「すぅ…………はぁ………」
フラッシュが控室でオニャンコポンに顔をうずめて深呼吸をしているのを、俺は黙って眺める。
ゲン担ぎという意味でも、緊張をほぐすためにも、これからもオニャンコポンは酷使されるようだ。
お前の存在がチーム『フェリス』を支えているぞオニャンコポン。頑張れオニャンコポン。
「……ふぅ。…よし、準備は万端です」
「緊張は解れたか?」
「はい。何も問題はありません。やる気に満ち溢れています」
ふ、と笑顔を作るフラッシュの顔と、しっぽの揺れを見て、俺は彼女が強がりではなくしっかりとリラックスできているのを悟った。
年間チーム全勝が掛かった、GⅠのレース。
そんなプレッシャーがかかりかねない状態であっても、しかし彼女は冷静だった。
これまでに積み上げた、練習とレース勝利の実績が、彼女の精神を強く鍛え上げていた。
「フラッシュさん、頑張ってね!」
「フラッシュちゃんが最後に決めて、チーム全勝で今年を飾るの!頑張って!」
「はい。二人ともありがとうございます」
3人もそれぞれに激励を送りあい、さらにモチベーションが高まっていく。
この調子であれば、今日のレースは好走を期待できるだろう。
さらに、今日のレースはこちらに有利な要素がある。
それはレース場のコンディションだ。
雨こそ降っていないが、前日のにわか雨により今日の発表は重バ場となっている。
ジュニアの精鋭たちが集まるGⅠレースと言えど、重バ場では相当脚が取られる。レース展開は遅めになるだろう。
だが、体幹を鍛え上げた我が愛バ達は違う。
重バ場でも難なく、その豪脚を芝に伝えきることができるように鍛えてある。
「…トレーナーさん。最後に、おまじないをしてもらっていいですか?」
「ん…ああ、いいよ」
フラッシュのおねだりを受けて、俺はフラッシュの額に人差し指と中指をそっと触れさせる。
そして、呟くように、3度のノック。
『─────toi、toi、toi』
『……ありがとう、トレーナーさん。貴方の為に、誇りある勝利を』
『信じているよ、
『ッ…ええ、
彼女の母国語でやり取りをする。
その内容は、恋愛に情熱的な彼女の母国ではよくあるやりとり。パートナーたる相手へ向ける、親愛の言葉。
他の二人がぽかんと首をかしげているが、大舞台を控える彼女に対して、これくらいの激励は許されるだろう。
「……ゴール前で、待ってるよ」
「はい。……時間ですね」
出走時間ちょうどであることを彼女が懐中時計で確かめて、同時に呼び出しのノックが鳴る。
レース場へ向かう彼女を見送り、俺は観客席に向かうのだった。
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────────────────
ゲート前に、ホープフルステークスに集まるウマ娘達が集まっていた。
エイシンフラッシュは、少し水気の残る芝の踏み心地を確かめながら、これから走るコースの先、ゴール板を見る。
(必ず、あの場所へ私が一番に)
強い意志を込めて、それを己の心のうちに溶かす。
ひどく落ち着いている自分が理解できている。
これまで出走したレースの中でも最高の仕上がり。
油断はない。
慢心もない。
ただ、勝つ。
私の為に、家族の為に、チームの為に、そして彼の為に。
「フラッシュ先輩」
そんな、集中した状態の彼女へ声をかけるウマ娘がいた。
このレースで2番人気となった、一番のライバルになるであろうウマ娘。
ヴィクトールピストだ。
「…ヴィクトールピストさん」
「先輩。………
宣戦布告。
その言葉をヴィクトールピストはエイシンフラッシュに投げかけた。
彼女たちがレースで雌雄を決するのはこれが初めてである。これまで、トゥインクルシリーズのレースでは彼女たちは同じレースに出走していない。
ヴィクトールピストはマイルも走ることができたため、ここまでの実績は主にマイルレースで積み上げて来ていた。
しかし。
選抜レースでレコードを更新されたことが、ヴィクトールピストの感情を逆なでしている。
あの時の借りを、今こそ。
「…ええ、私も負けるつもりはありません。正々堂々、勝負をしましょう」
「はい。…あとは、脚で語ります」
短く言葉を交わしたのちに、ヴィクトールピストが先にゲートインのためにゲートへ足を向けた。
エイシンフラッシュは、彼女と言葉を交わしたことで…集中をより高め、負けまいと。
