【本編完結】恋人にしたい殿下と何も知らないトレーナー&SP隊長   作:渚 龍騎

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9 待って待ち望んで、恋焦がれ

 

 

 

 

 過ぎて行く無数の影。鳴り止むことのない足音が、雑踏の喧騒と共に流れ、少女の泣き声を掻き消した。

 眩い太陽の日差しが照り尽くし、少女はただ当てもなく彷徨う。見知らぬ場所で、頼りになる者もおらず、小さな思考は〝恐怖〟と〝絶望〟を生み出して、少女を暗闇に誘った。

 

「ぐすっ……おかあ、さん……」

 

 齎す恐怖は、涙となって溢れる。それは拭っても決して止まることのない雫。溢れた涙は服に染みを広げて、色を変えていった。

 齎す絶望は、声となって滲んだ。それは決して届くことのない悲願。声にならず、言葉にすら描けない音が、ただ喧騒の中で埋もれた。

 

「どこ、いるの……」

 

 視界は既に涙で滲んで見えない。そんな中で歩けば、当然だが周りの者たちとぶつかる。少女の矮躯(わいく)では、大人の巨躯に耐え切れる訳もなく押し返されて尻もちをついた。

 痛みと衝撃が駆け巡り、少女の涙は更に軌跡を描いて流れ落ちていった。

 それでも、周りの者たちは気が付かない。

 ────否、少女が泣き、俯いているのを気が付かないフリして通り過ぎていった。

 

「たすけて……」

 

 元より人は、面倒事に巻き込まれたくない性質を持つ。助けようと思っても、どうせは誰かが助けるだろう──そんな思考のもとで、面倒事は避けていく。

 ────だが、一部の者は違う。

 

「君」

 

 俯く少女の肩を優しく叩き、頭の上から優しい声色が呼んだ。

 涙を拭って、嗚咽を漏らしながらもぼんやりとする視界を上げる。その瞬間に、柔らかく香りの良い布が頬に押し当てられた。

 目尻から描かれた軌跡が拭われて「よし」という声が聞こえた。

 ようやくはっきりと晴れ始めた視界に、手が差し伸べられる。見上げた先にいる影は柔らかく笑って、

 

 

「助けるよ」

 

 

 たった一言、救済の言葉が投げられた。

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 メッセージが届いた。

 待ち合わせの時間から十数分が過ぎて、彼の行動に不安を抱きながらも、メッセージが届いたことを知らせる愉快な音が、彼女の早鐘を更に急かした。

 届いたのはたった一言の謝罪──『ごめん』とそれだけ。

 

 メッセージが届いたということは、なにか事故に巻き込まれたわけではない。それが分かっただけでも安堵の息が漏れていた。

 待っていることに不満がないといえば嘘になる。何せ、彼といれる時間が大幅になくなってしまう。だがしかし、少なくなればなるほど彼との時間が更に大切なものへと変化する。それはそれでも良い気がした。

 

 待っているのも、大切な一時だ。

 この間に、心の準備を整えて、彼が来た時の対処法を考える。平然を装って反応を示すか、それとも普段とは違うことをしてみるか。やはり普段と同じようにした方が自然ではある。

 ただ、普段と変わったことをしてみれば、少しは意識をしてくれるかもしれない。

 

「うーん、どうしようかな……」

 

 そんな恋心に頭を悩ませる彼女は、彼がどんな反応を示してくれるのか考えるだけで楽しくなっていた。

 普段よりもオシャレに気を使い、隊長の尽力も得ながら今日を待った──と言っても集合時間までの短い間だけではあるが。

 しかしその努力も報われて、良くも悪くも待っている姿はさながら人形のようでもあった。

 過ぎ行く人々が彼女を一瞥。そしてその容姿端麗な輝きに目を奪われ、思わず声すらも上げてしまう。

 ファインモーションの大人っぽさと少女っぽさが、絶妙に引き出されている。大人の雰囲気を持ったファインの少女らしさが、最大限に引き出されていると言ってもいい。

 端的に言うなら『可愛い』の一言だ。

 

「トレーナー、まだかな……」

 

