この上ないほど贅沢な状況のさま。
「鼎」は古代中国で使われた鍋状の青銅器のこと。
価値のある窯を、
「…………」
夜の九時。
俺は旅館に近い砂浜を、月明かりに照らされながら一人ぼんやりと歩いていた。
「…………」
ざざん、と砂浜に静かな潮騒のみが響いており、周りには誰もいない。
いつもは肩にいるオニャンコポンも部屋に置いてきている。
一人になりたかった。
「…………」
ただ歩いているのもむなしくなり、砂浜に腰を下ろして、夜空に月が浮かんだ海を眺める。
いまだに己の心臓が、コントロールを失ったかのようにどくどくと早鐘を打っている。
あれからもう1時間以上経っているのに、心臓が中々宥められない。
ただ、驚愕と、それ以上の何かの感情に襲われて、落ち着かない。
「……ウララ……」
俺はこの世界線では縁の薄い、ウマ娘の名前を呟く。
しかし、その名は、そのウマ娘は、俺にとっては……忘れることが出来るはずもない大切な名前。
そんな彼女が俺に見せたこの世界線での姿に、俺は心臓をわしづかみされた。
俺は先ほどのジャパンダートダービー、そのレース展開について改めて脳裏に描き直す。
────────────────
────────────────
『さぁスタートしました!ハナを進むのはホクヨークリーク、続いていくのはカワイイチャンス、続いてワタシニカケテ……後方から2番手、ハルウララ……それぞれ位置を見あってレースが進んでいきます』
パドックの彼女を見てあまりに動揺をしてしまった俺は、しかしそこには自分一人ではなくこの世界線の愛バ達がいることに思い至り、動揺を努めて隠し、そうして彼女たちとレース観戦を続けた。
始まったレースを見ながら、しかし俺の脳裏は先ほどパドックで見たハルウララの姿が目に焼き付いて離れない。
俺の知る勝負服ではない、恐らくは初咲トレーナーと話してデザインしたのだろう、晴れ着の装いの彼女。
ウララのことは、一目見ればわかる。
パドックに上がった彼女の、その脚がかつての体操服の様に脚を露出しておらず、晴れ着の下に隠していようとも、その立ち姿、重心、尻尾の揺れで、調子から筋肉のつき方から走り方まで、俺は読み取ることができた。
どれほどの時間、彼女のことを見てきたと思っているのか。
彼女の走りで、俺にわからないことはない。
はず、だった。
しかし、俺が見た、俺の知らないハルウララは、初咲トレーナーの指導の下で、なんと彼女が本来極めて苦手としているはずの中距離レースへの適正について、見事に克服できていた。
俺には
完璧な適正とは言わない。一般的に中距離をメインで走る才能あるウマ娘を仮に100%、普段のウララやバクシンオーなど、中距離の適性がほぼないウマ娘を0%とするなら…今のハルウララは60~70%。その程度には中距離に足が馴染んでいる。
完璧ではないが、勝負にはなる。勝利の可能性は、ある。
前の世界線で、俺がウララを指導して、有マ記念に備えて長距離を仕上げた時ほどではないが、それでも。
『今1000mを通過しました。先頭を走るホクヨークリークが順調にハナを進んでいく、これはこのまま逃げ切れるか!?しかし後方から他のウマ娘もじわじわと上がってきているぞ!ここで位置を上げてきたのがミトノツキノ、ユメノソラも先頭を捉えるために位置を上げていく!』
中盤を越えて、ハルウララは後方から3番手。
これは彼女本来の走りだ。
俺が有マ記念を突破できるように
差しから追い込みに近い位置取り。
だからこそ、最終コーナーから上がってくるはず。
しかし、一生懸命走るウララのその姿を見て、他の走るウマ娘を見て、俺は改めて今後のレース展開について推察した。
(駄目だ。ユメノソラとボスキジフィールが速い…ウララは、届かない…はず…)
今最終コーナーに入り、加速を始めたウララの前方の二人、ユメノソラとボスキジフィールの勢いがいい。
ハルウララも加速を始めて、それは他のウマ娘と遜色のないそれなのだが、位置が悪かった。
加速途中に前のウマ娘が壁になり、それを回避するために時間を食った。
ここから最終直線で末脚を発揮して詰めていったとして、恐らくユメノソラ、ボスキジフィールには届かない。
その、はずだった。
だが。
俺は、彼女のその知らない姿に。
またしても脳髄を焼かれることになる。
その驚愕は、共に見ていた3人のウマ娘も味わっていた。
「…!ウララさんが来ましたね!これは…!」
「すごい!
