれてしまった、じゃねェよ」

「こういう時はシャカールが一番頼りになるから」

「オレはなんでも屋じゃねェンだよ」

 

 呆れた色を全面的に表情に浮かべて、エアシャカールは深く溜め息を吐いた。

 

「お前パソコン作業とかはできてたよな」

「タイピングとかはできるけどそれ以外はからっきしダメ。この前ペーストとか言われて、食品の話してるのかと思ってたぐらいだし」

「分からないの次元が違ェよ」

 

 半ば苛立ちと呆れを含んだ表情が一瞬だけトレーナーに向けられるが、直ぐにその視線はパソコンに移り、コードをそそくさと手際よく捌き始めた。

 

「あァ? なンでまったくいらねェコードがこんなにあンだよ……」

 

 パソコンに繋げられた何本ものコードを抜き、トレーナーに渡す。トレーナーの腕には無数の蛇の如く、絡まったコードの束が抱かれていた。

 時々響く舌打ちに罪悪感を感じたトレーナーが「なにか手伝う?」と聞いたが、エアシャカールの鋭い眼差しに射抜かれた挙句「お前は黙って座ってろ」と一蹴されてしまった。

 

「意味分かンねェ……。どうしてプレステのコントローラーが出て来るンだ」

「マウス代わり?」

「バカか。しかもプレステ2とか何年前のだよ」

 

 へへ、と笑った直後にコントローラーが飛んで来た。額に直撃した痛撃が骨から浸透して呻く。視界に奔った星がグルグルと回っているような感覚に陥っていた。蹲っていると、ようやくコードを全て離したエアシャカールが正しく繋げ終わった。

 

「ほらよ、これで()()()にこっちの様子も映るようになんだろ」

「おおおおおおお!!!」

「うるせェ……」

 

 出来上がった状態に大興奮のトレーナーは「シャカール様々だよ!」の声を大にする。そして彼女の手を握り締めるや否や、上下に大きく振り始めた。

 

「ありがとう! ホントに助かったよ!」

 

 感謝が素振りが大き過ぎるトレーナーに、顔を引き攣らせて呆れた表情を浮かべていたエアシャカールは「オイ、離せ」と手を振り解いた。

 深く溜め息を吐いて、ゆっくりと瞳を閉じる。そしてトレーナー室の扉に手を掛けた。

 

「これでアイツとの時間に間に合うか?」

「うん、ありがとう」

 

 軽く手を振ったエアシャカールの背中を見つめていたトレーナーは、ふと「あっ!」と声を上げて彼女の手を引いた。

 

「せっかく来たんだから、一緒に喋ろうよ」

「はァ!? オレはいらねェだろ!」

「まあまあそう言わずに」

 

 促されるままにエアシャカールはパソコンの前の椅子に座らせられる。そして有無を言わさずにトレーナーがパソコンを起動させると、数秒後に軽快な音と共にテレビ通話を承認する画面が表示され、承認のボタンをクリック。

 パソコンの画面が切り替わって、そこには見慣れたはずの一人のウマ娘が映っていた。

 

『あれ? これで映っているの?』

 

 美しく整えられた鹿毛のウマ娘が、耳を揺らして首を傾げる。カメラに手を触れていると、遠くから酷く落ち着いた声色の聞き慣れた声が『はい、問題ありません』と答えていた。そしてようやく画面に映ったトレーナー達の存在に気が付いたファインモーションが声色を高くした。

 

『──やっほー、トレーナー! あー! シャカールもいる!!』

 

 トレーナーがいる時の反応よりも声を大にして、ファインモーションは画面を覗き込み、トレーナーは軽く手を振り返す。椅子に座ったエアシャカールは相変わらず面倒臭げな表情で画面を見ていた。

 

『シャカールも私の為に来てくれるなんて、本当に嬉しいよ! ありがとうシャカール!』

「コイツに無理やり連れて来させられたんだよ」

『でも、今もそこにいてくれてるってことは……そういうことでしょ?』

「うるせェ、帰るぞ」

 

 席を立とうとするエアシャカールの肩を抑えるトレーナーが「まあまあ」と宥めながら、ずいっと前に映り込んだ。

 

「ファイン俺さ、少しだけアイルランド語を話せるようになったんだよ!」

『えっ、本当に!? 聞かせて!』

 

