(負けたくない…!)
負けたくない。
(負けたくない…勝ちたい!)
勝ちたい。
(勝ちたい…勝つんだ!まだ、脚は残ってる!!)
勝つ。
コーナーを曲がり終えても、根性で、何とか先頭をキープしたアイネスフウジンは。
先程まで酷使した脚を、しかし勝利の為に全力で回し始める。
まだ、行ける。
抜かしにくるようならば、それを許さない。
あたしが。
あたしであるために。
(勝ち、たいっ……!!)
本当に。
そう、思っているのに。
_──無理は、するな
また。
脚、が。
──息をつけ。転倒の恐れがある
(…っ!どうして、なのっ…!?)
──それ以上の加速は無茶だ
止まろうと、して。
(……嫌っ…!勝ちたい、の…!!)
──勝つことも大切だが、怪我だけは駄目だ
堪えた。
まだ、脚は止まってない。
これから最終直線、残り500mを全力で駆け抜けるために、前傾姿勢を取って。
──その姿勢は危険だ。落ち着け
(……勝ちたい、のに………!)
加速する、はずなのに。
どうしても、脚が。
──怪我だけはするな。無事是名馬だ
前に、出ない。
(……嫌…!)
ダイワスカーレットが競り掛かってくる。
今度こそ追い抜いて、自分が一番になるのだと、加速してくる。
──息をつけ。
それに、抵抗しなきゃいけないのに。
(……嫌…!)
脚が、伸びない。
ダイワスカーレットが、先頭に立つ。
──無理はするな。
それに、追いつかなきゃ。
いけない、のに。
(……嫌…!)
マジェスティックプリンスが、ダイワスカーレットの逆側から、抜かそうと仕掛けてくる。
彼女にだって、負けてられない。
──競りかけるな。接触して転倒の恐れがある
負けられない、のに。
(……嫌…!)
ウオッカの、圧が、足音が迫る。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ、いけない、のに。
──ここでの加速は無茶だ
(……嫌…!)
脚が。
止まれと。
(……嫌…!)
負けたくない。
勝ちたい。
だから、無理矢理に脚を動かす。
走る。
走らなきゃ。
それ、なのに。
前を行く3人の背中が、無情にも、離れていく。
(……嫌…!)
────────走マ灯を見た。
肉体的に追い詰められた結果の、それではない。
精神的に追い詰められた結果の、走マ灯。
これまでの想い出が、蘇ってくる。
『ああ。後は走りで語ることにしよう』
「…アイネス先輩。ようやく、一緒に走れる時が来ましたね!」
「俺だって!全力でぶつかってきてくださいね!!」
(……嫌…!)
先程、ライバルたちに誓った。
全力で戦おうと。
それが、嘘に、なってしまう。
「おねーちゃん!!スーはね、おねーちゃんに勝ってほしい!!」
「ルーも!!おねーちゃん、絶対に勝ってね!!」
「お父さんは…お前が、こんな大きなレースで走れることを誇りに思う。後悔だけは、しない様にな。母さんと一緒に見守ってる…頑張れ」
「何より、このレースを走る貴方が、絶対に後悔しない様に。全力で走ってきなさい。悔いを残さないようにね」
(……嫌…!)
控室で、家族に応援してもらった。
勝ってほしいと。悔いを残すなと。
それが、嘘に、なってしまう。
「では、アイネスさん…頑張ってくださいね!」
「一番に走ってくるのが、アイネスさんだって信じてるから!!」
「今日まで積み上げてきたモンを信じろ。お前は強い。…頑張れよ」
(……嫌…!)
