着慣れたジャージに袖を通して、蹄鉄の着いたシューズの靴紐をきゅっと固く結んだ。これで準備は完了、レース前のルーティンとかはあんまし意味無いのでしない。
代わりに柔軟はしっかりと行う。手首足首はもちろんのこと、上半身下半身のあらゆる関節に異常がないかゆっくりと曲げながら確認する。
「よし!おっけー!」
最後に1度大きく屈伸すると、その勢いでぴょんと飛び上がる。更衣室を出て、元いた場所へと戻る。既に着替え終わったアステルリーチと私を待つようにして話し合っていたシンボリルドルフ達の視線がこっちに集まった。
「2人とも準備できたようだな。では、レース前にコースの確認だけ行っておこう」
レースの距離などはあまり気にしない。だって、その気になれば長距離でも中距離でも行けるからだ。ただ、どの距離を走るかによって走り方が変わってくるので、聞いていて損は無い。
シンボリルドルフがエアグルーヴから資料を受け取る。
「距離は芝2000mの中距離。皐月賞や天皇賞(秋)と同じ距離で、バ場の状態は良バ場だ」
ふむ、中々悪くないな。中距離級の距離なら自主トレでそこそこ走ったことはあるし、最近は雨も降っていなかったからしっかりとした良バ場であることは間違いない。
「二人とも…特にレイゴウノルン、君はまだレースを走ったことが無いのだから準備は入念に行ってくれ。準備が出来次第スタートとする」
「分かりました」
私はその場に背を向けてレースの舞台へと歩いていった。この久々に降り立つ芝の感触…実に懐かしい気分だ。ウマ娘の本能抜きにしても走り出したくてウズウズする。
後ろからこっちの様子を見るアステルの奴も随分とワクワクしている様子だ。まぁ、あれに関しては“私とレースできる”ことに盛り上がってるんだろうな。あくまで予測だが…。
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「まだ始まってなかったのね。間に合ってよかった」
「おハナトレーナー!確か今日中の仕事があると…」
「早めに終わったの。それに気になるじゃない?あのアステルリーチが気にかける子」
このグレーのパンツスーツを着こなし、理知的でクールビューティーな眼鏡をかけた女性こそが、トレセン学園内で最強のチーム『リギル』を担当する“東条ハナ”だ。
少し近寄り難い厳格さがあるもののウマ娘育成への情熱は本物、それを結果で物語っている時点でかなりの手腕を持つトレーナーであることは、誰の目にも分かる事だった。
「確か…レイゴウノルンだったか?脚質や適正距離は…」
「我々もまだ…。先程、レイゴウノルンの母に聞いたのですが、幼い頃に少しアドバイスしただけで、後は勝手に本を読んで自己トレーニングし始めたので詳しいことはまるで分からないそうです」
「なるほど、ね…」
チラリと視線を向ければ、たづなさんと仲良く談笑してるレイゴウノルンの母親らしき人物がいた。その瞬間、何か引っかかるような感覚がハナトレーナーに突き刺さった。
(彼女…確かどこかで…)
靄がかかったように思い出せないあの姿。必死に思い出そうとするが、そこでエアグルーヴから報告が入った。
「二人共に準備完了したそうです」
「分かった。では、レースを開始してくれ」
その一言にその場にいた全員の視線がコースの方へと向いた。理事長とルドルフは見定める目を、ハナトレーナーやエアグルーヴ達はアステルリーチに対してどのような走りを見せるのかという興味の視線を向ける。
そして、ただ1人レイゴウノルンの母は不安や焦りの表情ではなく。ただ娘の勝利を信じている…そう言わざるを得ない信頼している目をしていた。
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「スゥ……ハァ〜」
深く吸って息を吐く。すんなりとゲートインした私の前に広がっているのは、閉じたゲートとその先に見える芝が生い茂るコース。
あぁ、何時ぶりだろうか…こんなにレースの前で昂ったのは。前世で引退してから長らく失っていたレースへの興奮が、こんなにも心地よいものだったとは思わなかった。
駆け出したい衝動を抑えてゲートの中でスタートを待つ。ゲートに収まっているこの1秒を長く感じたのは、これが初めてだ。ぐるぐると巡る思考に薄らと笑みを浮かべると、同時にゲートがガコンと音を立てて開いた。
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ガコン!
