最終戦を控えるチームJAPANの控室内。
俺たちは、我らがチームJAPANの大将にして、これからドバイワールドカップに挑もうというファルコンがオニャンコポンに顔を埋めて静かに深呼吸をしている姿を見守っていた。
「すー…………ふぅー…………」
静かに、ゆっくりとオニャンコポンを堪能している。
彼女の尻尾の揺れは極めて落ち着いており……どこまでも、静けさを感じさせられた。
そんなファルコンの佇まいに、俺は脳内で疑問すら浮かぶ。
スマートファルコン。我がチームフェリスのダートのエースにして、砂塵の王。
大舞台も何度も経験している彼女だが、しかし、レース前にこれまでも緊張がなかったかというとそうではない。
やはりレース前のウマ娘とは高揚の他に緊張も覚えてしまうのが一般的であり、彼女もその例に漏れていなかった。
特に海外のレース、ベルモントステークスの時には興奮しすぎた彼女に心音を聞かせて宥めてやったことはまだ記憶に新しい。
そして、今回は正真正銘、世界一を決めるダートレースに挑むのだ。
興奮が高まってしまわないかという可能性は以前から考えていた。勿論そうなってしまっていれば、俺は俺の出来る全てをもって彼女を落ち着かせ、ベストなコンディションでレースに送り出すつもりであった。
ここまでチームJAPANが4連勝をしているということもあり、彼女の背負うプレッシャーは最早余人がおよびつかぬほどのものだろう。
日本中の期待、その全てがこの小さな背中にかかってしまっている。
しかし、そんな状況にあるファルコンがオニャンコポンから顔を上げ、見せた表情は笑顔であった。
下弦の月のように────、と戦意が高揚しているときに見せる、恐ろしさすら感じさせるそれ、ではない。
自信にみなぎる、挑戦的な微笑み。
優しく透き通るようなそれを見て、思わず俺の胸が高鳴ってしまうほどだ。
菩薩のような、どこか高尚な雰囲気すら感じさせる穏やかさに、子供のようなワクワクとした感情も混ざった笑顔。
綺麗だと、素直に思った。
「……ファルコン。どうだい、調子は」
「うん。すごくいい……みんなが勝ってくれたからね。ファル子、絶好調。今なら───誰にも、負けないよ」
どうやらベストコンディションのようだ。
そこに至れている理由が分からないことに一抹の不安を覚えるも、しかし、どこからどう見ても、今のファルコンはレースに欠片も怯えていない。
ただ、そこに己の全てを果たしてくるのだという決意すら感じられる雰囲気を持っている。
まるで過去にも出走してるから慣れたもんさと言い出さんばかりのリラックスが出来ている。
不思議なことではある。
だが、彼女が己で調子を完璧に整えてしまっているならば、俺はその背をそっと押してやる事しかできないだろう。
信じることしかできなくて、そしてそれがトレーナーが出来る最後の仕事なのだ。
ファルコンの勝利を、信じている。
だが、それでも彼女がもし心の奥底に不安でも抱えていないかと心配してしまうのも、トレーナーのサガなのだ。
何か出来ることはないか、俺は彼女に問いかける。
「……俺に、何かできることはあるかい?いつもの、やろうか?」
「んー……うん、そうだね。落ち着いてはいるけれど……やっぱりトレーナーさんには、してほしいな。お願いしていい?」
「勿論だ。それじゃあ…」
「あ、ちょっと待って☆?」
落ち着いていることは承知の上で、しかしやはり彼女にとっても俺ともやり取りを大切にしてくれていたということに喜びを覚えながらも、俺は彼女のいつものおねだりに応じようと、腕を広げる。
が、そこでファルコンから、にっこりと笑顔になりながら待ったをかけられた。
ん、なんだろう。フラッシュの時みたいに何か特別な対応が必要かな?