控室で、チームメイトに応援してもらった。
頑張れと。信じていると。
それが、嘘に、なってしまう。
「アイネス。…君は、ウオッカにもスカーレットにも、マジェスティックプリンスにも負けてない。練習通りの走りが出来れば、勝ちきれる。嘘じゃないぜ?俺はウマ娘に嘘はつかないのが信条だからな」
「…一緒に答えを探そう。ファルコンにもそうした通り…俺は、君たちを絶対に離さないって決めたんだ。君のその悩みの、答えを、一緒に探していきたい。君を一人にはしない。君が一人で思い悩むようになってほしくないんだ。俺は……君を、助けてあげたい」
「そうさ…こんなに俺を心配してくれる、最高の
「はは、じゃあドリーム昇格祝いの時とかかな。勿論、君がドリームリーグに上がれるくらいの実績を積めるように、俺は君を育てるつもりだからいつかの未来さ」
「綺麗…いや、可愛いという表現が適切かな。君の可愛らしさがよく表れてる。レースで走る君から目を離せなくなりそうだ」
「
「嬉しかった…どんなに俺が鍛え、大丈夫だと思っていても絶対はない、けど君たちはその走りで俺に応えてくれたんだ!君たちの勝利を心から祝福するとともに、俺自身も本当に嬉しくなった!気が遠くなりかけたほど!」
「────────その、なんで俺のこと、家では名前で呼ぶんだ?」
あの人との。
思い出が、ぜんぶ、全部。
「ああ。間違いなく輝ける。輝いてほしい。願わくば、俺が磨き上げたい。アイネス、俺は
あの人と。
交わした、あの約束が。
「あたしは…あたしはッ!!」
「──────
「勝ちたい!!フラッシュちゃんや、ファル子ちゃんみたいに…!思いっきり、レースに臨んで…全力で、走って!勝ちたい!!そう、勝ちたい…!!そのために、あたしは走ってる、んだ…!!!」
「──待ってたぜその言葉!」
あの時の、言葉が。
嘘に、なって、しまう。
(……いや、ぁ…!)
涙を零しながら。
距離が離れていく、前の3人の背中が歪んで。
(……もう………あたし、は────────)
諦め、そうになって。
脚が、止まってしまいそうに、なって───────
────────────────
────────────────
「─────おねえちゃーーーーーーん!!!!!」
「──頑張って!!!負けないでぇーーーーーーーっっ!!!!」
「アイネスさん!!諦めないで!!!頑張ってぇーーーーーーっ!!!」
「行けーーーーっ!!!いっけぇーーーー!!!まだ、終わってないよぉっ!!!」
「ブチ抜けェ!!!超えろォ!!!限界を超えて来いッッ!!!」
「─────アイネスッッ!!!!!」
「俺はっ!!お前を信じてるっ!!!!」
「頼むっ!!勝ってくれ!!!お前なら出来るっ!!」
「だから、走れぇーーーーーーッッ!!!」
────────────────
────────────────
────────あきらめかけた、あたしの、耳に。
みんなの、声が。
声が、聞こえて。
(みん、なっ……!!)
スーちゃんと、ルーちゃんが。
フラッシュちゃんが。
ファルコンちゃんが。
サンデーチーフが。
そして。
(トレー、ナーっ……!!)
あたしと、あの日に誓った、あの人の声が。
耳に、聞こえて。
その声が、あたしの涙を払って。
耳から頭に染み込んで。
その想いが、体全体に広がって。
溶け合って。
あたしは、それに意識をゆだねて────────
────
────
────
────
────
────
────
────
────
────
────
────
────
────
────
────
そこは、アイネスフウジンの魂の原風景。
どこかの、レース場。
そのターフの上に、アイネスフウジンは立っていた。
東京レース場によく似ている。
だが……違う。
細部が違う。今走っている東京レース場のそれよりも、コースの形が、スタンドの形が違う。
そんなレース場に……凄まじい数の観客が、集まっていた。
どこを見渡しても人。人の海がどこまでも広がる。
10万人じゃきかない。20万人近い、それほどの観客が集まって。
しかし。
──────そこは、ぞっとするような静寂に包まれていた。
一言も声を上げない観客たち。
風も一切吹いていない。
凪いでいた。
この魂の原風景、それそのものが────凪いでいた。
(…………!)
