「ふぃー。とりあえず一旦落ち着こっか」
似合っているとは言いづらい無骨なメイスを杖代わりにして、額の汗を拭うリツカ。その表情には少し疲労の色が見えている。
「そうだね……ふぅ」
後ろの腰に差している鞘に、逆手で持っていたナイフを収めながら、己を落ち着かせる様に小さく溜息を吐くベル。彼もダンジョンでの戦闘にだいぶ慣れてきたのか、その姿はかつて覚束無い様子でゴブリンと相対していた頃が想像もつかない程に洗練されていた。
「それにしても、まさかこんな楽々と来れちゃうなんてね」
リツカが悪戯っぽい笑みを浮かべると、その小悪魔の様な表情に同じく悪戯っぽい笑顔で返すベル。
程よい緊張感を漂わせながらも、二人はリラックスしている様だ。
「でももしこれがバレちゃったら、エイナさんに怒られちゃうね」
あはは、と少し申し訳なさそうに呟くベル。その様を想像したのか、リツカは「めちゃくちゃ怒るだろうなぁ」と顔を曇らせる。
リツカとベル、この二人は現在ダンジョンの5階層へと足を踏み入れていた。
今までは2階層、潜ったとしてもせいぜい3階層までが二人の狩場だった。しかし連携もかなりスムーズとなり、お互いに戦いの熟練度が増したと実感出来ていたので、今回、自分達の力がどれ程通用するのか試そうという事になったのだ。
もちろん、絶対に無理はしない事。ダメだと少しでも感じたらすぐに撤退する事。常に逃げ場を確保した状態にする事。そして最大でも5階層までしか潜らない事。これを前提として、というものである。
しかし二人の担当アドバイザーであるエイナ・チュールからは「5階層以降に挑むのは二人にはまだ早いから、潜るのは4階層までにしなさい」と言われていた。
もちろん二人も彼女の言う事を聞いていないわけではない。むしろ彼女の教えには感謝をしているし、それが自らのためになっている事も自覚している。しかし……冒険者の性、というものなのだろうか。二人の好奇心が勝ってしまったのかもしれない。
ここまで前提を備えてあれば大丈夫。それに今回だけだから、とお互いに尤もな理由付けをし、挑戦する事にしたのだ。
特にベルは顕著だった。彼は英雄譚で語られている英雄達に憧れているという事もあり、少しでもその様な存在に近付きたいという思いがあったのだろう。リツカよりもやる気に満ちていた。
「私たちでも5階層なら大丈夫、ってわかったね。もちろん油断は出来ないけどさ。さて……そろそろ帰ろっか」
「うん。帰り道も気を緩めずに、だよね!」
今日の戦果が納得出来るものだったと語り合い、今日の所は帰還しようとした、その時だった。
「ブモォォォォオオオ!!!」
突如、耳を貫く様な雄叫びが二人を襲う。その様な叫びを耳にするのはリツカもベルも初めての経験。その咆哮は凄まじい絶叫だった。それ故なのか、二人は止まってしまった。否──硬直してしまう。
初めて耳にする雄叫び。全身から吹き出る冷たい汗。二人は、今までにない恐怖に襲われた。
そして少しずつ身体の自由を取り戻し、その声の方向に顔を振り向かせると──そこには、絶望が待っていた。
「なん……で……」
「そん、な……」
二人の顔が絶望の色に染まる。
つい先程までは談笑していたのに。こんな事があってたまるものか、とリツカは歯をくいしばる。
ベルに至っては──もはや我を失っているのだろう。歯をガチガチと震わせながら、怯えきった表情をしている。
二人の視線の先には、牛の怪物──『ミノタウロス』と呼ばれるモンスターが少しずつ近付いて来ていた。
ミノタウロス。英雄譚ではとある英雄の前に立ち塞がり、死闘を繰り広げる事となる怪物。この英雄譚はその英雄の特殊な魅力も相まって人気があるのだが──そんな話はさておき、ここダンジョンに生息するミノタウロスは英雄譚に登場するような強大な怪物ではない。
しかし、だからといって駆け出しの新人冒険者が──Lv.1のヒヨっ子が戦っていい存在ではない。そこまで甘くはないのだ。
本来、ミノタウロスが現れるのは15階層、つまり中層。そしてここは5階層、つまり下層である。本来、こんな場所に姿を現していい存在ではないのだ。
それがどういう事かというと、ミノタウロスというモンスターは本来、
つまり、リツカとベルではそもそも戦いにすらならない様な相手、という事なのだ。
「ベっ……ベル、ベル!!逃げるよ!!!」
身体の自由をほぼ取り戻したリツカが、ベルの腕を乱暴に掴み、その腕を必死に揺らしながら叫ぶ。
