────────眠れない。
「…………」
随分と、寮の部屋の天井を眺め続けている。
目を閉じたって、眠気は一つも訪れない。
幻想の羊をいくら呼んだって、今夜の私を眠らせるには至らないだろう。
「…………トレーナー、さん…………立華、勝人…さん……」
有マ記念を走り終えた、その日の夜。
エイシンフラッシュは、寮の自室で、眠れぬ夜を過ごしていた。
隣には静かな寝息を立てているスマートファルコンがいる。
彼女を起こさぬように、小声で、口の中だけで音を生まずに呟いた、大切な人。
体はレースを走った疲労でいっぱいなのに。
心は、次から次へと溢れてくる知らない想い出と、その中にいる彼の事で頭がいっぱいで、眠れなかった。
「…………」
思い返せば、兆候はあった。
去年、ホープフルステークスで敗北してから、ふと見るようになった、既視感。
前の世界の記憶を思い出した今だからこそ、あれがそうだったのだとわかる。
きっと、中山レース場で敗北を喫したときに…前の世界の私の、想いというか、魂のような物が、私の中に入ったのだ。
それが、昨日の有マ記念で萌芽した。
「…………」
想い出すのは、トレーナーさん…立華勝人と、ハルウララが共に歩んだ三年間。
それと何度も練習を共にした、私。
ウララさんと共に鍛え、共に笑い、そして共に走った有マ記念。
あのレースで、私は、彼女と三バ身の差を詰め切れずに、敗北した。
─────その先からの記憶は、ない。
彼の…新人である立華勝人が、ハルウララをスカウトしたころの自分の記憶から。
3年後、有マ記念で彼女と勝負をするまでの記憶。
その3年間の、存在しないはずの懐かしい記憶が、私の中に生まれている。
─────どうして?
……などというありふれた己への問いかけは、もう飽きた。
受け入れるしかないのだろう。
私は、この世界とは別の世界の、私の3年間の記憶を引き継いだ。
きっと、有マ記念で走って……あの、第二の領域に目覚めたからだ。
あの領域は、私の中にいた前の世界の私が使っていたものだ。
私の中に、ホープフルステークスで負けて以来、前の世界の私の魂があって…それが、有マ記念の第二領域への目覚めで、萌芽したのだろう。
そんな、自分には似つかわしくない、根拠も理論も何もない考えに、しかしすんなりとそれが腑に落ちた。
私の事はもう受け入れた。
─────どうして?
だから、その問いかけは自分に対してではない。
私の記憶は、分かった。どうしてかは知らないが、私が過去の私の因子を継承したことは、もう、分かった。
受け入れるしかない。
気のせいでは済まないが、しかし生活に支障が出るようなものではない。ifの私の、3年分の物語を読んだとでも思えばいい。
─────どうして?
その問いかけは自分に対してではなく、他の誰かに対してのもの。
ハルウララ…への、ものでは、ない。
この世界でのハルウララは、私の良く知るハルウララであり、そして前の私の記憶のハルウララではない。
初咲トレーナーと共に、ダートを走るウマ娘だ。
前の世界でも立華トレーナーに磨き上げられ、ダートでも好走をしていたが、あの頃の彼女とは違う。
領域が違う。勝負服が違う。見ている夢が違う。
そして、適性が違う。
この世界の彼女は、芝を走れない。
別人なのだ。記憶を継いでいるような気配も一切ない。
─────どうして?
夏休みのトレーナーさんの狼狽の理由が、分かった。
ああ、あの人は間違いなく、あの3年間の記憶を引き継いでいるのだ。
記憶を継いでいる……それはきっと、この世界で、彼と、私だけだ。
昨日のレースの後、前の世界で有マ記念を共に走ったセイウンスカイやグラスワンダー、他にもハルウララと共にトレーニングした皆に、感づかれぬように確認してみたが、全員が前の世界の事は一切覚えていなかった。
ただ、走ったレースの、その最後に懐かしい感じがした…と、言うだけだった。
舞い散る桜を、先頭を走っていたハルウララの幻影を、覚えていなかった。
─────どうして?
ああ、考えがまとまらない。
レースの疲労は勿論のこと。
眠れない精神的な疲労もあるのだろう。
それでも、やはり、あの人の事を考えると、胸がきゅうと締め付けられるようになる。
─────どうして?
トレーナーさん。
立華勝人さん。
貴方は────ああ、貴方は。
─────どうして?
前の世界の、3年間でも。
この世界の、2年間でも。
明らかに、彼は他の新人トレーナーとは違った。
いつ覚えたのかと首をかしげるほどの豊富な知識。
初対面のはずのウマ娘でも、言葉を、態度を適切に選べる貴方。
どんなベテラントレーナーよりも深い経験を感じさせる、その瞳の色。
─────どうして?
私の記憶の中の3年間で。
ハルウララを有マ記念に出走させ、勝たせるための前準備を……メイクデビューが終わった直後から進めていた貴方。
私が共に歩んだ2年間で。
催眠術で、学生時代を『覚えていない』と言い切った貴方。
─────どうして?
貴方は、何度、この3年間を繰り返しているの?
どれほど、この時の牢獄を繰り返しているの?
貴方はそれで、辛くないの?
─────どうして?
─────どうして?
─────どうして?
─────どうして、貴方はそれでも、笑顔でいられるの……?