「……トレーナーさんのほうから、抱きしめてほしいな。想いを籠めて、ぎゅってして……」
ふむ。そう来たか。
確かにこれまでは、俺が腕を広げてそこに彼女の方から頭を埋めてくるのが通常の流れだった。アイネスにやった時もそうだったし、基本的に心臓の音を聞かせるときはそうしていた。
だが、今日は俺の方から抱きしめてほしいらしい。
勿論全く問題はない。俺は小さく頷いて、彼女に近づく。
その小さな体にそっと腕を廻し、きゅっと優しく、しかし万感の思いを込めて抱きしめる。
力加減に遠慮はしない。その形の良い丸い頭に片手をそっと重ね、背中に腕を廻し、お互いの体を密着させる。
身長差があるため、これでファルコンの耳は俺の胸にぴったりと当たることだろう。
想いを籠めて。
この世界線で俺に出会ってくれた君に、心から溢れる万感の想いを籠めて。
「……ファルコン。俺はね、君と出会えて……チームとして共に歩んで、今、こうしてここにいられることに、感謝してるんだ。心からね。あの日、河川敷で歌っていた君と出会って、オニャンコポンとも出会ったことが、運命だったんだと信じている」
「……うん」
「俺にとって、きっといつまでも特別な君が、特別になる瞬間を見せてくれ。君の走りを、俺の脳裏に焼き付けてくれ……俺が、
「っ!……うん!」
「……頑張れよ、俺のファルコン」
俺は、これまでの世界線でもスマートファルコンを知っている。
ウララと共に歩んでいた永劫の記憶の中でも、それ以前でも、ダートを走る優駿たる彼女を知っていた。それは事実だ。
だが、阪神ジュベナイルフィリーズを勝利した姿は見たことがない。
皐月賞で3着を取った彼女を知らない。
ベルモントステークスに出走し、世界レコードを取った世界線なんて、なかった。
その後も、ウララやカサマツメンバーと競い合い、GⅠを制し続けた姿を知らない。
ドバイワールドカップで、彼女が勝利した世界線を、見たことがなかった。
だから、それらを成して、今、世界の頂点に立とうとしている彼女は、この世界線で俺と出会ったからこそなのだ。
今ここにいるスマートファルコンは、
そんな独占欲にも似た感情を、抱きしめることで不意に覚えてしまったため、それを俺と彼女が分かる符号で言の葉に乗せる。
これから世界の頂点であることを証明する君が、俺のウマ娘であったことを、永遠に忘れさせないでほしい。
このドバイの奇跡を、俺はずっと大切な想い出として抱えていきたい。
「……うん。気合入った……ありがと、トレーナーさん」
「ん。……頑張れ。最後まで、君の事を応援しているよ」
そっと俺は力を込めていた腕を離し、胸元に抱えていた彼女の頭を解放する。
心音は聞こえてくれていたようだ。僅かに頬が上気し、しかし耳の動きや瞳が、更なる絶好調に入ったことを示すかのような色を見せていた。
もう何も心配はいらない。後は俺が出来ることは、かつてのベルモントステークスのように、最後まで彼女の勝利を諦めずに応援することだけだ。
「……まぁ、最終戦のプレッシャーの中ですからね。今日この場限りでは許してあげましょうか」
「フラッシュちゃんがそれ言う?あー、あたしも一番バッターじゃなければなー…もっとガッツリおねだりすればよかったの」
「………いや、まァいいや……今のファルコンが魂レベルで仕上がってんのは事実だしなァ…」
「サンデートレーナー、私もレースの時あれくらいおねだりしていいですか?いいですよね?」
何故か部屋の隅っこの方でウチのチームのみんなが小声でなんか呟いてんな。
ああ、だが勘違いはしないでほしい。今ここにこうして、5連勝の期待を背負ってファルコンがいられるというのは、アイネスの、フラッシュのおかげなのだ。彼女たちが勝利してくれたからこそ。
俺の愛バとして、勿論フラッシュにもアイネスにも、俺はファルコンと同様の気持ちを抱いている。
三冠を果たし史上最速の3ハロンを刻んだフラッシュも、全距離制覇を狙う史上最速の1ハロンを刻むアイネスも、過去の世界線で見たことはない。二人とも、俺だけのものだ。
誰にも渡してやらない。
ここにきて改めて、俺は俺の愛バに抱く感情の重さを自覚した。
この3人を、俺はどうしても俺だけのものにしたかったらしい。
内心で肩を竦めた。全く、こんな大切な一戦の前だって言うのに、俺は何を考えているんだか。
冷静でいられるよう努めてはいるが、俺も随分とテンションが上がってしまっているのかもしれないな。そのせいで本心が自覚できたのだから救いようがない。
……いや、無論の事愛バの3人だけではなく、SSもキタも、初咲さんもウララも、スピカやカノープス、レグルスのみんなも、ここに至るまでがんばってくれていた。
全員が想いを紡ぎ、勝利を重ねてきたから。全員の奮闘があったからこそ、奇跡がここにある。
この奇跡を本物の奇跡とするために。
俺たちチームJAPANは、勝つ。
「………もうすぐ、時間だね」
スマートファルコンがゲート前の集合時間が近づいたことで、一度席を立つ。
