メイダンレース場の控室で、俺はアイネスの髪と尻尾をグルーミングしていた。
「っ……ん、ふぅ……っ……」
「……………」
なぜ俺が無言なのかと言うと、少しだけ周囲からの視線が痛いからだ。
このドバイワールドカップデーと言う1日を通して行われるレースの祭典において、控室は走者一人一人に与えられるものではなかった。
特に海外からの参加者の多い国際レースという観点から、控室は大きく広いものが各国ひとつずつ与えられ、その中で全員が待つことになっている。
そのため、今現在この控室内には、チームJAPANの全員が集まっていた。
大切な日本の初戦、アイネスフウジンを激励し送り出そうとしたところで、しかし彼女のレース前のいつものルーティーンをおねだりされ、今回は髪と尻尾に櫛を通すことになっていた。
なお、無論の事だがこのグルーミングの前にオニャンコポン吸いを実施している。他の子達もそれには破顔を見せて、次のレースから走る全員がオニャンコポンを吸うことになった。頑張れオニャンコポン。お前が日本を支えているぞオニャンコポン。
「……アイネス、GⅠレースのたびに毎回、そうしてもらってたの…?」
「ううん、櫛で梳いてもらうようになったのは日本ダービーからなの。それまではオニャンコポンを吸うだけだったよ、ライアンちゃん」
「チームフェリスでは、レース前にオニャンコポン吸いで心を落ち着けてから、トレーナーさんに色々おねだりをさせてもらってるんです」
「調子が上がるんだ☆」
「そう………」
ライアンが顔を赤くしながらアイネスに質問し、フェリスのみんなが答えた。
視線はなぜか痛いが、別にそこまで恥ずかしいことをしているわけでもない。ただ髪と尻尾を、世界の誰に見せても恥ずかしくない様に整えているだけである。
「……できたよ、アイネス。おかしく感じるところはないか?」
「ん、ありがとトレーナー!バッチリなの!!落ち着けたの……うん、今日はやれるの。チームJAPANの一番槍、しっかり務めて見せるからね!」
「ああ。……今日に至るまで、レースの走りの検討はしっかりしてきたからな。その通り走れれば……君は、たとえあのブラックベルーガを相手にしても、勝てる。俺はそう信じてる」
グルーミングも終えて、俺はアイネスと真正面から顔を合わせて……彼女の瞳、その奥に宿る熱を見た。
いつか、秋華賞やジャパンカップの前の時の、不調を示す色ではない。日本ダービーの時に見せたような、果てしない勝利への欲求。
まるでそれは子供のような、シンプルなそれ。レースを走るウマ娘が持つ原初にして絶対の感情。
走って勝ちたい。
自分の方が速いんだと証明したい。
心配はいらないようだ。
一番槍にして秘密兵器。2年間の二人三脚で作り上げた、アイネスフウジンの可能性をここドバイに解き放つ時だ。
風が吹かない場所はない。彼女はすべての距離を制覇する。
世界よ、刮目しろ。これが
「……時間だな。一陣の風になってこい、アイネス!」
「うんっ!!見ててね、トレーナー!!あたしが世界に名を刻むのを!」
出走前の時間になり、俺はアイネスの手を引いて立ち上がらせ……控室を出る。
背中にみんなからの応援の声を受けながら、二人で歩いていき、レース場に向かう通路で、笑顔で向かう彼女を見送った。
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────────────────
メイダンレース場の芝コース、その南側にある直線1200mの最西端のスタート前に、ウマ娘達が集まっていた。
その中に、本日の世界一番人気、ブラックベルーガの姿があった。
21戦21勝、無敗の短距離専門のウマ娘。GⅠを11勝している彼女の実力を疑う者はいない。
世界から優駿が集まるこのドバイにおいても、彼女は落ち着いた様子で、ゲートとその1200m先にあるゴールを眺めていた。
(……今日はダート、芝両方とも良バ場。これまでのレースでも芝が荒れている様子はなかった。純粋な実力勝負になる……なら、負けない。短距離で私が負けるはずがない)
オーストラリアでは短距離GⅠの数が日本に比べて多く、そしてそのGⅠをすべて蹂躙してきた。
日本の砂の王がスマートファルコンであれば、オーストラリアの短距離の王がブラックベルーガだ。
ここまでの21戦はすべてオーストラリア国内での戦績だが、しかしタイムが、走りが物語っている。彼女の短距離の実力は本物だと。短距離に強いウマ娘が多くいると言われているオーストラリアでの無敗は伊達ではない。
(……でも)