────────ジリ
たん。
………目覚まし時計が鳴りだす瞬間にその頭を叩き、音を止める。
毎日のルーティーンだが、一睡もせずに目覚まし時計を叩いたのは初めてだ。
朝の5時。
今の私は、随分と酷い顔をしていることだろう。
しかし、私は起きなければならない。
行かなければならない。
この一晩、悩みに悩み抜いた。
私の中で答えは出した。
後は、あの人の答えを聞くだけ。
そして、私は────────
────────────────
────────────────
「………心配だな、フラッシュ…」
俺は朝のチームハウスで、コーヒーを飲みながらつぶやいた。
昨日の有マ記念、我がチームフェリスのエイシンフラッシュは、惜しくも2着となった。
レース中の反省点もいくつかあるにはあるが、それでも彼女は全力で走り抜けていた。
領域をネイチャに潰されたのち、負けん気からか─────第二領域に目覚めたことには、心底驚いた。
あれに入ったことで、最後は一気に位置を上げて……しかし、ヴィクトールピストもまた第二領域に目覚め、加速し、フラッシュは及ばなかった。
ああ、昨日のレースは伝説になるだろう。
あの場で新しい領域に目覚めたウマ娘が何人いたことか。
ミックスアップ、とでも表現できる…周りのウマ娘が覚醒することで、己の限界を超えてくる彼女たちは、やはり全員が素晴らしい素質を持ったウマ娘だ。
最後の直線で、俺は全力でフラッシュを応援していた。
最後、彼女がツインターボを抜いて集団の先頭に立ち……しかし、その大外から来ていたヴィクトールピストに気付いたのは、ゴールの直前だった。
悔しさが残る決着に……しかし、あれほどの走り、あれほどのタイムで駆け抜けた、その全員を褒め称えるべきであろう。
今後はレース中の位置取りや戦術についてさらに磨きをかけていく必要があるな。来年の課題としよう。
さて、話題は戻って、フラッシュの事だ。
彼女はこれまでのレースでも初めて、アクシデントではなく実力でレースに敗北した。
そのせいもあってか、昨日は随分と悔し涙を零していたようだ。
レース後も言葉少なと言った感じで…本当に憔悴しきっているのが見て取れた。
大舞台で、もう少しで勝利がつかめるという所だったのだ。悔しい気持ちもわかる…のだが。
だが、それにしても随分と、レースと終えた後の彼女の様子はおかしかった。
ライブには送り出したが、ステージの上の彼女の笑顔はぎこちないものだった。
その後、寮に送り届けるまで…ショックもあっただろうが、それにしたって随分と俯いていた。
ファルコンもアイネスもかなり心配をしていた。負けてすぐの事なので、何と声をかけるべきか悩んでいるようだったが。
……レースを走っている以上、負けることはある。
それはファルコンだって、アイネスだって味わったものだ。レースに絶対はないのだから。
どこかでそれとは向きあい、折り合いをつけていかなければならない。
早い段階でそれを熱意に変え、切り替えていきたい。
フラッシュはそのあたりを引きずらないような印象を持っていたが……今日、マッサージを終えたらじっくり時間を取ってもいいかもしれないな。
彼女の心をよくケアしてあげよう。
『…おはよう、タチバナ。昨日はお疲れ様』
『ああ、SS…おはよう。お疲れさま。まぁ、一番疲れたのはフラッシュだからね、彼女をしっかり労わってやろう』
『…………そう、ね』
俺は続けて出勤してきてチームハウスに入ってくるSSに挨拶を返し、昨日のレースの件、フラッシュの話を挙げる。
もちろん彼女にも、フラッシュの脚を、そして気持ちの切り替えについて昨日の時点で話をしていたのだが。
しかし、妙に歯切れが悪い。そういえば昨日もそうだったような?
『…ん、SS、フラッシュの事について何かあったかい?…俺も気付いてないようなことが』
『あー……まぁ、あるにはあるんだけど、ね。スピリチュアルな話になるし……それに、これはたぶん、私が口を挟んでいいものじゃないと思うから……』
煙に巻くような物言いで、SSが自分のマグカップに味噌汁を注ぐ。
それを聞いて俺は思わず首をひねった。
彼女がスピリチュアルな表現をすることは知っているし、それだってこれまでもよくアドバイスとしてもらっていた。アイネスの件だってあるし、俺自身もそういった表現、存在を信じないわけじゃない。
フラッシュにもし何かあれば、それは聞いておきたい所なのだが。
『SS、どんな話でも構わないよ。前にも言ったじゃないか、俺が気付いてなさそうなことがあれば言ってほしいって。言い過ぎたって怒らないよ』
『……違うのよ。貴方に言っちゃいけない事だと判断したから言わないの。でも、そうね……きっと貴方とあの子は、試されるわね。……私は貴方たちを信じるだけよ』
ずずー、と味噌汁を啜りながらSSが重ねて言葉を紡ぐ。
ううん。何を言われているのかさっぱりわからん。
レースに負けてしまったフラッシュのメンタルケアと、レースの反省点についても聞いたりしたい所なのだが……と、更に首を傾げ続けていると。
がちゃり、と。
チームハウスのドアノブが回される音がして。
扉が開けられ……そして、その先にいたのはエイシンフラッシュだった。
「………!?フラッシュ!?どうしたんだ、その顔…!!」
「……トレーナーさん……」
俺は扉を開けて室内に入ってきた彼女の顔が、余りにも生気のない顔であったことに驚愕した。
一睡もできていないのだと容易に察せる、憔悴しきったその表情。目元には化粧で隠し切れない隈が見える。
悔しさで眠れなかったのか…いや、それでもここまでにはなるまい。
どうした?何があった!?