「最終コーナー、差しの位置からで発動するタイプ…なの!?
しかしその驚きは、俺の物とは違う。
ハルウララは最終コーナー、その途中で
早い時期での覚醒。初咲トレーナーの指導の賜物だ。
だが。
俺の知らない、その領域は、なんだ?
その勢いは、先頭との距離が離れていることでなお強い輝きを見せているようにさえ感じた。
俺の知っている彼女の領域と違う。
俺の知っているハルウララの領域は、レース終盤の最終コーナーで入るもので、発動位置は確かに同じだ。
しかし彼女の領域は、『周囲にウマ娘がいるときに、その楽しさでスタミナが回復する』ものだったはずだ。
スタミナの回復。それ自体はとても効果も多く、差しで勝負させるときにはそれも見越して俺も彼女を育てていた。
ウマ娘とレースを走ること自体が楽しい、そんな彼女の優しい快活な性格がよく表れた領域は、とても彼女らしいものだと俺も感じていた。
とはいえ、有マ記念や短距離のレースなど…スピードを重視しなければならないレースでは、残念ながらその領域に頼り切るわけにはいかない。何よりも位置取りと速度が求められる。
そういった理由もあって、俺は繰り返す世界線の中で、逃げの作戦や技術を彼女に指導していたのだ。
しかし、今の彼女は俺の知らない領域を見せている。
頂点へ向けて、勝ちたいという想いがほとばしるような、見事な加速を繰り出している。
────────君は、誰だ?
本当に、君は、ハルウララなのか?
「…すごい追い上げです!ダートとは思えぬほど…!残り3人、2人…!」
「これは…行った!すごいよウララちゃん!」
「…差し切ったの!うわー!凄いレースだったの…!あの位置から行けるんだぁ…」
そうして、見事にその加速ですべてのウマ娘を撫で切って、ハルウララが一着でゴールした。
中央開催のダートGⅠ、その最初の冠を、ハルウララが勝ち取った。
ナイターの観客席から彼女への歓声が送られる。
それに誇らしい笑顔を向けて手を振るウララ。
そうして、彼女の元に号泣しながら駆け寄っていく、
……その後、俺が3人に何と言って部屋を出ていったのか、よく覚えていない。
────────────────
────────────────
俺は、海を眺めていた。
(ウララ…)
彼女の勝利したときの笑顔が脳裏から離れない。
強くなった。
こう表現するのは申し訳ないが、速く走ることを苦手とする彼女が…本当に、強くなっていた。
それなのに、俺の心は穏やかではない。
俺の知らない勝負服。
俺の知らない領域。
俺ではない誰かが、彼女の距離適性を鍛えた姿。
それに、俺は困惑している。
思考がぐちゃぐちゃになって、纏まらないそれが止めどなく溢れている。
どうして、そんな、ことに?
俺は、ウララと駆けた永劫の時の狭間で。
君の事を完全に理解できている、ような気になっていた。
最高の指導。最高の芝での走り。最高の長距離での走り。
それを成し得るために、己の全てを懸けた。
そうして起こした奇跡。
だが、それが。
俺以外の、トレーナーでも、できている。
俺じゃない誰かに、彼女が笑顔を見せている。
その事実が、俺の感情を揺さぶり、乱して、しょうがない。
(………俺は、間違ってたのか?)
己の所業に対しての疑念だけが浮かぶ。
間違っていたのか?
もしかすると、俺がウララにやっていたことは、間違っていたんじゃないのか?
ただ、俺のエゴを彼女に強制していただけじゃないのか?
逃げなんて作戦を取らせることはなく、差しで走らせていればもっと速く走れたのか?
距離の問題だって、もっといいやり方があったのか?
俺は、ただ、ウララを泣かせた自分を許せないなんてエゴのために。
ウララに、さらにつらい思いをさせていただけなんじゃ、ないか?
そんな思考が溢れて止まらない。
俺の繰り返す世界線。
それそのものが、価値のないものになってしまったような気がして。
(………俺、は……!!)