 広場に設置された時計を見つめ、待ち合わせの時間から十三分が経過しているのを知った。

 待っている時間が長い。時はとても短くて長い。刹那の果てにある久遠の時──矛盾だらけの概念。

 普段は時間厳守で、約束の時間を滅多に破らないトレーナーが、これほどまで大幅に遅刻することなどあまりない。

 つい最近は寝坊してトレーニングをすっぽかしていたが、それは仕事による疲労故に仕方がない。

 

 ファインは辺りを見渡した。

 いるのは、一瞥しながら過ぎて行く雑踏。流れる喧騒の中に、彼はいない。

 ふと見渡した先に、自分の姿を反射させる窓があった──普段よりもオシャレで、着飾った自分の姿。

 顔を近づけ、結われた髪を見つめる。服に触れて、皺がないか、ゴミが付いていないかを確認。窓に映り込んだ端正な顔立ちは、ぼんやりと見つめていた。

 今思えば派手な気もする。大胆だったかもしれない。こんな姿を見た彼は、変に思うだろうか。

 

「ちょっとやりすぎだったかな……」

 

 この姿を見せた時の彼の表情を思い浮かべると、ニヤケが止まらない。いったいどんな言葉を言ってくれるだろうか。考えれば考えるほどに、彼のことが待ち遠しくて仕方がない。

 

 ────嗚呼、はやく来てくれないかな。

 

 一人恋焦がれるように──いや、まさにそうなのだが──ファインは彼が来てくれることを願う。はやく来てほしい願いと、無事でいてほしい祈り。

 二つの想いが駆け巡り、ファインモーションは平然を装いながら鼻歌を奏でた。

 

「あ、おかあさん。あのおねえちゃんきれい!」

 

 ふと一人の少女が、待っているファインを指差して、そんなことを口にする。慌てて母親らしき女性が少女の指を遮り、ファインに向けて頭を下げた。

 そんな少女に笑顔で軽く手を振ったファイン。過ぎて行く親子の「綺麗だったね」なんて声が聞こえ、ファインは思わず笑みが溢れていた。

 

「大丈夫、トレーナーもそう言ってくれる……」

 

 不安を掻き消す為、暗示をかけるように何度も自分に言い聞かせる。もうすぐで彼に会えると思うと、鼓動が早鐘を打ち始めた。

 同時に、身体の熱も灯り始めようとしていた。

 焦らずに、深呼吸を重ねて鼓動も熱も無理やり抑え込む。やがて、窓を見つめていたファインに向け、聞き慣れているのに、今一番に聞きたかった声が響き渡った。

 思わず満面の笑顔が滲み、ファインは振り返る。その視線の先から、慌てて駆け抜けるトレーナーの姿があった。

 

「あ、トレーナー!」

 

 トレーナーに向けて手を振る。目の前まで駆け抜けて来たトレーナーは、膝に手を当てて肩を大きく上下させながら息をしていた。

 

「はぁ、はぁ……ごめん、ふぅ……」

 

 息を整えて、顔を上げたトレーナーの額には汗が流れている。息を荒くしているトレーナーに向け、なにがあったのか困惑するファインだが、ポケットからハンカチを取り出した。

 

「トレーナー、大丈夫?」

「はぁ、はぁ、あー……ごめん、ありがとう」

 

 ハンカチで汗を拭ってくれるファインに向け、謝罪と感謝を交えながらその手に触れた。

 

「珍しいね、トレーナーが遅れるなんて」

「いやはや、目の不自由なお婆さんがいて」

「その方を助けてきたの?」

 

 流石は私のトレーナー、と思考の片隅で思い、その優しさを感慨深く感じていた。

 

「目の不自由なお婆さんの大群が()()()()()()()()()()()

「あはは! それは大変だったね!」

「冗談冗談、ホント遅れてごめん」

 

 謝罪を述べて頭を下げるトレーナーに向けて、ファインは彼の顔に両手をそっと添えた。

 肩を大きく上下させているトレーナーの顔を真っ直ぐに見つめて、ファインは柔らかく笑みを浮かべた。

 彼の謝罪にゆっくりと首を振り──、

 

