私にとって走るということは、何者にも変え難い“楽しいもの”だった。芝を駆け抜ける気持ちよさは、今でも時折思い出して感傷に浸るくらいだ。
喜び、悲しみ、渇望……様々な感情が渦巻いたトレセン学園での生活は、大人になった今でも色褪せない思い出だ。
私の走ったレースの総数はそう多くない。理由は自分自身が一番よくわかっている…『足の脆さ』が私の走りを妨げていたのだ。
長距離適性、先行策適性……これほどの好条件が揃っても、この弱点のせいでどのトレーナーにも見向きされなかった。それでも私が走り続けたのは、単に好きだったからに他ならない。
学園を去る結果になったとしても、好きなことをやめる理由にはならない。少なくとも、この足が衰えるその日まで走り続けることを私は密かに決意していた。
今思い返せば、私が折れなかったのは偏にルームメイトの支えがあったからだ。別のトレーナーにスカウトされても彼女は私の事を気にかけてくれた……だから、辛いことも飲み込んで頑張れた。
どうにか足の弱点を克服しようと試行錯誤していたある日のこと。自己トレーニングに打ち込んでいると、足首に違和感を覚えて木陰で休んでいた時のことだ。
「やぁ、少しいいかな?」
ボーと青空を見つめながら休んでいた私に声をかけてきたのは、一人の女性トレーナーだった。身長は私よりも若干低め、金と黒が入り交じった髪をした女性だった。
その女性トレーナーは私に手を差し出して…
「私の担当バになってくれないかい?」
と、開口一番にそう告げてきた。嬉しさとか喜びが出てくるよりも、私は頭が真っ白になるほど混乱した。私の足の事は多くに人に広まっている。ということは、この人が『私の事を知らない』か『知った上で博打覚悟で来ている』かの二択になる。
前者はまだトレセンに来て間もない新米トレーナー、後者はお披露目レースでスカウトすることが出来なかったトレーナーになる。
しかし、今の時期は秋真っ盛りの10月…この時期まで私のことが1ミリも耳に入らないのは、さすがに噂に無頓着すぎる。多分この人は私の事を知った上でスカウトしてくれているのだろう。
「あの…なんで私なんですか?他にも有望な子はいっぱい居ますし…何より私の足は……」
「『壊れやすい』って言いたいのかな?」
その答えにこくりと頷いた。足が脆いのは生まれつきだし、実際に今も故障寸前まで壊れかけている。そんな私に声をかけるより、他のウマ娘に声掛ければいいはずだ。
ウマ娘は“夢”と“目標”を、トレーナーは“結果”と“実績”を追い求める。その利害が一致してこそ、スカウトが成立する。
ともなれば、強いかつ頑丈なウマ娘をスカウトするのはトレーナーにとって最も優先すべき事柄だろう。そんな条件から外れている私をスカウトする理由が分からない。
「君の事は入学当時から知っていたさ、類まれなる長距離適性を持っていながらそれに耐えられないウマ娘だとね」
「だったら!私なんかよりも……満足に走れない私なんかよりもっと優秀な子が…」
スっと私の唇に人差し指が添えられて、言葉が遮られた。細いながらも有無を言わせない彼女の指に、私は驚いて彼女の方を見つめてしまう。
「君だけだった。他の子のレースを見たあとでも、担当にして“勝たせてあげたい”と思ったのは君だけだった。私がこの半年の間に誰も担当バとして取らなかったのは、君を調べ尽くしていたからさ」
そう言うと彼女は私の前にしゃがんで、今も鈍い痛みの感じる脚にそっと触れた。彼女の言うことが本当ならば、この半年間を私のためだけに費やしたのだろう。
おかしな人だった…自己の目的よりも私を気にかけて『勝たせたい』なんて言葉が出てくるとは、普通のトレーナーじゃない。でも、私が会ってきたトレーナー達とはまるで何かが違った。
「君の脚がたとえガラスの脚だったとしても、私が終わらせない!『輝ける才能を持ったウマ娘』に君はなれる!だから、私と一緒に駆け抜けてくれないかい?」
心のうちで何かが弾けたような気がした。自分の脚に苦悩する日々、周りからの評価……今までために溜め込んだ不安や恐怖を打ち払うように、嬉しさが涙となって溢れ出てきた。
(初めて…やっと……やっとッ!)
