エイシンフラッシュ。
彼女には本当に、ここ数十回のハルウララと共に夢を駆けた世界線ではお世話になった。
彼女は優しい。優しく、面倒見がいい。
ハルウララの、ともすればもどかしく感じてしまうであろう並走なども、真摯な態度で付き合ってくれた。
差しを主の戦法としていた彼女はハルウララが有マに至るまでのダート戦で勝つための差しにかかるテクニックをよく教えてくれた。
彼女の、仲間としての、そしてライバルとしての存在が、ハルウララの有マ勝利に大きく貢献してくれたことは間違いない。
そして俺は、彼女の強さを知っている。
その冷静沈着な思考によるレース全体の俯瞰、位置取りの上手さ。
最終直線からぐんぐんと伸びる、閃光の切れ味を持った末脚。
中距離以上のGⅠレースでもなお3ハロン32秒台を記録する豪脚。
(……この選抜レースはエイシンフラッシュだな)
よって、レース内容もある程度の予測ができてしまった。俺は誰にも聞こえぬつぶやきを漏らす。
確かにほかにも有力バはいる。タヴァティムサなんて中距離レースなら重賞レースも狙えるほどの脚の持ち主ではある。
だが、エイシンフラッシュでは相手が悪い。
最終直線が長めに見積もられている今回の右回り2000mであれば、彼女に軍配が上がるだろう。
デビュー前の今の状態でも、彼女のトモを一瞥すれば、すでに末脚を武器に持っていることが分かった。
そうして出走ウマ娘たちがゲートインしていく姿を見守って、今スタートが切られた。
ゲートが開くと同時に飛び出すウマ娘が数人。出遅れが3人、うち一人はタヴァティムサだった。
そして出遅れの中にエイシンフラッシュは入っていない。
(決まったな…)
未デビューのウマ娘としては上々なスタートを切ったエイシンフラッシュと、走って数十秒間で他のウマ娘たちの位置取りが自分が想定していた内容と大きく変わらないことから、この先の流れを俺はすでに予測していた。
おそらくは中盤までエイシンフラッシュが足をためて先行集団を見るような形で走る。
その間に牽制や威嚇などは飛んでこない。まだそのレベルに達している子はいない。
タヴァティムサが頑張って位置を上げているようだが、スタミナも同時に消費してしまっているだろう。
最終コーナーを回ってエイシンフラッシュの末脚が輝いて、差し切って勝利だ。
俺はこれまでのループの中で…それこそ、何千何万ものレースを見て、いくつもの勝利を掴んできた経験から、ある程度レースの予測を立てることができる。
もちろん、レースに絶対はない。
トゥインクルシリーズのレースでは、勝った!と思った瞬間に限界を超えたライバルウマ娘に差し切られたことも何度もあるし。
厳しいか、と思った瞬間に
が、今見ているのはデビュー前のウマ娘の選抜レースだ。
目覚める領域も、超える限界もまだ持ち合わせていない、原石のままのウマ娘たちだ。
選抜レースで領域なんか出すようなウマ娘がいたらそれはもうヤバい。
だから、このレースはエイシンフラッシュの勝ちだ。
そう、思っていた。
(…?位置取りが、後ろすぎないか…?差し集団の後方?追い込みに近いぞ?)
エイシンフラッシュがさらに位置取りを後方に移したのを見て、俺は怪訝に思った。
そこでは後ろすぎる。あの末脚があったとしても追い切れるか厳しい位置まで落ちてしまっている。
すでにレースは中盤を過ぎて最終コーナーに入ろうとしているところだ。
おかしい。
エイシンフラッシュの末脚を、レース運びを知っている自分の目から見て、明らかにおかしい。
特段、GⅠ出走の時の彼女と比べていたりといった話ではない。未デビューであることも十分に考慮に入れ、トモの太さから想定できる脚力を意識したうえで立てた予測をさらに
エイシンフラッシュは、明らかに調子を落としている。
(そういえば表情も…よくはない。走っているのを見る限り故障ではないが…すでに、疲れてる?)