「ううん、いいの。キミが無事に来てくれただけでも、私は嬉しいから」

「ファイン、君は優しいね」

「ふふ。でも、寂しかった(遅刻した)分は一緒にいてね」

「もちろん。仰せのままに──あ、そうだ」

 

 気付いて、トレーナーはファインを足下から上の方へと眺めていき、何度か頷いてから笑みを溢した。

 

「可愛いよ」

 

 その言葉を聞いて、ファインの身体に熱が灯る。思わず「えへへ」なんて声が漏れて──、

 

「──()()()()

 

 瞬間、時が止まったように感じた。

 照れながらも感謝を伝えようと言葉を発したが、彼の台詞の所為で口を開けたまま固まった。

 

 ────なんて言ったの?

 ふく? 服? 服が? え、うそ……。

 自分の求めていた言葉ではあったが、対象が自分でないことに気が付き、ファインは嬉しくも悔しい気持ちの荒波に呑まれようとしていた。

 

「がーん……」

「ウソウソ、冗談。ファインも可愛いよ、最高に」

 

 本心ではあるのだろうが、さらっと流すような声にファインは頬を少しばかり膨らませて、不満を募らせた。

 

「心が籠もってない!」

「え、それじゃあ……ビューティフォー?」

「私、拗ねちゃうよ?」

 

 腕を組んで、ぷいっとそっぽを向く。

 確かに多少の不満はあった。

 だがしかし、本当の目的は別──トレーナーの口から心の籠もった〝可愛い〟の台詞を聞くため。わざとらしく不満げな態度を見せると、トレーナーは困惑した様子で慌てた。

 

「ごめんって、ホントに可愛いよ!」

「なにが可愛いの……?」

「もちろんファインだ! 超可愛いよ。髪型もいつもと違って大人っぽく見えるし──綺麗だよ」

 

 素直な言葉を率直に向けられ、ファインは思わず視線を逸らす。自分で仕掛けた言葉ではあるが、やはり面と面を向かって言われるとやはり恥ずかしい。これで彼は恥ずかしさを感じることなく、ファインを恋愛対象として見てないのだから質が悪い。

 なんとか平然を保ち、笑みを作った。

 

「ふふ、今日はそれで許してあげる! ありがとう、トレーナー! それじゃあ、行こ!」

「うん、そうだね」

 

 彼の横に立って、デートが開始される。

 予定なんてもの今日は一つしかない。予定を組めば、それはいつものお出掛けとは違うものになる。ただ、ファインのオシャレにいつもよりも気合が入っているのは、触れてはならない。

 

 まずやるべきことは、トレーナーへのプレゼントを探すこと。その為に、付近で最も巨大なショッピングモールへと足を運んでいた。

 だが男性──しかも好意を寄せている相手──へのプレゼントとなると、ファインは経験がまったくない。なにを渡したらいいのか、まず男性の好みすらも曖昧な上に、それで更には自分のことを殆ど話さないトレーナーの好みなんて想像がつかない。

 

「トレーナーは、好きなものとかないの?」

「うーん、小説とか映画は好きだけど、これといって何かにハマってるとかもないかな。ああ、でも──」

 

 一番困る返答が返ってきた。

 トレーナーが喜ぶものを選ぶのは一苦労しそうだ。しかし彼は「好きなのは」と繋いでファインを見つめた。

 

「ファインかな」

「…………え?」

 

 聞き返し、彼は顔を近付けた。

 

「──君だよ」

「え……っ!?」

 

 聞き返し、驚愕した。

 目を見開き、宝石のような瞳を丸くして、ファインの身体に熱が駆け巡った。

 君だよ。君だよ。君だよ。

 三回繰り替えして、その〝君〟の対象が誰なのかを模索する。記憶を辿って〝君〟と呼ばれるよりも前に言われた名前が脳裏に現れた。

 ファイン──彼は一秒にも満たない時間でその名前を呟いた。

 

 ファイン、ファイン──Fine?

 意味は日本語で〝良い〟。いやいやいや、言葉の脈絡がなっていないから、英語は有り得ない。

 それじゃあ、ファインは名前?