彼女にも勝利し、誇りある勝利の為に。
「……参ります」
一つ、小さく深呼吸をして。彼女に続くように、ゲートに入った。
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────────────────
『さぁ最後のウマ娘がゲートに入りました!年末最後のGⅠ!ホープフルステークス………スタートですっ!!いいスタートを切ったのはやはりこの二人!ヴィクトールピストとエイシンフラッシュだ!!』
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ヴィクトールピストは、順調なスタートを決めて周囲のウマ娘の動きを観察しながら、自分は先行集団の前目についてレースを進む。
彼女の脚質は、逃げも先行も差しもこなせる万能脚質だ。
だが今日は先行でのレースを選んだ。
(フラッシュ先輩と差しでやりあうのはよくない……私は、同じ位置からよーいドンしたら、彼女にまだ勝てない)
ヴィクトールピストは、冷静にお互いの戦力差を把握していた。
差しでの加速勝負になったら勝てない。
悔しいが、彼女の末脚は本物である。
だが、それに勝てないからと言ってレースに勝てないかと言われたらそれは違う。
同じ走りをしたら勝てないのであれば、違う走りをすればいい。
彼女より前目につけた先行策。
そこで、自分の周囲のウマ娘をコントロールする。
そうして飛び出すタイミングを計り、彼女よりも先に加速する。
閃光の末脚に差し切られる前にゴールに飛び込めば、私の勝ち。
(負けない…!そのためには、まず…周りからっ!)
ヴィクトールピストは、周囲を走る先行集団のウマ娘へ向けて『圧』を飛ばす。
ジュニア期のウマ娘とは思えぬ強い走りの圧に、周囲を行くウマ娘達に動揺が走る。
それは掛かりを生み出して脚を使ってしまったり、もしくは委縮して速度を落としてしまったりなど、様々な効果を生む。
それにより、先行集団の動きがブレて…その中で、位置取りを確かにしたヴィクトールピストだけが自分のペースを守って走る。
崩れだした先行集団は、差し集団へも少しずつ影響を生んでいく。
(これだけ『揺らせ』ば、フラッシュ先輩もそううまくは走れないはず…!私が勝つんだ!)
こうして、後方に牽制をかけながら、ヴィクトールピストは自分が抜け出す最高のタイミングを探し続けた。
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────────────────
───────見える。
エイシンフラッシュは、己の周囲のウマ娘、そしてその先の先行集団、さらに先を走る逃げウマ娘達を見て、それらの動きがすべて読めるような、己の高い集中状態を理解した。
スタートも全く問題のない好スタートを切れた。
最初の位置取りも、ここしかないという差し集団の前目、好位置をキープ。
走る自分の息遣いが、まるで完璧なスケジューリングを達成できているかのように把握しきれている。
使っている脚の筋肉、心臓の拍動、溜めていく末脚のパワーまで、手に取るようだ。
トレーナーとの控室での最後の会話が、自分の心に明鏡止水を生んだのだろうか。
(……見えています)
先行集団が今、ヴィクトールピストの圧を受けてかなり混乱しているが、それすらもエイシンフラッシュの読みの内。
かかるウマ娘、委縮するウマ娘の動きを読んで…その先、自分がどう走るべきか、イメージがはっきり見える。
その先の走りが見える。
まるで、
(…わかる。私は、ここで、きっと)
1000mを通過して、差しの集団が先行集団の混乱を受けて若干掛かりだすように加速するが、それに乗るような精神状況ではない。
絶好調。そう表現してもいいくらい、エイシンフラッシュの集中は高まっていた。
(………!!)
最終コーナーに向けて、しっかりと足を溜めながら走っていたエイシンフラッシュの眼前、先行集団が徐々に垂れてきたところの、その先。
(これが…この道が、私の……!!)
それは、彼女の目覚めの瞬間。
スタートからずっと、極めて高い精神集中状態を維持したまま走る事で見える、
その道に自分の走行ラインを乗せるために、臨機応変にコースを変える。
ヴィクトールピストが最後の直線へ向けてコーナー途中から加速を始めたようだが、最早関係がない。
(……行ける。このまま、更なる高みへ……!!)
