フェブラリーステークス、その当日。
俺は控室でいつもの様にスマートファルコンにオニャンコポンを吸わせ、頭を撫で、心臓の音を聞かせて、メンタルを整えてやっていた。
いつも通りのルーティーンだ。レース前、彼女は甘えるように俺の胸元にそのウマ耳を当ててくる。
「……いけそうか?」
「うん!今日もファル子、絶好調☆!」
心音を聞き終えて顔を離したファルコンの顔はいつも通り、ワクワクとした期待に満ちた顔だ。
これから走るフェブラリーステークス、それに挑むことへの高揚と、そしてその先にあるドバイワールドカップミーティングへの期待が隠せないといった顔。
ダート無敗で世界に挑み、更なる砂の伝説を積み上げようとしていた。
それはこれまでの練習でも見えた一面だ。彼女はとにかく、ドバイへの想いを日々高め続けていた。
しかし、そこに俺は僅かな懸念を持つ。
念のため、それを口に出して釘は刺しておいた。
「ファルコン、次のレースは世界だ。君は世界でも羽ばたける、強いウマ娘だと俺は信じてる。……だが、これから走る今日のレースだって、一切の油断は禁物だ。集中しろよ」
そう、今日このフェブラリーステークスに挑むにあたり、レースへの集中が不足していないかと言う懸念。
先だけを見て、足元を見落としていないかと言う、油断の部分。
そこだけが、トレーナー目線として僅かに気になった。
無論、まったくもってファルコンがこのレースに集中していない……と言うことは、ない。今日に至るまでの彼女との話で、フェブラリーステークスへの想いも十分に持っていることは分かっている。
だが、今、彼女の瞳に映っているレースは何なのか。
そこだけが、長年トレーナーをしている俺の勘に、引っかかっていた。
「大丈夫!!マーチ先輩だって、ウララちゃんだって今日も走るからね…マイルだし、二人とも油断できない相手なのは分かってるから!!しっかり、勝ち切って見せるよ!」
「ああ。パドックじゃどちらも少し調子は抑え気味だったようだけど……それでも、二人ともマイル戦が主軸のウマ娘で、油断なんてしたらすぐに食われる相手だ。気を引き締めて行けよ」
ファルコンの答えを聞き、その言葉が慢心のないものであったことで、俺は頷いて答え、不安を胸の奥に仕舞い込んだ。
ファルコン自身も油断しないと言っている。
今日まで俺が積み上げた地固めは、彼女の走りは、確かに全体のレベルが上がってきたダート界隈でも未だ頭一つ抜け出ていると表現しても問題ないくらい仕上がっている。
最大のライバルであるフジマサマーチとウララであるが、しかし今日はパドックを見た限りでは、調子が完璧と言った風ではなかった。例えるなら、やる気が絶好調ではないというか、そんな雰囲気。
今日の東京レース場、そのバ場は生憎の前日の雨で
トレーナーとしての経験は、勝てると言っている。
トレーナーとしての勘だけが、今の彼女に不釣り合いな警笛を小さく鳴らしていた。
……根拠はないし、今日を迎えた今、俺にこれ以上できることはない。
後は走るファルコンを信じるのみ。信じて応援することが、彼女の勝利の可能性を少しでも盤石なものに出来るのであれば。
俺は、最終直線を走ってくる彼女を、大きな声で応援しよう。
「……よし、それじゃあ行ってこい!頑張って来いよ!」
「うん!!見ててね、トレーナー☆!」
「頑張ってくださいね、ファルコンさん」
「ゴール前で待ってるの!」
「ファルコン先輩、ファイトです!」
「油断はすんなよなァ」
俺はゲート前に向かうファルコンを見届けて、皆を連れて控室を後にした。
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「ふーっ………」
「……マーチ、緊張してっか?」
「……ああ。久しぶりに緊張している。今日を逃したら終わりだ、と直感しているから……だろうな。これほど自分が高まった状態でレースを迎えるのは、長い現役生活の中でも初めてかもしれないな……」
