有マ記念当日。
その控室で、俺はオニャンコポンに顔を埋めるフラッシュの、その尻尾の揺れを観察していた。
ふわり、と彼女の黒鹿毛、1ミリも妥協を許さない整えられた尻尾がゆっくりと揺れている。
揺れのタイミング、大きさ…そこから読み取れる彼女の調子。
間違いなく絶好調だ。
「……すー………ふー……」
気負いもしていない。落ち着いている。
有マ記念という今日の大勝負を前にしても冷静さを失わない。
静かな様子のその内側に、勝利への熱を隠さず抱えきり、そしてその熱は最終直線に入った際に領域と共に放たれる。
静と動の二面性を持つ。普段は物静かだからこそ、動に至る末脚があそこまでの切れ味を見せるのだ。
「…フラッシュ。緊張は解れたかい?」
「ええ。何も問題はありません、やる気に満ち溢れています……ふふ、去年もこんなやり取りをしましたね?」
「そうだっけ?…そうだったな。ああ、あのレースは悔しかったな…」
「ですね。ヴィクトールさんに負けてしまったホープフルステークス…忘れられません。今日も、一切の油断なく。ヴィクトールさんにも、他の皆さんにも…一着を、譲るつもりはありません」
一年前のホープフルステークスを思い出す。
あの時も凄まじい集中力をもってレースに挑んだフラッシュだが、しかし、レース中に飛んできた泥が目に入るというアクシデントに見舞われ、二着と言う悔しい結果となっていた。
ヴィクトールピストに奪われたジュニア期のチーム全勝、全GⅠ制覇の目標。
結果を結果として受け止めた上で、しかし、そこに忸怩たる思いがあったことも確かだ。
その後に皐月賞、ダービーで借りは返したが…だが、この年末においても、やはり世代のウマ娘の中でフラッシュにとって一番のライバルと言えるのは彼女なのかもしれない。
最初のGⅠから鎬を削りあう良き友にしてライバルといえよう。
『…トレーナーさん。いつものを、お願いしてもいいですか?』
『ああ。……かつて君に言った、一目惚れしたっていうのは嘘じゃない。
『ッ…!…ふふ、ありがとうございます。貴方に出会えたことが、私の何よりの幸福です。
そうして、彼女と俺の間の秘密のやり取り、ドイツ語による愛の言葉を囁きあって、お互いに微笑みを零す。
彼女の額に指をあてて、toi.toi.toi、と3回ノックをして、おまじないは完了だ。
フラッシュには心音を聞かせていないというのに、ふんわりと頬が薄紅に色づき、リラックスした表情を見せてくれていた。
これは好走が期待できるな。
「…最近、ドイツ語覚えようかなって思い始めてるんだよね☆」
「あたしもそーなの。愛とか恋とかそういうフレーズ覚えるのが急務かなって…」
「……そうだな……多言語に明るくなるのは大切だよなァ……」
そんな俺たちの様子を見ていた愛バ二人が何やら鋭い眼差しでこちらをけん制しているが気のせいだな。
SSはレースになるとため息が増える様だ。心配してくれているのだろう。優しい子だからな。
「…よし。さあ、行こうかフラッシュ。相手は強敵ばかりだけれど…君が勝てると信じている。最強の称号を、掴みに行こう」
「はい。……参りましょう」
時間だ。俺はフラッシュの手を取って立ち上がらせて、共に控室を出る。
そして、レース場に向かう彼女の後姿を見送ったのだった。
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SSとファルコン、アイネスを引き連れて、俺たちは中山レース場のゴール前までやってきた。
フラッシュが一番に飛び込んでくるであろうそのベストポジションを確保するため、俺はオニャンコポンを頭の上に乗せてその人垣の中へ進む。
「…!オイ見ろ、猫トレだ…!!」
「え、マジ!?マジだ!うわファル子とアイネスもSSもいるじゃん!」
「うわー!生オニャンコポン初めて見ちゃった…!ファンです!!」
「どもどもー。猫トレでーす」
俺の顔を知っているウマ娘ファンたちに愛想よく笑顔で返事を返してやると、俺の目の前の人垣がざあっと左右に分かれてゴール前までの道を作ってくれた。
いつの間にか俺はモーセになっていたらしい。
というのは冗談として、これはいつものことだ。
民度の高いファンの皆様はレースに担当ウマ娘が参加するトレーナーだと知ると、ゴール前まで道を開けてくれるのだ。ありがたいことこの上ない。
俺は皆さんの厚意に甘えて割れた人波の間を進んでいく…と、ゴール前に先客がいた。
それは勿論、沖野先輩ら他のトレーナーもいるのだが、その方々ではない。ゴール前が見える少し離れたところにスピカの面々はいたがそれではない。
俺が見つけたのは、3人のウマ娘だ。
