ザァ……、と頭から湯を被ると纏っていた泡が肌を滑り、ベタついた汗と砂を流していく。
旧砂漠の死闘から生活の基盤である小さな街の宿舎に戻り、風呂に入れたことでヤチルはほぅ、と人心地ついて安堵の吐息をもらした。
風呂は好きだ。怒りに荒れた心も、悲しみに傷付く心も変わらない温度で癒やしてくれる。
ヤチルは汚れを洗い流した桜色の髪をヘアゴムで緩くまとめ、清めた身を大きめのタライに張った湯に沈めた。
尻と腰程度しか浸かれないが、温泉地ではない小さなこの街で湯に浸かるにはこれが最適の方法だ。
密猟者達に奪われていた火竜の素材はその出来る限りを竜へと返した。
竜の幼体が押し込められていた袋の中には他にも竜の卵が2つ入っていたが、密猟者達の雑な運搬の途中の衝撃で割れてしまっていて、新たな命が孵る望みは絶たれてしまっていた。
「………、……」
ヤチルは拳を強く握り締める。
本当にあと少し早く、自分があの場所に到着していたなら。
竜の亡骸が荒らされる事も、竜の幼体が盗まれることも防いでみせたのに。
タライのお湯を両手で掬って顔を洗う。
死力を尽くして竜の夫婦に挑んだハンターのチームにも申し訳が立たなかった。
次こそは被害を未然に防いで見せる。
ヤチルが怒りに燃える風呂場にコン、コン、としっかりとしたノックが響いた。
「ヤチル。まだ風呂か?」
「ここ、乙女のお風呂場ですよ。コハク先輩。」
「安心しろ、乙女の平らな胸に興味はない。」
「デリカシーって言葉知ってます?」
僅かに非難を混ぜた声も、投げ付けられて風呂場の中で跳ね回る石鹸もどこ吹く風で、コハクはヤチルに声をかける。
「悪いけど2チーム出払って人手不足だ。風呂から出たら資料室に来てくれ。」
「……次の仕事ですか?」
「そう。」
俺は先に資料まとめておくから、と踵を返そうとしたコハクをヤチルは控え目な声で呼び止めた。
「あの、……コハク先輩。」
「んー?」
「……右腕、大丈夫ですか…?」
旧砂漠での死闘の際、親しい個体の幼体を奪われて怒りに燃えるリオレイアの特大の火球からヤチルを守るために、コハクは片手剣の盾でそれを捌いた。
「あぁ、……まぁ、なんとかな。広い範囲の火傷と筋断裂でまぁまぁ痛い。」
「その、……すみません…。私が、…」
──私が全部、上手くやれていたら。
ヤチルは膝を抱えて顔を伏せる。自分の為に怪我を負ったコハクに罪悪感で小さな胸が締め付けられた。
「……あのリオレイアに、子供を返せただろ。お前は充分に上手くやれていたよ。……流石は巡視隊の一番槍だ。」
「……そういう意味で言ったんじゃ、…」
「ヤチル。」
今はニ番槍と名乗っているが、ヤチルが巡視隊に所属するまではコハクが巡視隊のエースだったのだ。
責任を背負う、その意味をコハクはきちんと理解している。
「1人で背負いすぎるな。……俺がいるだろ。」
全てをまるごと守ろうとしても、ヤチル1人の小さな身体には到底背負いきれるものではない。
コハクとて、かつて背負い切れなかった物なのだ。
「…それとも、俺の手足は要らないか?」
「…………要ります。」
「素直でよろしい。」
んじゃ、資料室でな。と言い置いてコハクは風呂場の前から立ち去る。
ヤチルはぬるくなったタライの湯で顔を洗うと気持ちを新たにして、風呂場を後にした。
資料室と呼ばれる、安っぽいテーブルセットと本棚が置かれた程度の簡素な部屋に桜色の髪をヘアゴムで纏めたヤチルが顔を出す。
「巡視隊のヤチル・クラスナ入ります。」
「お、来たか。」
テーブルの上に資料を広げていたコハクは、ヤチルの姿を認めると硬い椅子に座るよう勧めた。
コーヒーを2人分淹れて片方をヤチルに差し出すと、コハクは自分の分にだけポポミルクと蜂蜜を入れる。
当然、それをヤチルにジト目で見咎められて、コハクは仕方なくヤチルにもポポミルクと蜂蜜を渡した。