リツカはミノタウロスというモンスターを目にした事はない。しかし、エイナからモンスターの情報は一通り教えてもらっていた。故に、今自分達に近付いて来ているあの怪物が何なのか理解出来た。
あのどう見ても牛の怪物というモンスターは、間違いなくミノタウロスと呼ばれるものなのだ、と。
そして同時に、自分達がどう足掻いてもどうにもならない相手なのだという事も理解してしまったのだ。
「ベルっ!!ベルっ!!!」
リツカは泣きそうになりながら強くベルを揺らすが、彼はその呼びかけにも行為にも反応しない。目の前の現実を精神が拒否してしまっているのか、それとも心が壊れてしまったのか。どちらにせよ、リツカの声は届いていなかった。
そしてリツカは意を決した様な表情をして、立ち上がった。
「……大、丈夫だよ、ベル。わたっ……私がっ、
リツカのその声でようやくベルは気付いたのか、目の前に立つ少女の顔に視線を移す。リツカは笑っていたが、その笑顔は無理やり作ったかのような、恐怖を無理やり押さえつけたかのような表情だった。
そして──よく見ると、彼女は震えていたのだ。
「うおぉぉぉ!!!」
ベルに再度にこりと微笑みを送った後、ミノタウロスに駆け出していくリツカ。その全てがベルには、スローモーションの様に見えていた。
誰にも見向きもされず、誰からも認めてもらえなかった自分を拾ってくれたリツカ。いつも自分を引っ張り、道を示してくれるリツカ。こんな頼りない自分の事を、「頼りになる」と言ってくれるリツカ。
【守るから……】
つい先程リツカが投げかけてきた言葉が、ベルの頭の中で反響する。自分とさほど変わらない歳の少女が、戦いの経験も自分とさほど変わらない少女が震えながら笑い、絶望へと立ち向かっていった。
【いいか、ベル。
【いいな、ベル。だからお前はな、絶対に
いつか言っていた、懐かしい祖父の言葉。あれは僕が幾つの頃だったっけ。そういえばあの時、お兄ちゃんは何をしてたんだっけ、と、今置かれている状況からはとてもじゃないが考えられない様な事をベルは思っていた。
そして少年はほぼ無意識に立ち上がり──駆け出していた。
「うおぉぉぉぉ!!!!」
相変わらずベルは、全てがスローモーションの様に見えていた。
ほんの少し先で駆けているリツカと、その少女の命を奪おうと腕を高く上げ、叩きつける準備をしているミノタウロス。
おそらく極限の集中状態だったのだろう。その全てがベルには、ゆっくりと見える感覚に陥っていた。
そしてミノタウロスは丸太のように太い腕を地面に叩きつけ──リツカとベルはギリギリ、コンマ何秒の差でその攻撃を躱したのだった。
あのままであったらリツカは、もはや原型を留めない程の肉塊となっていただろう。しかし寸前の所でベルがリツカの腰に抱き着き、その勢いのまま無我夢中で横方向へと二人して飛び込んだのだ。
ミノタウロスが放った一撃が頭上から地面へと垂直に腕を叩きつけるものだったという事もあり、本当に間一髪だったが──二人は何とか命を拾ったのだった。
「ベル……?」
何が起こったのかわからないという様な顔で、ベルを見つめるリツカ。そんな彼女を見たベルは、静かに立ち上がる。
そして、先程のリツカの様に──否、どこか自信に溢れた様子で、しっかりとリツカを見つめるベル。
「大丈夫だよ、リツカ。君の事は僕が、
優しくリツカに微笑むと、ベルはいつの間にか握っていた小石をミノタウロスに投げつけ注意を引き、リツカから離れる形でミノタウロスを連れ、どこかへと駆けていく。ミノタウロスもおちょくられたと感じたのか、リツカの事を無視しベルを追いかけていったのだった。
その様を呆然と見つめていたリツカ。まさか
リツカにとってベルとは──まだ知り合って間もないが──どこか弟の様な存在であった。
可愛くて、少し手のかかる子。素直で優しいけど、少し危なっかしい子。自分がよく見ていてあげないといけない子。
そして、
故にリツカは、あんな状況でまさかベルが自分の事を助けるなどとは思わなかった。
しかもつい先程まで彼は、いくら声をかけようが身体を揺らそうが我を取り戻さなかったのだ。そんな状態だったベルがまさか、とリツカは呆気に取られてしまっていた。
「あ……ベル……ベル!!」
どのぐらい呆気に取られていたのか、リツカはそんな自分に嫌気が差す。今はそんな事に浸っている場合ではないだろう、と真剣な表情へと変わる。