ここはチームカサマツ、今日出走するフジマサマーチの控室だ。
そこで、武者震いで震えようとする体を抑えるフジマサマーチと、それを見守る北原トレーナーの姿があった。
今日に至るまで、積み上げていた。
スパルタという呼称すら生ぬるく感じてしまうほどの猛特訓。
脚へのダメーシも、ベルノライトと北原の尽力で抜けている。
肉体的なピークは、今、この時だと確信できるほどの脚の筋肉の張り。
精神的なピークも間違いなく最高潮。
そして。
今日の枠番は、5枠9番。
スマートファルコンは4枠8番。すぐ隣のゲートだ。
バ場は前日の雨で重バ場と来ている。
期待していた、思い通りの展開を描けている。
願いが、祈りが、想いが奇跡を起こした────なんて、安い言葉が思い浮かんでしまうほど、今日は隼を堕とすにはうってつけのシチュエーションであった。
これで勝てなければ、無理だ。
「…作戦は、分かってるな?」
「ああ。今日、ここに至るまでに積み上げたもの、その全てを繰り出してやるさ。ファルコンに……あの絶対を捉えるために。私は今日、私のできる全てをレース場で出してくる」
既に何度もシミュレーションは脳内で描いている。
なんなら、この控室に来るまでも作戦を実施していた。
先程、控室前にお披露目したパドックで、出来る限りの無気力を装った。
極力尻尾も揺らさずに、心のうちに眠る戦意を隠し通した。
これはレース経験が長いからこそできることだ。これまでのレースで、何人も、調子の悪いウマ娘の様子を間近で見ていたからこそ、それを模倣できる。
果たしてこれがあの立華トレーナーにまで通じたかはわからないが、しかし、やって損はない。
スマートファルコンの隣のゲートに入り、彼女と並ぶまで、この噴火寸前の火口のような戦意は押し殺さねばならない。
溜めて、放たなければ、ならない。
「………今日は、勝つぞ」
「おう、俺もお前が勝つことを信じて疑ってねぇ。今日までお前が走ってきた、カサマツから始まり中央で駆け抜けた、お前の走りの全部……ぶつけてきてやれ!お前を信じてるぜ!!」
「ああ。────────行こうか、
席を立ち、ゲート前に向かうフジマサマーチ。
その背にカサマツメンバーからの応援の声も受けて、漏れそうになる殺気を抑える。
まだだ。
耐えろ。
漏らすな。
この戦意は、過不足なくすべてスマートファルコンにぶつけなければならない。
私は、このレースに
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「ウララ、今日はどんな感じだ?」
「うーん……ぜっこーちょーであるー!!って感じじゃないけど、でも、元気だよ!今日も楽しく走れそう!」
さらに視点は巡り、ここはハルウララの控室。
トレーナーである初咲と共に、レース前の時間を過ごしていた。
ハルウララの表情は、普段と変わらぬ笑顔。
しかしそこに、若干の強がり、気配りが漏れていることを初咲は感じ取っていた。
……本調子に、至れていないのだ。
原因は、間違いなくこれだ、というものはない。
だが心当たりはいくつもあった。これまでの練習でも、身が入り切っていない様子が見えたことがある。
レースに対する情熱と言うか、向き合い方と言うか……モチベーションが、ブレてしまっているような感覚。
ドバイにも選出され、ゴドルフィンマイルへの出走を選択し、それに向けてマイル戦に足を馴染ませてきたつもりである。
世間では
実際に練習での追切のタイムは上々。
砂の上でここまでのタイムが出せるようになったことに、初咲は感動を隠し切れないところもある。
だが。
隼を相手にするには、まだ足りない、という想いは拭えなかった。