最終コーナーを走り抜けるエイシンフラッシュが、目の前を駆け抜けていく。
その顔は、これまでに見たこともないような……苦悶の表情。
泣きそうな表情だとさえ感じた。
「………何があったんだ、エイシンフラッシュ…」
そうして、やはり最終直線でも閃光の末脚は発揮されず、前を走るウマ娘たちとの距離を僅かに縮めるだけに終わった。
レースを勝ったのは出遅れを巻き返して返り咲いたタヴァティムサだった。彼女の巻き返しに何人かのトレーナーが目を光らせ、さっそく声をかけに行っている。
だが俺は、走り終えた後の俯いて荒い息を整えるエイシンフラッシュから目を離せないでいた。
彼女に声をかけるトレーナーは一人もいない。
後方に位置してから、単純にスタミナ不足で落ちていったように見えて、最後も伸びない。そんな結果だけ見れば惨敗の状況に。
俺は、大きく、恐ろしく感情を揺さぶられた。
(君は……君は、そんな顔をして走るウマ娘じゃないだろう…!!)
俺は知っている。エイシンフラッシュの強さを。
彼女の、勝利のために努力し、結果を出してきた強さを。
たとえ親友と同じレースに出たとしても、不安を飲み込み、誇りある勝利のために手加減抜きの勝負を繰り広げた、あの閃光を。
レース後、とぼとぼと校舎に歩き去るエイシンフラッシュの背中を見て、いてもたってもいられずにそちらに足を向ける。
ついさっき、前の周回のことは今回の世界線に持ち込まないとかほざいていたが、あれは嘘だ。
ここで追いかけなきゃ、俺という存在が嘘になる。
彼女が普通にレースをして普通に勝ち負けをしたならそれでいい。
けれど、今回は明らかに調子を落とした状態でなお出走し、惨敗している。
あれだけ世話になったウマ娘が落ち込んでいる姿を黙って見送ってやれるほど、この数百年で精神的に
とにかく声をかけなければ、と、彼女を追う脚は少しずつ早足になっていた。
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「はぁ、はぁ………はぁ、は──」
息がなかなか整わない。
それに重ねて、何度も何度もため息が出てしまう。
エイシンフラッシュは、誰もいない校舎裏に足を向けて、夕日に染まり始めた校舎の壁に背を預けて、天を仰いだ。
夕暮れ時の綺麗なオレンジ色が、しかし今は色褪せたように彼女の感情を動かさない。
「負けた…私は、勝たなければいけないのに…」
負けた。
その言葉を口にしたことで、思わず涙がぽろり、と一筋こぼれてしまう。
それを袖口で拭いながら…本当なら大ウロにでも叫びに行きたいくらいだが今は選抜レース直後で満員だろう。
だから一人になれるよう、ここに足を運んだ……けれど、一人になったことで余計に、自分の弱気が、弱音が頭をもたげる。
勝てなかった。
本格化も迎えてこれからというところで、担当のトレーナーがつけばトゥインクルシリーズに出られる。
そこで彼女は、トゥインクルシリーズの3年間で…誇りある勝利を得るために。日々努力をした。
そんな中、両親が選抜レースが開催される今月末に、ドイツから日本へ私の様子を見に来てくれるという連絡が入った。
うれしかった。
高等部になって精神的にも大人になったつもりではいるけれど、それでもやはり異国の地で最愛の両親となかなか会えないというのは心細い。
両親からその連絡がきたときに、エイシンフラッシュは素直に喜んだ。
会いに来てくれる両親には、私の学園生活の…これから走るレース生活に向けた、最高の報告をしたい。
私が選んだ、信頼できるトレーナーを紹介して、これから頑張っていく姿を見せなければ。
そのためには、より一層の努力を。
「……足りないのでしょうか、まだ」
エイシンフラッシュは、普段持ち歩いている自分の手帳を取り出してスケジュールを再確認する。
ここ数週間は、以前よりもトレーニングの時間を増やし、かつ肉体的負担がたまらないように…自分なりに、スケジュールを組んだ。
だが、調子を落としてしまって…いや、言い訳に過ぎない。これは私の努力が足りなかったのだろう。
であれば、練習の時間をもっと増やさなければ。
辛いなんて言っていられない。私は、両親に心配をかけたくないのだ。
だから、何としても次回の選抜レースでは1着になり、トレーナーを──────
「──────エイシンフラッシュ」
そんな、追い詰められた思考のループに入りかけていたエイシンフラッシュに、男性の声がかけられた。
はっと肩を震わせて、声をかけられたほうを見る。
そこには、どうやら最後は走って追いかけていたらしい、息を切らせた立華勝人の姿があった。