 (ファイン)(ファイン)、ファインモーション。

 

「──え、私……っ!?」

 

 時間にして四秒。ようやく辿り着いた思考回路は困惑から驚愕に変わり、両手で抑える顔が尋常ではない熱に包まれた。

 あまりにも突然のことで、思考が追いつかない。いきなり告白されるなんて、思いもしなかった。

 戸惑い、狼狽して、困惑する。声が上手く音に変換されず、途切れた言葉にしかならない。

 そんな彼女を他所に、視線を元に戻したトレーナーは感慨深く語った。

 

「君と一緒にいれるこの時間が、最高に好きだよ」

「嬉しいな〜! トレーナーがそんなに言ってくれるなんて……私と一緒の時間が好きなの──え?」

 

 続いてトレーナーが「え?」と見つめた。

 互いの視線が交じり、沈黙が流れる。辺りの雑踏がファインの美しさに見惚れて過ぎ去る中、二人の間には決して静まらない沈黙が渦巻いた。

 ファインの身体に灯っていた熱が一気に冷める。両目を細めて、睨むようにトレーナーを見つめた。

 

「え、どうしたの、なんか……」

 

 ファインが浮かべる表現を理解できず、困惑の色を見せるトレーナー。無言でファインに距離を詰められ、後退りしていき、壁際まで追いやられてしまった。

 

「トレーナーは、私といる()()が好きなの?」

「は、はい……?」

 

 無意識に敬語で返答して、トレーナーにファインが更に詰め寄った。

 

「ふーん」

「な、なに……? なんでそんな不服そうなの?」

 

 未だファインが不服な表情を浮かべているのか理解できていない。あまりにも鈍感が過ぎるトレーナーには、当然だが不満しかない。

 トレーナーが言ってくれた好きなものに対して、不服があるのではない。寧ろ、嬉しくて仕方がない。

 ファインが不満を抱いているのは、彼の紛らわしい言い方と、告白だと思ってしまった自分に対してだ。

 トレーナーの言い方が七割、勘違いをした自分が三割。なにもかも原因は彼の言い方が悪い所為だ。

 

「ふぁ、ファイン?」

 

 困惑するトレーナーの額を指で弾く──見事デコピンが炸裂して、気持ちの良い音と同時に彼の口から「いてっ」と短く漏れた。

 

「な、なんで!?」

 

 額を抑えたトレーナーにそっぽを向き、ファインは腕を組んで頬を膨らませた。

 

「紛らわしい言い方をするキミが悪いんだよ」

 

 トレーナーを置いて、視線を斜め上へと逸らす。そのままそっぽを向いて歩くと、当然ながら足下の段差に気が付かず、態勢を崩した。

 あ、と一言の声が漏れて、視界がぐらっと揺れる。慌てて視界を戻して態勢を立て直そうとしても、もう遅い。痛みを覚悟して、瞳を閉じた瞬間──、

 

「おっと」

 

 迫るはずの痛みが襲うことはなく、すぐさま腕が引かれて、その後に転んでいく身体の衝撃が何かによって柔らかく吸収された。

 瞳を開き、視界を巡らせて状況を把握する。仰向けのような態勢で、視界に映り込むのは太陽の輝きと、光に照らされるトレーナーの姿だった。

 彼はファインを見下ろして、心配げな表情を浮かべながら「大丈夫?」と問い掛けていた。

 

「なにに怒ってるのか分かんないけど、前見てないと危ないよ?」

 

 言われて、ファインは自分の身体を支えるものに触れる。温かくて柔らかい。それでいて少しだけ逞しい腕が、身体に回されていた。

 齎した結論は、転びそうになった所をトレーナーが慌てて助けてくれた──に至った。

 見上げる先にトレーナーの心配げな表情。背中に優しく手を回されて、身体が地面と接触しないように支えられている。なにがなんだか理解が追いつかない。

 

「怪我はない?」

「う、うん、ありがとう……」

 

 体勢を立て直して、トレーナーはファインを見つめる。怪我がないことに安堵し、笑みを浮かべていた。

 ファインは視線を落として、自分の身体に目を向けてからトレーナーへと移す。そして、さっき触れた彼の腕の感触が僅かに残っている手を見つめた。

 掌を開いたり閉じたりして、なにが起こったのかを冷静に思い出し──灯った。

 