「……失礼します。トレーナーさんと、話したいことがあって……」
「ああ、勿論話には付き合うが…とにかく、ソファに座って…ああ、辛かったら横になってもいいからな!?それとも何か飲む!?」
「大丈夫、です。コーヒーをください。………サンデーさん」
「………おォ」
「トレーナーさんと、二人きりで話したいんです」
「……え?」
「……わかった、席を外す。タチバナ、アタシはオキノの所に顔出してくるからよ、ほとぼりが冷めたらLANEで呼べ」
そうしてソファに座るフラッシュだが、真剣な表情のまま…俺と、二人きりで話したいと切り出した。
昨日のレースに関することならSSも同席してもいいと思うのだが…しかし、俺の動揺とは裏腹に、SSは彼女の言葉に心底同意と言った様子で、マグカップをもってチームハウスを出ていこうとする。
わからない。何が、起きている?
「……フラッシュ。
「…………有難うございます、サンデーさん」
最後、すれ違いざまに二人が小声で何か話したようだが、フラッシュの為にコーヒーを淹れている俺の耳では聞き取れなかった。ウマ娘だからこそ、僅かに聞き取れるような微かな音。
そうしてSSがチームハウスを出ていき、部屋の中には俺と憔悴したフラッシュ、そしてオニャンコポンだけになった。
俺はソファに座った彼女の前に、ミルクと砂糖をマシマシにしたコーヒーを置いて、一度息を整えて彼女の正面の椅子に座る。
落ち着いて、改めて彼女の話を聞こうと────────
「……トレーナーさん。隣に来てくれませんか?」
「っ……ああ、わかった」
しかし彼女からでた言葉はお願い。俺に、隣に座ってほしいと。
唐突なその内容には驚いたが…しかし、彼女は俺の愛バだ。隣に座ることに何の不都合もない。
もしかすれば、疲れ切っていて心細いのかもしれない。俺は椅子から腰を上げて、彼女の隣に移動し、ソファに腰を下ろした。
ぎし、と俺の体重でソファが揺れ、フラッシュの体勢が僅かに崩れ、俺に寄り掛かるようになる。
「…座ったよ、フラッシュ。……本当に大丈夫か?昨日、悔しくて眠れなかったのか…?」
「……いえ。悔しかったのもあるのですが……どこから、話したらいいものか……」
首を垂れたフラッシュを、俺は横目に見る。
前髪が目にかかり、その表情を隠していた。
彼女が今どんな瞳をしているのか、横顔から読み取ることはできない。
様子が余りにもおかしい。
俺は……俺は、今の彼女に何をしてやれる?何が出来る?
ニャー。
そうして僅かな無言の間に、オニャンコポンもまたそんな様子のエイシンフラッシュを心配したのか、彼女の太ももにひょいっと飛び乗って、見上げるようにフラッシュの顔を見る。
フラッシュはそんなオニャンコポンに、ふ、と零すように息をついて、左手で頭を撫でた。
右手は、俺の服の裾を掴んでいた。
まるで、何かにすがるようなその手。
まるで、逃がさないとでもいうようなその、手。
「……ふふ」
ごくり。
喉を鳴らした。
フラッシュの口から零れた微笑みに……何故か、そんな、気持ちを。
愛バに感じてはいけないような、その感情を。
恐怖を。
感じてしまって。
そして、続けて彼女の口から零れた言葉は。
俺の心臓を鷲掴みにするのに十分な、それだった。
「……
どくん。
大きく、俺の心臓が跳ねる。
今、彼女は、なんて言った?
「きっと、オニャンコポンがいたら……
どくん。
その名前に、再度、心臓が跳ねる。
破裂しなかったことを褒めてやりたい。
それほどに、衝撃的な言葉だった。
「……フラッシュ、君は……まさか……」
「……はい。……前の世界の、3年間を、想い出しました。有マ記念、ウララさんと共に走った記憶を────」
────────────────
────────────────
立華勝人は、その瞬間の衝撃を恐らくは一生忘れないだろう。
今後、何度世界を跨ごうと忘れられるはずもない。
なにせ、初めての経験なのだ。
過去の記憶を引き継いでしまったウマ娘がいる、などということは。
…感づかれたことは、何度かあった。
マヤノトップガンを担当していた時などは、自分の言葉の端々から『わかった』彼女に、それを指摘されたこともある。
己の会話の端々の隙が原因であり、しかしそれだって彼女も半信半疑であって、また聡明な子だったことからその場で明かしたこともあるが、それとはまた事情が違う。
マヤノトップガンやその他、感づいたウマ娘たちは……立華が何度も繰り返していることに察しはすれど、前の世界線の記憶を引き継いだりはしていなかったのだ。
しかし、今。
目の前に。
間違いなく、過去の3年間の記憶を思い出したであろう、ウマ娘がいる。
「…………フラッシュ……」
「……第二の領域に、目覚めたのが原因だと思います。有マで、ウララさんに追いつくために入った私の領域……あれを、この世界で私も使ったから……だと、思います。なぜ、そうなったかはわかりませんが……」
「……………フラッシュ、すま───」
「───謝らないでください。トレーナーさんは、何も悪くない、でしょう?」
「っ………」
フラッシュの言葉で、間違いなく彼女が過去を思い出したと悟った立華は、どうしようもなくやりきれない思いと共に、思わず零しかけた謝罪の言葉を、しかしフラッシュの言葉によって遮られ、息を呑む。
言葉を失う。
昨日のレースの後、様子がおかしかったことは理解していたが…しかし、まさか、彼女がそんなことなっているとは思いもしなかった。
当然と言える。これまでの世界線でも、一度もなかった異常事態だ。
この世界線、それ自体がイレギュラーばかりの不思議な世界線だったが、しかしここまで……自分以外に記憶を引き継ぐようなウマ娘がいるほどの異常な世界だとは思っていなかった。
立華は、悔やんでいた。
己という存在のせいであることは間違いないのだろう。
有マ記念に何よりも思い入れがあったのは俺だ。
であれば、フラッシュにそんな記憶を思い出させてしまったのは……恐らくは、自分のせいだ。
そんな、この世界に生きるフラッシュには不要の記憶を思い起こさせてしまい…負担をかけてしまっていることに、死にたくなるほどの慚愧の念を抱えた。
だが、どうしようもない。
彼女は思い出してしまったのだ。
前の世界線のフラッシュが、この世界線に何を託して記憶を継承させたのかはわからない。
わからないが────俺は、彼女に、何をしてやれる?