そこで、アイネスフウジンはそれを見つけた。
芝の上、まるで横たわるように低い位置に存在する、何かの光。
それを目にしたことで、アイネスフウジンは理解した。
ああ。
これは、私の、魂だ。
その魂の光は、弱弱しく、まるで今にも消えそうな線香花火のよう。
凪いでいる。
私の、彼の魂が、凪いでいる。
────────無理はするな。
アイネスフウジンは、その光の、魂の意志を感じた。
ここは意識の世界。ゼロの領域。
己の魂と向き合う理外の場。
だからこそ、アイネスフウジンは言葉にならないその魂の声を、聴いた。
その魂は、想い、願っていた。
────────脚を、大切にしろ。
────────ダービーで、俺は終わった。終わって、しまった。
日本ダービー。
そのレースを勝利した彼は、しかし、そこで回復できない怪我を負い、二度とレースを走る事はなかった。
その事実が、概念として、アイネスフウジンの脳裏に落ちてくる。
────────だが、お前は終わらなかった。
────────僥倖だ。だからこそ、これからも……脚を大切にして、楽しく、走り続けてほしい。
────────脚を大切にしろ。無事是名馬だ。走れてこそ、道は広がるのだ。
アイネスフウジンは、その魂の想いを、願いを、受け止めた。
走れなくなった自分の代わりに。
君は、これからも走れるのだから。
怪我にだけは気を付けて────無理せず、楽しく、走り抜け、と。
そんな想いを受け止めて、アイネスフウジンは。
───────激怒した。
「───ふざけるなッッ!!!!」
叫ぶ。
己の魂に向けて、死んだような言葉を吐きかける己の魂を、叱責する。
「ふざ、けるなッッ!!あたしは、勝ちたいんだッッ!!」
「無事是名バだって!?勝てなくて何が名バだ!!脚を労わって大人しく走って、勝てるレースに何の意味があるんだッ!!」
「確かに、貴方はそうだったかもしれない!!ケガをして、夢を描けなくなった!!その悲しみを、苦悩を、否定はしない!!」
「脚が壊れた貴方のその恐怖を、否定はしない!!!けど、あたしにまで押し付けるなッッ!!」
叫ぶ。
これまで、領域が出なかったのも。
最後に、脚に力が入らなかったのも。
己の魂の、余計なお世話だったとするならば。
それは、許せないことだ。
────────。
その叫びに、魂が、答えを失い、沈黙する。
魂にとって、怪我とは恐怖そのもの。
だからこそ恐れた。
そんな、終わった魂を継いでしまった彼女に、同じ轍を踏んでほしくないと。
そう、想っていた。
それは優しい彼の、彼女を想う嘘偽りない願いだった。
しかし。
そのウマ娘は、強く、どこまで熱い想いをもって。
魂に呼びかける。
「───見ろ!!あたしの脚を見ろッ!!」
「あたしの脚は壊れないッ!!あたしが、あの人が、全力で鍛え上げた脚がそう簡単に壊れるもんかっ!!」
「あたしは走れるんだ!!勝てるんだ!!だから、勝ちたい!!」
「────────勝ちたいんだッッ!!」
「あの人の想いも!!家族の想いも!!!チームみんなの想いも!!!ぜんぶ、全部背負って、勝ちたいんだ!!!」
「勝ちたいんだよッ!!だから───だからッ!!あたしを信じろ!!」
「あたしは────貴方の想いだって!!受け止めて、背負ってやる!!!」
「───────だから、貴方も目を覚ませッ!!!」
「起きろ!!」
「そして、共に走るんだ!!!」
「あたしが────────夢の続きを見せてやる!!!」
──────■■■、■■■
凍り付いていた時が動き出す。
レース場に僅かに、声が、音が生まれる。
──────■■■、■■■
魂の光は。
アイネスフウジンの、その言葉に。
夢を、見た。
──────■■■、■■■!
────────いいのか。
──────■■■!■■■!
────────その言葉を、信じて、いいのか。
──────■■■!■■■!
観客の声が、レース場に……否、
それは、アイネスフウジンの名前ではない。その魂の、名前ではない。
誰かの、名前を、叫んでいた。
──────■■■!■■■!■■■!
魂の光が、ターフに横たわっていたその状態から…ゆっくりと、立ち上がる。
4つの脚を、確かに芝について。
──────■■■!■■■!■■■!
────────俺が描いた、この夢の。
──────■■■!■■■!■■■!