恐らくはレースを見に来るのは初めてなのだろう。気合を入れて早くにたどり着きナイスポジションを確保したはいいものの、こう言った風習になれていなかったのか、小学校高学年くらいの年齢の3人がゴール前であたふたしていた。
その子たちの、顔と、脚に、随分と見覚えがある。
「ど、どーしよタイホちゃん!?どかなきゃいけないんじゃないのこういうのって!?」
「ぼ、僕も初めてだからわからないよ…!でも猫トレさんも一番いい所で見たいと思うし…!」
「あら?せっかくいい場所がとれたんだからもったいないわ?せっかくだし猫トレさんたちの隣で見ましょうよ」
俺たちが近づいて慌てた様子の彼女たちに苦笑を零しながら、俺は声をかけた。
一度見たウマ娘の顔と名前をこの俺が忘れるはずもない。
「や、ジーフォーリアちゃん、シャフラヤールちゃん、タイトルホールドちゃん。久しぶりだね、ファン感謝祭で会ったね」
「ひぇ!?ねね、猫トレさんに名前覚えられてるぅ!?」
「そりゃ覚えるさ、みんな印象深かったからな。場所は譲ってもらわなくてもいいよ、せっかくいい所取れたんだろ?」
「は、はい!その、今日はみんなでレース見に行こうって、初めてで、始発の電車に乗って…!!」
「──────ああ、
「………だな。SSの言う通りだ。せっかくだし一緒に見ようか、今日のレース。間違いなく激戦になるだろうからね」
「あら、いいんですか?有難うございます、猫トレさん。レース展開、色々教えてくださいね!」
タイトルホールドちゃんの言葉に反応したSSの頭を撫でてやりながら、彼女たちと共に観戦することにした。
ウマ娘へのファンサービスであり青田買いの様なもんだ。これが彼女たちにとって良い経験になってくれれば、彼女たちの将来のレースが楽しみになる。
SSにはふんす!と手を払われてしまったが、その尻尾で嫌がっていないことは分かったのでよしとした。
「将来のライバルかな?色んな意味で…いや、入学する頃にはそっちの勝負は決まってるか☆」
「なの。そっちのライバルにはなりえないの。ふふー、今日はよろしくね、3人とも!」
ファルコンとアイネスも見知ったファンたちに笑顔で
憧れのウマ娘が目の前にいるんだもんな、緊張の一つや二つはあるだろう。
俺はアイスブレーキングの供物として3人娘にオニャンコポンを捧げて、そうしてゲート前に集まるウマ娘達の観察に入っていった。
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メジロライアンは、ゲートが口を開けて構えるスタート地点、その芝の上でファンファーレの音を待ちながらも、周囲のウマ娘達…今日のレースを共に走るライバルたちを観察していた。
今日は有マ記念だ。無論、そこに出走するウマ娘は、誰もがとびぬけた実力を持つ英傑たち。
そんな大前提を元に集まるグランプリレースだが、しかし、今日はその桁が違っていた。
(まったく…どこを向いても、子供だって名前を知ってるエースばっかりで、嫌になるな…!)
ファン投票やURAの推薦で今日の出走を決めたウマ娘達…その尽くが強者揃い。
エンジンの調子さえ絶好調なら誰も追いすがれない爆逃げの代名詞、ツインターボ。
振舞いも実力も破天荒、ワープとも評される鬼の末脚、ゴールドシップ。
その強さは観客を退屈させるとまで言わしめた名優、メジロマックイーン。
有マ記念で3年連続3着という恐ろしい記録を持つ伏兵、ナイスネイチャ。
今年シニア級に上がった世代のウマ娘の代表格、常識破りの女帝、ウオッカ。
そして、黄金世代と呼ばれる彼女たち。
激戦を潜り抜けた猛者が3人。
世界レコード保持者である幻惑のトリックスター、セイウンスカイ。
一筋の流星を描くような末脚で全てを捻じ伏せる日本総大将、スペシャルウィーク。
怪物二世とまで恐れられた、不死鳥たるグランプリウマ娘、グラスワンダー。
余りにも。
余りにも名だたる優駿たちが、ゲート前でそれぞれやる気をみなぎらせていた。
(…ウオッカちゃん以外はみんな、長くシニアを走っているウマ娘達だ。…引退レースだって噂も、あながち間違いじゃないな…この、気迫の強さは)
全員がその表情に何かしらの決意を秘めているのが見える。
強い想い。勿論、メジロライアンだってその気持ちでは負けているつもりはない。
だが、だとしても…長くレースを走ってきた彼女たちそれぞれがこの有マにかける想いが、どこか異様さすら感じさせるほど強く感じられた。
そこに、奇妙な疎外感すら感じるほど。
(っ…何を弱気になってるんだアタシは!アタシだって世代のウマ娘だ…日本で初めてクラシック期で宝塚を制したんだ!気持ちで負けてどうするんだ!)