しかし、もはやベルとミノタウロスがどこへ行ってしまったのかもわからない。つい先程までは声が聞こえていた様な気がしたが、今ではそれすらも聞こえない。
不味い、どうすればいいと思考するリツカの額から汗が滴り落ちる。
このままでは最悪の結末を迎えてしまう事となる。どう楽観視しようが、このままではベルがあの牛の怪物の手で挽肉にされてしまう。
どう考えてもいい案が思い浮かばない。だがまずは動かなければ、とリツカが立ち上がった、その時だった。
「ブモォォ……」
背後から響く、
リツカがゆっくりと振り返ると、そこには
「ベルは……逃げられたのかな」
こんな絶望的な状況にも関わらず、半笑い気味の表情となるリツカ。それは諦めによるものなのか、それとも何かへの安堵なのか、いずれにしても絶望的な状況なのは変わらない。
少しずつ歩を進め、近付いてくるミノタウロス。その怪物から視線を外す事なく見つめるリツカ。
ベルは逃げる事が出来たのだろうか。それとももしかしたら……でもきっとベルなら大丈夫だよね、とリツカは一人思いを馳せる。
ベルにお礼言えなかったなぁ。それにもうこんな無茶しちゃダメだよ、って言いたかったなぁ。それに──
「──ごめんね、ヘスティア……」
宝石の様に綺麗な一筋の粒が、リツカの目から零れ落ちる。
ミノタウロスはもう、すぐ目の前にまで近付いてきていた。その鼻息は荒く、まるで憎悪を孕んだかの様な視線をリツカに向けていた。
リツカが静かに目を閉じる。その表情は覚悟を決めたものだった。そしてその彼女の生を終わらせようと、ミノタウロスが腕を振りかぶった瞬間──
「"失せよ"」
リツカの耳に届いた音。それは自身の命を絶たんとする豪腕が風を切る音ではなく、静かに聞こえてきた誰かの声だった。
未だに目を瞑り続けていたリツカだったが、いつまで経っても何も起こらない。一体何事か?と目を見開くと──そこには腕を振りかぶったまま、どこか
「へっ?」
わけのわからない状況に、素っ頓狂な声を出してしまうリツカ。だがミノタウロスはリツカのそんな様子にも全く反応しない。というよりも、このモンスターは私の事など眼中にないのでは、と思える程の様子だった。
もしやこのまま逃げられるのでは……とリツカが思った時。
「命が惜しくば失せよ、異形なるもの」
再度リツカの耳に届いた声。その声は先程のものと同じだった。
嫌悪感を覚える事はないが、どこか怖いと感じてしまう様な声。しかし感情というものがあまり伝わらないとも思える声。そんな風にリツカが考えていると、つい先程襲いかかろうとしてきていたミノタウロスが一目散に駆けていった。
というよりも、
「えぇ……何がどうなってるの、これ……」
意味不明な状況に混乱してしまうリツカ。襲いかかってきたと思ったら急に逃げ出し、というかさっきの声は何?などと謎が謎を呼び、先程と同じ様に呆然としてしまっている。
そうやって駆けていったミノタウロスの後ろ姿を見つめていると、突然どこからか真っ黒な仮面を被った漆黒の人物がリツカの前に現れた。
「君は……」
リツカはそのものの出で立ちに一瞬ぎょっとしたが、しかし先程の声の主であると理解し、心の中で安堵の溜息を吐く。
そしてその若干感情のこもった声に、先程の印象とは異なるものを感じる。
「あっ!そうだ、多分助けてくれたんですよね。助かりました。本当にありがとうございます」
その人物の真っ黒な仮面を見つめていたリツカだったが、はっとして感謝の言葉を述べ、深々とお辞儀をする。
彼女としてもからくりはわからないが、おそらくそういうスキルか何かなのだろう。それともレベルの高い冒険者はそのぐらい普通に出来るのかもしれない。故にリツカはあまり深く考えず、ただ助けてもらったお礼を口にしたのだった。
「あぁいや、その事は気にしないでほしい。本当に気にしないでくれ。それで、なのだが。君は、その……」
頭を下げるリツカに対し、何故か動揺する真っ黒な仮面を被った人物。顔を上げたリツカは、そんなこの人物の様子が妙におかしく感じたのか、つい笑いが零れてしまう。
そんな彼女に仮面の人物は「むぅ……」と少々恥ずかしそうな態度を見せる。
「ぷふっ、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんですけど。私はリツカ。リツカ・ヘスティといいます」
「そうか、リツカ、か……私は──」
「あー!!!」