行ってはいけない方向に、思考が向かいかける。
俺は────────
「────────」
しかし、そんな俺の耳に。
聞き慣れた、足音が入ってきた。
────────────────
────────────────
「……トレーナーさん、大丈夫でしょうか…」
「…うん。なんか、様子が変だったね…」
「心配なの。…あんまりそういう所見せないし、あの人」
チーム『フェリス』の3人は、先ほどまで一緒にジャパンダートダービーを観戦していた自分たちのトレーナー、立華の様子がおかしかったことに心配の色を隠せなかった。
彼にしては本当に珍しく、レースが終わった後に言葉少なで、走っていたウマ娘達のレース展開などについてもぼやけた解説のみ。
そうして逃げるようにオニャンコポンを連れて部屋を出ていった彼の様子は、明らかにおかしかった。
「…何か、先ほどのレースで思う所があったのでしょうか」
「飲み物も零してたし…心配、だね」
「うん…明日、それとなく聞いてみて……って、あれ?」
それぞれが自分のトレーナーのそのあまりに狼狽した様子に心配し、しかし今から彼の部屋に乗り込もうといった雰囲気にもならずに、もやもやした想いを溜めてしまっていたところで。
外に面したガラス窓のほうから、かつかつ、と音がしたことに気づいた。
それに気づいた3人のうち、窓に近いアイネスがそちらに行って、カーテンを開くとそこには。
「…ん、オニャンコポン?」
「おや…珍しいですね。トレーナーの部屋から抜け出してきたのでしょうか?」
そこにはオニャンコポンが、なぜか窓の外からこちらの窓を猫の手でたたいており。
そうして窓を開けてオニャンコポンを部屋に迎え入れようとした3人は、しかし、オニャンコポンが振り返るように向いた窓の外、旅館の入り口の方を見て。
「…!トレーナーさん…!?」
「え、こんな時間に!?」
そこに、浜辺の方角に向かって、まるで幽鬼のような足取りで歩いていくトレーナーの背中を見つけた。
それをオニャンコポンは伝えに来たのだ。
あの人が、オニャンコポンすら置いて、離れていく姿。
その背中に、3人は形容できない不安を覚えた。
まるで、どこかに行ってしまうような、戻ってこないような、そんな気さえして。
「…追いかけましょう!」
「っ、だね!匂いと足跡でどっちに行ったかはわかるし…!」
「一人にしておけないの!」
慌てて彼女たちは外に出られる軽装に着替えて、部屋を出る。
もちろん、オニャンコポンもアイネスが脇に抱えて。旅館を出て、彼の匂いを、足跡をたどって走る。
────────────────
────────────────
「────────トレーナーさん!」
聞き慣れたリズムの足音と、そしてフラッシュの声で、立華は己の思考を一度止めて、彼女たちのほうを見た。
エイシンフラッシュ。
スマートファルコン。
アイネスフウジン。
そして、その肩にオニャンコポン。
この世界線で、自分が担当する3人と、家族と言える初めての飼い猫。
そんな彼女たちが、自分を探してやってきた。
その事実に、立華は狼狽え…しかし、普段の自分を何とか取り繕おうとして言葉を紡ぐ。
「…やぁ、みんな。こんな夜に、どうしたんだい?確かに夜の海辺は綺麗だ、散歩も……」
「…トレーナーさん、そんな顔で無理に普段通りに振舞おうとしないでください」
「見たことない顔、してるよ。…トレーナーさん、どうしたの?何か、あったの?」
「…心配したの。オニャンコポンが気づいて、教えてくれたから追いかけてきたけど…!」
しかし取り繕った言葉は、彼の愛バ達には通じない。
己がそんなにひどい顔をしていることを知らずに、立華は一度手で己の顔を覆い隠して、そうして砂浜に座ったままに、一度夜空を見上げた。
雲一つないその空には、数多の星が輝いている。
しかし、今そこに、猫座の星はない。
「……そんなに、ひどい顔してたか?」
「しています。……トレーナーさん、何が、あったんですか?」
「……いや、大したことじゃないんだ」
立華は、自分が余りにも心を乱され、そうして今の世界線で担当する彼女らに心配をかけてしまっていたことを心から恥じた。
しかし、これはどうにもできない。
なぜ自分がそんなに狼狽しているかを、説明できないからだ。
実は俺って、世界をループしててさ。
3年で意識が飛んで3年前に戻るんだ。アニメみたいだろ?