無論、メジロライアンもそれに怖気づくほどおとなしいウマ娘ではない。
今日は勝ちたい。今日だって、勝ちたい。
いや───今日こそ勝ちたい。
何故なら、GⅠ勝利は初めてではないにせよ……メジロライアンは、まだ同世代と走るレースで一着を取れたことがないのだ。
それを阻むのは、常にそのウマ娘。
「……来たね、フラッシュちゃん」
「ライアンさん。……ええ、今日も────よい勝負を。誇りあるレースを」
エイシンフラッシュが、その名の通り輝いて見えるほどの仕上がりをもって、スタート地点に現れた。
観客席から彼女に向けて歓声が上がる。
歴代最高峰とすら評されるこのクラシック世代で、三冠を達成したウマ娘。
彼女への期待は大きかった。本日、これほどのウマ娘達を相手取り、エイシンフラッシュは一番人気を獲得していた。
(…ああ、やっぱり仕上りが
メジロライアンは、エイシンフラッシュの仕上がりがいいことをその佇まいから察し、どれほど注意するべきか、マークの割り振りを脳内で行う。
レースを走るウマ娘にとっては当然の思考と言える。ツインターボはその例から漏れるかもしれないが、基本的にウマ娘は、そのレースで共に走るウマ娘、その中で誰をどれほどマークするか、牽制を仕掛けるか、考えながら走るものだ。
例えば先日のチャンピオンズカップでは、そのマークの配分のほどんどがスマートファルコンに向けられた。さらにさかのぼりジャパンカップやベルモントステークスなどでは、やはりマジェスティックプリンスへの注意をそれぞれ多く割いた事だろう。
だが、一人のウマ娘だけに注意を払うだけでは勝利に近づけない。
どのウマ娘が危険であるか、それをレース前に読み取り、適切にマークしてこそ、勝利は近づくのだ。
メジロライアンは、その推理をある程度の概算として脳裏に落とした。
エイシンフラッシュに50%、同じメジロ家で今回のレースへの意気込みを知っているマックイーンに20%、差しウマ娘が多いためその中でも牽制に特化したグラスワンダーに10%、あとはそれぞれ適宜に…と言ったところか。
これが牽制を得意とするセイウンスカイ、ナイスネイチャ、グラスワンダーであれば、更に精密に1%刻みでどのウマ娘に圧を、トリックを掛けるか考えているのだろうが、メジロライアンはその末脚でブチ抜くのを得意とするウマ娘である。
おおよそ、そのように今日のレースのマーク対象を考えていた。
そして。
その計算は、彼女を見た瞬間に霧散した。
「────────っ」
「………ヴィクトール、さん…!」
「ライアン先輩、フラッシュ先輩。…………今日は、私が勝ちます」
ヴィクトールピスト。
彼女が、一番最後に、ゲート前にやってきた。
去年のホープフルステークスでGⅠ初勝利を達成し、しかしその後クラシック期ではライアンと同じくフラッシュらチームフェリスに辛酸を嘗めさせられ、海外遠征のニエル賞で領域に目覚めたが凱旋門賞を惜しくも逃し…今年、未だGⅠの冠を被れていない、不遇とも評される彼女であったが。
しかし。
今日のヴィクトールピストは、違った。
まるで彼女の周りの空気が震えているかのような圧。
冷静に、リズムを刻む尻尾。
眼差しが、誰よりも強く、その瞳の中に火傷しそうなほどの熱を込めて。
ああ、そうだ。
メジロライアンは、こういう顔をするウマ娘を知っている。
それは、かつて日本ダービーで見た。
エイシンフラッシュと、アイネスフウジンが、こんな顔をしているのを。
かつて、自分自身も同じような状態になった。
宝塚記念で、己の勝利への渇望が、自信が体に溢れていたあのレースの時に。
そして、今日。
ヴィクトールピストが、その状態に至っている。
─────ヴィイちゃんへのマークを絶対に。
今日のマーク対象をエイシンフラッシュからヴィクトールピストへ脳内で振り分け直し、メジロライアンは深呼吸を一つ入れる。
まったく。
シニア級の強敵が。
世代の
これほどまでに集まってきて、厳しいレースにしてくれちゃって。
(……まぁ、だからこそ面白いんだよね、レースって)
そして、そんな過酷なレースでも楽しめる心持も備えるほどに成長したメジロライアンが、ファンファーレを聞き届ける。
他のウマ娘達も、表情を引き締め直して、ゲートに入っていく。
今日のゲート入りは順調だ。ツインターボも、セイウンスカイも、ゴールドシップも、大人しくゲートに向かっていく。
待ちきれないのだと。
心が、今日と言うレースを待ち望んでいたのだと。
このレースを走るために、私たちは、今日まで己を磨き上げてきたのだと。
そんな奇妙な確信を抱えながら、ゲートに収まっていく稀代の優駿たち。
さあ、夢のレースを始めよう。
『年末の大一番、今年のウマ娘の頂点を決める有マ記念………スタートですっ!!!』