うーん、と小さく背伸びをしてから、しかしそこで彼女は控室に用意されているテーブルの方に歩みを進める。
レースに挑む前に、もう一つだけ、やらなければならないことがあるのだ。
それは、今控室にいるチームJAPANの、その全員が理解していること。
これまで、大切につないできたもの。
勝利のバトンを、想いを、彼女に託す。
「……みんな。……ファル子に、力を貸して?」
ファルコンが、目の前にある円形のテーブルに、己の手を開いて、儀式を始めるようにそっと置いた。
それで、全員が意を汲み取った。
「……そうですね。ファルコンさんに、私達の想いを託します。貴女なら、勝てます」
まず動いたのはフラッシュだ。彼女がテーブルに近づき、ファルコンの手の上にそっと手を重ねる。
「ここまで、みんなで頑張ってきた……チームJAPANで、積み上げた想い。全部、ファルコンちゃんに託すの」
アイネスが続くように、手を重ねていく。
「…ファルコン先輩、信じています。先輩なら、必ず勝ってくれるって」
脚の処置を終え、ベッドから降りてきたヴィクトールピストが続いて手を重ねる。
「ダートで、私以外に負けちゃだめだよ、ファルコンちゃん!!ぜったい勝ってね!!」
ハルウララも彼女たちに続くようにして、少し腕を伸ばして手を重ねた。
「二着だけど、想いは託していいよね?ファル子ちゃん、頼んだよ…!!君なら行ける!」
メジロライアンが続く。彼女の手も、ウララの手の上にさらに重ねられた。
「先輩、あたしの突貫工事じゃない、本家本元の大逃げ期待してますよっ!!勝ってくださいね!!!」
サクラノササヤキもベッドから降りてきて、手を重ねていく。
「砂の上の絶対。ファルコン先輩が証明してくれるのを、信じています。頑張ってください…!」
マイルイルネルもサクラノササヤキと並んで、そっと手を重ねた。
想いの螺旋。
8つの手が重なった其れが、チームJAPANの絆の塔だ。
この聖域は壊れない。
必勝の誓いが今、スマートファルコンに託される。
最後に、俺の肩から降りて行ったオニャンコポンが机の上に移動して、8人が重ねた手の上に、背を伸ばして肉球をぷにっと置いた。
そんな様子にみんながくすっと苦笑を零し、雰囲気を柔らかいものにした。
まったく。美味しい所持っていきやがった。頭のいいやつだ。
だがオニャンコポン。
そこ、耳をふさいでおいた方がいいと思うぞ?
「────チームJAPANッッッ!!!!」
「「「「「「「「ファイ、オーッ!!!!!」」」」」」」」
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ドバイワールドカップデー、その最終戦が間もなく始まろうとしている。
ゲート前に集まってくる世界のダートの優駿たち。
その表情は、それぞれが緊張、戦意、高揚を感じさせるそれであった。
だが、彼女たちに共通する見解がはっきりと生まれていた。
─────スマートファルコンに、勝たせるわけには行かない。
GⅠ5連戦、その4つまでもがチームJAPANに奪われてしまっている。
異常事態としか言えない。自分たちもそれぞれが、母国の想いを背負ってここまで来ている。
それが、一つの国が全て勝利するなど、到底納得できるはずもない。
だが、マークが強くなっていた先ほどのドバイシーマクラシックでさえ、やられてしまった。
あのブラックベルーガが、ミサイルマンが、ウィンキスが、ブロワイエが、勝てなかったのだ。
日本に革命が起きている。
噂を耳にしたことはあれど、しかしそれがここまで本物であるとは思ってもいなかった。
そんな危機感が、ドバイシーマクラシックに挑んだウマ娘達以上の連帯感をもって、スマートファルコンへの警戒を生んでいた。
それに、そもそもが、この最終戦であるドバイワールドカップにおいて、スマートファルコンへのマークは必須の事項であった。
元々あのウマ娘は強い。ダート中距離においてはセクレタリアトの神話の記録すら超える、砂の上の絶対。
しかし、無敗というわけではない。ダートにおいて一度、彼女は破れている。
スマートファルコンを破ったウマ娘、フジマサマーチのレース映像は、穴が開くほど見て研究した。
あの時に起きていた牽制の重ね掛け。あれを己たち、世界の優駿で再現すれば、砂の隼であっても削れるだろう。そうでなければならない。
そこに勝機を見出し、そうしてチームJAPANの5連勝は何としても止めなければならない。そう、全員が考えていた。
ある一人を除いては。
(フッ……まったく無粋だな!私とスマートファルコンとの勝負に、余計な装飾は不要だ……飾らないからこそ美しいものが在るというのに)
マジェスティックプリンス。
彼女だけが、周りのウマ娘とは全く別の事を考えていた。
それをレースの上で見せるための覚悟が出来ていた。
それに周囲は気付いていない。
そして、そんな緊張感に満たされたゲート前に、とうとうそのウマ娘がやってくる。
チームJAPANの総大将。
神話を超えし者。
スマートファルコンが、ゲート前に現れた。
(…………っ!?)