だが、彼女の中に今回のレース、一点だけ懸念点があった。
それは以前、友人たちとの会話の中でもあった、短距離の実力の読めないウマ娘が参戦していること。
日本からやってきた、アイネスフウジン。
本日7番人気となっている彼女だが、しかし、世界最速の1ハロンを刻んでいることもまた事実。
彼女が何をしてくるかが分からない。
(……油断だけはしない。短距離のレースは1200m、その全てが仕掛けるポイントになる。200mだけ速くったって絶対勝てるわけじゃない)
そうしてその特異点に思いを寄せていると、ちょうどそのウマ娘がゲート前にやってくる所だった。ブラックベルーガは落ち着いた様子でゲート前にやってくるアイネスフウジンの姿を見る。
この初めての世界GⅠへの挑戦と言うシチュエーションでも、彼女は緊張をしていないように見えた。
自分も今回が海外のレースは初めてで、ミサイルマンの助言によりなんとか緊張などせずよいコンディションで臨めてはいるが、しかしなんというか……アイネスフウジンのそれは、少し違う。
(緊張がなさすぎる……諦めてる?…いや、そんな雰囲気でもない。違う、もっとこう……)
ブラックベルーガが訝し気にアイネスフウジンを見ていると、その視線に気づいたのか、彼女と目が合った。
そうして見せるアイネスフウジンの表情は、笑顔。
満面の笑みの中に、抑えきれない欲求が、唇の端から零れていた。
『…ブラックベルーガちゃん、ね?今日はよろしくなの!!いいレースにしようね!!』
『っ……ええ、よろしく、アイネスフウジン』
その笑みは、まるで子供のように。
余りにも純粋な、レースを楽しみたいという気持ちを、ブラックベルーガは正面から受けた。
少し、気が抜けた。
リラックスできた、と言っていいだろう。自分の中で失われかけていた、大切な気持ちを、このアイネスフウジンは抱えているのだ。
オーストラリアの短距離レースではもはや敵はなく、並び立つライバルも不在と言われていた。
そんな彼女が刺激を求めてここドバイに挑んだ理由。求めていたもの。
勝つか負けるかわからない、全身全霊の勝負を。
もしかすれば、アイネスフウジンが見せてくれるのではないか。
(……面白い。手加減しないから、ちゃんとついてきてよね、アイネスフウジン!)
意識を切り替えて、ゲートに入っていった。
『さあドバイワールドカップデー、そのGⅠ初戦が始まりますっ!!1200mの直線コース!!一瞬たりとも瞬きの許されない1分10秒のドラマを目に焼き付けろっ!!!今、各ウマ娘ゲートイン完了…………スタートしましたッッ!!!』
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ゲートが開かれ、スタートを切る短距離専門の優駿たち。
その中で、アイネスフウジンは決してスタートで出遅れていなかった。
逃げを専門とする走り。そして、そのゲートオープンへの反応は、サイレンススズカやスマートファルコンには一歩譲るとはいえ、十分な素質を見せる。
そして、そこからの加速も彼女は得意としていた。他のウマ娘を寄せ付けず、スタート地点から5~6バ身を付けられるほどの加速。ハイペースに引きずり込む強い脚を、彼女は持っていた。
だが、それはマイルから中距離でのレースの話だ。
「っ……!やっぱ、速いの……!!」
直線を走るアイネスフウジンは、しかし、スタートして5秒でハナを獲れず、2~3番手に落ち着いたことを理解する。
決して脚を緩めているわけでもない。己にとっては、1000m56秒台で走れそうなほどのハイペースで走っているつもりだ。
だが、それでも周りのウマ娘達は追随する。してくる。後続だって、最後尾まで4バ身と離れていない。
当然だ。彼女たちは、この1200mに全てを振り絞れる存在なのだから。
短距離ウマ娘とは、どのようにしてその脚のもつパワーを1200mで振り絞り切れるか、それに尽きる。
『……専門じゃない距離にしては、よく走れてるじゃない……アイネス!』
そんなアイネスフウジンの右後方、1バ身ほどの所にブラックベルーガが控えていた。
彼女の走りは主に先行策。短距離レースにおいては、前目に位置をつけることが勝率を上げることを知っているからこそ。
そして、そんな彼女の最大の武器にして必勝の技術が、ラスト3ハロン地点から無慈悲な加速を繰り出す領域だ。
短距離レースは鍛え上げられたウマ娘達にとって、末脚のスピードには大きく差が出ないはずのそこで、彼女は600mを他のウマ娘を置き去りにする速度でブチ抜ける。
