尊厳の番人:桜
神無雨京についてギルドナイトがまとめた長い調書を読み終わり、机に齧りついて同じ姿勢を取り続けたせいで固まった身体の筋を解す為に、ヤチルは椅子の上で大きく伸びをした。
「………ぅわ、もう外暗いや…。」
ふと気が付けば宿舎の窓の外は真っ暗で、空には星が瞬いている。
ヤチルは読んでいた神無雨京についての調書の束を纏めて抱え上げると、資料室の本棚へ順番に並べて押し込んだ。
霖劉・神無雨京のベルナ村への護送は数日後に決まっている。頑丈な竜車も手配した。
護送の監視役としてヤチルとコハクが選ばれていて、ヤチルは巡視隊の業務の傍ら休暇にはこうして資料室に足を運んでいた。
のんびりと休暇を満喫している精神的余裕はヤチルには無かった。
万が一、凶悪な犯罪者である霖劉を護送中に逃してしまうようなことがあれば──
ヤチルは寒さが理由ではない身震いをした。
ギルドナイトがまとめた調書を読む限りでは、密猟者・霖劉の性質は邪悪極まりない。
(………霖劉が銀の英雄に降ったとしても、私達を裏切らないと言う保証は絶対ではない。)
いかなる事態に陥っても、この任務は完遂させなければならない。
本棚の前で知らず知らずの内に拳を握り締める。
巡視隊の一番槍とはいえ、ギルドナイトすら殺害せしめる霖劉を制することが出来るかと問われれば難しいのだ。
「ヤチル。」
ヤチルが本棚の前で難しい顔をしていると、その細い肩をポンと叩く手があった。
「ぅ、ひゃっ!?」
「お前、今日非番だったろ?なんで、資料室になんか…っ、…」
考え事に集中していて周囲の様子に気が付かなかったヤチルは、肩を叩かれた事に驚いて振り向きざまに拳を放っていた。
渾身の力を溜めて放たれたヤチルの右拳は、鈍い音を立てて大きな手のひらに吸い込まれる。
「……良い右ストレートだヤチル。……何か俺に言うことは?」
「……驚かさないで下さいよ、コハク先輩。」
「そこじゃないんだけどなぁ…。」
遠慮なく打ち込まれたヤチルの右拳にジンジンと痛む手のひらを緩く振って、コハクは気を取り直した。
「で?非番なのに何してたんだ?」
「霖劉についての調書を読んでいました。」
「それ、この間も読んでなかったか?……真新しい情報は無かったろ?」
「…それは、まぁ……そう、なんですが。」
休暇の度にヤチルはずっと宿舎の資料室に篭もりっ放しだった。
ギルドナイトがまとめた密猟者についての調書を片っ端から読み漁り、護送対象である霖劉について深く調べていた。
調べれば調べれる程【劉】の名を持つ密猟者と秩序を守る自分達の間に隔絶とした溝があるのが浮き彫りになり、不安になる。
「………銀の英雄は何故、霖劉を捕縛出来たのかなって。」
「……お前ほんとに銀の英雄だいすきね……。」
そんなヤチルの心細さを埋めてくれるのが銀の英雄の功績だった。ギルドナイトがまとめた調書にも、その名前は何度も出てくる。
容姿も声も知らない、平凡な片手剣使いのハンター。
ヤチルは銀の英雄に強い憧れを抱いている。
調書の中の銀の英雄に夢中になるヤチルにわだかまりを抱きつつ、コハクは資料室から退出するようヤチルを促す。
「まぁ、休暇の過ごし方は人それぞれだけど、もう食堂閉まったぞ。お前、夕飯食ったの?」
「えっ、嘘っ!?」
巡視隊宿舎の食堂の開いてる時間はとうに過ぎていた。これから夕食を取るとなれば、宿舎の外へ買いに出るか、自炊しかない。
夕食に間に合わなかったと知った途端、ヤチルの腹は急激に自己主張を始め腹の虫が空腹を訴え鳴き始める。
「……あー、どうしよう……こんな時間にやってるお店ありましたっけ…。」
そんな生まれたばかりの仔アイルーのような鳴き声を上げるヤチルの腹に笑いを堪えて、コハクはひとつ咳払いをした。
「……ゴホン、…仕方ないな。夕飯食いっぱぐれた哀れな後輩に、優しい先輩が飯を奢ってやろう。」
「えっ、良いんですか!?」
「俺も外に食いに行くついでだったんだよ。メニューに文句言うなよ。」
「やったぁ、肉包み食べるの久しぶりなんです!」