 食い気味のファインモーションに自慢する為に、トレーナーは一度だけわざとらしく咳をする。そして視線を僅かにファインモーションから逸らして口を開いた。

 

Tá an aimsir go deas inniu(今日は良い天気ですね)

 

Dála an scéil, cá bhfuil an leithreas(ところで、トイレはどこにありますか)?」

 

Tá bialann maith in aice láimhe(近くに良いレストランがあるので、) Ar mhaith leat béile a bheith agat liom(僕と食事でもいかがですか)?」

 

 躓くことなくアイルランド語を喋ってみせたトレーナーに、ファインモーションは目を輝かせて拍手をしていた。

 

『凄いよトレーナー! もうそんなに話せるようになったんだね!!』

 

 得意気に鼻を鳴らすトレーナーを感極まって褒めちぎるファインモーション。だが、トレーナーの横に座るエアシャカールは、彼の手に握り締められた物を決して見逃しはしなかった。

 微かに照れくさく笑うトレーナーの腕を即座に掴み、カメラの前でよく見つめてみた。

 

「んで、この翻訳アプリが開かれたスマホはなんだ?」

「わばっ!」

 

 慌ててカメラから外して隠すが、バッチリとファインモーションの視界に映ってしまっていた。当然、エアシャカールにも見逃してもらうことはできず、トレーナーはスマホを取り上げられた。

 

『えー! トレーナーってばアプリ使ってたのー?』

「強がりました……すいません……」

 

 肩を落とすトレーナーを見て、ファインモーションは微かに微笑んだ。

 

『でも、発音とかはすごく良かったよ。ちゃんと覚えようとしてくれてるのがすっごく分かった!』

「ふぁいぃん……やっぱり君は優しいよ……」

『あははっ、大袈裟だよー!』

 

 画面越しに笑って見せていたファインモーションの表情が、一瞬だけ悲哀の色を滲ませた。だが直ぐにその色は塗り変わって柔らかい微笑みを見せる。その変化を、エアシャカールは見逃さなかった。

 

「ったく……。ほら、お前は退け」

 

 トレーナーを退けて、エアシャカールが画面に映る。なんら容姿に変化のない──あるとすれば、纏っている服装が制服や私服どはなく、

 

「ファインはオレと会えなくて泣いてンじゃねェのか?」

『あははっ、私そんなに子どもじゃないよ?』

 

 エアシャカールなりの言葉だったのだろうか。それに向けて、ファインモーションは僅かに俯きながら「だけど」と小さく言葉を紡いだ。

 

『シャカールに会えないのは寂しいよ? ウマチューブだって、まだいっぱいシャカールとしたいことあったから……』

「湿気た面してンじゃねェよ、らしくもねェ」

 

 エアシャカールは僅かに口角を上げて俯いたファインモーションを見つめる。その鋭いギザっ歯が微かに覗き、ファインモーションに向けられた微笑みは、明らかな優しさが滲んでいた。

 

「たまには日本(こっち)にも帰ってこい。お前が帰って来たって分かれば、ウマチューブの登録者は爆上がりだ」

 

 あくまでもファインモーションではなく、ウマチューブといった発言だが、その意図は誰であっても理解できた。

 エアシャカールは口調こそ荒いが、その内にある心は誰よりも優しい。それを理解しているファインモーションだからこそ、彼女がなにを伝えたいのか聞かなくても分かった。

 エアシャカールが乱雑に自分の頭を掻く。そして悪戯の込められた笑みを浮かべて笑った。

 

「それに、今度はオレがお前を振り回してやるよ」

 

 向けられた笑みは、彼女の隣にいたファインモーションでさえも見たことがないほど鮮やかな色だった。

 初めて見れたその光景に、ファインモーションは呆気に取られてから思わず微笑んだ。

 

 

 

 嗚呼、なんと幸運なのだろうか────。

 

 

 

 私には、こんなに素晴らしい友達がいるんだ。

 たった三年の短い時間で、最高の思い出と最高の友達に囲まれて、離れても尚この想いは繋がっている。

 共に笑って、競い合う仲間がいて。離れても、こうして励ましてくれて。あの庭園に籠っていたら、これ程までに素晴らしい物を貰うことはできなかった。

 

「…………私は、もっと、みんなと……」

 