だからウマ娘を育てるのも得意だった。で、実はここ数百回はウララを有マ記念で勝たせるために頑張っててさ。
それでつい前のループでやっと勝てたんだけど、でもこの世界でも強くなってるウララを見て、なんかグサっときてさ。
などと。
説明できるはずがないだろう。
「…その、俺ってまぁ、あんまり普段は言わないけど…それなりに、自分のトレーナーとしての腕に自信はあったんだ。いや、君たちが結果を出してくれることで、自信がついてきたって言った方がいいかな」
だから、立華は嘘をつく。
方便ではない。
嘘だ。
彼は、ウマ娘に嘘をつかない事を信条としているが、その禁を破った。
信じてもらえるはずもない真実を、この世界線には何の関係もない話を、彼は愛バ達に伝えるのを躊躇った。
だから完全に嘘ではない、だが真実を欠片も伝えず、感情の乱れの表面の部分だけを伝えることにした。
「………」
「………」
「………」
その独白を、3人は静かに聞いていた。
「だから、ある程度…ウマ娘達のこう、育ち方っていうのも理解してるつもりだった。どれくらいこの時期には強くなってるか、みたいな。けど、さ。今日のレースで、誰とは言わないけど…その想像を超えて強くなっていたウマ娘がいたんだ。それに俺は、心底驚いて…俺のトレーナーとしての観察眼がなかったのか、ってちょっと思い悩んでさ。それで、少し落ち込んでた…かもしれないな。ああ、みんなに心配をかけちゃったことについては、本当に反省してるよ……」
嘘だ。
その言葉が、立華の説明したその内容に、嘘があることを3人は察した。
というよりも、だ。
そもそも、彼が
それはそうだ。
彼は新人にして、すさまじい実績をたたき出し、その上ウマ娘との接し方にも長けている、不思議なトレーナーである。
そんな彼の、普段の隙の多さも相まって、1年半も共に時間を過ごしてきた彼女ら3人は、何かしら彼が隠していることを察していた。
過去をあまり語りたがらない、私たちのトレーナー。
その、彼の
そして、それを彼が絶対に喋ろうとしないことも。
「でも、大丈夫。俺の
普段、彼が使う『愛バ』という表現ではないその言葉と、そうして何でもないように
その言葉を零す彼の顔が、どう見ても大丈夫ではない、その様子に。
ウマ娘達3人は、己の想いを伝える決意をした。
彼から教わった、
「……トレーナーさん」
「ん、なんだいフラッ……っ!?」
エイシンフラッシュが立華の隣にしゃがみこんで、そうして有無を言わさずに、彼の頭をその胸にかき抱いた。
「それじゃ、あたしはこっちからなの」
「ちょ、アイネス…!?」
アイネスフウジンが、エイシンフラッシュの逆側に回り込んで、挟み込むように胸元に立華の頭を抱きしめる。
「むー、じゃあ私は正面から!」
「ファルコン…!?なに、何なのぉ!?」
スマートファルコンが覆いかぶさるように立華の正面から体を預け、そうしてぎゅう、と体全体を抱きしめた。
トライフォースの構え(真)だ。
立華は、その頭に理解してはいけない柔らかさが全方位から襲い掛かってくるのを感じて、先ほどまでの深刻な葛藤が吹き飛びそうなほどの衝撃を受けた。
かつて、これほどまでウマ娘と距離が近づいた経験はなかった。
「トレーナーさん。……私たちの、
「ッ…!」
エイシンフラッシュが、立華にその音を意識させる。
心臓の音。
他者のそれを聞くことで、何よりも落ち着くことが出来るのだと。彼自身がそう言っていた。
「トレーナー。……あたしたちは、キミに、何があったのか…これ以上は聞かないの」
「…アイ、ネス…」
アイネスフウジンが、全員の想いを代表して述べた。
あえて先ほど言わなかった、その本当の理由は聞かないと。
彼女たちは、立華のその隠していること…彼の過去について。
彼が言いたがらないであろう、その秘密について。
それを無理に聞き出そうとは、思っていなかった。
それはかつて、エイシンフラッシュから話に出す形で3人で相談したものだ。
5月のころに、催眠という悪戯で僅かに触れてしまった、彼の過去の謎。
それ自体をエイシンフラッシュは述べなかったが、しかし、彼の隠していることについてどうするか、という話題となり。
