日本ダービー当日。
控室で、いつもの如くオニャンコポン吸いをキメるエイシンフラッシュを俺は見守っていた。
今日は日本ダービー。東京レース場のここで、世代の優駿を決める勝負がもう間もなく開かれる。
緊張と、それ以上の溢れるような戦意を落ち着けるために、いつも以上に念を入れた精神集中が行われていた。
「……フラッシュ」
「……はい。…大丈夫です。今日は、
これまで彼女が出走してきたレース…ホープフルや皐月賞でも、彼女は実に落ち着いていたのだが、今日はその桁が違う。
目が据わっている。
その体にみなぎる自信。尻尾や耳が、どこまでも落ち着いてリズムを刻み、上下に揺れている。
絶好調の極みとでも言おうか、そんな雰囲気を長年のトレーナー経験から俺は彼女に見い出していた。
「…今日はアイネスが出る。ヴィクトールピストやライアンも油断はできない相手だろう。だが、一番のライバルはやはりアイネスだ。…なにせ、俺が育てた」
「はい。ファルコンさんの時と一緒ですね。私は、貴方から最高の指導を受けて…そして、貴方に最高の指導をしてもらった彼女と、雌雄を決する」
「…ああ。……その、君にだけしか言わないし、他の二人には秘密にしておいてほしいんだけどな。……フラッシュ、君だけがこう、チームメイトと…二度も争うことになっているのは、少し…」
「トレーナーさん」
申し訳ない、と。言葉を紡ぐ前に、フラッシュが俺を呼んだ。
そうして、立ち上がり俺に近寄ってきて…いつぞや、ホープフルステークスのレース後の、彼女の瞳を診察したくらいの位置まで接近してきて、人差し指を俺の唇に当てて俺の言葉を塞いだ。
「
「ッ…!」
その言葉は。
いつか、俺が、彼女に言った言葉のようで。
「…レースなのです。日本ダービーなのです。勝ちたいのは、どのウマ娘も同じです。そして、それはアイネスさんも。私はその上で、彼女と全力で戦いたい。そう、申し上げたはずです。…だから、それ以上はいけません」
「…そ、う…だな、すまん。俺はどうやら、まだどこかで君たちへの遠慮があったみたいだ」
フラッシュの人差し指が離れて、俺は先ほど言いかけたことに対して謝罪した。
そうだ、彼女たちはお互いにぶつかりあう事に納得し、そして誇りをかけて雌雄を決しようとしている。
そんな二人に、いやフラッシュに、彼女だけが友と2度も戦うことになってしまったことに、俺はまだ心のどこかで不安があったのだろう。彼女の負担になってしまってはいないか、考えてしまっていたようだ。
しかし、彼女たちは俺の愛バである。
心配よりも、信頼を。
信じることが何よりも大切なのだ。
「君を信じるよ。…君が勝利し、2冠ウマ娘になる姿を見せてほしい」
「ええ。必ず…私と、貴方と、家族の為に。誇りある勝負を約束し、そして誇りある勝利をお見せいたします」
「ああ。……いい女だな、君は」
「ッ…!……ふふ、今更気づいたのですか?」
フラッシュが、勝利後によくやるように、前かがみになって見上げるように俺の顔を覗き込みながら、挑発するような笑顔を見せてくる。
この、どこまでも俺を信じてくれる愛バに勝ってほしい。嘘偽りなくそう思った。
たとえ相手が、俺が鍛え上げて、そして同じように勝ってほしいと信じているアイネスであっても。
担当する二人が同じレースに出て、どちらかだけ応援するということはあり得ない。
────────どっちにも、勝ってほしい。
そう思ったっていいだろう?