 もっと、もっと、もっと。

 私はみんなと思い出を刻み込みたかった。

 泣いて、笑って、時に喧嘩して、それでも仲直りして。お互いの夢を語り合い、競い合い続ける。まだまだ、いっぱい楽しいことをしたかったな。

 

 そう考えたら、自ずと顔に熱が灯るのを感じた。

 視界が潤んで、目の前のエアシャカールの表情が見えなくなる。慌ててそれを拭って、二人に心配をかけまいと俯いたが「オイ」と画面の奥から声が聞こえた。

 

「お前は、笑ってりゃいいンだよ」

「…………え?」

「ンな顔、お前にはそぐわない」

「シャカール……」

 

 顔を上げた先、エアシャカールはファインモーションを鋭い眼差しで見つめていた。その瞳に映り込むのは、画面越しに不甲斐ない表情を浮かべる、誰でもない自分だった。暗く、光のない眼差しに塗り替わっている。エアシャカールの真剣な表情がファインモーションだけを真っ直ぐに捉え、見つめ返せば、彼女はふと笑った。

 

「いつもみたいに、お前は笑っていればいい。それがお前の長所だ。あの日みたく、諦めないで笑ってろよ。ロジカルじゃねェな」

 

 向けられた笑顔に、ファインモーションの心はどこか軽くなるような感覚があった。

 エアシャカールの言葉は、どれも糾弾するものではない。ファインモーションの背中を押す激励の言葉でもある。たった一人遠くに行っても、その想いは繋がり、ずっと側にいてくれる。それは、トレーナーだけではないのだから。

 

『ありがとう、シャカール』

「勘違いすンな。お前の為じゃねェよ」

 

 ふと笑ったその声色からは、いつも見ている優しいエアシャカールが滲み出ていた。そんな彼女の表情を見つめて、ファインモーションも釣られて笑ってしまった。

 

『ふふっ。それ、告白にしか聞こえないよ?』

「うっせェよ。それじゃァな」

『もう行っちゃうの?』

「あいにくと、オレは暇じゃねェんだよ」

 

 そっか、と漏らした声色には僅かな寂しさが滲み出ていた。もっと話していたい──だが、エアシャカールもファインモーションも、このまま話し続けてしまえば全部を溢してしまいそうだった。だからこそ、このタイミングで、いつものように話を切り捨てた。

 エアシャカールは背中を見せながら軽く手を振ってトレーナー室を静かに出る。僅かに首だけで振り返り、ファインモーションには聞こえない小さな声で「オイ」とトレーナーを呼んだ。

 

「アイツの担当なら、最後までやり遂げろ」

 

 なにを当たり前のことを言っているのか。鋭く告げられた言葉に、トレーナーは笑って返す。言われなくとも、最初からそのつもりで彼女の担当になった。

 それだけではない。今は、ファインモーションを愛する人間として、最後まで寄り添う覚悟がある。

 

「──無論、そのつもりだよ」

 

 言い切って、覚悟を聞いたエアシャカールは顔を正面に戻す。その瞬間、エアシャカールの口角が僅かに上がったように見えた。彼女はなにも言わずにその場から去って行った。

 

『──ありがとう、トレーナー』

 

 聞こえた声に振り返って、椅子に座り直す。正面からファインモーションを見つめ、わざとらしく「なにが?」と聞き返した。

 

『分かってるよ。私の為に、シャカールを呼んでくれたんでしょ?』

 

 ファインモーションの瞳を直視できず、視線を画面の遠くへと向けながら頬を掻く。呼ぶつもりはなかった、といえば嘘になる。だが、エアシャカールを呼んだ理由があまりにも情けない。

 なので、ここは強がりを見せておく。

 

「まあ、最近シャカールがファインに会いたくてウズウズしてるような感じもしたし、折角だからね」

『ありがとう』

「いいんだよ」

 

 短く返して、力を抜く。天井を仰ぎ見ながら、トレーナーはふとカレンダーに目を向けた。ファインモーションが祖国(アイルランド)に帰国してから数か月。月日といものは、無慈悲にも進み続ける。一秒から、一分、一時間、そして一日、更に進んで一ヶ月、それは延々と流れていった。

 一瞬のようにも感じるが、長かったかと言われればそうも感じた。

 不思議な感覚だ。

 

「もう、大分経ったね」

 

