~ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク~
「……?…あなたは、先ほど見ていた…トレーナーの方?」
「立華勝人だ。いや、俺のことはどうでもいい……君のことだ。今のレース、何があったんだ?」
何があった、と急に言われてエイシンフラッシュは混乱した。
このトレーナーは、先ほどのレースを見て、一位の子でも二位の子でもなく、私を追いかけてきたようだ。
……
「何が、と、言われましても…走って、負けた。それだけのことですが」
…少し声が冷たくなってしまっただろうか。
とはいえ、負けたレース後の、気が落ち込んでいるときに不躾に質問をされたことに対して怒ってもいいはずだ。
先ほどまでの自罰的な感情から、目の前の相手へ向ける怒りの感情に、少しずつエイシンフラッシュの感情はシフトしていく。
一人になりたいときに、邪魔をしてきたこの新人トレーナーへと。
「違う。明らかに君は調子を落としていた……君の本当の走りはあんなもんじゃないはずだ。今日に至るまでにどんなスケジュールで練習していたんだ?」
そんな声を受けてもなお、目の前のトレーナーはさらに距離を詰めて、感情のこもった声で迫ってきた。
その感情の色が心配であることは、余裕のないエイシンフラッシュにも理解できる。
だが、そんな声をかけられること自体に、エイシンフラッシュは心当たりがなかった。
「別に、特段のことはしていません。選抜レースに向けてより速く走れるように、自分で組んだスケジュールですが」
「それ、見せてくれないか?君ほどのウマ娘が、あれほど調子を落としていた理由がわからない。勝てる相手だったはずだ」
「……遠慮のない方ですね。こちらです、どうぞ」
まくしたてるように自分を気にするトレーナーへ、しかし自分を買っている内容の評価の言葉が零れて若干の興味がわいた。
興味1割、面倒9割で、エイシンフラッシュは自分が手にしていた手帳を開き、目の前のトレーナーに見せる。
それを食い入るように、真剣なまなざしで見るトレーナー。
ここで初めてエイシンフラッシュは、目の前の男性トレーナーの顔を、目を、正面から見た。
それなりに整った顔立ちに、幼さの残る目元。しかしその目は、どこまでも真剣で、真摯に感じられた。
冗談でも気まぐれでもなく、私と真剣に話をしているのだと、そう思える程度には…彼は、本気だった。
スケジュールに目を通し終えたのか、顔を上げて、その真剣なまなざしがエイシンフラッシュを正面から見据えた。
その瞳に見定められ、わずかに肩を震わせるエイシンフラッシュ。どき、と心臓が大きく一回拍動した。
そして、
「──きみ、自殺志願者?」
とんでもない言葉がその男から放たれた。
「……は、はぁ!?言っていいことと悪いことがあります!急になんてことをいうんですか!」
その言葉でエイシンフラッシュは感情が沸点に達した。
レースでの敗北、最近の調子の悪さも加味して、彼女らしからぬ大声で目の前のトレーナーと舌戦を繰り広げる。
「そうも言いたくなる!なんだこのスケジュールは…朝5時から練習して授業の合間にも練習して午後も練習して夜も自主練って。子供が持ってきたバイキングの皿か!」
「子供とは何ですか!選抜レースで勝つためにはより多くの練習をしなければならないのです!私には負けられない理由があって…」
「勝ちたいのはみんな一緒だ。けどこのスケジュールは多すぎる!まだ体の基礎ができていないこの時期に増やすにしたって限度がある!こんなんじゃ足に負担もかかるし休めなくて調子も落ちるってもんだ」
「っ、練習を多くしているのは理解しています!ですから練習後の朝と夜にそれぞれ13分ほどマッサージの時間を増やして、食事の量も増やして…」
「睡眠時間削ってるからマッサージも食事も効果が出ない!食事の内容ももしかして筋肉がつくようにタンパク質増やしてなんて話をしないだろうな?タンパク質を含む料理を増やすということは消化によくないものが増えるってことだ。胃腸も痛める。さらに筋肉痛をケアする休息時間も取れてないから悪循環だ。言ってしまえば無駄足でしかない」