『フラッシュ。…目を閉じて』
『……はい』
俺はドイツ語で彼女に瞳を伏せるように言って、そうしていつものおまじないを捧げる。
彼女のその黒髪が覆う額に指をあて、toi,toi,toi、と3回ノック。
『君たちが、悔いのない勝負ができますように。ゴール前で待ってるよ、
『…ええ。必ず、一番に貴方の元に参ります。待っていてくださいね』
おまじないを終えて、彼女も瞳を開けて笑顔を俺に見せてくれる。
その笑顔が、レースが終わった後でも見れるように。改めて俺は内心で彼女を信じた。
「…アイネスの所にも行ってくるよ。フラッシュ、頑張ってくれよ」
「はい。アイネスさんにも、よくお声をかけてあげてください」
そうして俺は控室を出る。
フラッシュへ向けた信頼と同じくらい、アイネスにも俺の想いを伝えてやる必要がある。そうして初めて彼女たちは対等な立場になるのだ。
フラッシュと同じくらい、アイネスも信じている。それを、彼女に伝えに行くために。
────────────────
────────────────
「ん…?」
アイネスの控室前。扉をノックし入ろうとしたが、中から何やら話し声が聞こえる。
ファルコンに先にアイネスの部屋のほうに入っているようにお願いはしていたが、どうにも複数人での会話のようだ。
というか、扉から漏れ聞こえるほどの大きな声で、俺は中にいるのが誰かを察した。
恐らくは、ライバルの激励に来たのだろう。控室の扉を開いて、俺は中にいた二人のウマ娘に声をかける。
「…やぁ、ササヤキ、イルネル。激励に来てくれたのかい?」
「あっ、猫トレさん!!ええ、もちろん激励ですとも!!アイネス先輩に勝ってほしいですからね!!」
「お邪魔しています。…オークスでは、寂しかったですからね。ダービーウマ娘になって、秋華賞でリベンジですと宣言させていただいたところです」
「あはは…最高に活が入れられたの。これはあたしも、いっそう負けてらんないの」
「二人とも、ライバル心すごいもんね…☆ファル子、ちょっとうらやましいな、そういうの」
果たして控室の中にいたのは、アイネスのライバルたる後輩、サクラノササヤキとマイルイルネルであった。
サクラノササヤキは、先日開催されたGⅠのNHKマイルで見事な逃げ切りを見せて一着を勝ち取った。
マイルイルネルはオークスに出走し、こちらもまた2400mを制して一着の冠を戴冠していた。
世間では『カノープス』の新星がとうとうGⅠ勝利を決めたということで結構なニュースにもなった。
彼女たちの、アイネスに負けたくないという気持ちが…ダービーに挑戦する彼女に負けまいという気持ちが、カノープスの呪いを打ち破り、見事にGⅠに勝利して見せた。
「先輩がどっちにも参加せずに日本ダービーに行くと聞いたときはびっくりしたんですからね!!決着は絶対につけたいし!!」
「ええ、僕もササちゃんも、先輩にリベンジするためにGⅠウマ娘になりましたからね。トリプルティアラの最終戦で、お互いの冠の…その誇りをかけて勝負ですよ、先輩」
「ふふ…嬉しいの。そうね、あたしも二人には負けたくない…今日だって、そう。今日はいつも以上に、勝ちたい…いや、
「…二人の激励でずいぶんといい気合が入ったみたいだな」
俺は、先ほどフラッシュも見せたとおり…アイネスもまた、今日の日本ダービーに相当な熱意と気迫がこもっていることをその言葉から感じ取った。
今日は、間違いなくいい勝負になる。
「俺の方からもレース前に話すことがあるから…ササヤキ、イルネル。後は観客席から見守ってもらっていいか?ファルコンも、フラッシュのほうについてやってくれ」
「はーい☆ほら、二人も行くよー」
「わかりました!!ではアイネス先輩、お邪魔しました!!今日は頑張ってくださいね!!!」
「先輩、負けたら承知しませんからね。また僕とササちゃんにお尻ひっぱたかれたくなかったら、勝ちきってくださいね。では」
「んもー、お尻はダメなの!でも、うん。二人ともありがとう!!お姉ちゃん頑張るの!!」