────────この夢の続きを、見せてくれるのか。
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
歓声が叫ぶその名は、魂の光の戦友の名前。
伝説を生んだ男の名前。
その男が、その魂と共に東京競馬場に描いた夢は───伝説となった。
それまでは、暗いイメージが付きまとっていたその競技は、しかし、その日をきっかけに変わった。
すべての国民が、彼らの走りに魅せられた。
その日、競馬はスポーツになった。
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
「来いッ!!」
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
「あたしと共に、行こう!!」
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
「あたしだけじゃ足りない!!─────貴方と、共に!!」
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
「共に走ろう!夢を描こう!!!」
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
「あたしたちの名前を、伝説に刻むんだっ!!」
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
──────■■■!■■■!■■■!■■■!
────────ああ。
────────共に、征こう。
魂の光が駆けた。
光がアイネスフウジンに向かって疾走する。
4本の脚で、芝を蹴って、駆ける。
そして、アイネスフウジンが、放たれた光を己の体で受け止めた。
魂を受け止めて、一つになる。
その瞬間────────魂の原風景に、台風のような爆風が生じた。
荒ぶる暴風。
風神が、
ウマ娘という存在と、魂という存在が一つになり。
そして。
─────────────奇跡へと、至る。
────
────
────
────────────
────────────────────────────────
────────────────────
────────────────
────────────────────────
────────────────────────────────────
────────────
────────────────────
────────────────────────
────────────
────────────────────────
────────────────────────────────
────────────────────────────────────────
(────────!?!??!)
残り250m。
半バ身前を走るダイワスカーレットを追い抜いて一着を取らんと、全力で走っていたマジェスティックプリンスは、その瞬間、恐らくは過去にも未来にもレースを走るウマ娘が持つことはないだろう、あり得ない感情を己の内に抱いた。
その原因は、己の後方。
先程交わした相手、アイネスフウジンがいるあたりの5バ身ほど左後方の位置で。
そう、感じさせるほどの、暴風。
地獄のような凄まじい圧が風となり、己の走りを乱そうとしてくる。
一瞬、そんなあり得ない思考を抱えながらも、その原因に思い至り、叫んだ。
『またか─────
間違いなく原因はあの男だ。
あの男の率いるチームフェリスのウマ娘。
アイネスフウジンが、あの時の様な、奇跡に至ったのだ。
『残り200mッ、なんと!?アイネスフウジンが再加速ッ!?!?凄まじい加速だ!!!どこにそんな力が残っていたのか!?!?先頭を行くダイワスカーレットにマジェスティックプリンスが競り掛かるがこれは苦しいか!?ウオッカがぶっ飛んでくるが
先程までは脚色が衰え、領域にも入れずにずるずると位置を下げていたアイネスフウジンが、ここにきて覚醒した。
追い詰めれば追い詰めるほど、それを乗り越えてくる、あれは、なんだ?
本当にウマ娘なのか?
(だが────遅かったな!!残り200m、もうこの距離を埋めきれはしないっ!!)