「っ、く、う、ぅっ…!」
舌戦はエイシンフラッシュの旗色が苦しくなってきていた。
確かに、自分でもかなりきつめのスケジュールを組んだことは自覚している。
だが、それを無駄足と切り捨てられ、言葉に詰まったエイシンフラッシュは、いろんな感情をごちゃまぜにした涙を一粒、ぽろりと零した。
「なら…、なら、どうすればよかったというんですか……!私は、勝ちたいんです!!愛する両親のために、なにより、私のために…!!」
涙に乗せて想いが零れた。
自分では、自分の立てたスケジュールでは勝つことが難しいと指摘されて、エイシンフラッシュの剥き出しの感情が吐露される。
勝ちたい。
けれど、どうすれば勝てるのかが、私にはわからない。
怒りと無力感と精神的な疲労がごちゃまぜになって、涙が止まらなくなっていく。
涙を流して俯くエイシンフラッシュ。
ぽたり、と手帳に落ちる涙を見て、立華はやっちまったな、と内心で反省した。
だが、ここでかける言葉は中身のない慰めの言葉でも、謝罪の言葉でもない。
彼女が求めているのはそんなものではない。
勝利なのだ。
立華は、己の経験…それこそ理を外れた経験からくみ上げた、今の彼女に向けた言葉を口にした。
もちろん、エイシンフラッシュが興味を引いてくれるように、最初は彼女らしい伝え方で。
「……まずは痛めつけた筋肉が回復する時間が必要だ。現在の君の脚を見る限り、おおよそ52時間から55時間。休息のための睡眠時間は22時から8時間程度が望ましい」
「……え?」
「今日は部屋に戻ったらとにかく足をマッサージすること。13分といわず25分から30分はやってほしい。大腿筋周りを重点的に足首の柔軟も忘れずに。君の脚は君が思っている以上に疲労している。睡眠時間はさっき言った通り、眠りが浅くなりそうならトリプトファンを多く含む食べ物をとるべきだ。納豆は好きかい?栄養バランスが極めて優れた食品だからよかったら今日の夜にでも食べてくれ。で、起きてからまたマッサージだ。前日の夜にしっかりと足回りをマッサージしていれば朝には筋肉痛が顕著に表れるころだろう。その筋肉痛が日常生活を営む中で完全に抜けるまでそこから40時間程度はかかる見込みだ」
「………えっと、あの?」
「その時間は走ることはせず、レースの研究時間に充てよう。後で俺から君に参考になるレースのデータを送るよ。LANEやってる?フォローするから」
「あ、はい」
唐突に自分のスケジュールをリスケされ、なおかつ内容が非常に
フリーズしたままに促され、エイシンフラッシュがウマホのLANEの画面を差し出し、それをトレーナーがタブレットで読み取りフォローする。
「ありがとう。ついでに筋肉痛が回復するまでの食事メニューも夜までには送っておくので参考にしてくれ。筋肉痛が抜けるであろう55時間後からは改めて肉体的なトレーニングも再開するべきだが足への負担がかかる練習はまだ避けるべきだ。というより君はすでに未デビューのウマ娘の中では断トツに早く走れる脚をもっている、なんなら走るトレーニングは一切中止にしてもいいくらいだ───」
「あ、の?トレーナーさん?」
「───焦る必要はない。早く走れるその脚力を地面に伝えられるように体幹トレーニングを中心に組もう。また同時にメンタル面のケアもしたほうがいい。次回の選抜レースは参加せずに土日で好きな時間を過ごして気分転換をしてみよう。気分転換による精神的な安定はレースに影響が出ることは数々の論文が証明している通りで───」
「……………………その」
「───来週からの練習には温水プールをとりいれるべきだな。あれは足への負担が少なく、かつ水の中で足を動かすことで拘縮した筋肉をほぐす効果も得られる。特にこの時期は大きなGⅠも少なく選抜レース前ということもあって君のように走りたがるウマ娘が多いから予約も問題なく取れるだろう。今週中には申請をしておいてくれ。監督官は教官に依頼すればやってくれる───」