「……トレーナーさん。幾つか、お伺いしたいことがあります」
「………わかった。君に、嘘はつかない。……何でも聞いてくれ。それが今、俺に出来ることだ…それしかできない……」
「………まず一つ。トレーナーさん。貴方は、前の世界でも…余りにも優秀でした。恐らくは、既に何度も3年間を、繰り返していたはずです。……どれだけの時を繰り返していたのですか?」
きゅう。
エイシンフラッシュの、立華の裾を掴む手に、力がこもる。
問いかける側もまた、どのような答えが返ってくるかわからない恐怖に押しつぶされまいと。
そして、問いかけられる側もまた、どのような答えを返すべきか、悩みながら。
「……正確な数は覚えてない。けれど、少なくとも300回以上は繰り返しているのは確かだ。毎回、ウマ娘の誰かの担当になり…そして、3年を共に駆け抜けて、そのタイミングで次の世界線に飛ばされていた」
「ッ…!………そん、なに……」
「ああ。…その内、直近の100回以上は、ウララと共に過ごした。彼女に、有マ記念の勝利の景色を見せるために……俺は、何度も、繰り返していた……それが達成できたのが、君の記憶の中にある3年間、だと、思う…。……君の知るウララは、有マ記念を…」
「…ええ。ウララさんは、有マ記念を一着で駆け抜けました。レコードタイム、2分27秒7で」
「……その時計で間違いない。ああ、この世界の一つ前の、それだ…」
立華勝人は、己が顔に手を当てて、天井を見上げた。
そのタイムを忘れるはずがない。
奇跡の結晶、ハルウララがあの有マ記念で叩き出した、レコードタイム。
その数字が、エイシンフラッシュの口から零れることがあろうとは思っていなかった。
黙っていた己の秘密が明かされたことによる恐怖と、己が何度も世界を繰り返している、いわばチートのような存在であったことを黙っていた罪悪感と……他にも、言葉に表せない様々な感情がごちゃまぜとなり、天井を仰ぐしかなかった。
「…トレーナーさん。次の質問です。…貴方は、この世界で、選抜レースを終えた後の私に声をかけてくれました。あれは………前の世界の私を、知っていたから、ですね?」
「っ………」
立華が言葉に詰まる。
その問いに答えることに怯える。
彼女の様子がおかしかったことに気付いたのは、勿論、これまでの世界線での経験があったからだ。
だが、それを素直に伝えることが……少し、怖い。
しかし。
さっきも言ったように、俺は、もう二度とウマ娘達に嘘はつきたくなかった。
隠していたことを、彼女が負担を伴う形で思い出してしまったのであれば、今ここで自分の出来る最大の誠意は、嘘をつかない事だと考え直した。
その答えで、彼女が自分を見限るようなことになったとしてしまっても。
深呼吸を一つしてから、立華が答えを口にする。
「……
「────────そうですか」
「………………」
立華による答えに、エイシンフラッシュが意を得たと頷く。
いつの間にか、立華の裾を掴む彼女の手の震えは止まっていた。
この立華の回答に、彼女が何を想ったのか。
前髪が彼女の表情を隠し、立華には窺い知ることはできない。
「……最後の、質問です。トレーナーさん、貴方は……」
「………」
「……貴方は、なぜ、そんなにも世界を繰り返す中で………笑顔を、見せられるんですか?」
最後と前置きして、エイシンフラッシュが問うた質問は、立華自身の事。
なぜ、そんな運命の中でも、笑顔を見せていられるのかと。
「…1000年。それほどの時間を過ごしていたはず…けれど、貴方は3年で時が巻き戻る。その先に進めていない。空しくは、ないのですか?狂いそうになりませんか?……私には…私には、分かりません。そこだけは、どれだけ考えてもわからなかった。貴方はなぜ、笑顔でいられるのです……?」
「……フラッシュ……」
彼女の表情を隠す前髪の奥。
頬を伝って、一筋の涙がスカートの上にぽとりと落ちる。
一晩中考えた。
恐らくは相当の時を、出会いと別れを繰り返してきた立華勝人が、しかし、狂わずにいられる理由。
笑顔で前を向ける理由が、分からなくて。
しかし、その質問の内容には、立華勝人は悩むことはなかった。
彼の中で、そんな問いは、ループを繰り返し始めた時点で、はっきりと答えが出ているからだ。
「
「…?……私達、の?」
「ああ。君たちの…ウマ娘達のおかげで、俺は狂わずにいられる。俺はね、ああ、前にも何だかこんなことを君に言った気がするけど……ウマ娘が大好きなんだ。君たちウマ娘が、全力でレースを走って、ぶつかり合って…勝って、笑顔を見せる姿が。負けてしまっても、その悔しさをバネに成長する姿が。ライバル同士が、素敵なレースを繰り広げる姿が。勝ちたいという想いが、奇跡を起こす、そんな君たちが……大好きなんだ。だから俺は、いつまでも、トレーナーと言うこの仕事を続けて居られる」
「…っ!けれど、空しくはないのですか!?私達ウマ娘を指導しても…3年で、別れてしまうのですよ!?悲しくはないのですか!?残されたウマ娘の気持ちを、考えたことは…ないのですか!?」
そんな立華の答えに、しかしエイシンフラッシュが声を大きくして、さらに問いかける。
簡単に答えるその内容だが…そこには、3年間を担当した愛バと別れなければならないという事実が内在している。
それを、全く無視できるほど、この立華と言う男が氷の心を持っていないことは、もうわかっている。
貴方はそれが、辛くはないのですか?
