「ふぅ……今日のケーキも、とても美味でした」
「お口に合ったようで何よりだ。コーヒーのお代わりはいるかい?」
「いただきます。砂糖とミルクは…」
「いつもの量、でいいだろう?」
エイシンフラッシュは、彼女のチームトレーナーである立華の家で、彼と共に午後の穏やかな時を共に過ごしていた。
今日はGWの中日、世間では祝日と呼ばれる一日である。
もちろん、5月にダービーを控える彼女らチーム『フェリス』は、今日もトレーニングを行っていた。
しかし、トレーニングとは一日中ずっと行うものではない。
特に立華の指導方針としては脚に負担をかけずに効率的に短時間で集中して鍛え上げることを目的としているため、練習の多くが半日で終わるものとなっていた。
そのため、GW中の練習日もそれぞれ半日はウマ娘達も立華も自由な時間が取れる。
そんな余暇の時間を、ウマ娘達は1日に一人ずつ、彼と共に過ごす時間として使いたいと希望を述べた。
勿論、ウマ娘の希望を断るはずもない立華はその願いを聞き届け、こうして二人でゆっくりと午後の時間を過ごしていたのだ。
エイシンフラッシュの今日のプランは、昼食を二人で共に取ったのち、立華の知るケーキショップへ行っておすすめのケーキを購入。
その後彼の自宅でケーキを味わいつつ、ゆったりと午後を過ごして、夕飯を振舞ってもらい帰宅、という落ち着いたものであった。
無論ではあるが、そのプランは秒刻みで正確に時間管理がされている。エイシンフラッシュの癖のようなものに、しかし立華は笑顔でそれを受け入れて見事なタイムキープを見せていた。
「…ふぅ。それにしても、本当にトレーナーさんのお店の知識には驚かされます。あんなところに、これほど美味しいお菓子を作るお店があったとは…」
「学生時代にこの辺りはよーく遊び歩いていてね。どんな店があるか見て回ってたもんさ。…こうして君の為に役に立って何よりだ」
「ふふ、私も新しい味を体験できたのでよかったです」
エイシンフラッシュは、今日買ってきたケーキ…その店がかなり奥まったところにある穴場ともいえるような店で、しかしそれを立華が知っており、そして味の方も見事なものであったことに驚きを隠せなかった。
とはいえ、そういった驚きはこの立華という男と過ごしていれば日々の中でよく感じるもの。
このトレーナーは一部の生徒の間ではスパダリという評価を得ており、その風評の通り、趣味や特技、ウマ娘が食いつきそうな知識をどこまでも潤沢に備えているのだ。
よほど学生時代は精力的に活動されている人だったのだろう。その分、今は落ち着いたという所だろうか。
エイシンフラッシュはそのように理解を落とし、しかして自分の趣味であるお菓子関係にも明るいこのトレーナーへの信頼は深かった。
しかし。
今日のエイシンフラッシュの真の目的はこのお菓子ではない。
彼の家で二人きり*1の時間を過ごすことも大切だが、本題はそこでもない。
この二人きりの状況で、彼に
「…さて、トレーナーさん。実は私、最近新しく覚えたことがありまして」
「おや。フラッシュからそういう風に話すのは珍しいね。どんなことだい?」
「ええ……催眠術、というものなのですが」
「そっかぁ」
「今日はそれをトレーナーさんに試してみようと思いまして」
「そっかぁ……」
そう、催眠術である。
というのも、話は昨年末、大晦日の日にここでエイシンフラッシュが信頼するトレーナーに裏切られた、あのASMR催眠ボイス事件にまでさかのぼる。
あの日に催眠ボイスで眠りにつかされてしまったエイシンフラッシュは、二人きりで年を越せるチャンスを奪われたこともあり、何気に根に持っていた。
そして年が明けてから催眠術の本などを読み漁り、簡単な催眠術のやり方を覚えてきたのである。
今日はそれをここで披露し、トレーナーにやりかえしてやるとともに、彼の本心を聞いてみよう、という目的をもって彼女はここをデートスポットに選んだ。
「…その、だな。基本的に俺はあんまりそういったものを信じない性質なんだ。もしかするとうまく掛からないかもしれないぞ?」
「おや、先日ここで私を見事に眠らせてくれたではないですか。あれはたまたまだったんですか?」
「あれは君が眠かったという前提がある…俺はケーキと共にコーヒーを飲んだばかりだぞ?そうそう眠くは…」