「……………………………その、トレーナーさん」
「俺なりに君のスケジュールをここ3週間分は組んでみるが、足を酷使しないことや練習量自体を増やさなければある程度自分でも組みなおしてみてほしい。3週目のレースに出走するかは君次第だけど、そこまでやっても君本来の完調の状態には戻っていないだろう。個人的には4週目でのレース出走をお勧め───」
「─────────トレーナーさん!!!!!!」
「したァい!?んがっ…!な、何かな…!?」
まくしたてる立華の言葉に、あっけにとられて──いや、内容は聞いており、大変参考になるものでもあったが──止まらないそれに、エイシンフラッシュが大きな声を出す。
耳元でウマ娘の声量を直に浴びた立華はその衝撃を食らって一旦言葉を区切った。変な声は出たけど。
大声で目の前の、すでに認識は「ヤバいトレーナー」となっていたその男のスケジューリングを止めることに成功したエイシンフラッシュは、はぁああ、と大きなため息を出した。
…いつの間にか、先ほどの怒りやら何やらが霧散していた。
いや、一度思い切り吐き出せたからなのかもしれない。そこに情報を洪水のように渡されて、さっきまでのイライラするような不安はどこかへ流されて行ってしまった。
「……大変、参考にはなりました。ですが、私はまだわからないことが一つあります」
「ん、どこの部分だろう。根拠つけて説明してもいいけど」
「説明のことではありません!…いえそれも後で確認させていただきますが、それよりも……」
そう、説明の内容ではないのだ。
エイシンフラッシュが今持っている疑問、それは。
「───なぜ、私のことをそんなに気にかけてくださるのですか?」
その一点に尽きた。
なぜ、どうして私に?
調子を出せず、先ほどのレースも8着と下から2番目、何もいいところも見せられなかった私に。
その問いに、ふむ、と立華は思考する。
ぱっと思いつく理由は簡単だ。彼女をこの世界が始まる前から知っていたから。
もちろんそんなことを口にするつもりはない。これ以上彼女を混乱させたら宇宙に思考が飛び立つことは明白だ。スペースフラッシュの誕生である。
だから適当な理由を作ってそれを言葉にしてもいいが……それは躊躇われた。
なぜなら、それは嘘をつくことになるから。
ウマ娘に対して真剣にかける言葉に、嘘を混ぜたくない。
それは信念を超えて呪いになりえるレベルで、立華の性根に刻まれていた。
その言葉の責任を取るために、何度でも、何度でもやり直したほどに。
だから、今の自分の気持ちで嘘ではない思いを伝える必要がある。立華は少し思考の渦に沈む。
そもそも、エイシンフラッシュが心配でついてきたのだって、彼女があまりにも調子が悪そうにしていたからだ。
これが調子を崩さずに普通にレースを走っていれば、懐かしむことはあってもここまで世話を焼いてはいない。
だから調子が悪かった君が気になって……いや、これだと弱いな。他のウマ娘だって調子を崩しながらも選抜レースに出走していた子もいる。
であれば更なる理由…そもそもエイシンフラッシュがまず目についたことからか。彼女の末脚は本当に素晴らしいもので、見ていて美しさすら感じるほどだ。
まだ鍛え切っていない状態の今の彼女の脚を見ても、明らかに末脚に使う大腿四頭筋が発達している。もはや生まれ持った才能なのだ。
今回は不運にも調子が悪くほかのトレーナーの目には留まらなかったが、彼女が彼女らしく走れていればそれこそスカウトなど選り好みできるほどに集まっていたはずだ。
ふむ。
つまり俺は。
そんな「一目」でわかるほどの「惚れ惚れする」くらい素晴らしい末脚を持つ彼女が、理由もわからず調子悪そうにしてたから追いかけたわけだ。
これをシンプルに表現して伝えればいいな。よし。
「君に一目惚れした。そんなウマ娘が、調子を崩して走れてないのを黙って見過ごせなかったんだ」
「…ッ!」
よし!うまく話せたな!
書き溜めたストックあるのでしばらくは毎日更新していく予定です。
メインウマ娘が揃うまでが…揃うまでが長い…!