空しくは、ないのですか?
悲しくは、ないのですか?
だが、そんな涙を伴う問いかけでも、立華の答えは変わらなかった。
「
「────────え?」
その、新しい事実を受けて。
エイシンフラッシュが顔を上げ、立華を見た。
それは、目元を涙に濡らし…しかし、心底驚いたような、そんな表情で。
「……では……では、今、この、トレーナーさんも…3年で、いなくなることはない、ということ……ですか?」
「ああ。これまでのループの経験から言えば、間違いなくそうだろうね。俺のこの意識は、君達とも歩み続ける。…また分かたれていくのかはその時にならないとわからないけど。というか、残る側の意識でループの瞬間ってわかるのかな?いやわかる気もするな…前の世界線で残る側の俺、なんか振り向いてたもんな…?」
すっかりと、自分の想いを…これまで殆ど誰にも零してこなかった、ウマ娘に対する想いを吐露することで、立華にもわずかばかりの心理的な余裕が生まれてきた。
破れかぶれと言ってもいいのかもしれない。
この後、エイシンフラッシュからビンタでも受けて、見損なったとでも言われるようであれば、もうそれを受け入れて、でもメンタルケアはSSに任せて彼女の今後の負担にはならない様にしよう…と、後ろを向きすぎて一周して前向きになったような、そんな心持となっていた。
「…………………」
「…………………」
長い沈黙。
先程淹れた珈琲から立つ湯気がいつの間にか消える程度の、短くも長い時間をもって…そして、不意に。
「…っ。フラッシュ…?」
「……トレーナーさん」
そっと。
フラッシュの手が、立華の頬にあてられて。
そうして立華が横を向けば、そこには、とても優しい微笑みを浮かべた彼女がそこにいた。
まるで、慈愛の女神のようだ。
そんな、これまでにも見せたことのない表情をするエイシンフラッシュが、言葉を続ける。
「……意地悪な質問をして、ごめんなさい。…トレーナーさん、私は、世界を繰り返してきた貴方を、否定はしません」
「……フラッシュ、それは……」
「そして、この世界で、私を最初に選んでくれたことを、嬉しく思います。それがたとえ、前の世界の記憶から来るものであっても」
「……だが、フラッシュ。俺は、君達に…このことを隠し続けていたんだ。そんな俺を、責めたっていいんだ……大切なことを、隠し続けてきた。俺は君達を騙していたんだぞ…?」
「何故です?何も、騙していないではないですか。この世界で、思い悩む私を助けてくれました。同じく悩んでいるファルコンさんも、アイネスさんも…貴方は、助けたいと思って、掬ってくれたはずです。それは、本心ではなかったというのですか?」
「っ、いや、そんなことはない…!これまでの記憶があるという前提にはなるけど、俺は君たちの事を知って、心配で……ああ、心から、掬ってやりたくて。そして、君達が全力で走って、勝つ姿が見たくて……声をかけたんだ。……それは、嘘じゃない」
「では、騙していないですね。私たちは、貴方に掬われたのですから」
「でも……」
「トレーナーさん」
フラッシュが、もう片手を立華の頬に添えて、両手で包むように正面から見つめあう。
お互いの吐息が触れ合うほどの距離をもって、エイシンフラッシュが強引に言葉を続ける。
「────
「…!」
「貴方と、皆さんと共にいるこの2年間が楽しかった。共にいた、前の記憶の3年間が、楽しかったんです。……この記憶を思い出してから、色々、考えました。3年分の過去の記憶も、前の私の想いも、全てを思い返してみると……ずっと、楽しかったんです。私は、貴方と一緒にいるのを、とても楽しんでいたのです」
「……フラッ、シュ……」
「だから、細かいことを考えるのはやめました。前の私は、有マ記念で破れて、悔しい思いも確かにあった…他にも、色んな想いも、前の私は感じていました。それが世界を跨ぐきっかけになったのかもしれません。けれど……」
けれど。
フラッシュは、自分の前の世界の、3年の記憶について、出した結論を零す。
「
前の自分が、立華へ、ハルウララへ、有マ記念へ、抱えた想いはある。
立華へは、秘めたる恋慕。
ハルウララへは、親友たる友愛と、強いライバル心。
有マ記念へは、敗北の悔しさと、次こそはという闘志。
それら全てを、否定はしない。
────────でも、私は私。
この世界で生きる、三冠ウマ娘、チームフェリスのエイシンフラッシュなのだから。
「だから、トレーナーさんの事も否定しません。これからも、ずっと一緒にいたいです」
「……フラッシュ、でも、俺は…!」
「でも、も駄目です。トレーナーさん…いえ、
エイシンフラッシュのその言葉と、真っすぐに己を見つめる瞳に、自分の顔が映るのを立華は見た。
吸い込まれそうだ。
俺は、君のその言葉に、甘えてしまっても……いいのか?