「大丈夫です。その程度で掛からないような催眠ではありませんので」
「大丈夫とはいったい」
「では、さっそく始めさせていただきますね」
「やる気が絶好調をキープしているね?」
そんなやり取りをもって、エイシンフラッシュが立華が座るソファの隣に移動して催眠術の準備を始める。
立華も言葉の上では遠慮気味な様子を見せても、しかし彼はクソボケである。愛バが年頃の女の子らしい悪戯を仕掛けたがっているのを見て、全力で拒否などしようはずもない。
「…まぁ、好きにやってみなよ。掛からなくてもがっかりしないでね」
「ええ、大丈夫です。では始めます………立華、勝人さん」
「っ…」
耳元で、エイシンフラッシュのウィスパーボイスで自分の本名を囁かれて、立華は奇妙なむず痒い感覚を覚えた。
なにせ彼女の声はとても透き通っており綺麗な色をしている。立華はエイシンフラッシュの、その魅惑のささやきに耳を、心を奪われ始めた。
信頼する愛バの声に、意識をゆだね始める。
彼はチョロかった。
「リラックスしてください……ゆっくり、ゆっくり力が抜けていきます……立華さん……あなたは、とても安らかな気持ちになります……」
「………う………ん………」
「大丈夫……力を抜いて……私がついています………心配しないで………そのまま、貴方はとても気持ちよくなる……気持ちよい、幸せな気持ちになる………」
「…………………」
「……幸せな気持ちになって………とても心が落ち着いて………静かに……静かに………意識が落ちていきます……立華さん………あなたは……静かに……意識を落として……そうして……」
「…………………────────」
「────────そうして、私の質問に嘘がつけなくなります」
こくり、と立華の頭が落ちるのを見て、エイシンフラッシュは自分の催眠が成功したものと捉えた。
そうして、その後の命令付けする一言目にまず嘘をつけない制約をかける。
催眠術の本には、こうして相手を催眠に落とした後に最初に言った命令が、10分は持続すると書いてあった。
10分以内に解除の言葉をかける必要があるが、これから10分はどんな質問にも嘘がつけなくなる。
やりました。
オニャンコポンも今は別室でのんびりお昼寝中なので、邪魔をするものはおりません。
「……ふふ。トレーナーさん。私の声が聞こえますか?」
「……はい」
「私の質問に、嘘はつきませんか?」
「……はい」
成功だ。
やった、とエイシンフラッシュは声には上げず拳を握ってガッツポーズを作り、催眠術が成功したことを喜ぶ。
以前に同室のスマートファルコンに試したときには、そのまま眠りについてしまって浅い催眠状態をキープすることが出来ずに失敗したが、トレーナーには効いたようだ。
ナイスネイチャから囁きスキルのヒントを貰った甲斐があった。
(さて…ではあと9分32秒、何を質問するべきでしょうか)
しかしここで、エイシンフラッシュはらしくもなく、この後質問する内容を考えていなかった自分に思い至り考え込む。
正直なところ、一発でこんなに上手くいくとは思っていなかった。
何を聞くべきだろうか。
────────私のことが好きですか?
いや、駄目だ。絶対にこの人は「YES」と言う。
その好きの意味が担当ウマ娘に向ける親愛と捉えてしまうだろう。スマートファルコンやアイネスフウジンはどうか、と聞いても同じように答えるはずだ。何なら学園にいるウマ娘全員の名前を挙げてもYESというだろう。
────────好きな人はいますか?
これも駄目だ。絶対にこの人は「YES」と言う。
好きという表現だとそれを捉える側の認識が広がりすぎてしまう。日本語で、もっとシンプルに愛を表現しなければ…いや、ちょっと待って。もし、彼が愛している人の名前を挙げたとして、自分じゃなかったらどうする?
────────愛している人はいますか?
これに「YES」と答えられた時、その名前を私は聞きたくなってしまうだろう。
そして出てくる名前が自分ではないものであったときに、私は冷静さを保てなくなってしまう。
というよりも、そもそも、催眠術が成功したとはいえ、それでこんな大切なことを聞き出してしまうのはよろしくないのでは?
品のない女として見られてしまうのでは?
これ、私が恋愛絡みで何を聞いても、自分の立場を危うくしてしまうのでは?