 ポツリと漏らした言葉に、ファインモーションは僅かに目を伏せてから『うん、そうだね』と短く声色を落とした。

 暗く、重苦しい雰囲気が、遠く離れた二人の間に席巻し始めている。そんな空気をひっくり返して、トレーナーが手元に置かれた二つのコップを持ち上げ、画面に映るファインモーションに見せた。コップの中には揺らめいたコーヒーが両方に注がれていた。

 

「いやさ、やっぱり何年もファインと一緒にいたから、その習慣とか染みついちゃってて、たまに君の分のコーヒーを注いじゃう時があるんだよね」

『あははっ、じゃあいつも一人で飲んでいるの?』

「そうだよー、一人虚しくね」

『それはちょっと見てみたいかも』

 

 習慣づいてしまった感覚は、そう簡単に消えるものではない。たとえ意識的にその場では変えていても、ふとした無意識の時にそれは蘇り、今までの努力が無駄であったと思い知らされる。

 

 トレーナーはいつもファインモーションが来るであろう時間にコーヒーを用意して待っていた。授業の終わりや、トレーニング前、どこかへ出かける前も、いつもコーヒーを用意して彼女が訪れるのをひたすら待っていた。

 毎日やっていたからこそ、それが習慣づいてしまってトレーナー室に来ると、いつの間にか二人分のコーヒーを用意してしまっていた。

 

『でもね、私も覚えがあるな……。たまに隊長をトレーナーって呼んじゃう時があるし』

「それ、結構恥ずかしいやつじゃない?」

『凄く恥ずかしいよ。この前なんか大事な仕事場で言いそうになっちゃって……』

 

 えへへ、とファインモーションは僅かに赤く染まった頬を掻く。それはもはや、先生のことを思わずママと呼んでしまう小学生と似たものがあった。小さい頃でさえも恥ずかしいと感じる間違いを、その歳でやってしまうのは精神的にも危険が過ぎた。

 

「気を付けないと、ニュースとかに取り上げられちゃうよ。『日本親善大使、他国の大臣をトレーナー呼び!?』とか見出しに書かれて」

『ああー、それはちょっと嫌かも……』

 

 目を細めて苦笑するファインモーションの表情を見て、思わず微笑んでしまう。それは安堵が強く含まれ、トレーナーは彼女がどれだけ経っても変わらないのだと安心していた。

 このまま変わらずにいてくれれば──そんな風に何度も思った。ずっと自分のことを好きでいてほしいと、その想いが強くなるほど、ファインモーションに会いたい気持ちが斬増していった。

 

「あーぁ、クッソ……」

 

 想うほど、この胸の奥にあるなにかが締め付けられる。呟いて、天井を大きく仰ぎ見た。その行動を不思議がったファインモーションが、画面の奥で『どうしたの?』と首を傾げた。

 

「ああいや。どうしてもね、思っちゃう時があるんだ」

 

 『なにを?』──機械混じりの雑音と重なって、ファインモーションは不思議に思う。真っ直ぐに見つめてくる彼女の視線から僅かに逸らし、トレーナーは弱々しく口を開いた。

 

「もっと、俺が強ければって……俺がちゃんとしてたら、君が国に帰ることもなかったんじゃないかって」

 

 彼女を守る為のチカラがあれば。

 彼女と一緒(いる)為のチカラがあれば。

 彼女が安心できる為のチカラがあれば。

 彼女の隣にいる為のチカラがあれば。

 何度そう思ったことか、何度それを夢見たことか、何度も、何度も、何度も、ファインモーションと一緒にいられればと、想い、焦がれ続けたことか。

 

 こんな、情けない言葉を伝える為に、忙しい時間の間を縫って通話をしている訳ではない。そんなことは重々承知の上だが、それでもこの込み上げて来た感情を抑え切ることはできなかった。

 

「ただ君のことが好きだって想いだけじゃ、なにもできない。だからこそ、虚しくなるんだ……あはは、こんなこと言うつもりじゃなかったんだけど」

 

 空笑いが虚しく響いて、トレーナーは俯く。強く握り締められる手に、爪が食い込み、小刻みに震えた。

 自分の無力さを痛感していた。

 一介のトレーナーでしかない人間には、できることが限られている。ファインモーションがどれだけの栄光を叩き付けようと、トレーナーはただのトレーナー。単なる指導者でしかなく、王族でもなんでもない。ただ、普通の人間でしかなかった。