こんな俺を、世界の理から外れてしまった俺を、受け入れてくれるのか?
「……いい、のか?」
「はい。…先ほど、貴方が3年の後もいてくれる話を聞くまでは、どうしようかと思っていました。貴方と別れるのが怖くて…本当に、怖くて。だから、その答えを聞くのが震えるほど怖かった…貴方が笑顔でいられる理由を聞くのが、怖かった。一睡もできないほどに」
「……」
「けれど、お話を聞いて笑顔の理由が理解できました。ここに至った貴方も、3年で世界を跨いでしまう貴方だけではなくて、その先も歩み続ける貴方がいてくれるのならば……私は、やはり、今ここにいる貴方と共に、ずっと、これからも歩んでいきたい。共に、夢を駆けていきたいです」
「……」
受け入れてくれた。
その事実に、立華は、いつの間にか涙を零していた。
拭うことも忘れて、はらはらと瞳から零れる涙は、頬にあてたエイシンフラッシュの手に落ち、雫の跡を作る。
これまでの長い長い永劫の旅路の中で、初めての、同じ経験をした存在。
そんなエイシンフラッシュが、己のこれまでの歩みを、肯定してくれたことに。
魂が、涙を流していた。
「……フラッシュ……俺は、君と、これからも……一緒に、歩んでいいのか……?」
「はい。私は、貴方の愛バですから」
「……昨日みたいに、負けてしまうことだってあるかもしれない。何回も世界を繰り返しても、俺は大したやつじゃないんだ……絶対にはなれない。また君を、悲しませてしまうかも、しれない…そんな俺で、いいのか?」
「はい。私は、貴方の愛バですから」
「……俺は、チームフェリスのトレーナーだ……君だけじゃなくて、ファルコンも、アイネスも、SSも…これから新しく入るウマ娘にも、平等に接さなきゃいけない……君だけを、見ることはできないんだ。専属トレーナーだった前の世界線とは違う……それでも、いいのか?」
「はい。─────私は、貴方の愛バですから」
「……っ…!……フラッシュ…!!!」
ぎゅう、と。
立華は、目の前の愛バを抱きしめていた。
エイシンフラッシュの、その言葉に、その瞳に、己への全幅の信頼が感じ取れて。
己の存在を、秘密を知ったその上で、受け入れてくれて。
それが嬉しくて……縋りつくように、抱きしめていた。
「……すまない、こんな俺を、受け入れてくれて…!君の記憶を、俺の存在を受け止めてくれて…」
「謝らないでください。何度も言ってるじゃないですか…トレーナーさんは、悪くありません。誰も困っていないのです。貴方の秘密ももちろん、私が口外することはありません」
「…そう、だな。有難う…ありがとう、フラッシュ。ああ、夏のころにも伝えたが、改めて思う…君たちが、君が、俺の担当になってくれて…よかった」
「ふふ。光栄です………トレーナー、さん……Ich……liebe……di……」
お互いの体温を、お互いの体で感じながら、エイシンフラッシュは多幸感で脳を溢れさせていた。
昨日の夜、一睡もできなかったあの闇の中で、ずっと考えていたのは、彼との別れ。
3年でまた彼がループをして、別れてしまうのではないかという恐怖。
それが、無いということが分かって。
そして、自分の想いも伝えられた。
彼の事も、受け入れるという気持ちを伝えて、それに喜んでくれた。
ようやく、エイシンフラッシュの悩みはすっかりと消えたのだ。
今後も、彼と秘密を共有しながら、歩んで行ける……そんな、独占欲のような感情と共に、昨日までの深い悩みがすっきりと晴れたことに絶大な多幸感が生まれて。
その結果、母国語で零れたその想いを呟き切ることなく、エイシンフラッシュは─────
「……あ、すまん!つい、興奮して抱きしめちまった……それに、涙で手も濡らしちまって、悪い…」
「────────」
「……ん?フラッシュ?えっと…?」
いつかの夏の様に、つい愛バを抱きしめてしまったことに気付いた立華勝人は、その体を離そうとして…しかし、それを拒むようにエイシンフラッシュの腕に力が入っていることに気付いた。
離れようとしない。
それでも、ああ、服の上からとはいえここまでの密着はまずいと体を離そうとしたところ、それに引きずられるようにしてエイシンフラッシュが己の体にのしかかってきたため、立華は驚いた。
「…ん、フラッシュ、その?」
「────────」
どれだけ立華が体を後ろへ倒そうとも、密着したフラッシュが離れてくれない。
そのままソファに押し倒されるような形になる。
む。
これはまずい。
立華は、大切な愛バたるエイシンフラッシュが
「………すぅ……」
己の耳のすぐそば、エイシンフラッシュの口元から静かな寝息が聞こえてきたことに気付いた。
ああ、そうか。
あまりに衝撃的な会話となってしまい忘れていたが、恐らく、彼女は昨日の夜ほとんど眠れていなかったのだ。
それが……こうして、人の体温を感じて、安心したことで眠気が襲ってきたのだろう。
立華は、そう理解を落として、ツボを押そうとする手を止めて……そのまま、もう一度だけ、腕の中の愛バを優しく抱きしめる。
「……フラッシュ……ありがとうな、本当に……」
感謝。
謝りたいと感じる、だからこその感謝。
立華は、脳裏に溢れるその気持ちを小さく言葉に零し、いたわる様に腕の中に抱える彼女の、黒曜石のような髪を撫でる。
こんな情けない俺を、理外の運命に晒されている俺を……受け入れてくれて、ありがとう。
これまでの世界線でも一度もなかった、同じ境遇を抱えてしまった者同士の、奇妙な縁に尊さを感じて。
離れたくない。このまま、ずっと抱きしめていたい。
そんな、トレーナーらしからぬ思いも僅かに芽生えて。
しかし。
ニャー。
ふと、エイシンフラッシュの背中に飛び乗ってきたオニャンコポンと目が合った。
その顔を見て、先ほどまでの緊張や安堵といった、ごちゃまぜになった大きな感情が一気に霧散していった。
「……ふふ、そうだよな。俺はトレーナーなんだから。何考えてんだ、ったく…」
そうだ、何やってんだ俺は。
いかに大きな秘密を共有した仲とはいえ、この子は学園のウマ娘で教え子だ。
何トチ狂ってるんだ俺は。余りにも急な出来事で気が動転でもしてるんじゃないか?