そして、ラスト3ハロン、600mと言う数字は短距離で言うとレースの半分近くを占める距離だ。
ゴールドシップのような長い距離の加速を、エイシンフラッシュのような速度でやってのける、短距離において最強の領域。
その走りこそ、彼女が21戦無敗を貫ける理由。残り600mで脚をすべて振り絞り繰り出す豪脚。
最高時速は75㎞/hを記録する。これは、ウマ娘が実際のレースを駆け抜ける上での記録としては世界二位に位置する。
だが、目の前を走るアイネスフウジンは、
最高時速80km/hオーバー。ウマ娘が、2000mを全力で走った後に出していい速度ではない。
レース前は、その豪脚が発揮されないことをブラックベルーガは願っていた。
己が勝つために。そして、常識と言う枠を壊されたくないがために。
しかし、こうしてレース前に彼女の熱を受け、そして共に走る中で、その考えは変わってきていた。
彼女も、ウマ娘である故に。
速さを求め続ける存在である故に。
(
ぐ、と足に力を込めるブラックベルーガ。
短距離レースは、短い。始まりから終わりまでが早く……瞬きの許されないその道程。
位置取りは大きく変わらないままに、すでに、600m地点を通過しようとしていた。
残り600m。
短距離レースにおいて世界最強の領域が、来る。
(行くわよアイネス!!私を捉えられるものなら……やってみなさいっ!!!)
────────【
芝を跳ね上げ、ブラックベルーガが領域に突入した。
────────────────
────────────────
『レースは早くも半分を過ぎた!!我らがチームJAPAN、アイネスフウジンは現在2番手!!だがしかしここでブラックベルーガが来たか!?徐々に位置を上げて行っています。このウマ娘はここからが怖い!!今、3番手を追い抜いて……アイネスフウジンに迫る!!交わされてしまうか!?頑張れアイネス……交わされた!!厳しいか!!残り400mっ!!!』
実況が叫ぶ通り、アイネスフウジンは残り600mから200mを走る工程で、領域を発動し迫ってきたブラックベルーガに交わされ、位置取りを下げることとなった。
先頭のウマ娘まで、ブラックベルーガがあと1バ身。そのまま加速を続ければ、300m地点で追い抜いて、3バ身以上の差を作ってブラックベルーガがゴールするだろう。
他のウマ娘も、思い思いに己の領域を発動し、加速に入る。末脚を発揮し始めるが、しかし既に己の黒を深く染めるブラックベルーガの加速には追いつけていない。
アイネスフウジンもまた、今ちょうど先頭に並んだブラックベルーガと、2バ身ほどの差が出来ていた。
他のウマ娘は厳しい。
ブラックベルーガが、圧倒的に強い。
これは、ブラックベルーガの勝ちだ。
レースを見ている観客の内、オーストラリアからの応援団がまずそう確信した。
他の国の応援団も、そう悟った。
彼女の脚はすごい。流石短距離無敗のウマ娘。これが短距離の絶対か、と。
そう思わせずにはいられない、圧倒的な走りだった。
だが。
日本から来た応援団だけは違う。
アイネスフウジンを、チームJAPANを、革命世代を知る者たちの意見は違う。
─────アイネスフウジンは、ここからが強い。
『残りが少なくなってきました!!ブラックベルーガがここで先頭に立つっ!!他のウマ娘も姿勢を下げ猛追しますが間に合わないか!?圧倒的だブラックベルーガ!!アイネスフウジンは4番手で、残り300m─────ッ!?』
残り300m。
アイネスフウジンが、世界を革命する領域に突入する。
────────────────
────────────────
────────ふと、思った。
1月の、初めてのミーティングで、彼から聞いた、彼の秘密。
何度も、何度も世界線を繰り返してきたという、彼の運命。
それは、きっととてもつらい道程で、しかしそれを笑顔で過ごせる彼は……これまでにも、やはり、色んなウマ娘を見てきたのだろう。
共に、歩んでいったのだろう。
フラッシュちゃんと、ファルコンちゃんと、私を担当するのは初めてだって言ってたけれど、でも、これまでの世界線でも、
勿論、深くは聞かない。キタちゃんを除くチームのみんなが彼の秘密は知っていて、でもその過去を聞こうとはしなかった。タブーだった。それは、きっととてもはしたない事だから。聞かれたら、彼も困ってしまうから。
────────ふと、思った。
でも、じゃあ、この世界で貴方と出会ったあたしは、これまでの世界線でいたあたしと比べて、何か、違う所ってあるのかな?