「ご、ごめんね……キミこそ、大丈夫だった?」

「俺? 俺はなんともないよ。あの時のファインみたくかっこよくなれたかな?」

「あの時?」

「ほら、グラスワンダーの日本文化勉強会」

 

 そこまで言われて、ふと思い出した。

 グラスワンダーが開いてくれた日本の文化を学ぶ勉強会。トレーナーと共に、この時は『生け花』を二人で教わった。

 その際に長時間座っていた所為もあり、トレーナーが机に引っ掛かって転びそうになったが、素早く抱き留めることで事無きことを得た。

 立場こそ逆転しているが、まさにあの時となんら変わらない状況の陥っていた。

 

「あの時は乙女になった気分だったよ」

 

 軽く冗談を交えながら笑う。あの時のファインの力強さ──かっこよさは、今でも忘れられない。

 感慨深く感じていると、抱き留める先でファインが顔を覆っているのに気が付いた。

 

「ど、どうしたの?」

 

 問い掛けても、言葉は返ってこない。ただ首をふるふると左右に揺らすだけで、なぜ顔を覆っているのかまるで理解できなかった。

 困惑しながら、視線を下に向けて抱き留めるファインを見つめ──今更ながらまずい状況だと察した。

 

「ご、ごめん!」

 

 慌てて離れ、トレーナーは謝罪の言葉を何度も口にしながら両手を振った。

 やむを得ない状況だったとはいえ、年頃の女の子の身体を抱き留める──その行為は、場合によっては万死に値する。それも相手は()の有名なファインモーション。周りから見れば、ただの変態かバカップルにしか見えない。

 

「ううん、いいの……ありがとうトレーナー」

 

 嫌われてしまったかと懸念するトレーナーに対して、ファインはますますトレーナーの表情が頭から離れなくなっていた。

 なにより────、

 

 

 ────どうしてトレーナーに抱き留められたら、こんなにもドキドキしているの?

 

 

 自分がトレーナーを抱き留めた時は、特にこれといって恥ずかしさもなにも感じなかった。

 それなのにトレーナーに抱き留められたら、自分でも驚くほどに心臓が激しく鳴り始め、更には全身の熱がつま先から頭頂部へと駆け巡った。

 信じられないほどに熱く、飛び出しそうなほどに激しく、ファインの痩躯に眠るなにもかもが脈打ち、今にも逃げ出してしまいたくなるほどだった。

 

 ────だが、逃げない。

 恥ずかしさに殺されそうになりながらも前を向き、真っ直ぐに彼を見つめる。いつもは一歩退いていたが、もうこの激動する心臓と渦巻く気持ちを抑え切ることができない。

 

 彼の体温を肌で感じた。

 彼の逞しさを近くで感じた。

 彼の優しさを目の前で感じた。

 彼の鼓動を、息遣いを、手を、身体を、全てを近くで感じられた。

 今日はもう少し、その先へ──もう一歩(ワンステップ)先の領域へと手を伸ばしたい。この気持ちは隠さず、照れても逃げずに、ちゃんと前を向いて進達させる。

 

 

 

「と、トレーナー……」

 

 

 

 目を伏せるトレーナーに向けて、ファインモーションは静かに手を伸ばした。

 

「え……?」

 

 なぜ手を差し出されたのか理解できないトレーナーは、戸惑ってそんな声を漏らしていた。

 察しの悪いトレーナーの手を無理やり取って、ファインは恥ずかしさを堪えながら小さい声で呟く。

 

「また、転んだら大変だから……手、繋いでて……」

 

 視線を逸らしている所為で、彼の表情は分からない。声もまったく聞こえない。

 子どもだと思われたか、呆れられたか、嫌われてしまったか、どれも脳内に浮かび上がるのは、考えたくもない嫌な答えばかり。

 握り締める彼の手は温かい。綺麗だけど、男性のものだと分かる逞しくて大きい手。それは繋がれていながらも、握り返すことはなかった。

 

 数秒が経って、最早ダメだと理解したファインは握っていた手を離そうと力を抜く──しかし手は、彼の手から離れることがなかった。

 もう既に力は抜いているが離れない。それが理解できず、視線を向けた瞳に映ったのは、自分(わたし)の手を握り締める彼の手だった。

 