自分を認めてくれる人がいた。それが私にとってどれほど嬉しかったことか。だから、自然と手を取っていた…このチャンスを逃したくないよりも、ここまで私を信頼してる彼女の期待に応えたいと強く思ったからだ。
「こんな私でよければ、よろしくお願いします!」
「ああ!こちらこそ!全力で支えさせてもらうよ!」
こうして、トレーナーさんとの3年間が始まった。
最初の頃は主に基本的な基礎作りから始まり、徐々に脚の改善を目指したトレーニングメニューが組まれた。トレーナーさん曰く、『走りのフォームも体力も十分にある。なら、まずは脚を何とかしないといけないな』と言われた。
結局デビュー戦の舞台に立つことが出来たのは、出会ってから半年後だった。全力で走れはしないが、メイクデビューで勝利できるくらいまで私の脚が強くなったのは、一重に日々のトレーニングの賜物だろう。
そこから調整のためにGII、GIII含めて計4戦を走ったが、いずれも善戦止まりだった。悔しくもあったが、それ以上に『次は負けない』と意気込むようになった。
そして、約一年がたった頃に私はGIの舞台に立っていた。そのレースでは数名ほど注目株のウマ娘が出ると事前に情報を耳にしている。
(私なんかが敵う相手でしょうか…?)
控え室にて何度も何度も深呼吸を繰り返した。大舞台を走るという現実を目の当たりにしてネガティブな部分が出ていたが、トレーナーさんが私の背中を押してくれた。
「初のGI、やっぱり緊張してるかい?」
「はい……どうも怖くなっちゃいますねぇ。すみません、レース前にこんな事を言って…」
「ふふっ、別に謝ることじゃないよ?怖がることが何も悪いことじゃないしね。ただ、君が君らしく走ってくれればそれでいいんだよ。頑張れ!私の“プリンセス”!」
「…はいッ!」
それ以降、私はただ走ることしか目にいかなかった。ファンの声援も周りを走るウマ娘達の足音もかき消すほど、私は走ることを“楽しんだ”と思う。
まるで今まで閉じこもってた殻を破るような感覚、それと同時に感じる高揚感は私に一切の緊張というものを忘れさせていた。気づいたら私の前には誰もおらず、先頭を独占してゴールを走り抜けていた。
GI初勝利、控え室に戻ってもウイニングライブの後でも夢だとずっと思っていた。でも、全て終わった後に出迎えてくれたトレーナーさんの顔を見ると、『あぁ、全部本当なんだ…』と肩から力が抜けた。
そこから私達の生活は一変した。まず、ウマ娘が契約して貰えるよう交渉する逆スカウトが、私のトレーナーさんに多く舞い込んだ。
結局のところトレーナーさんは数を限定しての契約を結んで、チームを持つことになった。私の事を直接見てくれる時間は少なくなったが、しっかりと私用のトレーニングを組んでくれていた。
それ以外にもメンバー達と併走をしたり、走り方の研究などに没頭した。トレーナーさんとの二人三脚も良かったが、チームで支え合って切磋琢磨するのも悪くはなかった。
競い合うライバルがいるのと同時に、信じ合う仲間がいることがどれほど自分の心を奮い立たせるのかを実感した。
そして、そんな日々を過ごしながら私は何事もなく順調に勝利数を重ねていった。レース後の休養期間が長かった関係で多くは走れなかったが、それでもGIを数勝することが出来た。
その頃になるとチームとしての土台は完成しており、他のみんなも次々と好成績を残していった。そして、シニア級最後のレース『有マ記念』で見事優勝を果たし、私は引退を決意した。
多くの人から『先を見る気は無いのか?』『まだあなたの走りを見たい』等の声が上がったが、それでも引退するのを変えるつもりはなかった。
「ここまで来ると少し惜しくなるね。もっと君の道を見ていたかったが、決めたのなら背中は押してあげるよ」
「ありがとうございます。トレーナーさんがいなかったら私は無名のまま果てていました。だから、今度は私がトレーナーさんや他のウマ娘達を支えられる仕事をしてみせます」
「うん、期待してるよ。違う形であれ夢があるならそれでいい。楽しみにしてる」
その会話を最後にして、私はトレセンを卒業した。その後はURA関係の仕事に就いてトレーナーさんとの約束を守るために働いていた。
そんな時に出会ったのが今の旦那様だ。プロポーズの時は今思い出しただけでも笑えるものだったが、真剣に考えて言葉にしたプロポーズを私は受け取った。
結婚式では、私と彼の家族やチームのメンバー達に加えて同室のウマ娘、そして何より相も変わらず元気そうに頑張っているトレーナーを招待して、盛大な結婚式にした。