テーブルに広げられた資料を片手にヤチルはコハクに淹れてもらったコーヒーに桜色の唇を付ける。
「さて、ヤチル。……お前、『神無雨京』って知ってるか?」
「カミナシ?……思い当たらないですね。密猟者ですか?」
「んー……、…じゃあ『霖劉』は?」
コハクが口にした【リンリウ】の名にヤチルの表情が固く凍る。突然出てきたその名前にヤチルは形の良い眉をしかめた。
「……まさか、……霖劉がここにいる、とでも言うんですか……?」
「まぁ、……そのまさかだな。」
コハクは蜂蜜を入れて甘くしたはずのコーヒーを苦い顔をして飲み下した。
密猟者の中には一般的には分からない【忌み名】を持つ者が居る。
その昔、とある密猟者がギルドナイトから大声で名前を呼ばれ、追いかけ回され、追い詰められた末に逃げ込んだ先の村で身元が晒され、村人達の手によって私刑に処された。
結果的に密猟者は駆逐できた訳だが、汚れの無い村人の白い手を汚してしまった凶事から、密猟者には忌み名を付けるのが巡視隊およびギルドナイトの暗黙の了解の形になった。
基本的には【害獣】や【獣】と呼ばれる密猟者だが、その中でも更に名を持つ密猟者たちをこう呼んだ。
【劉】
リウ、と呼ばれる音は口に出せば竜に聞こえる。
一般的には巡視隊やギルドナイトは強い竜を追いかけて来たように見せかける事ができる。
密猟者の存在などは明るくならなくてもいいのだ。白い手の罪のない人間たちには。
その忌み名は【劉】自身とそれを追う者たち同業者だけが分かっていれば良い事だった。
「……霖劉が、ここにいる…?」
「正式には自主で出頭と言う形だな。……ベルナ村の銀の英雄…知ってるか?」
「はい。もちろん。」
「その銀の英雄が、たまたま古代林に潜んでいた霖劉の正体を看破してそのまま捕縛したそうだ。」
銀の英雄の活躍によって、霖劉が捕縛された。
その事実はヤチルの胸にじわじわと染み込むと走り出したいほどの喜びが湧き立った。
少し前からハンターとして名を馳せていた銀の英雄は、ヤチルと歳が大して変わらず優しくて穏やかな平凡なハンターだ。
それでも、銀の英雄は健全な肉体としなやかな精神によって、斬竜ディノバルドを制し英雄と呼ばれるようになった。
彼のようなひたむきな存在がいるからこそ、ヤチルのような罪を取り締まる巡視隊も勇気付けられる。
「あの、……銀の英雄に怪我とか…?」
「調書によると、霖劉捕縛後、その一帯を縄張りとする雄火竜の襲撃にあったらしいが救援に駆け付けてくれたベテランハンターのお陰で難を逃れた、とある。」
「…良かった……!」
ヤチルは銀の英雄に強く憧れを抱いている。ハンターズギルドにハンターとして登録した時の武器も、銀の英雄に少しでも近付きたくて片手剣を選んだ。
その銀の英雄が凶悪な密猟者である霖劉と対峙して、命がある。ヤチルは銀の英雄の無事を素直に喜んだ。
そして、ふと気づく。
「……でも、先輩。ここベルナ村からかなり遠いですけど………。なぜ霖劉はここに?」
「それなんだがな、……ギルドナイト側と学者、学院の意見の対立だな……。」
コハクは甘くしたはずのコーヒーをもう一口啜って、やはり苦い顔をした。
凶悪な密猟者である霖劉の扱いは、腫れ物を触るようにたらい回しにされ、この巡視隊の宿舎に到着した。
「またお偉いさんの尻拭いですか……。」
霖劉と呼ばれる神無雨京は、今は大人しく牢舎の中でのんびりと過ごしているらしい。
持ち物らしい持ち物は移送されてくる時に持っていた氷の大太刀ただ一振り。
【劉】の名を冠する密猟者には、ある共通点がある。それが、
──狩人殺し。
第2話です、よろしくおねがいします。
第1話の誤字を直しました。誤字報告たすかります。ありがとうございます。