ゲートが開き、二人のレースの火蓋が切って落とされた。スタートと同時に白と黒のウマ娘が同時に駆け出す。少し間を置いて、僅かに黒いウマ娘が白いウマ娘の前に出る。
「スタートは…二人共完璧か」
「アステルリーチはともかく、初めて走る奴があれほど綺麗にスタートできるとはな」
エアグルーヴとナリタブライアンの感想は、その場にいた全員の考えとほとんど一緒だった。レースで1番目に重要であり、なおかつゲートを経験していないものには1番難しい“スタート”。
それをレイゴウノルンは、アステルリーチとほぼ同じようにこなした。最初はレイゴウノルンの出遅れにより差が空くことを予想していたが、大きく外れて第1コーナー手前でレイゴウノルンは『クビ差』を維持していた。
そこでアステルリーチが少し距離を取るように前へ出る。コーナーを曲がればその差は1バ身にまで引き離された。
「アステルリーチの脚質は“先行”、あのレイゴウノルンがどのような脚質であろうと先を彼女に譲ると抜き出るのは至難の業になる」
「加えて最後の伸び。アステルの持ち味は直線での末脚と加速、最後の直線まであの状態が続くようならほぼアステルの勝利と考えていい」
第2コーナーを回ったが進展のないレースが続く。勝負は最終コーナー後の直線、アステルリーチの真骨頂が見れるその瞬間こそがこのレースの見所だ。
ルドルフとハナトレーナーはそれを目星に話し合っていたが、ふと不気味な感覚をルドルフは感じ取った。レースが始まってからバ身の差があまり開いていない…現在も『1バ身』を
「…まさか、加速している彼女にわざとあの距離で維持している…?」
1ハロンを駆け抜けるスピードは依然上がっている。だが、それでも広がらない差。ここまで来れば“レイゴウノルン”が“追いつけない”のではなく、“アステルリーチ”が“引き離せない”のだと判る。
ハナトレーナーも同じことを考えているようで、ぽかんとした驚きの表情を浮かべていた。
そして、その事を1番理解しているのは他でもないアステルリーチ自身だ。
(“抜かそうと思えば抜かせるぞ”っていう警告……な訳ないよねぇ。完全に狙ってる空け方じゃんこれ…)
1コーナー後から徐々にスピードを上げているが、すぐ後ろから聞こえてくる足音の大きさは変わらない。距離的に1バ身を空けて、後ろを走られてる。
考えるに最終コーナーで私を抜くつもりだ。そのためには1バ身の距離を維持して、スパートをかけてくるのは見え見えだ。けど、こっちだって差しきられる気なんてサラサラない。
第3コーナー回ってレースに終盤に向かっていくが、依然二人の差は1バ身をキープ。そこで周りにいたエアグルーヴやナリタブライアンもノルンとアステルの距離に違和感を持った。
「あの子…アステルリーチを相手に引けを取っていないだと…」
「そんな馬鹿な…って言いたいが、実際に距離が開いていないところを見ると認めるしかないか」
「白熱!ここまで僅差の勝負をするアステルリーチは見たことがない!あのレイゴウノルンというウマ娘は中々の逸材のようだ!」
「うふふ、さすがはノルンちゃんねぇ。いつも私の想像を超えちゃうんだから…」
エアグルーヴとナリタブライアンが驚き、理事長がレースに熱中し、ノルンの母が娘の成長をしみじみと感じていた。その傍らでたづなは、その様子に少し困った顔をしつつもレースを見ている。
レースは終盤の最終コーナーへと向かっていく。たった二人だけのレースだが、互いに1ハロンを翔るスピードはもはやGIレース級にまで達していた。
(最終コーナー…ここまでの差は1バ身、父さんが駆け上がってくる前にここでスパートをかける!)