レースに絶対はない。だが、絶対にあまりにも近い位置に立つ隼の、相手のミスを期待でもしなければ勝利の道筋が見えないような……そんな錯覚に陥ってしまっている。
そんなトレーナーの不安が、ウマ娘に伝わってしまっているのかもしれない。
すべては自分の力不足だ。どうにかしてやらないと、いけない。
ウララが楽しく、笑顔で走れるように、してやらなければいけないのに。
初咲は、これほど不安な気持ちでハルウララをレースに挑ませるのは初めてだった。
「……ウララ、今日のレース、ファルコンやフジマサマーチがやっぱり一番、強敵だと思う」
「うんうん!!この後、一緒にドバイに行く仲だもんね!!でも、今日も負けないよー!」
「その意気だ。けど……ドバイがこの後に控えてるからな。全力は出すけど、無理はするんじゃないぞ。ウララがケガなんてしたら、俺は嫌だからな」
ぽん、とウララの頭を撫でて、微笑みを作る初咲。
今日のレースは、難しいかもしれない。
けど、勝ちの目がゼロってわけじゃない。もしかしたら、と言う気持ちもある。
それに、今日走る相手……特に、スマートファルコンほどの強者は世界にもそうそういるはずもない。あれが世界最強のダートウマ娘だ。
であれば、あの速さに、圧に気持ちを慣らしておくことで、ゴドルフィンマイルでは心理的優位に立って走れるはずだ。
初咲は、己の葛藤にそのように理由をつけて、あとは自分の愛する担当ウマ娘を信じることにした。
「……時間、だな。頑張って来いよ、ウララ」
「うん!!ウララ、今日も一生懸命がんばるね!!うっららー!!」
レース場に向かって歩んでいくハルウララのその背中を、初咲はいつまでも心配そうに見送っていた。
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「……わかっちゃいるが、荒れてるな、やっぱ」
フェブラリーステークスが開催される東京レース場、そのゴール前。
重バ場となった今日のコース、既に何回もレースが行われていたこともあり、想像通りに最終直線のバ場は荒れていた。
この間のJBCレディスクラシックほどではなく、ファルコンもこの程度の荒れ方なら全力で走る事は問題ないだろうが、しかし無理はさせたくない。
勿論、ファルコンもそこは分かっているだろう。最終直線までにどれだけ後続と間を広げられるかが勝負になる。
他のウマ娘だって同じ条件で走るのだ。ペース配分が肝になるレースとなった。
これくらいのバ場でも勝ちきれるような力はついている。
ドバイがバ場が荒れないという保証はないのだ。どんな状態でも等しくレースは開催される。
勝ちきってほしい所だ。
そうしてゲート前に集まってくるウマ娘達を見る。
スマートファルコンは、かつてベルモントステークスで見せたように、深呼吸をして意識を集中している。
レース前の集中が彼女にとっては何よりも重要だ。
以前話した通り、スタートダッシュが彼女の大きな武器の一つだが、それが万が一にもコケてしまうとすべてが水泡に帰すからだ。
無論のこと、そうならないように対策は打ってある。彼女の試合勘というか、ここ一番での集中力は眼を見張るものもある。
今日も問題はなさそうだ。そうして、他にも出てきたウマ娘を見る。
「……ウララさん、今日は少し、調子を落としている…ようですね」
「ん。……だな。絶好調、ではなさそうだ」
俺の隣に立つフラッシュが、ゲート前に出てきたウララを見て俺と同じ感想を持った。
今日のウララは、少し、調子が悪そうだ。尻尾の揺れが、笑顔を見せる彼女のその微笑みが、少々の葛藤を含んでいることを俺たちは察した。
俺は言わずもがな、今となってはフラッシュも過去の3年の記憶を思い出しており、ウララとは密接に付き合ってきた経験を持つ。
そんな俺たちの目から見て、勿論この世界のウララは前のウララとは別人ではあるのだが、不調を読み取るのは容易かった。
初咲さんと何かあったのだろうか?