やはりそれぞれが薄々と勘づいていた、彼の過去。彼の、語りたがらない秘密について。
どうするべきか、と話し合っていた。
そうして彼女たちの出した結論は、待つこと。
私たちの、誰よりも信頼している、優しいトレーナーが…あえて、伝えようとしないその話。
それを聞き出すのは思慮に欠ける行動であるという想いと共に…何よりもウマ娘のことを考える、どこまでも優しい彼がそれでも頑なに語ろうとしないそれについて。
そこに、何か意味があるのだろうと3人は結論を出した。
それを伝えないことが、彼の誠意であり本心なのではないかと。
であれば、それは彼の気遣いとも言えるべきものであり…そこに、自分達から踏み込むのはやめよう、と。
気にならないと言えば嘘になる。
本音を言えば、彼のことをすべて知りたいという想いもある。
けれど、彼が私たちのことを想って隠しているようなその大きな秘密を、浅ましく暴くことはやめよう、と。
だからこそ、彼女たちは今この場においても、無理に彼からその秘密を、感情が揺さぶられた理由を聞き出そうとは思わなかった。
ただ、彼のその焦燥した姿が、心配で。
何よりも。
何よりも。
何よりも────心配で。
だからこうして、彼の教えてくれたとおりに、私たちの心臓の音を聞いて、落ち着いてもらいたい。
その悩みを、真実の理由はわからなくても、みんなで共有したい。
私たちはチームなのだから。
「トレーナーさん。前に私に言ってくれたよね。悩みを分けてほしい、って…一緒に悩んでいきたいって。私ね、すごくうれしかった。…今度は、私の番だよ」
「ファルコン……」
スマートファルコンは、かつて彼女に立華が言った、その言葉をよく覚えていた。
芝のレースに出走することへの悩み。
それをトレーナーに相談したときに、真剣に考えてくれて、そうして悩みを分けてほしい、と優しい言葉をかけてくれたのを思い出す。
それに、掬われた。
だからこそ、今度は私が掬ってあげたい。
きっと誰にも理解されないその悩みで、思い悩んでしまっている貴方を。
「…私も、同じ想いです。言いましたよね?私達にも、悩みがあれば言ってほしいと。…それは、トレーナーさんだって同じです。私達も、貴方の悩みを共に抱いて行きたい」
「あたしもなの。…キミは、いつも本当に、私たちのことを想ってくれて…よくしてくれてた。そんなキミが、一人で抱えて悩んでる姿を見るのは…嫌なの」
エイシンフラッシュとアイネスフウジンからも、同じような話を貰って。
そうして、3人の心臓の音を、その耳に、いや鼓動を体全体で受けて。
立華は、徐々に落ち着きを取り戻していき……そうして、彼女たち3人の、自分を想ってくれるその温かさに、少しずつ、迷宮に落ちていた己の思考が解けていくのを感じていた。
ああ。
俺は、何を思い悩んでいたのか。
こんなに自分の事を想ってくれる、素敵な愛バたちが3人もいて。
何をいまさら、こんな、これまでも味わってきたようなことで悩んでいたのか?
先日…アメリカではスズカを強く育てた沖野先輩や東条先輩には敬意を抱いておきながら、ウララは別だってのか?おかしな話じゃあないか?
そもそもだ。
この世界で、ハルウララが強く、たくましく成長していることに対して。
何のショックも受ける必要はないんじゃあないか?
素晴らしい事だろう。
ハルウララが、彼女が強くなって、勝てている。
すごいぞウララ。偉い。
君が勝って笑顔を見せる姿、それは何度見ても、俺も嬉しくなるものだ。
初めて見る
ルドルフが、フジキセキが、ブルボンが、ライスが、オペラオーが、クリークが、オグリが…他にも幾人ものウマ娘が、複数の領域に目覚める可能性を秘めている。
それが、ウララにはあり得ないなんて誰が決めた?
勝手に俺が決めつけていただけじゃないか。
そして、ウララを育てた初咲さんも、トレーナーとして当然のことをしているだけだ。
彼のデザインセンスなのだろう、ウララの晴れ着も彼女によく似合っていた。俺よりよほどそっちのセンスもある。めっちゃ可愛かったよ。髪を後ろでお団子にしているのが好ポイント。
ウララの苦手とする中距離だって、初咲さんが事前にしっかり備えて、トレーニングをしてきたのだろう。その結果が表れた勝利に、祝福する以外の感情があるのか?