しかし、冷静さを取り戻したマジェスティックプリンスは、このレースの勝敗についてはまた別物だと認識する。
なぜなら、既に残り200m地点。そこで5バ身ほどの差がついているのが純然たる事実なのだ。
ここから追い上げられるウマ娘はいない。どう考えても距離が足りない。
それは最終直線をマジェスティックプリンスと競り合うダイワスカーレットも、アイネスフウジンに追いかけられながら先頭を狙うウオッカも、同じ想いを抱いた。
あのベルモントステークスの、先頭で400mを駆け抜けた奇跡には至らない。
どんなに加速を果たしたとしても、残り200mを全力で駆け抜けるスタミナを残している自分達には、追いつかないはずなのだ。
だが。
絶対に縛られない限界の先こそがゼロの領域。
特に、今回は以前スマートファルコンが見せた時のそれとは、事情が違う。
「───あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
アイネスフウジンの雄叫びが────凄まじい速度で、先頭争いをする3人に近づいてきた。
振り返る余裕はない。
だが、声の大きさが、圧が、その暴風が。
明らかに、確実に、すさまじい勢いで近づいてくるのを悟らせた。
────
恐怖。
あり得ない事態に、歴戦の3人が、それを同時に感じた。
『アイネスフウジンの加速が止まらない!!!!あり得ない速度だ!?まるで他のウマ娘が止まって見えるほど!!!まさか!?この位置から届くのか!?届いてしまうのか!?!?残り50m─────アイネスがさらに加速して行くぞ!?!?もうわからない!!!』
ゴールはすぐそこだ。
誰よりも先に、一番に飛び込もうと、3人が全力を振り絞ったところで。
その瞬間に、視界の端に。
暴風の主が。
愛を為す風神が、飛び込んできた。
「─────くッ!?」
「──────だあぁぁッ!!!!」
『お、のれ────────!!!』
「────────やああああああああああああああああ!!!!!!」
風神が叩き出した瞬間最大風速は時速80kmに達していた。
『いっ、今っ、ゴーーーーーーーーーーーール!!!先頭4人がほぼ同時に飛び込んだ!!マジェスティックプリンスはやや体勢不利か!?勢いはアイネスフウジン!間違いなくアイネスフウジンでした!!すさまじいラスト1ハロンの豪脚ッッ!!!』
『掲示板が……出ましたッ!!何と、アイネスフウジンが一着だ!!!信じられない!!なんだったんだ今の走りは!?──────さらにレコードだ!!レコードです!!!!彼女自身が日本ダービーで記録したタイムを1秒以上更新!!全員が大レコード!!とてつもないレコードタイム!!うわー!!驚いたー!!!この東京レース場に伝説を刻んだぞアイネスフウジン!!ジャパンカップの勝者は、アイネスフウジンですッッ!!!!』
────────────────
────────────────
「───────ぜ、が…、はっ……!」
アイネスフウジンが、ゴール板を越えてから意識を取り戻す。
最後の直線、残り300mくらいから…意識がなかった。
以前、スマートファルコンから聞いていたような、それ。
無意識の領域に、飛んでいた…の、かも、しれない。
そして、意識が戻ってからぶり返す、余りにも強い疲労。
まるで脚が取れてしまったんじゃないかと思うほどの、全身の軋み。
…だが、まだ脚はしっかりついている。
呼吸は肺が破れそうなほどに辛いが、脚は、まだ、力が入った。
以前ファルコンがそうなってしまったような、倒れそうなほどでは、ない。
倒れるわけには、いかない。
そうだ、誰かと、何か、大切な約束をしていたような────そんな、気がして。
脚を止めて、深呼吸をして、息を無理矢理に整えて……そうしていると、レース場に大歓声が巻き起こった。
掲示板に目をやると、レコードの文字が点灯し…そして、己の名前が、一番上に表示されていた。
勝った。
そうして、レース場に、少しずつ巻き起こる……勝者を讃える、歓声。
ああ、なぜか、それが…とても愛おしく、聞こえてくる。
────────アイネス!アイネス!アイネス!
────────アイネス!アイネス!アイネス!
────────アイネス!アイネス!アイネス!