 完全に暗い雰囲気へと移り変わっていた中で、ファインモーションが呟いた。

 

『──暗いよ、トレーナー』

「…………え?」

 

 聞こえた声に釣られて、トレーナーは顔を上げる。視界に映ったその先は、ただの暗闇だった。ファインモーションが映っていたはずの画面は暗い。だがしかし、遠くから音は聞こえる為、通話が切れた訳ではなかった。

 

「ファイン?」

『ほら、真っ暗でしょ?』

 

 困惑が滲むトレーナーに向けて、ファインモーションは柔らかい声色でそう言った。

 暗闇に呑まれた画面の遠くから光が差し込む。どうやらファインモーションを映していたカメラを、彼女自身が手で抑えて隠していたようだった。

 

『チカラなんていらないよ。私はキミを愛していて、キミは私を愛してくれてる。その想いだけで、私は本当に嬉しい。遠く離れていても、この想いはずっと繋がっているんだよ』

 

 ゆっくりと、ファインモーションは息を吸った。

 

『過去ばかり気にしないで、未来を見なくちゃ』

 

 ファインモーションから紡がれた言葉に、トレーナーは思わず声を漏らして微笑んだ。

 〝かもしれない〟と〝だったら〟と、過去ばかりを見て、囚われていたら、未来を歩むことはできない。

 トレーナーは頭を抑えて、マイクにも拾われない小さい声で「情けないな……」と呟く。指導者の立場で、大人の面子が立たない。彼女の方がよっぽど大人だった。

 

「……よし」

 

 頬を叩き、無理やり意識を覚ます。心を切り替えて、今日初めてファインモーションの瞳を真っ直ぐ捉える。なにか変わった様子に気がついたファインモーションも、微笑み、椅子に座り直してトレーナーを見つめた。

 

「絶対に、君を迎えに行くから。それまで待ってて」

『うん。いつまでも待ってるよ』

 

 両者は、息を呑むくらいに強い眼差しをしていた。

 トレーナーの顔つきが変わったことを見て理解したファインモーションが、睦言を囁くように甘く、それでいて優しい声で、トレーナーに追慕した。

 

『キミが言ったんだよ? 〝光〟は〝絆〟だって──』

 

 それはなんの成果も持っていなかった平凡なトレーナーが、アイルランド王家の子女であるファインモーションに、語って聞かせて来た言葉だった。

 更に結んで、ファインモーションを紡ぐ。

 

『──〝光〟なら明るく輝いてないと』

 

 その通りだった。

 あの時、あの日、遥か空の星が酷く輝いていた。その〝光〟に魅せられて、それが強く記憶に焼き付いていた。

 〝光〟とは、暗闇を照らす煌めき。たとえ闇に呑まれようと、それは誰かに受け継がれて再び輝く。故に、決して消えることはない。永遠に続く光の螺旋だ。

 

 屈託なく笑ったファインモーションに、トレーナーも会心の笑みを返して頷いた。

 

「そうだね。ありがとう」

『えへへ』

 

 笑みを浮かべたファインモーションが、カメラを見つめて『ねえ、トレーナー』と小さく呼ぶ。首を傾げ、ファインモーションの言葉を待っていると、彼女はなにやら頬を赤く染めてモジモジと身体を揺すった。

 数秒が経って、ようやく決心が付いたような表情を浮かべたファインモーションがトレーナーに告げた。

 

 

 

『──愛してるよ、トレーナー』

 

 

 

 その愛の囁きに呆気に取られて、トレーナーは思わず瞳を大きく見開いていた。

 驚愕による沈黙が無慈悲に流れ、その恥ずかしさに耐えられなくなったファインモーションが『じゃ、じゃあね!』とトレーナーの有無を言わさずに通話を切った。

 

 通話終了の四文字。向こう側と繋げる橋が途絶えた。残るのは真っ暗な画面に映る阿呆な表情をした自分の姿。暗闇に連鎖した静謐が風の音に流れていき、トレーナーは彼女の姿と言葉を思い出しながら微笑んだ。

 

 

 

「────俺もだよ」

 

 

 

 最後に、決して彼女には届かない言葉を紡いで、トレーナーは席を立った。

 

 

 




そして、次回がようやく最終回です。
最後まで楽しみにして頂けると嬉しいです。

感想評価があればよろしくお願いいたします。

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