それとも、ドバイに挑むにあたり、何か。
心配も無限に湧いては来るのだが、しかし、そこの理由がファルコンとの勝負……その勝敗が絡んでいたとしたら、俺から迂闊に声をかけてしまってはよくない。
初咲さんも良き同期であり友人と称してもいい関係だが、しかし単純なアドバイスはともかく、指導論やウマ娘の調子を落としていることまで俺からずけずけと指摘してはあの二人にとっていい気分ではないだろうからだ。
だが、心配である。あとで北原先輩とか沖野先輩に声をかけて、遠回しに聞いてもらってもいいかもしれないな。
さて、そしてもう一人、今日の最大のライバルであるフジマサマーチに目をやって。
「────っ!?」
肝が一気に冷えた。
まさか。パドックの時点では、そこまでの気配を見せていなかったはずだ。
隠していたのか。いや、俺が見落としたのだ。もっと集中して彼女を見ているべきだった。
そういえば彼女のパドックの時間は短かった。静かに、そして早くに退散していた。長く己を見せないようにしていたのだ。
今、ゲートインしていく彼女。
その瞳、気配、俺には余りにも見覚えがあった。
未だに隠し通しているが、ようやく僅かに漏れた、その意志の迸りから生まれる情熱の炎が瞳から零れた。
かつて俺が育てたウマ娘のうち、一人、あのような気配に、表情に至ったウマ娘を知っている。
そのウマ娘の名は、
今日のフジマサマーチには──────
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「すぅー………ふぅー………」
呼吸を数度。そして、空を見上げる。
天気はあいにくの曇り空。雲は近く、そしてバ場は重であるが、しかし関係ない。集中も問題なくできている。
このフェブラリーステークスに挑むにあたり、スマートファルコンは己の心が水面のように静けさを保てていることを理解した。
ベストな集中状態。
「………ふふっ」
集中状態になると、思考がクリアになり、そんな中で少しだけ、スマートファルコンは昔を振り返った。
フェブラリーステークスは、自分にとって大きな意味を持つレースだ。
なにせ、あの人と一緒に初めて見たレース。
立華勝人に誘われ、フラッシュも一緒ではあったが、初デートの先が、ここ東京レース場だったのだ。
「…懐かしいなぁ」
あの時、フェブラリーステークスを走るウマ娘達に魅せられた。魂が震えた。
ダートレースの素晴らしさを、頭ではなく魂で実感できた。
その震えが、熱があったからこそ、私はダートを走る事を選び、そうして今、ここにいる。
懐かしくも暖かい、大切な想い出。
だからこそ。
このレースでも、誰にも前を譲るつもりはない。
「勝つよ」
ドバイが間近に迫っていることもあり逸っていることも、自分の中で理解として落ちている。
確かにドバイは、自分にとって、何というか、運命的な物があるレースなのだろう。
しかし、このフェブラリーステークスも同じくらい大切なもの。私にとって、想い入れのあるレース。
だからこそ、勝つために。
ゆっくりと、落ち着いてゲートインする。
ガシャン、と扉が閉まる音。
ゲートの中で一度目を閉じて、深呼吸。
そして、脚の調子を確かめるために2,3度軽くジャンプ。
いつものルーティーンだ。そして、次には第一コーナーの先を見据えて、ゲートが開く瞬間を一度イメージして────────
────────真横に
思わず声すら出そうになった。ゲートの中では基本的に私語厳禁のため、堪えた。
先程までは文字通り水平を描いていた精神の水面に、巨石が投げ入れられたかのように大きな波紋が生まれる。
隣を見る。
そこには、自分に続いてゲート入りした、敬愛する先輩にしてライバルである、フジマサマーチがいた。
マーチ先輩が、いるはずだった。
だが。
そこにいたのは、一匹の鬼。
後輩に……いや、人に向けるべきではない、余りにも熱量の高い圧が、己に向けられていた。
その瞳。
その体。
その呼吸が、隠し通していた先ほどと打って変わり、全力で己に語り掛けてくる。
『────貴様は、逃さん』
その圧は最早音となり、スマートファルコンの脳裏に幻聴を齎した。
冷や汗が垂れる。
だが、こうなったときの対策もトレーナーからきちんと指導を受けている。スタート前にメンタルが乱れた時、リセットする思考の組み立ても十分な訓練を実施し、身につけていた。
両頬をぱちんと叩き、もう一度スタートに構えるメンタルをリセットし……そして、最速で飛び出すことは諦めて。
まずは過不足なくスタートを出ることに意識を切り替えた。リセットに成功した。
─────それがなければ恐らくこのレースは終わっていただろう。
そう感じさせるほどに、今のフジマサマーチは仕上がっていた。
脚が、ではなく……心が、仕上がっていた。
(……っ!!マーチ先輩、本気の、全力だ……!!私を
パドックで、先ほどまでのゲート前で見せていた静かな気配などぶっ飛んだ。
今日のフジマサマーチは一味違う。
全員がゲート入りを終えた。ゲートが開くまであとわずか。
そんな刹那の時間の中でそれに気づき、意識を改めるスマートファルコン。
強敵が、敬愛する先輩が己に対し全身全霊で挑んでくるというシチュエーションに、更なる気の引き締めと、しかし若干の高揚感も感じながら。
『……各ウマ娘、ゲートイン完了しました。今年最初のGⅠレース、フェブラリーステークス……スタートですッッ!!』
ゲートが開かれた。