「メニューは俺が決めるんだよ。おい、待てヤチル。」
コハクが胸を張り先輩風を吹かせた途端、後輩に引っ張られていく。巡視隊の一番、二番の槍コンビで過ごす日常でヤチルの不安もどこかに溶けて無くなっていた。
同時刻、巡視隊の牢舎では。
「……ご馳走さんでした。」
夕食として出された食事のトレーを受け取り口から檻の外に出すと、トレーを回収しに来た巡視隊の隊員は戸惑ったような気配を醸す。
牢舎の中の犯罪者は痩躯であるとはいえ、長身の成人男性だ。トレーの中味は米と香物、煎茶が空で副菜にはほとんど手が付けられていなかった。
かろうじて、主菜の魚に少しだけ齧った跡がある。
「……霖劉、…。」
「…何か問題でもあったかい?」
伺うような声音に牢舎の中の霖劉・神無雨京は食事の受け取り口に近寄った。
以前居た牢舎では出された飯を残しただけで暴行を加えられる事もあった。
……アレは飯というよりは餌に近かったが。
さて、今回はどんな難癖かなと期待をしながら雨京が食事の受け取り口から様子を伺うと、食事の半分近くが残ったトレーを前に巡視隊の隊員は困惑していた。
「…体調でも悪いのか…?」
「……?……いや?調子は至って普通だね。」
「…じゃあ、苦手な野菜とか…」
おずおずと聞く隊員に、雨京は何を言われているのかを理解して途端に居心地が悪くなった。
ここの牢舎の隊員は己に対して心配をしているのだ。
人間らしく扱われることの、なんと座りの悪いことか。
「………本当にあの兄ちゃんは獣の嫌がることを良く理解している。」
「……霖劉…?」
ぼそりと呟いた独り言を聞き返されるが、雨京はつとめて平坦な声で返事をする。
「……いや、苦手な食いもん……と言うか俺の昔からの癖だよ。身体が重たくなるのが嫌でね。充分食ったよ、ご馳走さん。」
「……そうか、わかった。」
まだ若い隊員なのだろうか。【劉】の名を持つ獣に心を配るなど、甘すぎて雨京の心に愉悦が滲む。
愉悦はやがて痺れるほど甘やかな殺意になるが、銀の英雄から背負わされた大太刀が雨京の獣としての本能に鍵をかけている。
──焦らされるのも悪くない。
「……なぁ、巡視隊のおまわりさん。」
「………、…なんだ?」
ふと思い付いて却下されたらそれまでだ。雨京は1つ誘うように提案をした。
「……俺はもう【劉】としての名を失ったに等しいから、…」
嘘だ。【劉】の名を持つ獣は檻に入れられた程度で失うものではない。【劉】とは死ぬまで獣なのだ。
きっとここに、死線を幾度も越えてきたギルドナイトがいたならば、若い隊員に『耳を貸すな』と言っただろう。
愉悦に滲む殺意に心が跳ねる。
「……名前で呼んじゃくれねえかい?」
「……?……あぁ、わかった。…雨京。」
あぁ、殺したい。けれどいけない。
たかだか『殺したい』程度の軽い欲情で背負わされた大太刀を抜くのは、己の存在理由として屈辱的過ぎる。
食事の半分は残されたトレーを回収しに来た若い隊員が、雨京の檻の前から去った後。
欲情に駆られ芯を痛いほどに張り詰めさせた霖劉は、喉の奥で低く嗤った。
「………いいね。」
焦らされるのも、堪らない。
小さな街の飲食店を出てくる2つの人影があった。
「肉包み美味しかったー!」
「お前、マジで強引に肉包みの店に入りやがって……。」
桜色の髪を追いかけて店を出てきた青年は呆れたようなため息を吐き出した。
「コハク先輩、ごちそうさまでした!」
「はいはい、おそまつさまでした。」
桜色の頭をペコリと下げて後輩がお礼を言うものだから、コハクはそれ以上何も言えなくなった。
本当ならヤチルには、休暇を使って密猟者たちの資料を読み漁るのを程々にするように、とお小言を言うつもりだったのだけど。
「ヤチル。」
──密猟者の調書を読み漁るのもほどほどにな。
ヤチルを呼び止めたコハクの手は宙を彷徨って、何も掴めず元の位置へ戻る。
「……、……おやすみ。また明日な。」
お小言はまた、明日でもいいか。
「はい、おやすみなさい。コハク先輩。」
第6話です。よろしくおねがいします。