そうだ。
あたしは、これを、聞くために。
夢をみんなに見せるために。
あたしの名前を、世界に残すために────走るんだ。
自分の中で、何かががっちりと噛み合った感覚。
やっと、自分の走る理由が、意味が、はっきりした。
そんな想いが溢れてきて。
その想いを、言葉に乗せて。
胸を張って、観客に向けて、全力で叫ぶ。
「────────見たかッッ!!」
「────────これが、
────────────────
────────────────
「やった…っ!!やったな、アイネス……!!」
アイネスフウジンが一着でゴールを駆け抜ける瞬間を見届けて、俺は涙が止まらなかった。
余りにも衝撃的な逆転劇。
アイネスは最終直線に入ってからの表情が優れず、加速に至れなかった。領域にも、入れていなかった。
加速するライバルたちに追い抜かれ…5バ身の差が200m地点でついてしまっていた。
通常、レースでは200mで5バ身を埋めるのは不可能に近い。
前を行くウマ娘がスタミナが切れて減速するならまだしも、今回は3人が3人とも極めて実力のあるウマ娘だ。
実際に、減速することはなく彼女らもゴールまで全速力で走っていた。
だが、そこで、アイネスフウジンが覚醒した。
それまでの鬱憤を晴らすかのような劇的な加速……ああ、断言してもいい。
そんな超常的な加速をもって、先頭に追い付き、ギリギリで差し切った。
掲示板に、ハナ差で一着を取ったアイネスフウジンの名前が誇らしく掲げられていた。
「……至ったな、ゼロの領域に…!…よくやったぜアイネス…!よく超えた…!!」
隣のSSがつぶやく言葉を聞いて、俺はそこで、ようやく、その存在を思い出した。
ゼロの領域。
かつて彼女から聞いた、人知を超えたウマ娘の
なるほど、終わってから考えてみれば、あの奇跡の加速はファルコンがかつて見せたそれに近いものだ。
だが俺は、その瞬間まで、ゼロの領域の存在がすっかり頭から零れてしまっていた。
彼女を助けたかった。
何よりも苦しみ続けている彼女を、応援してやりたかった。
そうして最終直線で、俺は彼女に全力で言葉を投げかけた。
他のみんなも同じだ。今、泣きながらラチを越えていくフラッシュとファルコンも、その両手をしっかりと握るスーちゃんとルーちゃんも。勿論SSも。きっと、指定席で見ていたご両親も。
俺達全員が、アイネスの事を心の底から応援した。
頑張れ、と。
負けるな、と。
それが、今回の奇跡を生んだ、ということなのだろう。
「くっ…そ、ウマ娘ってのは、ホントに、すげぇよ…!!」
「ほら、アタシらも行くぞタチバナ!…泣きすぎだって!気持ちは分かるけどよォ!」
そうだ。泣いている場合ではない。
俺は涙を腕で拭い、愛バ達に続くようにしてコースに入る。
全力を、限界を超えたアイネスと──────勝利の喜びを分かち合うために。
「アイネスッ!!」
「…トレーナー…!」
俺はターフに入り、アイネスに向かって走る。
彼女もまた限界だったのだろう。
先程、観客席に全力で、勝利の咆哮をぶつけたのち…そのまま、糸が切れるように、芝に仰向けに倒れた。
芝は深く、倒れたことで怪我はしていないだろう。彼女の表情も、全てを振り絞り勝ち得た勝利への満足が浮かんでいた。
「やったな!!アイネス…俺はっ、君が、勝ってくれて…っ!自分を、超えられて…っ!」
うまく言葉が作れない。
彼女の満足そうなその笑顔を見て、俺はまた涙を流してしまう。
彼女は、スランプを超えられたのだ。
そう確信できる何かが、その顔にはあった。
「えへへ…トレーナー、あたし、分かったの」
「ん…」
「わかったんだ。
俺は涙を拭いながらも、彼女のそばで膝をついて、その言葉を聞く。
以前、二人で話したことだ。
走る理由を、また、見つけようと。
彼女が今日のレースで出したその答えは。
「───あたしは、あたしの名前を歴史に残したい。アイネスフウジンっていう存在が、永遠に語り継がれるくらいに。あたしは伝説を作りたい!伝説を、あたしの走りで紡いでいくの!!」
「っ……アイネス…!」
「だからね、これからもいっぱいレースを走って、いっぱい勝つから!そのために、これからもずっと一緒にいてね、トレーナー!!」
「…っああ、任せろ!俺は、君がそれを成せるまで…君とずっと、共に在るよ。それを、誓おう」
彼女の、その想い。
己の名前を世界に残せるくらいに、レースで勝ちたいという強い意志。
俺はそれを聞き遂げて…そして、それを成せるように。これからも、これまで以上に全力で、彼女を指導することを誓った。
アイネスが、倒れたままで…俺に向けて、手を伸ばしてきた。
俺は、その手をゆっくりと取り、彼女の体を助け起こす。
「…これからも、よろしくね。あたしのトレーナー」
「ああ。よろしくな、俺のアイネス」
彼女の体を抱きしめる。
勝利の喜びと、これからの彼女の挑戦への想いを、分かち合って。
そうして、俺たちのジャパンカップ挑戦は幕を閉じた。