先行集団のバ群の先、細いラインにイメージが乗った。
さらにその光に、
まるでレイピアのように細く、しかし確かな勝利へのラインへ。
己の末脚を完璧に発揮できる、その光へと意識を細く鋭く、より深く集中する。
ただひたすら、それだけに。
─────────次の瞬間。
エイシンフラッシュの視界が、衝撃と共に闇に染まった。
────────────────
────────────────
『さあレースも残り500mを切った!!徐々にだが大胆に加速をしていくヴィクトールピスト!逃げるウマ娘達は大丈夫か!?そして先行集団からさらに後方、とうとう来たぞ1番人気エイシンフラッシュッ!!すさまじい加速だ!!今その閃光の────』
『────ああっと!?!?急にエイシンフラッシュが減速したぞ!?そんな!?どうしてしまったのかっ!?アクシデント発生です!!!』
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────────────────
「────フラッシュ!?」
俺は、ゴール前の観客席で、今にも
顔を伏せたフラッシュがしきりに己の目元を袖口で拭っている。
「わ、わ!?フラッシュさん!?大丈夫!?」
「目元を…!?前から飛んできた泥が目に入ったの!?」
「……くそっ!!」
恐らくは、先行集団を抜かそうとする際に……重バ場であるこのレース場の、蹄鉄によりえぐられ飛んでくる泥芝が彼女の顔に当たったのだろう。
当たるだけならばよかったが、ああして目元をぬぐっているとなると目に入った可能性が高い。
レースに絶対はない。
そんな言葉が、俺の脳裏に浮かぶ。
「…アイネス!急いでクーラーボックスに水を入れて来てくれ!満杯にだ!レース後にフラッシュの目を洗う!!」
「は、はい!!」
俺はレース観戦時に足元に常に準備しているクーラーボックス内のペットボトルから真水だけ取り出して、残りを捨てて空のボックスをアイネスに渡す。
ファルコンにはタオルを持たせて、俺はフラッシュが苦し気にゆっくりと集団から離れていくのを見た。
コーナーの内側へ向かおうとしていない。
外側へ。誰もいない方へと、彼女が足を向けていた。
恐らくは周りのウマ娘に迷惑になるまいと、せめて外側へ体を持ち出したのだろう。
「フラッシュ…!」
俺は彼女の名を叫ぶ。
人には、ウマ娘には反射という能力がある。目に飛んできたものがあっても、咄嗟に目を閉じてガードするようにできている。
しかし今彼女たちがいるのは、人外の領域。
時速60kmを超える速度で走るレースの最中なのだ。
水分を含んだ泥が目に直撃していれば、万が一もあり得る。
「無事でいてくれ…頼む……!」
もはやレースどころではない。
俺は思わぬアクシデントに歯をかみしめながら、ただ彼女の走る先を見た。
そして、その姿を見て。
心臓が止まるかと錯覚した。
──────────────加速している。
────────────────
────────────────
「ぐっ……!?」
急な衝撃。そして、視界が奪われる驚愕。
一瞬後に来る、瞳の痛み。
顔に泥が跳ねてきたのだと、エイシンフラッシュはこの瞬間に思い至った。
顔全体、寸での所で瞼は閉じていたが、それでもわずかに泥は眼球に入っていた。
「…く、う………っ!」
袖口で顔の泥をぬぐう。しかし恐らく、両目に泥が入った。
しびれるほどの激痛ではない、眼球に直撃はしてないようだが……それでも反射で涙が止めどなく零れてくる。
先ほどまで見えていた、己の走る光など見えるはずもない。
ただそれのみを捉えていた極限の集中が霧散する。
(……駄目、右目は見えない…!左目も、ぼやける…!)
ちょうど右側にコーナーを曲がっている際の事故だったため、右側から泥が跳ねてきたのだろう。
右目は泥が入った痛みで涙が止まらずほぼ視界を失った。
左目も涙がこぼれているが、袖口で拭ったことでぼやけた視界がわずかに見える。
(…いけない!)
そこで、エイシンフラッシュは冷静さを取り戻した。
今はレース中、最終コーナーに向けて全員が加速を繰り出す最中。
ここで視界を失った自分が止まったり、急な進路変更などすれば、他のウマ娘と接触する恐れがある。
そうなれば更なる大事故だ。
それだけは、何としても避けなければならない。
(……外へ!誰も、いないところへ…!!)