……走る速さ?
否。それは、年代とか時期とか、出走するレースの違いもある。比較対象にはならないの。
……かける想い?
否。それは違って当然。きっと、これまでの世界線でも、彼ではない他のトレーナーがあたしの担当になってくれて、その人と想いを重ねて走ってるはず。
……スランプ?
否。スランプに陥らないあたしも、スランプになるあたしもいたと思う。だって、レースを走る上でそれは避けられないものだから。そして、解決したあたしもできなかったあたしもいたはず。それは、違う所とは言わない。
あたしが。
彼と出会ったあたしが、あたしだけにあるものって、なにか、ある?
────────ふと、思った。
彼は、芝ダートや距離の適性を超える指導が上手だ。
体幹トレーニングなどもそうだし、ファルコンちゃんなんかは、芝も走れるようになっている。
そして、あたしは─────ジュニア期の、金銭的な我儘もあって、短距離も走れるようになっている。
それは、あくまでジュニア期の重賞レースで勝ちきれるように、と突貫で仕上げたものだということも理解してるけど。
でも、それはきっと、この世界線で、貴方と出会ったあたしだからこそ、持ち得た武器。
────────ふと、思った。
この、今生きるあたしは、短距離も長距離も走れる。
マイルも中距離も得意としている。
だったら────全部の距離のGⅠで勝ったら、すごくない?
伝説じゃない?
あの人にとって、特別なあたしに、なれるんじゃない?
────────ふと、思った。そう想ったとき、何かがガッチリとはまった。
魂の願い。この世界に、伝説を刻むという想いも。
あたしの願い。あの人にとって、一番のウマ娘になりたいという想いも。
すべて、方向が一つに向いたような感じがあって。
だから、きっとこの領域に目覚めたんだと思う。
全部こじつけかもしれないけれど。けど、あたしは1月の併走の中で、これに目覚めた。
これは、あの人との絆の証。あたしの、この世界で彼と出会ったあたしだけが持つ、あたしの走り。
それを────────世界中に、見せつけてやる。
────────────────
────────────────
風が、吹いた。
(……?)
それに一番最初に気付いたのは、アイネスフウジンの少し右あたりで走っていたウマ娘だ。
フランスからやってきた彼女は短距離を専門としており、世界の頂に挑むためアルクオーツスプリントに出走したが、後からブラックベルーガが出走すると聞いてため息をついたものだ。
そしてレース本番となり、あの本物を見せつけられた。
あそこまでは厳しいだろうが、しかしこちらもいい感じにレースが作れて、末脚を繰り出せている。
残り300m、2着には必ず────────と、考えていたところで。
風を、頬に感じたような。
そして、次の瞬間に。
『…ッ!?
それは、余りの驚愕により起こされた錯覚だ。
実際、体勢を立て直せば転ぶほどのものではない。走っている最中に風が吹いたからと言ってそうそう倒れるものではない。体幹を磨いている優駿であればこそ。
しかし、その風が。
余りにも強すぎる暴風が。
隣を走る、アイネスフウジンを中心に巻き起こっていた。
『……う、わっ!?』
『はっ!?ちょ、なに……!?』
『つむじ風…ってレベルじゃねーぞ!?』
そして、それは周囲のウマ娘、全員が感じ始めた。
もちろんの事、先頭を走るブラックベルーガにも。
『……!?なによ、これっ……!?』
異常事態だ。
まるで、真後ろに超巨大掃除機が稼働しているかのような、吸い込まれるような風。
先頭を走るブラックベルーガの、前からは吹いていない。明らかに、後ろから、竜巻が迫っている。
ブラックベルーガは振り返りそうになり、しかしそれは残り300mの短距離レースでは致命的なロスになると思いなおして、姿勢を下げて風に抵抗し、なお加速をしようとする。
だが、この幻影の風は間違いなく己の速度と体力を奪う。
わずかではあれど、スタミナの計算が狂う。
1200mちょうどで絞り出す予定で走っていたブラックベルーガの、その残り50mが怪しくなった。
これは、間違いない。