彼女の自己紹介を受け真っ黒な仮面を被った人物は少し何かを考えた後、何かを言おうとするが、その言葉をリツカの叫びがかき消す。その突然の大声に仮面の人物も驚いたのか、一瞬びくっと反応していた。
「な、何かな。何か思い出した事でも?」
「いえあの、ベル……えっと、私と同じファミリアでパーティメンバーの子なんですけど、ミノタウロスから私を庇うために引き連れてどこかに行っちゃったんです!今さっき逃げ出したミノタウロスがそうなのかもしれないんですけど!」
「……ベル?」
焦った様に説明するリツカだったが、真っ黒の仮面を被った人物はその名前に反応する。そしてリツカが口を開こうとした、その時だった。
「だああぁぁぁぁぁぁ!?」
離れた所から聞こえてきた声、というよりも叫び。そしてその声は割と元気なものであり、リツカがよく知っているものの声だった。
その元気そうな声──生きている事が確認出来、そしてどうやらミノタウロスに追いかけられている訳でもなさそうだった事にホッとしたのか、リツカは安堵の表情を浮かべる。
「あのぅ、あはは。どうやらその探し人、無事に見つかったみたいです。えへへ」
「……そうか。それは、うむ。よかった」
酷く焦った様子を見せてしまった事が恥ずかしいのか、照れた笑いを見せながら後頭部をぽりぽりと掻くリツカ。真っ黒な仮面を被った人物は少し言い淀んでいたが、その事にリツカが気付く事はなかった。
「じゃあ私はその子を探してきます!助けて下さって本当にありがとうございました!」
先程と同様に深々とお辞儀をするリツカ。恥ずかしさで早く退散したいのかすぐに背を向けて駆け出そうするが、しかし真っ黒な仮面を被った人物が待て、と告げ、その行動を制止させる。
「声の方向からして、おそらく君の仲間は上の階層へと続く道に行ったのだろう。そうであるなら一人でも地上に辿り着くのは容易であるし、ならば君も早く地上に戻るんだ」
「それにここから上の階層は念の為に私が見回ろう。故にもし君の仲間がダンジョンで彷徨っていても私が保護し、無事に送り届ける。なので案ずる事はない」
真っ黒な仮面の人物は感情を込めずに淡々と述べていたが、しかしその内容はリツカを心配してのものだった。しかもパーティメンバーの──ベルの事まで任せろ、とまでに言っている。
本来のリツカであれば断ったかもしれない。そこまで迷惑をかける事など出来ないし、自分の目で一刻も早くベルの無事を確認したいというのもある。そして何より、そこまでこの人物を信用出来るのか?というものだ。
だがリツカは、この人物を信用してもいい──否、もうこの時点で既に信用していたのだった。それは間違いなく自分を助けてくれた、という事実があるからなのだが、それ以外にも根拠のないもの、この人ならば信頼出来るだろうという不思議な感覚があったのだ。
そして、自身が既にボロボロだったという事もある。ここに至るまでのモンスターとの連戦に、本来ならば出会う事などない格上の敵であるミノタウロスに二度も遭遇したのだ。肉体的な疲労はもちろん、精神的な疲労も言うまでもないだろう。
故にリツカは、この仮面の人物の提案を受け入れる事にした。
「じゃあ図々しいですがよろしくお願いします!その子は白髪の赤い瞳っていうわかりやすい特徴をしてる男の子なので!もし見かけたらすぐにわかると思います!」
「あぁ。無論、
その人物の表情は真っ黒な仮面で隠されているのでもちろんわからないのだが──何故だかリツカには、その人物が笑っている様な気がしたのだった。
どうも作者です。
第八話となりました。サブタイトルがなんだかやけに小難しい。これは遭逢(そうほう)と読みます。造語じゃないですよ?
意味としましては……うーん。なんだろうこの秘密にしときたい感じ。知りたい方は調べてほしいです!笑
さて、ここからは少しご報告をば。
もう気付いた方も居るかもしれませんが、実はタグを一つ除きました。それは「アンチ・ヘイト」のタグです。
実はですね、私、少々勘違いをしておりまして。その勘違いによりタグ付けしていたのですが、昨日それが勘違いだと知りまして。故に外す事となりました。
詳しくは活動報告に載せていますので、よろしければそちらをご確認頂ければ幸いです。
その事により勘違いをさせてしまった方などがいらっしゃいましたら誠に申し訳ございません。こういった事がないように精進して参りますので、これからもよろしくお願い致します。
というわけで今回はこの辺で!次回またお会いしましょう!