「じゃあ俺が転びそうになったら助けてね」

「────っ!」

 

 笑みを浮かべたトレーナーに、ファインも思わず笑ってしまう。そして離そうとした手にもう一度だけ力を込め、彼の手を握り締めた。

 

「──うんっ!」

 

 頷き、トレーナーと共に並んで歩み出す。

 私よりも少し温かくて、私よりもずっと大きくて、優しいのに頼りになって、誰より大好きな手で──。

 恥ずかしさはあるが、気持ちは落ち着いていた。

 握り締めると、さっきよりも強い力で握り返され、思わず笑みを浮かべてしまった。

 

 

 

 ──嗚呼、手を繋ぐと、こんなにも安心するんだ。

 

 

 

 それを、初めて感じた。

 今までこんなにも恥ずかしくて、こんなにも安心することはなかった。

 それがあまりにも不自然なのに、心は温かくなる。初めてのことを感じながらも、ファインは思った。

 

 

 

 ────キミも、同じ気持ちだったらいいな。

 

 

 

 横から見上げたトレーナーの表情はよく見えない。しかし彼の漆黒の髪から覗いた耳が、ほんのりと赤くなっているのを見た。

 鈍感で、いつまで経ってもこの想いには気付いてもらえないけれど、恥ずかしさは感じているらしい。

 

「トレーナー」

 

 手を離し、トレーナーの腕を抱き締めて引き寄せる。そして身体を密着させた。

 

「ちょ、これ歩き辛いよ」

「転んでも、助けてくれるでしょ?」

「その場合は俺も転んじゃうね」

「それはそれでいいかも!」

 

 横で「なんでよ」とツッコミの声が聞こえ、ファインは笑いを溢した。

 慣れない歩き方に二人は蹌踉めくが、互いに支え合ってその歩みを慎重に進めていった。

 

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 

「ファイン、最近ラーメン食べまくってる?」

 

 ふとトレーナーが、ファインに腕を抱き締められながら呟いた。

 質問の意図をよく理解できずにいた彼女は、記憶の海から過去の出来事を思い返して──、

 

「ううん、そんなに食べてないと思うよ」

「そっか、ならいいんだけど。先週は何回行った?」

 

 ファインは先週のことを思い出して、ラーメン屋に行った回数を数えながら靭やかな指を一本ずつ曲げる。そしてその数が五本に達して、トレーナーは苦笑を漏らした。

 

「も、もういいよ。ちょっと行き過ぎかな」

「とっても美味しいんだよ! また新しいラーメン屋を見つけたんだ〜! でも、どうしたの?」

 

 いや、と口ごもり、言い出すべきか否か悩んだ後に、トレーナーはファインの耳に小声で答えた。

 

「最近太ったんじゃないかなって……」

 

 驚いて、ファインは眉を寄せた。

 

「誰が?」

 

 見つめて、トレーナーは答えた。

 

「ファインが」

 

 言われて、ファインは視線を落としてから少し考える。やがて「少し耳貸して」と明るい声で手招きをしながら促した。

 困惑しながらも耳を傾けるトレーナー。そんななにも知らない彼の耳に口を近付けて、息を吹きかけた。

 

「うわ!」

 

 慌てて飛び退くトレーナーだが、腕をファインに抱き締められている故に逃れることができない。耳を抑えながら、トレーナーは驚いて声を上げた。

 

「な、なにすんのさ!」

 

 そんな彼に対して、ファインはそっぽを向き、

 

「キミにはデリカシーを教えてあげないとダメみたいだね」

 

 と、片頬を膨らませて不満を漏らした。




グラスワンダーの日本文化勉強会(生け花)はファインの『殿下の華麗なるたしなみ』で確認できます。
フェンシングを嗜んでいたらしいのですが、見てみたいです。

感想評価があれば是非よろしくお願いいたします。

トレーナーの過去とか、二人の過去とかいる?

  • どっちもいる
  • なくてもいいかな
  • 二人の過去だけ
  • トレーナーの過去だけ
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