『……アイネス、フウジンッ!!これが!!これが、貴方の─────ッ!!』
彼女を中心に巻き起こる、吸い込むような豪風。
それは、残り300m地点で領域に入ることで、繰り出されていた。
アイネスフウジンが発する気迫が、圧が、牽制と言う生温い表現を超え、実際に風が起きていると錯覚するほど走りへの動揺を生む。
そうしてまるで竜巻のように、周囲10mを嵐に巻き込んだ。
かつて、ジャパンカップでマジェスティックプリンスが感じた竜巻の気配。
当時はアイネスフウジンと先頭集団とは5バ身、12.5mの距離があったため気付かなかったそれ。
速度とスタミナを一気に奪う豪風が、ここドバイに放たれていた。
だが、これはまだ
もう、わかるはずだ。
彼女が覚醒せしめた領域は、2段階。
ゼロの領域に目覚めたことで進化した、その新たなる領域。
一つは、300m地点から100mを走る間に発生する、速度を奪う風。
そして、奪った風を起点として………残り200m、超常的な加速を生む。
このレースが短距離であるからこそ、最大の効果を生んだ、それ。
これがマイル以上のレースであれば、最高速の発揮はされなかったであろう、それ。
この領域の効果を正しく知られていれば、対策を取られていたであろう、それ。
だが、ここはドバイの短距離レースで。
周囲のウマ娘との距離は、4バ身以内に収まっている。
そして、アイネスフウジンの脚は、溜まりに溜まり切っていた。
「……世界に見せつけてやるっ!!!これがッ!!」
残り200m。
彼女の領域の真の力が、来る。
「これがっ!!アイネスフウジンの走りだあああああッッ!!!!」
────────【零式・
瞬間最大風速80km/h。
暴風を纏った風神が、弾け飛ぶ。
────────────────
────────────────
『アイネスフウジンがきたっ!!!アイネスフウジンが来たッッ!!!残り200地点からぶっ飛んでいく!!これが日本の風神だ!!これが革命世代だッ!!だが残り距離は短い!!!残り2バ身、先頭を走るブラックベルーガも速い!!これは際どいか!?交わし切れるかアイネスフウジン!!差し返してくれっ!!残り100mッ!!』
『─────畜生ッッ!!!』
残り100mの直線を先頭で駆け抜けるブラックベルーガは、毒づいた。
己の後方から先ほどまで起きていた
それが最大のミスだ。1200mちょうどでスタミナを使い切ろうとしていた彼女の計算が、狂った。
もし、この領域の威力を知っていて、そしてこのレースでも間違いなく来る、と分かっていれば、走りのタイミングを変えて、余力を残して走っていたはずだ。
それならば対抗できた。風に巻き込まれても、最高速で最後まで走り、ギリギリ詰め切られることなく勝てていたはずだ。
いや、むしろ300m地点までにさらに距離を広げて、風の影響を受けない様に走ることも考えられた。
無敵の能力ではない。領域の面倒さ具合だけで言えば、マジェスティックプリンスのそれと大差ない。抵抗だって出来たはず、だった。
だが、その力があることを、隠されていた。
このレースが初見であった。
切り札は隠すのが常識ではあれど、しかし、切られた札が強すぎる。
余りにもワイルドカード。
そして、ブラックベルーガの耳に、足音が……いや、
それは、風神の爆走。
この短距離レースという舞台において、2400mを走り切れるスタミナを持つアイネスフウジンが、有り余るスタミナをこのラスト200mに全て注ぎ込み加速してくる。
その速度、気配、間違いない。
『これが、世界最速の走りッ……!!』
80km/hを超えている。
そしてラスト50m、ブラックベルーガの体力が尽きかけた所で、その視界にアイネスフウジンのバイザーが、その風が、体が入ってきた。
「いやあァァァァァァァッッ!!!」
叫び、そしてその速度を落とさない。
ブラックベルーガが、ここまで追い詰められたのは短距離レースでは初めてだった。
これまでは、己の末脚の速度に誰も追い縋れなかった。最後の100mで隣に並ぶようなウマ娘はいなかった。
それが、ここで初めて、速度で負け、差し切られようとしている。
(───────負け、る……!?)