こんな気持ちに少しでもなったことをフラッシュが知れば、それこそ愛想をつかされてしまう。
それはとても嫌だ。きちんとした距離感を保たなければ。
改めて、立華はエイシンフラッシュから腕を離し、彼女の腕をそっと、ゆっくり、起きないように慎重に解いていく。
フラッシュの無意識の抵抗なのか、腕から抜け出すのに随分と苦労したが、何とか彼女の腕の中から脱出し、ソファにフラッシュだけが横たわり眠る状況に持ち込むことが出来た。
これでよし。
あとはSSを呼んで、保健室まで運んでもらい、彼女にはよく眠ってもらおう。
寝不足はウマ娘の天敵だ。夜更かし気味になってしまうとレースのやる気が下がるからな。
立華はスマホを取り出し、SSにLANEを送り、チームハウスに戻ってきてもらうように連絡を入れる。
二人きりのこの時間が終わってしまうことに、奇妙な寂しさを感じながら。
─────エイシンフラッシュとの間に、かけがえのない絆を感じたひと時だった……。
余談
今後フラッシュは後方理解ある彼女面となります。
まだ恋のダービーは続いていくのでご安心。クソボケだからね。
そして東京大賞典ですがナレ死です。すまんやで。
以下、その後の閑話。
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『戻ったわ』
『ん、お帰りSS。すまないね、席を外してもらっていて』
『かまわないわ、オキノと相談したいこともあったし。……フラッシュは、落ち着いた?』
『ああ。ぐっすり寝てる…起こさないでやってくれ。きっと、とても疲れてる』
俺はLANEで呼び戻したSSが部屋に入ってくるのを迎える。
フラッシュはベッドで横になり、オニャンコポンを胸に抱えて穏やかな表情で眠りについているところだ。
この後SSに彼女を保健室まで運んでもらい、今日は一日ぐっすりと休んでもらおう。
フラッシュは有マ記念直後でもあるし、今年中は少なくとも走らせる予定はない。脚のダメージを抜きつつ、年明けまでは一息いれる意味でも、練習は無しの予定だ。
さて、SSにそれをお願いする所なのだが、しかし俺は一点だけ、彼女に確認を取りたかったことがあった。
それは、フラッシュがチームハウスに来るまでの彼女との会話である。
『SS、君は……その、俺の事や、彼女の事が、わかるのか?』
『………そうね』
彼女は今朝、確かに言っていた。フラッシュの様子のおかしさについての指摘と、俺も含めて、二人は試される、という趣旨の言葉を。
それは俺たちの境遇を察していなければ出てこない言葉だ。
彼女がスピリチュアルな表現を好み、また……ウマ娘の魂と言うか、ゼロの領域に至ったことによって俺にはない視点を持っていることは重々承知の上で、咎めるつもりも全くないそれではあるが、しかし確認は取っておきたかった。
『……これから言う事、真に受けないで聞いてくれると助かるわ』
『分かった。誰にも話さないし、俺と君だけの秘密にする』
『OK。…私ね、生物の魂の色が見えるのよ。目を凝らすと、ぼんやりと……上手く説明できないけど、その生き物の魂の形と言うか、色が見えるの』
『……魂の、色か。それ、俺の物はどういうふうに見えてるんだい?』
『貴方は誰よりも特殊よ。色の深みがありすぎる……何重にも重なって見えるようなそれで……そして、私と出会ってからの貴方の発言の節々から、私なりに察したの。貴方、何度も世界を繰り返しているんでしょう?』
『……………その、通りだ』
沖野先輩の所に行ってきた際に飲み切ったのだろう味噌汁が入っていたマグカップを洗面台で洗いながら、SSが俺の存在の確信をついてくる。
振り返らないまま言葉を紡ぐ彼女に、俺は頷くしかできなかった。
『…勘違いしないでね、責めたりしているわけじゃないのだから。むしろ、貴方と言う存在を尊敬しているところよ。そして、繰り返す中で熟成された貴方の知識を、経験を、私は知りたい。立派なトレーナーになるために、ね…』
『…ああ、勿論だ。君はチームのサブトレーナーで、俺にとっても…そう、教え子であって、妹のような存在だと思っている。大した経験でもないけれど、俺の知っている知識は出来る限り、君にも伝えるよ』
『ありがと。その言葉、嬉しいわ。………フラッシュは、やっぱり、前の世界の事を想い出していたのね?』
洗い物を終えて振り返り、そしてソファに眠るフラッシュの頭に手を伸ばし、その黒髪を優しく撫でるSSに、俺は言葉を続ける。
『ああ……俺と共に過ごした、前の世界線の記憶を思い出してしまったらしい。君も、彼女の魂を見て、それを察していたんだな…』