斜行にならないように、努めて緩やかに自分の行く先をコーナーから離れて外へ向ける。
誰の迷惑にもならないところへ。
ギリギリ見える左目で、ぼんやりとにじむ視界の中で、少しずつ、少しずつ左へ、膨らむ。
向かう先は、外ラチだ。
─────
(諦めません)
不幸な事故だ。
誰が悪いわけでもない、重バ場でなくとも起こりえる、レース中にはよくある事故。
たまたま、それが自分の身に降りかかっただけ。
前を走る他の走者を恨むつもりもなければ。
レースを諦めるつもりも一切ない。
たかが、
(諦めない、絶対に)
再度、加速を始める。
大外のさらに大外を回るように最終コーナーを駆け抜ける。
レース場の歓声は、恐らくは1番先頭を走るヴィクトールピストへ向けられたものと、私へ向けられた困惑の叫びだろう。
彼女がどこを走っているのかもわからない。
一度減速した自分が、差し切れるかもわからない。
───けれど。
チームの栄光を諦めない。
私の敗北を受け入れない。
まだ、レースは終わっていない。
(────見えた!外ラチ!!)
左目の、わずかな視界の向こうに、白い外ラチが見えた。
その向こうに、観客席。
きっと、ゴール前の
私のことを心配してくれているのは間違いない。
もしかすれば止まれと叫んでいるかもしれない。
レースを諦めても、慰めてくれるかもしれない。
けれど。
私は、貴方と。
勝ちたい。
「────っうわあああああああああああああああああああああ!!!!!!」
魂を燃やす雄叫びを上げて。
一筋の閃光が、外ラチ沿いを
────────────────
────────────────
最終コーナーを抜けて、直線に入り、己の末脚で更なる加速を繰り出し先頭を走るヴィクトールピストは、観客席が不意にざわめくのを耳にした。
これは、自分に充ててのものではない。
恐らくは後方から迫ってくるエイシンフラッシュへのもの。
しかし…その声が、ただならない。
明らかに歓声としては適切ではない、その声色。
(何かあった!?フラッシュ先輩は──)
今、ヴィクトールピストは全速力で上がっている最中である。
本来は、振り返ることは加速の妨げになり、取るべき手段ではない。
だが、それでも。万が一という可能性があり、そしてヴィクトールピストはその思考を無視できるほど心が冷たいウマ娘ではなかった。
出来る限り減速を抑えながら、首だけ振り返り後方の様子を確認する。
そこには。
本来迫ってきているはずのエイシンフラッシュの姿が、どこにもなかった。
「っ!フラッシュ先輩…!?」
おかしい。
間違いなく、いるはずなのだ。
自分を差し切るために来ているはずのエイシンフラッシュの姿、しかしどこにも見えなくて。
残り200m。
他のウマ娘の間に隠れているかと目を凝らすが、そこにもいない。
どうして?
まさか、転倒?無事なのか?
徐々に不安が頭をもたげる。
「……くっ、でも!!」
しかし、今はレースの最中である。
GⅠレースなのだ。
本心からの心配はあっても、それでも途中で止まるわけにはいかない。
ヴィクトールピストは自分の最大のライバルである彼女の不幸を呪い、勝負できなかった悔しさを胸に、しかしそれでも、いやだからこそ己が一着を取り切るために、再度その脚に力を込めて加速する。
正面を見据えなおして、誰もいない、本来ならば後方から閃光の足音が聞こえて来ていたであろう最終直線を駆け抜ける。
(残念です先輩、この直線で本気の勝負がしたかった…!)
どうか無事でいてほしい、と祈りながら、不幸に見舞われたであろうライバルに捧げるべく加速を果たす。
残り100m。
後続の他のウマ娘達との差は明らか。
足音は自分のほかには聞こえない。
このまま駆け抜けて、虚しさの伴う一着になる。
はずだった。
(──────────────ッ!?!?)
圧が。
豪脚が響かせる足音が。
その、彼女の閃光の末脚が。
「………ぁぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!」
普段は物静かなエイシンフラッシュの、その雄叫びが恐ろしい勢いで迫ってくる。
声が徐々に大きくなっていく。
どうして?なんで、そんなところに?
えも知れぬ、震えるような感情に襲われたヴィクトールピストは、それから逃れるようにさらにゴールへと加速する。
その感情は、何と表現すればよかったのだろう。
諦めなかった先輩への尊敬?
いないと思っていた相手が急に来たことの驚愕?
それとも。
震えあがるような圧に押された、恐怖?