それに、俺の奇跡の結晶である芝と長距離が走れるような、有マ記念のレコードを2秒近く更新して一着を取るような、そんなウララには流石に彼だってできていない。
ははは。どうだ、俺のウララもすごいだろう?
そうさ。彼は彼なりに必死に努力して、そうしてパートナーであるウララに勝利の景色を見せてあげているだけだ。
もしかして俺は、ウララは俺が育てないと強くなれないとでも思っていたのか?
あの奇跡を起こした俺以外は、誰が育てても彼女は強くなれないと?彼女を強くできないと?
どうしてそんな考えに僅かでも至ってしまったんだ?
それはウララに対しての最大級の侮辱でしかない。
アホなのか俺は?
────違うだろう。
あの時、前の世界線で、いやそれまでの永劫の記憶の輪廻で俺とウララが起こした奇跡は、
俺自身が否定してはいけないものだし、間違っていたとは欠片も思わない。
俺たちが積み上げて起こした奇跡を、他の誰にも否定はさせない。
それはウララだけではない。それ以前に担当した、全ての愛バたちだって、そう。
そして、それを知るのは俺だけでいいし、この世界線に持ち込む思考ではないんだ。
あの世界を歩む俺と彼女たちが、その想い出を持って、仲良くその後の未来を歩んでいればそれでいい。
この世界は前の世界とは違う。
ウララは、彼女を見初めた初咲トレーナーと、彼らが作る走りで、これからも夢を駆けていく。
その二人に、俺は心からの応援と、しかしレースで戦うときには手加減なしの最高の勝負をできるようにする。
それで、いいじゃないか。
何を悩んでいたんだ俺は。
あまりにも長い時間をウララと共にしていたことで、大変な思い違いをしてしまったんじゃないか?
俺とウララの物語は、
彼とウララの物語は、
それで、いいんだ。
「……ふふ、ははっ…」
立華の口から、笑い声が零れる。
それはスマートファルコンの胸元に息がわずかに掛かり、彼女を僅かに悶えさせたのち、そうして立華は押し倒されたような体勢から体を起こして、3人の胸元から頭を離す。
そうしてウマ娘達が見た彼の顔は、すっきりとした、憑き物の落ちたような顔だった。
「……ははは!まったく、本当に俺ってやつはバ鹿だな!」
随分と普段よりもテンションが高く、しかし様子が戻ったそんな声色に、三人がほっと安堵の表情を作ったところで。
立華はそのまま、思い切り腕を広げて、3人ともまとめてその腕に抱えて、感謝を込めてぎゅっと強く抱きしめた。
先ほどまでの体勢とは違い、今度は彼の胸元に自分たちが頭を抱えられるような体勢になったことで、彼女たちは攻守が逆転してぼっと顔を赤くする。
「そうさ…こんなに俺を心配してくれる、最高の
そして立華が言葉を続ける。
零れてくるのは彼女たちへの感謝の言葉。
様子のおかしかった己を、心から心配してくれて。
そうして、恥ずかしかっただろう、それでも俺が前に言ったように、心臓の音を俺に聞かせてくれて落ち着けてくれようとして。
さらに俺の、世界線を跨ぐという秘密ですら…聞かないよ、と言ってくれる、こんな理解ある愛バ達がいて。
なにをいっちょ前に、見当違いなことで悩んでるんだよ、俺は。
この世界線では、俺を信頼してくれるこの子たちの為に、己の全てをかけると選抜レースの日に誓ったじゃないか。
本当に情けない男だ。
思わず涙が零れてしまう。
でも、そんな俺を彼女たちは掬ってくれた。
優しく、その想いで包み込んでくれた。
ああ。
改めて誓おう。
俺は君たちの為に、すべてをかけると。
「…すまんな、本当に心配させた。俺もおかしくなってたよ。…けど、もう大丈夫だ。俺には君たちがいる…それを改めて実感できたよ、有難う。…もう絶対に離さないぞ」
「ッ…!…いえ、トレーナーさんが立ち直れたようで、私達も、嬉しいです…」
「…ふふ☆…結構恥ずかしかったんだから、ね?けど、もう…大丈夫そうで、よかった…」
「トレーナー…あたしたちだって、離れるつもりはないんだから。だから、これからも困ったら…また、相談してね?」
そんな彼の、ひどくすっきりした涙を浮かべた笑顔を間近で見て、3人はそれぞれ赤面するとともに、彼が自分たちの言葉で、想いを受け取って立ち直ってくれたことに、心底からの安堵と喜びを感じていた。
彼の悩みを、掬うことが出来た。