お互いに笑顔を見せあって、そうしてカノープスの二人とファルコンは控室から出ていった。
部屋の中には、俺とアイネスの二人きりとなる。
「…アイネス。とりあえず…」
「うん、そうね。……オニャンコポン吸わせて?」
と、そのアイネスの言葉で察したオニャンコポンが自然と俺の肩から降りて彼女の胸元へ飛び込む。
そしてオニャンコポンをキメだすアイネス。最近オニャンコポンは彼女たちに猫吸いされるときにどうにも遠くを見ているような眼差しになる。殉教者の瞳だ。酷使される己の身を諦めきっているのだろうか。
今度ストレスで抜け毛がないか確認してやろう。
「…すぅー……ふー……」
「……落ち着いてるか?」
「うん。大丈夫なの……今日は、これまでにないくらい集中してる。焦ってもいない…ただ、勝つ。勝てるって、感じてる」
オニャンコポンから顔を上げたアイネスの表情には自信がみなぎっていた。
彼女のその走り…鍛え上げた俺からしても、フラッシュのそれと全く遜色のない輝きになっていると感じている。
唯一、勝敗を分けるかもしれないという懸念点があり、彼女がうちのチームでまだ
恐らく今日、彼女は風神として覚醒するだろう。
「…そうか、ならよかった。俺も君が勝てると信じてるよ。たとえ、相手が俺が育てたフラッシュだとしてもな」
「んもー、そう言ってフラッシュちゃんにも同じこと言ってきたんでしょ?わかってるんだから」
「ん、まぁそれはそうなんだが…でも、本気でもあるのさ。同じくらい信じてる。君たちは、どっちが勝ってもおかしくないし、どっちにも勝ってほしい、ってのが本音だ」
「そんなこと言っても、ライスちゃんとブルボンちゃんみたいにはそうそういかないの。…今日は私が勝つからね」
「…いい気迫だ。心配はなさそうだな」
頑張れよ、と声をかけてそうして落ち着いた彼女の集中をこれ以上切らす必要はないか、と控室を後にしようかと考え始める。
しかしそこで、アイネスがこれまで見せたことのない、
「でもさ、トレーナー。あたしだけ不公平じゃない?」
「ん?…え、何のことだ?少なくとも練習はそれぞれ全く気を抜かず全力だったぞ?」
「違うのー、練習はホントにしっかり考えてくれて感謝してる。そうじゃなくて、ほら。レース前の控室でさ…トレーナー、他の二人にはおまじないとか頭撫でたりとかするじゃない」
「…あー。確かに…」
アイネスにそう指摘されて、確かに俺は彼女に特段のおまじないなどをしていない事に思い至った。
フラッシュにはいつものようにtoi×3をするし、ファルコンもいつからか頭を撫でてもらうようにおねだりしてくるようになったので、レース前の控室では彼女たちに必ずそれを行うことにしていた。
しかしアイネスはそういったおねだりは今のところしていない。彼女からもねだられることもなかったし、お姉ちゃんらしくしっかりとしている子でもあるので、あまり意識したことはなかったのだが…。
「あたしにもして?」
「…随分直球で来るね、勿論いいけど。…どうしてほしい?何でもするぞ?」
アイネスにしては珍しくまっすぐにおねだりをされて、しかし俺は愛バのためなら何でもして差し上げる所存である。
彼女が求めることであれば、よほど倫理に反するような過剰なスキンシップでもなければ文字通り何でもしてやる心構えでいた。もちろん彼女がそんなことを願うとは欠片も思っていない。
しかして彼女の望みを聞いたところ、にんまりと随分熱っぽい微笑みを見せてから、アイネスがバイザーを外し始めた。さらに、左にまとめたサイドテールもほどき始める。彼女の髪がはらりと重力に従い下に落ちた。
んん??どうした???
俺のガイドラインに抵触しているが????
「…髪、梳いて?あと、尻尾も。……何でもしてくれるんでしょ?」
「…………ああ!」
乾いた返事を返した。
無理だ。
いや無理じゃない。
無理じゃないが、思わずウララを初めて担当したときに「有マに勝ちたい」と言われて俺が返した、あの時の乾いた返事を思い出した。そんくらい衝撃的な一言だった。
…髪を梳けと?尻尾も?俺に?