「……う、っあああああ!!!」
すべてを振り払うように、ヴィクトールピストもまた雄叫びを上げて。
己の視界に黒い閃光が映る前に、ゴールを駆け抜けんと加速した。
────────────────
────────────────
『大外から!』
『大外から!!!』
『大外からエイシンフラッシュがぶっ飛んでくるッッ!!!!』
『すさまじい末脚ッ!!!まさに全身全霊の走りだ!!』
『しかし!!ゴールはすぐそこだ!!届くのか!?ヴィクトールピストに届くのか!?』
『これはどうだ!?際どいぞ!!ヴィクトールピストが粘る!!さらに加速!!!』
『残りはもうない!!ゴールは目の前だ!!』
『今ッ!!!』
『────────ヴィクトールピストが一着でゴーーーーーーーーールッッッ!!!』
────────────────
────────────────
「…………はぁっ!!はぁ、はぁ、はぁ…ぐ…!」
ゆがむ景色の外ラチの向こうから、あの人の声が聞こえた気がした。
直後、大歓声が沸き上がったことで、誰かがゴールしたことをエイシンフラッシュは確信する。
それは、自分だったのだろうか。それとも、他のウマ娘だったのだろうか。
わからない。
クールダウンの為に足を緩めて速度を落としたところで、目の痛みが意識の内に戻ってきた。
レースの高揚で痛みを無視して無理に開いていた左目も、更に涙が溢れて最早視界が定まらない。
走るどころではなくなり、足を止めると、そのまま疲労で膝が自然に折れた。
手を地面につけて四つん這いの状態となり、ただぼろぼろと芝に涙がこぼれていく。
そんな、苦しい思いをしていると。
「───────フラッシュ!!!」
自分の名前を呼ぶ、聞きなれた声。
それが、初めて聞く声のように、焦燥感をもって、エイシンフラッシュの耳に入ってきた。
────────────────
────────────────
「フラッシュ!!大丈夫か!?」
俺はすべてのウマ娘がゴールを駆け抜けたことを確認してすぐにラチを越えてコースに入り、エイシンフラッシュに駆け寄った。
彼女はクールダウンをするほどの余裕もなく、その場で地面に臥せってしまうほどに消耗していた。
それはそうだろう。視界がほぼゼロの状態で、外ラチだけを頼りに全力疾走をしたのだ。普段の何倍もの負担が彼女には掛かってしまっているはず。
「体を俺の腕に預けろ!……横になってくれ、今、顔に水を流す…!」
「フラッシュさん!!しっかりして!?」
俺はフラッシュを抱きかかえ、顔が地面と水平になるように横たえ…まず手持ちのペットボトルの真水を、彼女の顔の横から流してかけてやる。
人間ならば耳に水が入ってしまうような姿勢だが、ウマ娘である彼女にその心配はない。
正面や上から水を流すよりも、泥が横に流れるので奥に入り込む心配が少ないため、このような手段を取った。
「うっ、つ……」
「痛むか?…まず、ゆっくり瞬きするんだ。手にも泥がついてるから今は触るな」
「は、い……トレーナー、さん……私は…」
「無理に喋るな。今は君の瞳が何よりも重要だ」
「……私は…負けたんですか……?」
「………フラッシュ。君は…」
「トレーナー!!水入れて持ってきたの!!」
フラッシュの言葉に返す言葉を探していると、アイネスがクーラーボックスになみなみと水を入れて走って持ってきてくれた。
人間にはかなりの重さに感じるであろうそれだが、彼女はウマ娘である。素晴らしく早い対応だった。
「よし、アイネス。そこにクーラーボックスを置いてくれ!」
指示を出して、フラッシュのすぐそばにクーラーボックスを置いてやる。
そうして、俺は残るペットボトルの水でフラッシュの手に着いた泥も落としてやってから、彼女の手をそっと握り、クーラーボックスへ導いた。
「…フラッシュ、ここだ、水を張ったから目をゆっくり洗って。酷く染みるようなら言ってくれ」
フラッシュのおぼつかない手が俺の導きでクーラーボックスへとたどり着き、水に浸してからゆっくりと顔に水をかけ始める。
ぱしゃ、ぱしゃ、と何度か水を掬い顔にかけることで、彼女の顔からも泥が殆ど落ちてきた。
しばらくそうして顔を漱いで泥を落としたフラッシュは、ファルコンからタオルを受け取り、顔全体をぬぐう。
タオルから顔を放した彼女は、ゆっくりを目を開き、俺の方を向いた。向ける程度には、視界が戻ってきていた。