その、初めての感情。
余りにも強すぎることから、短距離におけるライバルがいなかったブラックベルーガが、初めて味わった感情。
ああ、恐らくはそんな彼女をどこかの誰か、ゴール前で愛バの名前を大声で叫んでいる男が知れば、嘆き、悲しみ、そしてライバルを探してやるだろう……そんな、王者ゆえの孤独を味わっていたブラックベルーガは、ここに来て初めて、己を越えようとする存在に出会った。
それは、きっと、彼女がこのドバイにおいて、最も求めていた存在で。
そして、だからこそ。彼女もウマ娘であるのだから。
『……負けてたまるかぁっ!!!勝つんだあっっ!!!』
「っ…!!だああああああ!!!!」
限界を超えた一歩。
体力は尽き、脚も振り絞った先、限界を超えてブラックベルーガは速度を落とさず駆け抜けた。
彼女も優駿だからこそ。勝ちたいと願うウマ娘だからこそ。
戦友を得ることが、ウマ娘を強くするからこそ。
しかし、それでも。
風神の爆走を止めるまでには至らなかった。
『ブラックベルーガ必死に耐える!必死に耐えるがこれは行った!!勝ったのは風神だ!!アイネスフウジンだッッ!!今、ブラックベルーガを撫で切って一着でゴォーーーーーーッッル!!!!』
『やりましたッッ!!やってくれましたアイネスフウジンッッ!!!なんと、初挑戦の海外GⅠ!初挑戦の短距離GⅠで!!一着を勝ち取りました!!!その
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────────────────
「…………ひぃー、っはぁー………っ!!!つっかれたぁ……!!!」
ゴールを一番に駆け抜けて、クールダウンのため脚を緩めるアイネスフウジン。
その足取りは確かだ。
彼女の脚は、時速80㎞/hの速度を繰り出してもなお、壊れていなかった。
立華が、サンデーサイレンスがその最高速に堪え切るために磨き上げた珠玉の両脚。
そして、全身の筋肉が体を支え、この短距離戦においては、あれ程の速度で走っても限界を踏み越えることはなかった。
『……ねぇ、アイネス……ふぅ。……アイネスフウジン』
『……ん、ブラックベルーガちゃん……』
お互いに肩で息を切らせながら、生まれて初めての敗北を味わったブラックベルーガがアイネスフウジンに追いつき、声をかけてきた。
『……貴方のあの力。隠してたのね……それ、どの距離でも出せるの?』
『んー?んふふ、秘密兵器だったからね!短距離戦、普通に走ったらベルーガちゃんに勝てないのは分かってたから。それに、あの速度を出せるのも短距離だからこそなの。2400mじゃもうあれだけの速さは出せない……距離が短くて、あたしにとっては脚やスタミナが十分に残せたからこその速度、なの』
『…やっぱり、か。あれがあるから、貴女はこのレースを選んだのね……負けたわ。今日の所はね』
クールダウンを終えて二人とも自然と歩みを止める。
その中で、アイネスフウジンに向けてブラックベルーガが正面からびしっと指をさして、宣言した。
『でも、次は勝つ!!貴方の領域も、速さも、私は見た!!次は私が勝つ番よ!!あの速度だって、いつか私も出して見せる!!私は日本にリベンジするっ!!』
それは決意表明。
ブラックベルーガが、短距離の才能の塊であるからこそ言える言葉。
80㎞/hだって、いつか自分も出して見せる。
そして、領域の効果も知れたからこそ、次は勝つ、と。
そんな言葉に、アイネスフウジンはにこっとスマイルを見せて、返事を返す。
『ふふ、楽しみにしてるの!!次にあたしが短距離走るのは、9月の日本のスプリンターズステークスかな?よかったら日本に遊びに来て?あたしみたいな突貫じゃない……日本の、
『約束よ!楽しみにしているわ!』
ぱんっ、とお互いに手のひらを叩いて交わし、そうしてブラックベルーガがレーンを走って離れていく。
そうして約束も交わし終え、ターフの向こう正面に立つアイネスフウジンだけが残された。
そして、観客は待っていた。
チームJAPANの先鋒が、このドバイワールドカップデーの最初のGⅠで勝利した彼女が、勝ち誇る姿を。
夕暮れ時を超え、夜の色が浮かぶ空をアイネスフウジンは一度だけ見上げて、勝利の喜びをその身に浸し。
そうして、腕を上げる。
その手は、人差し指を一本、高々と天に向け突き上げていた。
まず、一勝。
チームJAPANの、これからの勝利を願って。
「………やったの!!!勝ったのーーーーーーーー!!!!」
大きく声を上げて、鬨の声を叫ぶ。
そして、次の瞬間に、ドバイレース場は大歓声に包まれたのだった。