やはり、完璧に見えるようなそんな我らがトレーナーであっても、思い悩むこともあり…そして、そういった弱い姿を見て、心から心配したそれを助けられたことに、ほっとした気持ちが胸に広がっていった。
お互いの体温がじんわりと彼の腕と胸を伝って、その安堵感で一つになっていくような感覚。
嬉しかった。
「…っと、すまん!興奮して抱きしめちまってたな…!」
しかしその至福の時間は終わりを迎えて、立華が冷静さを取り戻し、そうしていつからか抱きしめてしまっていた3人をこれはいかんと慌てて腕を離して解放した。
それに強く寂しさを感じるが、しかし先ほど彼から伝わった熱は、まだ彼女たちの心の奥に燻っている。
今日は眠れないかもしれない。
「…本当に、ありがとうな。3人のおかげで悩みがすっきりしたよ。……こんな情けない俺だけど、これからも…よろしくな」
「…はい。トレーナーさん、私たちは貴方と、これからも一緒に」
「改めて、よろしくね☆トレーナーさん、これからも頑張っていこう!」
「そういう所が見れるの貴重だから、嬉しかったの!頑張ろうね、トレーナー!」
3人が、火照った頬が覚め切らないうちに、しかしそれぞれ立華へ言葉を返す。
最後に、ニャー、と立華の肩に戻ったオニャンコポンが鳴いたことで、自然と4人に笑顔が生まれて。
そうして、絆がまた深まったことを実感しながら、彼らは旅館へと戻っていった。
そんな彼らを、満天の星空が見守っていた。
その星空に、猫座の星も、きっと。
以下、閑話。
────────────────
────────────────
「お願いします!どうか、俺とウララに指導を…!」
「………」
5月上旬、ここはチーム『ベネトナシュ』のチームハウス。
ウマ娘達が授業を受けている午前中に、チームトレーナーである黒沼は、若きトレーナーが自分に向けて頭を下げているその姿を、憮然とした様子で眺めていた。
「ウララが、ジャパンダートダービーで勝つために…中距離を走れるようになる必要があるんです!黒沼先輩、どうか…!」
「……わかった。だが、まず落ち着け」
下げた頭が90度を超えて120度を迎えそうになる前に一度黒沼は相手に冷静さを取り戻させようと声をかける。
しかし目の前のこの熱い男は、その声を受けて頭の位置をそれ以上下げることはなかったが、しかし上げることもなかった。
黒沼も、この男……初咲というトレーナーのことは、知っている。
この男の代のトレーナーの中でも、異彩を放つ立華という男がいるため、世間的には目立ってはいなかったが、ベテランのトレーナー間では初咲というトレーナーは、一定の評価を得ていた。
ハルウララというウマ娘はトレーナー間でも有名だ。
選抜レース、学内の授業でのレース、それらを見ても……こう表現するのは残酷なことだが、彼女は走るのが遅い。
中央トレセン学園の中でも、才能がない側に位置する。
それは競走することを生業とするウマ娘達の中でどうしても起こる順位付けのなかで、どうしても発生する最下位、それに極めて近いことを意味した。
悲しいが、現実はどうしても存在する。
しかし。
この初咲というトレーナーは、そのハルウララを、未勝利戦3戦目にして一着を取らせるほどに鍛え上げ。
そうしてその後のOP戦では、スマートファルコンと争ったヒヤシンスステークスでは8着だったものの、その後人が変わったかのように素晴らしい好走を見せ、4月前半に開催の昇竜ステークスで2着、4月後半の端午ステークスでは1着を取らせている。
同じことをできるトレーナーが、どれだけいるだろうか。
立華が率いるレコードブレイクチームがいるため目立ってはいなかったが、この初咲という男もまた、間違いなく才気煥発、中央のトレーナーを名乗るにふさわしい男だった。
さて、そのような男がこうして黒沼の元を訪れ、頭を下げている。
その理由は、先ほど彼が述べたとおりだ。
「ウララは…中距離が苦手です。適性がない。それは事実で…けど、彼女が出走できる、初めてのGⅠなんです!俺は…ウララを、勝たせてやりたい…!思い切り、ジャパンダートダービーで走れるようにしてやりたいんです!!」
「…………」
黒沼は、同僚の立華とは違う、随分と熱の入った様子の初咲を見て、内心でため息をついた。
こいつらの代は、変な奴しか集まらないのか?