ズッと沈み込むように力強くターフを蹴るアステル。最終コーナー手前でスパートをかけることでノルンとの差を開き、ここで一気に突き放す作戦に出た。
アステルリーチ、最後で見せる末脚と加速で他を置き去りにして勝利を勝ち取る姿を人々は称えて、彼女に奇しくも前世と同じである『孤高の彗星』という2つ名を与えた。
メイクデビュー後に2着という結果で終わったGIIはあったものの、アステルはこれを武器にして何度もレースで勝ちをもぎ取ってきた。
最終コーナーでアステルはノルンの気配と足音がどんどんと小さくなっていくのを感じ取ると、更にスピードを上げる。その間にもどんどんと小さくなっていき、そして…
「「「「「「「!?」」」」」」」
アステルも含めてその場にいた全員が、今起こったありえない出来事に目を見開いた。レースを走っているのは二人だけ…つまり、ノルンがアステルを追い越したのだ。
突然の不意打ちにアステルも驚いてはいたが、すぐにレースへ意識を戻す。すぐに頭を切り替えられたのは、アステルが元からこの事態を想定していたに他ならない。
(追い越されたのなら!また抜き返す……ま、で…)
先程のスパートの時よりも数段強く足を踏み出そうとするが、ガクンと足から力が抜ける。
何故、前に踏み出せないッ!?と進む力を削がれた己に叱咤するが、ふと前を走っているノルンと目が合った時に、アステルはまるで血の気が引いていくような表情になる。
凄まじい圧だった。恐らく後続のウマ娘に対しての威圧なのだろうが、アステル1人に集中しているのだから効果は抜群に効いていた。まるで上から押しつぶされるような感覚……圧の主であるノルンの目からは
“抜けるものなら抜いてみろ。ただし、容赦はしない”
と、聞こえるはずのない声が聞こえた。誰も寄せつけない、何者も前に出ることを恐れる…これが『白き怪物』と呼ばれたレイゴウノルンの威圧だ。
アステルが圧に押し潰れて思うように走れない隙に、ノルンはどんどんとスピードを上げて差を空ける。まるでさっきの意趣返しと言わんばかりの走りだった。
そして、そのままスピードを維持しながらレイゴウノルンは1着でゴール。その後、“4バ身”もの差をつけられたアステルリーチがゴールを駆け抜けた。
「ッ!ハァッ!ハァッ!」
走りきったアステルはプレッシャーから開放されて、肩で息をしながら顔を上げる。息一つ乱していないノルンの空を見上げる晴れやかな笑顔が、アステルの目に焼き付いた。
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やってしまったぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!
久々のレースだからって調子に乗ってた!終わったらアステルリーチと4バ身で勝ってるって何!?本当ならアタマかハナ差で勝つつもりだったのにぃ!何で最後に前へ行かせない圧をかけたんだぁ!?
「とってもいい走りだったわ、ノルンちゃん!昔の私そっくり!」
「あはは…ありがとうお母さん」
トレセン学園から家へ帰る道すがらお母さんはずっと今日の結果にニコニコとしていた。
あの後、私へのスカウトは『後日通達』ということになった。なんでも理事長が待ったをかけて、もう数日考えたいとの事。ただ、もうスカウトに関してはほぼ決定したも同然だとたづなさんは語っていた。
「あんなにトレセン学園には行かないって言ってたのに、今日は随分とノリノリだったわねぇ」
「ハイ、ソウデスネ…モドレルナラモドリタイヨ」
「でもね?私は少し嬉しかったなぁ。ずっと1人で走ってたノルンちゃんが楽しそうだったのは、あれが初めてだもの」
子を思う母だからこその悩みだ。私の周りにウマ娘はいなかったが、別に1人もいない訳では無い。ただ、あまりウマ娘の多くない学校で、私の学年では私しかウマ娘がいない。
必然的に同年代の走れる相手がいなかった。だから、私はあらゆる本の知識を頭に叩き込んで走り方の研究に明け暮れていた。
それをお母さんは心配していた。一緒に走る事への楽しさを知っているお母さんからすれば、1人でトレーニングに打ち込んでいる私の姿を見れば心配にもなるだろう。
ただ、今日のレースで見せた私の表情が柔らかくなっていたのを見て、お母さんは安心したはずだ。なんせ楽しく走る事私の姿を見せたのはこれが初めてだからね。
私個人の感想として、今日のレースは色々と刺激的だった。馬とウマ娘では違う感覚…それを掴めただけでも大きいのだが、一緒に競い合うことがあんなにも心地よいと思えたのは、今まで1度もなかった。
ウマ娘を追いかける時間は私の中で最も大切なものだ。けど、今日みたいなレースをすれば…
(トレセンに行ってもいいかなぁ…)
自然とそういう考えが私の頭の中で芽生えるのだった。
お読み下さりありがとうございます!
初めてのレース描写書きだったので、何かと不自然なところがあると思いますが、これから少しづつ修正していくつもりです。
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