エイシンフラッシュはようやくその思考に至り、安易に催眠術を仕掛けたことを後悔し始める。
これはよくない。
正直に言えば冗談半分、掛からなくても笑って許してくれるだろうし、掛かったときには何でも聞いてしまおう…くらいの気持ちであった彼女は、実際に何でも聞ける立場に立った瞬間に、浅ましい問いかけを考えてしまう自分に気づいて、恥じらいを覚えた。
よくない。
この人の、好きな人を聞いてしまうのは、よくない。
どんな結果になったとしても、それはお互いによくないものを残してしまう。
(ですが…あと6分48秒、このまま何も聞かないというのも面白くありません)
であれば、何を聞くべきか。
普段は彼が言いたがらないような、しかしあまり重い話題ではなく、今後の私に活かせるような…そんな問い。
エイシンフラッシュはその聡明な思考で全力でそんな問いを探して、そうして一つ思いついた。
それを早速聞いてみることにした。
「トレーナーさん」
「…はい」
「貴方は、ウマ娘のどんなところが好きですか?」
「……それは……」
この質問ならどうだ。
彼は常に、私…いえ、私たち3人。もっと言えば、学園のウマ娘全員のことを想い、そうして助けてくれる。
そんな彼が、ウマ娘に感じている魅力とは?
これくらいの質問であれば許してくれるだろう。普段の彼に聞いたとしても、それなりのことは答えてくれるはず。
しかし、催眠術にかかった今だからこそ、彼の本音が聞けるはずだ。
「…
「全部、ですか。…特に好きなところは、どこですか?」
「…
「…ッ」
流石だ。そう思った。
このトレーナーは、心の底からトレーナーなのだ。それを思い知らされた。
催眠術に嘘はつけないはず。だから、今彼がこぼした内容はすべて彼の本心だ。
彼は心底からウマ娘の笑顔を見るのが好きで、そうしてウマ娘のそんな顔を見るために尽力できる人なのだ。
エイシンフラッシュの胸中で、改めて彼への尊敬が深まった。
しかし、それはそれ。
私はお年頃のJKで、貴方に求める答えはそういうものではないのです。
「…では、身体的特徴で言えば。どこが好きですか?」
少し踏み込んだことを聞いてみる。
この質問は中々悪くないだろう。彼のウマ娘観…女性として見た時の彼の嗜好を少しでも聞ければ、それは今後の私が彼の為に何かできるかもしれない。
この人であれば、よほど変なことは言わないだろう。
最近彼が親しくしている沖野トレーナーなどなら、トモだと答えるのだろうか。
私のトレーナーは、ウマ娘の身体的特徴の、どこに惹かれるのだろうか。
「…………髪」
「ッ!…髪、ですか。もっと、具体的にはどんな髪型が?」
「…どんな髪型、というよりは…ウマ娘が、普段と違った髪型をしていると……目を、奪われる」
「…ッッ!!」
勝った。
今日はエイシンフラッシュが勝ちました。
素晴らしい情報を得た。このトレーナーは、普段と違う髪型をしているウマ娘が好きなようだ。
であれば、私も今後は髪型を…そう、時々、本当に時々だけ、普段と違う装いにすれば、それを見てくれるはず。
決して長髪ではない私でも、後ろに一つで結いつけるくらいは十分に可能だ。料理の時などは、そうして髪を後ろにまとめている。
今後は時々そうしてやって、私のうなじに彼の視線を向けさせよう。
エイシンフラッシュはこれまでの葛藤が吹き飛ぶかのような笑顔を浮かべて、この事は誰にも言わないでおこうと心に誓った。
卑しか女杯の一番人気に彼女が昇格した瞬間である。
(…さて、いい情報も聞けましたが…悩みすぎましたね。あと3分12秒。解除の時間も考えると、聞けてもあと一つ…)
エイシンフラッシュは残り時間が迫ってきていることで、少し焦る。
10分と正確に区切っているが、流石にマージンをもって早めに解除の言葉をかけるべきであろう。それをしないと頭痛がひどくなるという話が催眠術の本には書かれていて、それは自分のトレーナーに味わってほしくない。
残り時間は少ない。聞けてあと1つであるが、特にうまい質問は思い浮かばない。次に催眠術をかけるときにはちゃんと事前に質問を考えておこう。
少しエイシンフラッシュは悩んで、これまでの彼との付き合いの中で何か気になったことはなかったか、と考えるが…よい質問がぱっと思い浮かばない。
仕方なく、これまで彼があまり話すことがなかった昔の話でも聞いてみようと思った。
それは今日の彼との話の中でも少し出てきた…彼の
彼は、あまり自分の昔のことを語りたがらない。
もちろん、以前には学生時代に外国語を学んでいたとか、いろんな論文を読み漁っていたとか、今日また得た知識としてはトレセン周辺の店をめぐっていたとか、そういった断片的な情報は受けているが…楽しかった思い出とか、付き合っていた人がいた…などと言った私的な部分は彼は一切語ることはなかった。
話の流れで私やチームメイトたちが昔の話をしても、「まぁ、やんちゃしてたよ」くらいのことで煙に巻き、詳細を語ろうとしなかったのだ。
なので、そこを聞いてみることにした。
残された時間は少ない。
もちろん、複雑な話をさせようとは思わない。
「付き合ってた人はいたのか」などと言った下世話な質問をする気も、もうない。
ただ単純に、どんなことをしていたのか。それを聞きたくて、シンプルに問いただした。
「…トレーナーさんが、学生時代に一番楽しかったことは何ですか?」
これでいい。
これで、何か趣味に没頭していたと聞けば、それでまた話題を作ることが出来る。
勉強が楽しかったとでも答えが返ってくれば、まったくこの人は、と私も納得ができる。
付き合ってた彼女がいて、などと話が出てきてしまえば、後で素面の時にきっちり問いただすとして。
彼の青春、そこにどんな思い出があるのか、それを聞いてみたいと。
そんなシンプルな考えで、ふと聞いてみたその質問。
しかし、返ってきた答えはあまりにも予想外な一言だった。
「
「──────え?」
覚えて、ない?