『ええ……有マ記念を走っている最中、ゼロの領域でもない、何か別のそこに入った気がしたのよ。その後、彼女の魂が二重に見えた。きっと、貴方と同じような境遇になってしまったのかも……って、思ったの。けど、同じ境遇にはない私から口出しをするよりも……貴方に任せることにした。貴方なら、フラッシュの事もなんとかしてくれるって、信じられたから』
SSがフラッシュを撫でていた手を止めて、俺のほうへ顔を向ける。
金色の瞳で見据えるように、真正面から見つめてくる
その瞳に映る俺の顔。彼女の瞳の色は深い。吸い込まれそうな色をしている。
彼女の瞳に、俺は、どのように映っているのだろうか。
『…ああ、でも、せっかくこうしてお互い分かり合えているのだから、一つだけ教えて、タチバナ。……貴方は、いつまでこの世界にいられるの?私たちは、いつ、貴方と別れることになるの…?……それだけが、不安よ。心構えだけはしておきたいの……』
『…あー。SS、同じようなことをフラッシュにも聞かれてね。だいたい世界を3年くらいで繰り返すから、あと1年ってところなんだけれど…そうじゃないんだ、大丈夫なんだよ』
続くSSの言葉。泣きそうな声色で紡いだそれに、俺はフラッシュにもしたように、俺の境遇を詳細に説明する。
ループを繰り返す俺だが、コピーのような状況であり、この世界をずっと歩んでいく俺もまた存在していること。
だから、無責任に君達を置いては行かない事。
だから、俺は狂わずにいられるという事。
だから、
『…だから、そんな顔をしないでくれ。次の世界線に行く俺も確かに存在はするけれど、君達と一緒にこの世界を歩んでいく俺も存在するんだ。俺の取れる責任はちゃんと取るからね』
『……本当ね?嘘では……ないわね?……よかったわ……私が、貴方がいなくなった後に、しっかりこの子たちを率いていかなきゃ、なんて覚悟までしていたのだから。……本当に、貴方は罪な男だわ。こんな境遇にされているなんて、神様に何をしてしまったの?』
『ははは。心当たりはないんだけどな…最初のループが始まる前にシラオキ様の像を壊してしまったくらいで。けど、俺は今の境遇も結構気に入ってるのさ。普通の人が経験できないくらい、色んなウマ娘を担当して、一緒に夢を駆けてきたからね。トレーナーとして、これほどの冥利はないよ』
『…きっと、それを笑顔で言えるから、貴方は貴方なのでしょうね。ええ、貴方は魂の髄までトレーナーなのね。……ウマ娘達が貴方に惹かれる理由が分かったわ』
『テレるね』
SSから過分な評価を得られたことで、俺は肩を竦めて苦笑を零す。
確かにまぁ、ウマ娘に対して俺は甘いというか、彼女たちの為になる事なら何でもやってあげたいという想いを抱えて日々を過ごしているが、惹かれるというほどの物でもないと思う。トレーナーなら誰だってやっていることだ。
苦笑を零す俺に、SSもつられて苦笑を零す。空気が緩む気配を感じた。
『…貴方の事、私は誰にも言わないわ。事実として理解はしたけれど、貴方は貴方だものね。これからも、チームのサブトレーナーとして、よろしくね、タチバナ』
『ああ、君の配慮に心から感謝する。これからもよろしくな、SS』
俺の秘密を知り、理解してくれる人がもう一人増えたことで、俺も随分と心に余裕が生まれ、自然と笑顔を零していた。
SSに手を伸ばして握手を求め、彼女もそれに応じてくれた。
彼女の小さい手を握りしめ、その手に感謝の想いを籠めて。
『……さて。それじゃあ私は、フラッシュを保健室に運ぶわね。……着替えさせた方がいいかしら?』
『ああ、お願いしていいかい?そうだな、制服のままだと休まらないかもだし、ジャージに着替えさせてもらえると助かる。少し席を外すよ』
『OK。…この子も、ファルコンとアイネスも、来年はもっと、いっぱい、全力で走れるように…私も頑張るからね』
『ああ。期待してるよ、SS』
俺は椅子から立ち上がり、オニャンコポンに手招きして俺の肩に乗せてから、チームハウスを後にする。
最後、SSが俺の肩、オニャンコポンを見ながらそれを見送る。
フラッシュの事は彼女に任せよう。眠っているときにも着替えをお願いできるのは大変助かる。俺と担当ウマ娘で1対1だったころにはできなかった配慮だ。
扉を開けて、閉めて、チームハウスを後にした。
『────貴女も大変よね、オニャンコポン。そんな体で、こんな男に心を奪われてしまったのだから』
最後にSSが何かつぶやいたような気がするが、扉を閉める音に消されて、人間である俺の耳には入らなかった。