息を呑んだのは、どの国のウマ娘だったか。
大歓声を受けながらやってきた彼女は、しかし、その表情が……何というか、人間離れしていた。
そこには、負の感情は一切浮かんでいなかった。
慢心も油断も緊張も無く。
静かな、まるで無風の大海原を、深夜の砂漠を思わせるような静かな微笑みを浮かべて、彼女はやってきた。
雰囲気が、違う。
これまで見たレース映像の、どれとも違う。
声をかける事すら……いや、近づくことすら躊躇いが浮かんでしまう。
周囲が感じる雰囲気が、まるで神か悪魔かとでも相対したかのような魂の震えをもって、怯えを生む。
スマートファルコンが。
彼女の
ああ、だが、そんな彼女に唯一声をかける存在がいた。
もちろんの事、このレースにおいて一番のライバルと評価されているマジェスティックプリンスだ。
「ハーーーーーッハッハッハ!!!ドーモ、スマートファルコン=サン!!いい顔をしている…どうやら絶好調のようだ!緊張で調子が落ちていないかと危惧していたが、余計な心配だったようだね!!」
「……ふふっ、うん、大丈夫。前に
「勿論だとも!ああ、私も───
「嬉しい。私もね……マジェプリちゃん。負けないよ。勝ちたい……貴女に。そして、このドバイワールドカップに。どうしても、勝ちたいから」
「ああ……抱きしめたいな、その想いを!!今度は私が高らかに謳おう────スマートファルコン。砂の上で、もう二度と、君には負けないと」
高笑いしながら呑気に話しかけに行ったマジェスティックプリンスを見て、周囲のウマ娘は少しだけ気が抜けた。
アメリカの彼女の気性は知っており、ライバル心を持っていることも勿論情報として仕入れていたが、あそこまで砕けて話せるのは本当に図太いというか、何というか。
そんな、張り詰めた空気が弛緩し始めて、そして一気に再び空気が凍り付いた。
二人が会話を終えた後に、マジェスティックプリンスまでもが、凄まじい圧を放ち始めたからだ。
スマートファルコンへの執着。執念。
懸想にも似たそのマジェスティックプリンスの熱が、この会話で完成に至った。
悪夢のような気配が二つに増えた。
周囲のウマ娘達は、余計なことをしたマジェスティックプリンスに恨み言さえ言いたくなったが、しかしもう間もなくゲート入りが始まってしまうため、思考を切り替えねばならなくなった。
ゲート入りの時間になる。
勝負はここから始まっている。
以前にスマートファルコンが走ったレース、フェブラリーステークスではこのスタートの地点で、フジマサマーチが視殺戦による圧を仕掛けて、スタートの勢いを削いだのだ。
それをやらなければいけない。
次々にゲート入りするウマ娘の内、スマートファルコンの両隣のウマ娘が、その作戦を共に実行しようとする。
内枠の2番目に入ったウマ娘が、3番目である隣に入ってくるスマートファルコンに、視線による圧を飛ばそうとして────────
(───────ッッ!?)
明確な殺意、と捉えられるほどの鋭い圧が、スマートファルコンから向けられていた。
自分がわずかでもスマートファルコンに牽制を飛ばせば、その先に走る道はないと確信してしまうほどの何か。
─────邪魔をするな。
今から、世界を縮めてくるのに、邪魔は許さない。
彼女の体から放たれる圧が、表情が、それを物語っていた。
ファルコンに続くようにゲートに入った向こう隣のウマ娘もまた、隣の檻に怪物が入っていることを察し、動揺した。
間違いなく自分たちは出遅れるだろう。動揺が抜けなかった。
やろうとしていたことが、余りにも強いスマートファルコンの圧迫感により、逆に返されてしまう形となった。
ゲート入りが完了した。
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二度と。
二度と、
最高の。
最速の。
最強の。
──────
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『さあドバイの激戦もとうとう最終戦!!ドバイワールドカップに挑む17人のウマ娘がゲートイン完了しましたっ!!奇跡は神話と成り得るのか!!革命は果たされるのかっ!!日本中が、祈りを込めて見守っていますっ!!………ッスタート!!!ゲートが開っ──────』
『──────ッ!?!?スマートファルコンがぶっ飛んでいったーーーッッ!!!これは速い!!これは速いっ!!決して他のウマ娘も出遅れていませんでしたが一人だけ異様なる反応速度!!……っ!?ファルコンの勝負服の肩口が破れているか!?走りにブレは見られませんっ!!ゲートにぶつかってはいないようで…まさか、開くゲートに掠めるほどのスタートだったのか!?凄まじい加速っ!!これは大逃げだ!!紛うことなき大逃げっ!!!ベルモントステークスの奇跡がここドバイにも訪れるっ!!!!行ってくれスマートファルコンッッ!!!』