まだ2年とたっていない、すぐ前のことを、覚えていない?
それが、嘘偽りない彼の本当の答え?
混乱した。
催眠術にかかっている彼は、今嘘をつけない。
だが、彼は以前に何度も言っていたのだ。学生時代に色々覚えたと。
であればその記憶はあるはずで、記憶喪失とかそんな漫画みたいな話でもないはずだ。
それなのに、覚えてない?
……楽しいことが多すぎたという話だろうか?だから、一番楽しかった、と質問したその内容に、答えられなかったのか?
でも、それだったら「いっぱいあった」と答えてもいいはず。一つに絞れなくても、想い出は絶対にあるはずなのだから。
それを、覚えてない?
「…っ、時間……ですね」
エイシンフラッシュは狼狽しながらも、しかし10分という時間が迫ってきたため、一度思考を中断して解除の言葉をかけることにした。
彼の予想外の一言にかなり戸惑ってしまったが…でも、まぁ。よく考えれば、これは催眠術という、そもそも根拠の薄い悪戯のようなものである。
掛かりが悪かったのかもしれないし、嘘をつけないという事ではあったが本当にぱっと楽しかったことが思いだせずに、そんな答えになったのかもしれない。
深く考えるのは、よそう。
「…立華さん。貴方は、私が数える数と共に目が覚めます…話したことは忘れています…そうして…とてもすっきりと目覚めます……いいですね………3……2………1…………ゼロ」
「……っは。……おお。あれ、もしかして催眠かかってた?え?マジで?」
エイシンフラッシュのカウントダウンボイスと共に、立華が意識を覚醒させる。
目が覚めて、そうして時計を見ると10分ほど経過しているのを確認した立華は、結構な狼狽を見せてエイシンフラッシュのほうを見た。
時折彼が見せる、子供のような顔。
そんな顔を見て、先ほど感じた戸惑いが薄れていくのをエイシンフラッシュは自覚し、そうして笑顔を見せた。
「…ふふっ、よく眠っていましたよ。すっきりと目覚めるように起こしたつもりですが、いかがですか?」
「おー…マジで催眠術って効くんだね。びっくり。…ああ、なんだか随分と頭が冴えてる感じだよ。8時間くらい熟睡出来た気分。いや催眠もバカにできないな…」
「くす、気持ちよくなっていただけたなら何よりです」
改めて、彼が目覚めてしっかりと会話をすることで…エイシンフラッシュは、催眠術で聞き出すことよりも、こうしてお話をする方が楽しくなる自分に気づいた。
確かに、先ほど聞いた内容…特に髪型の件は十分な収穫であったものの、やはり私はこの人と、こうして話して、二人の時間を紡いでいく方が好きなようだ。
それにあらためて気づけただけでも、今日は学びがありました。
「寝顔をじっくりと見させていただきましたから、これでリベンジ成功ですね。仕返しをされた気分はどうですか?」
「いや何、気分と言われても寝てた時の記憶がないからな…でも、眠る前の君の声がまるで天使のような囁きであったのは覚えているよ。いつも思ってるけれど、フラッシュの声は綺麗だよね」
「ッ…!…もう、口が回るんですから」
その、いつもの彼の口説き文句に気分を良くして、尻尾でぺしぺしと彼の腕をたたくエイシンフラッシュ。
彼女とトレーナーの休日は、こうして穏やかな時間を取り戻し、過ぎていった。