もしくは代表の立華が初咲に変な影響を与えでもしたか。
どちらにせよ、とにかく目の前のこの若きトレーナーからは熱を感じた。
先日、GWで立華から感じたものに近い、それ。
「……わかったから、まず顔を上げろ」
「…はい………」
黒沼ははっきりと指示を出し、そうして顔を上げる初咲の、その瞳を観察する。
その瞳には、はっきりと見て取れる想いが込められていた。
そういう目をする男を、黒沼はよく知っている。
まず沖野がそれだ。
あいつは誰よりも素直に、ウマ娘に夢を賭ける。
南坂も近い目をするときがある。
あれもまた、ウマ娘達の駆ける先を見守る、そんな目をする。
最近中央にやってきた北原なんかもそうだ。
厳しい現実なんか知ったことかとばかりにただ上を目指す彼女らチームを、その熱い瞳で、想いで、よくまとめ上げている。
立華にも見えるそれ。
あいつの場合、その瞳の熱の中に一片の狂気が混ざる。
自分よりも随分と遠くを見ているような眼をすることがある。
そうして、もちろん、自分にもあるその魂。
ウマ娘の出たいレースに、望むレースに勝たせてやりたい。
想いの強さでは、黒沼も負けるつもりはなかった。
中央で、実績を上げるトレーナーの瞳に宿る魂。
それを、この初咲という男もまたはっきりと有していた。
そうして、その瞳にある魂を見てしまえば、黒沼の答えは一つだった。
「……明日から、うちのチームの練習にハルウララと共に参加しろ」
「ッ!!黒沼先輩!!ありがとうございますっ……!!」
「その程度で泣くな、情けない。…だが、俺のチームの練習は厳しい。そして、俺はハルウララの限界を知らない。やりすぎて壊す可能性もある。だから…」
「俺が、ウララをよく見て、限界を見極めろ…って、話ですよね。判ってます!絶対に俺はウララから目を離しません!そして黒沼先輩の指導も、吸収して見せます!」
「………ふっ。熱いな、お前」
肩を竦めて黒沼が苦笑を零す。
この目の前の初咲という男、随分と立華とは対極にあるようだ。
立華は時折ベテラントレーナーのような風情を見せ、常に余裕のある態度をとる男だが、この初咲という男は自分の未熟さを十分に自覚したうえで、ウマ娘の為になる事なら手段を択ばない。可能性があればそれを模索する、なりふり構わない強さがある。
また、向上心も強く、熱血漢であることも言葉尻から理解できた。
────────この男、気に入った。
ウマ娘に向ける熱に遜色はないが、まるで対極に位置するこいつらの愛バたちが。
いずれ、ダートのGⅠレースでぶつかり合うときが楽しみだ。
「…長い距離を走れるようにするためには坂路での練習が根幹にある。レースのダメージが足に残っているなら今日はハルウララはよくマッサージして休ませろ。その間にお前は距離適性に関する論文を読んでおけ。そこのバインダーだ。貸してやる」
「はい!了解です!お借りしていきます…!3日で暗記して返します!」
「莫迦野郎、暗記なんてあやふやなことをするな。論文は常に読み返せる位置に置いておくもんだ。コピーして返せ。…言っておくが指導は本気で厳しいからな。メンタル面まではカバーできん。ハルウララにはお前が良く寄り添ってやれ」
「すみません!でも、そうですね…暗記だと正しいかどうかがブレちまう…なるほど…!!ウララのメンタルは任せてください!黒沼先輩見て怖いとか失礼なこと言わないようによく言っておきます!」
「余計なお世話だ」
すみません!と慌てて頭を下げる初咲に、仏頂面を作りつつも内心で苦笑する黒沼。
そうして、その翌日から黒沼の指導による、ハルウララの中距離適性の克服に取りかかった。
そうして、その努力は7月まで続けられ。
完全、とは言えないまでもハルウララは中距離も走れるようになり。
執念と思いの結実、領域へと目覚め。
中央ダートGⅠ、その最初の冠を被ることとなった。