皆から祝福された時は柄にもなく涙が出そうだった。特にトレーナーさんがかけてくれた言葉は今でも忘れられない。
大変だろうけど頑張って!とエールを貰いながら、慌ただしい新婚時代を送ることになったが、今では可愛い子供も授かって順風満帆の生活を送っている。
願わくばこの子にも私と同じように夢を持って、“仲間”や“ライバル”達と多くの出会いを経験して欲しいと思った。
小さい頃から周りと上手く付き合いながら自主トレーニングを続けてきた我が子……少し変わった所はあるが1人で地道に頑張れるそんな子が、次は広い世界へと踏み出して欲しい。
けど、それを決めるのは私ではない。目の前に置いてあるのはトレセン学園の『合格通知表』であり、入学するのかはこの子の判断に委ねている。
だから、『スカウトするのはいいですが、入るかどうかは彼女の気持ち次第にしてあげてください』と事前にトレセン側へは伝えている。向こうもそれを了承してくれた。
「あなたはどうしたいの?ノルンちゃん」
今日ばかりはいつもの雰囲気もなりを潜めていた。その様子に萎縮気味の我が子、“レイゴウノルン”に私は問いかけるのだった。
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私のお母さんが怒る時は静かに怒るのが普通だった。前に怒ったのを見たのは二年前が最後だったか…?あの時の物静かな表情から溢れ出る圧には肝を冷やしたものだ。
原因はお父さんのやらかしだったが、関係ない私でさえ震え上がるほど恐ろしかったのは今でも鮮明に語れそうだ。
いつもと変わらない雰囲気と喋り方…しかし、その後ろから見え隠れする般若のごとき威圧にさすがのお父さんも防戦一方だった。
さて、そんな怒らせたら鬼ほど怖い私のお母さんだが…今日はどうやら少し様子がおかしい。静かなのはいつも通りだったが、あのおっとりとした雰囲気が消えていた。
「ノルンちゃん、話があるからそこに座ってくれる?」
「う、うん」
言葉に促されるまま、私は机を挟んでお母さんの対面に座った。すると、その机の上に1枚の紙が置かれた。上の方に濃く太い字で『合格』と書かれていた。
あぁ…やっぱり合格してたか…。アステルのやつも『多分、今日明日くらいには合格通知が届くと思うぞ?』と言っていたが、随分と早かったなぁ…。
「これでノルンちゃんもトレセンに通えることになるけど、その前に一つ聞いておかなきゃいけないことがあるわ」
「聞きたいこと…?」
「私達がほんの冗談で勧めていたトレセン学園に入学できるようになったのは私達自身も予想外だった」
まぁ、完全にアステルが悪いもんね。お母さんやお父さんがトレセンを勧めていたのも冗談に近いものだってことは知ってるし、私もそこまで重く受け止めてなかったからあの対応だった。
でも、いざ本当に行けるようになれば、お母さんも相当真剣に考えていることだろう。でも、行きたいか行きたくないかは私次第、こうして合格通知を見せてわざわざ話しているのも、私の意志を知りたいからだ。
「行きたいのなら行けばいいし、行きたくなのならこのままでもいい……あなたはどうしたいの?ノルンちゃん」
「私は…」
どうしたいと言われてもすぐには答えが出なかった。生まれ変わってからの私には、レースそのものへの熱というものが冷えていたと思う。
そんな中でどハマりしたのが、“走る側”ではなく“見る側”でのレース鑑賞だった。キラキラと輝くウマ娘達…そこで少し私の何かが揺さぶられて、のめり込むように没頭した。
でも、前のレースでまた私の走りたい欲求が目覚めたのも事実だ。ターフをかける爽快感、競い合う楽しさがまた私の中で燃え上がっていた。
だから、あんな約束をさっきしてしまったのだろう。久々に楽しさというものを思い出させてくれたアステルに、レースという楽しさを見失わないように…。
気持ちを整理してみれば簡単な事だ…私はまた“走りたかった“だけじゃないか…。なら、もう迷う必要は無い。
「私は…!」
思っていることを全て伝える。これから成し遂げたい事と約束した事を言葉にすると、お母さんは嬉しそうに笑みを浮かべながら私を抱きしめてくれた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
ちょっと自分的に長くなりすぎたかなぁ…って反省してます。ストーリーの進行自体がゆっくりなので、ちょっとばかし早めます。内容的には試行錯誤気味で書いてるので至らない点はありますが、後々修正していくつもりです。
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