「フラッシュ、目は痛むか?見えるか?開いてて違和感はないか?どうだ?」
「…はい、まだ若干の異物感はありますが…開けない程ではありません。痛みもかなり落ち着いてきました。視界も問題なく戻っています」
「そうか…!……よかった……フラッシュ、こっちを向いて」
「はい」
泥を洗い落としてなお激痛が走るようであれば、眼球に傷がついている可能性が高かったが…どうやらそうではなかったらしい。
俺はとにかくその一言で胸をなでおろして、直に瞳を観察する。
鼻が触れ合いそうなほどフラッシュと顔を近づけて、目の周り、瞼を優しく触れて指で開き、傷がないか目で確かめる。
「…その、トレーナーさん」
「ん、痛むか?少し我慢してくれ、奥まで傷がないか…」
「いえ、痛みは…ではなく、近くて……私、今、泥で汚れて…」
「関係あるか。君の瞳が一番大切だって言っただろう」
片手で彼女を支えながら、もう片手で彼女の両眼をしっかりと診る。
当然だが、俺には医学の知識もある。1000年近くトレーナーをしていれば、専門知識を修めるのに時間が足りないということはない。
よく診察をすれば、先ほどまでの泥の混入によりかなりの充血は見られるが、出血してる箇所や血だまりなどはない。
彼女の宝石のような瞳が、壊れてしまっていることはなさそうだ。
「……大事はなさそうだ。だが、この後すぐ医務室に行くぞ」
「っ…はい。それは、自分でもわかっています。ですが…」
「………フラッシュ」
彼女は俺の腕の中から離れ、そっと顔を
着順掲示板のほうを、見る。
そして、回復した己の眼で、2着に表示された自分の番号を認識した。
「……ああ。私は、負けたのですね」
「…ヴィクトールピストと1バ身差だった。君は2着だ、フラッシュ」
「………そう、ですか…………っ……!」
そうして、自分の敗北を悟ったことで、泥の混入によるものではない、悔しさからくる涙がまた彼女の瞳からこぼれ落ちる。
今の状況で、涙を流すことは悪いことではない。目の自浄作用であり、深い位置の泥を落とすには涙をこぼすのが一番ではあるからだ。
だが、それでも。
俺は、彼女に泣いてほしくない。
「フラッシュ。俺は、君が誇らしい」
「…っ、トレーナーさん…?」
「俺は、君が不幸にも泥が目に入ったのを見て…本当に心配した。そして、外に向かう君を見て、レースを中止するものかと思っていたんだ。適切な判断だし、責めるつもりもなかった。レースに絶対はない、それが今回は俺達に降ってきた。こういうことは、レースやってれば珍しい事じゃない」
「…でも、私は」
「そうだ、君は諦めなかった。まず、周囲に迷惑をかけまいと君は集団から離れた。大外に、誰もいないところへ足を向けた。とても冷静だった。……そして、そのうえで諦めていなかった」
「………」
俺は、彼女の走りを見た俺の想いを彼女に伝える。
今、彼女に泣いてほしくない一心で。
俺が、君のことを心から尊敬していることを、伝えたくて。
「どんなに不遇の状況で追い詰められたとしても、諦めなかったんだ。君はほとんど失った視界でも、外ラチを頼りにして最後まで走り抜けた。1バ身の所まで詰め寄るほど、君は全力で駆け抜けた。……これが誇らしくなくて、なんだ?」
「ですが…っ、ですが、勝てませんでした!私は、負けてしまって…!!チームの、年間全勝も、GⅠ全制覇も、でき、なくて…!!」
「
「…ッ!」
「
「……トレーナー、さんっ…!私…!…う、あ、ああ…っ!!」
俺の想いをすっかりと伝えたところ、どうしてか、彼女は俺の胸に飛び込んできて、そのままさらに涙を流すこととなってしまった。
俺はただ、今日の君を誰よりも誇りたいだけなのに。
君の誇りある敗北を、心から誉めたいだけなのに。
しかし、腕の中に納まった彼女に対して泣き止めと言っても逆効果だろう。
俺は彼女の頭を優しく撫でて、落ち着かせてから、言った。
「…悔しいよな、それでも。だから、次こそ勝とう。君がクラシックで勝ち抜く姿を、俺に見せてほしい」
「……はいっ……はい…必ず……っ!!!」
何度も頷くように、俺の胸元に頭をうずめるエイシンフラッシュ。
しばらくそうして、彼女が落ち着いてから、改めて俺は彼女らを連れて医務室に向かったのだった。
この世には、勝利よりも勝ち誇るに値する敗北がある。
~ミシェル・ド・モンテーニュ~