ウマ娘だけではなく、女性であるならば男に髪を触れさせるのは一種の禁忌にあたることは流石の俺も知っている。
さらに言えば、尻尾はその最たるもの。心から信頼する相手でなければ、基本的に異性に尻尾は触らせないものだ。
俺だって、これまでの世界線で何度もいろんなウマ娘を担当してきたが、その中でも尻尾のケアをお願いしてきた子は…あー………いや結構いたな。3年近く一緒にしてればそれくらい信頼してくれる子もそこそこいたが。
それはそれとして、しかしまだ1年半程度の付き合いである彼女からそんな提案が出てくるとは思わなかった。
とはいえ、可愛い愛バのおねだりだ。しっかりとそれを聞き届けてやるのが担当トレーナーとしての責務であろう。
俺は彼女がバッグから取り出した櫛を借りて、背後に回り、ゆっくりと、宝石を扱うように丁寧に、彼女の髪を梳いて、尻尾をブラッシングする。
「…っ……なんか、トレーナー…っ、ずいぶん、手慣れてるの。……初めてじゃ、ないんだ」
「……ノーコメントでいい?」
「…ふふ、お姉ちゃんは懐が広いから許してあげるの。…そう、もっと梳いて。みんなに見られて恥ずかしくないように、綺麗にして…」
俺は言われるままに、彼女の髪と尻尾に僅かも解れがないように仕上げる。
1000年もトレーナーしていれば、ウマ娘の髪や尻尾の性質、整え方も当然わかっている。なんなら理髪店を開いても問題ない程度には髪の扱いは慣れてはいるのだ。好きな部位だし。
そうしてきっちりと仕上げ切った彼女の髪ツヤに満足の吐息を漏らし、俺はグルーミングを終えた。
「…はい、おしまい。…こんなんでよかったか?」
「うん、ばっちり。…すごく落ち着けたの、ありがと♪」
手鏡で自分の髪や尻尾を確かめるアイネスは随分と笑顔になってくれたようだ。
そうして髪をいつもの位置に結いなおし、バイザーをつけて、意気揚々と言ったところ。
さらに気合が入ったのを見て、今日のレースは伝説になるな、と俺は確信した。
「じゃあ、ゴール前で待ってるよ。頑張ってくれよ、アイネス」
「うん!!一番にキミの元へたどり着くから、待っててほしいの!」
俺は最後にアイネスとハイタッチを交わして、控室を後にした。
これで、今日俺が彼女たちに出来ることは終わった。
後は彼女たちの、誇りをかけた戦いを、ゴール前で見守るだけだ。
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────────────────
ヴィクトールピストとメジロライアンは、東京レース場、そのゲート前に続く通路を歩いていた。
二人とも、今日の日本ダービーに出走し、覇を争う優駿である。
しかし二人の間に会話はなかった。これまで以上に、このレースに懸ける想いは大きかった。
その想いが、彼女たちに言の葉を交わすことを拒ませた。
交わす必要すらない。
私たちは、これから、世代の頂点を決めるレースに出走するのだ。
(負けない…今度こそ、絶対に負けない。フラッシュ先輩に、私は勝つ!)
(アイネス…凄まじい仕上がりだった。けど、あたしも負けない。今日まで、更に鍛え上げた。今度こそ…!)
二人とも、これまでチームフェリスの彼女らに辛酸を嘗めさせられている。
特に、先日の皐月賞では栄えあるクラシックの1冠目をエイシンフラッシュに譲る形になった。
今日はスマートファルコンではなく、その代わりに同じ逃げウマ娘であるアイネスフウジンがティアラ路線からダービーに殴り込みをかけてきている。
昨年にもウオッカが同じようなことをして、ダービーウマ娘となっていたが…彼女と違うのは、桜花賞にも勝利している点。
トリプルティアラの栄光を捨ててまで、ダービーに出てきたのだ。
その想い。そして、それを迎え撃つ同チームのエイシンフラッシュの信念。
それに負けないために、ヴィクトールピストもメジロライアンも、自分が出来る限りのトレーニングは積んできた。
今日こそは、
そうして、二人が通路を抜けてレース場に出る。
ゲート前、参加するウマ娘達が既に集まっているそこに、しかし。
その雰囲気が、あまりにも普段のレースの時と違っていることに二人は気付いた。
(……っ、これ、は…!?)
(……ッ!アイネス…!?フラッシュちゃんも…!?)
そのウマ娘達の中にいる、二つの
エイシンフラッシュと、アイネスフウジン。
その二人の、迸るほどの気迫が、執念が、想いが溢れて。
それが空気を揺らし、圧となって、周囲のウマ娘達を委縮させていた。
────────勝つのだと。
────────この日本ダービーで、勝つのは私なのだと。
そんな、確信にも似た想いをエイシンフラッシュとアイネスフウジンは抱えていた。
勝ちたい、などとそんな軽い言葉ではない。
勝つ。
絶対に、勝つ。
魂が
最早、言葉は不要。
無言で、しかし彼女たちの眼が、それぞれの想いを雄弁に語っていた。
私が、勝つ。
ゲート入りが始まる。
静かに、落ち着いた様子で、エイシンフラッシュもアイネスフウジンもゲート入りする。
その圧に押されて一人のウマ娘がゲート入りを僅かに渋る様子も見せるが、それを意に介さずに彼女たちはゲートの中で熱を高めていく。
その熱はゲートを通じて他のウマ娘にも伝わり、そしてレース場全体に広がっていく。
日本ダービーが、始まる。
『各ウマ娘、ゲートイン完了しました。世代の頂点を決める日本ダービー、────────スタートです!!!』