「お、始まるな」
俺は9月の2週目の日曜日、夜九時を過ぎたころ、タブレットを二つ机に並べて海外のGⅡレースを観戦していた。
今日は、ヴィクトールピストがニエル賞に挑戦する。
片方のタブレットに現地のレース映像を流し、もう片方のタブレットには…ウマ娘5人の顔がそれぞれ表示されていた。
『ですね。向こうは午後二時。天候は快晴のようです』
『うーん☆ヴィイちゃん、頑張ってほしいね!』
『なの!私たち世代の可愛い後輩ちゃんなの、全力で応援するの!』
『ちょっと、アイネス…あんまり騒ぎすぎちゃだめだよ?今いるの部屋なんだから寮長に怒られちゃう』
『あー、寮はまだ防音性マシなのか?トレーナー寮って壁薄いんだよなァ…たまにうるせェ』
「そうかな?俺がそこに住んでた時はそうでも…ああ、SSはウマ娘だもんね。耳が良すぎるんだ。後で理事長に打診して防音処理してもらおう」
タブレットに表示されるミーティングアプリに参加するのは、チームフェリスの4人と、アイネスの同室のメジロライアンだ。
みんなパジャマに着替えての参加となっている。カメラ機能はそれぞれのウマホの性能に沿うため装いが全部見えていることはない。
なお俺も普通に部屋着である。夏で暑いので軽装にさせてもらっている。
今こうやってアプリで集まっているのは、今日のニエル賞に出走するヴィクトールピストを、同世代のウマ娘…クラシック戦線で鎬を削りあっている俺達で、観戦応援しようという話になったからだ。
勿論それぞれ観戦しようとは思っていたが、ライアンもアイネスの同室であることから、この6人で集まって応援しようとなったわけである。
「しかし、GⅡとはいえ流石は凱旋門賞の前哨戦ってところか。ヴィックの他、海外ウマ娘達もかなりの仕上がりだ」
『…だなァ。1番のベガシャドルーと3番のプランティーレがダントツ。5番のヤングブッキングも相当なモンだ』
『……映像だけでは、中々わかりませんね…』
『そのあたりは流石トレーナーさんたちだね…☆』
『あ、でもベガシャドルーってウマ娘、尻尾がゆっくりしたリズムで上下に揺れてるの。そういうウマ娘は強いって前に聞いたの』
『プランティーレって子も、トモの部分の筋肉が凄い…間違いなく重点的に脚を鍛えているみたい』
パドックのウマ娘を眺めて俺とSS、トレーナーである二人がそれぞれのウマ娘の所感を述べて、ウマ娘達に観察眼を養ってもらおうと画策する。
実際にレース場で走る相手として相対すればまた感じる雰囲気も変わってくると思うが、映像だけでウマ娘の仕上がりを見極めるのは困難だ。
だが、相手の力量を把握できるのもまた強いウマ娘の条件だ。俺はそれぞれウマ娘を見るコツなどを解説しながら、パドックに次々と出てくるウマ娘達を見た。
そして、彼女が出てくる。
『ヴィクトールさん、出てきましたね!』
『…うん、いい表情!頑張れー、ヴィイちゃーん!』
『落ち着いてる…かな?けど目が燃えてるの、はっきりわかる…勝ちたいって気持ちが溢れてる…!』
『うん、いい調子だ…!頑張ってほしいな…!』
「……ああ、間違いなく仕上がっている。さすが沖野先輩だな…」
俺もヴィクトールピストの様子を見て、その仕上りの良さに感嘆する。
俺も沖野先輩にメンタル管理に関するアドバイスを色々としていた。日本の食べ物を出来る限り準備したり、おやつなども整えるとよい…と話したところ、ゴルシがしっかりその辺を準備したと聞いている。
調子は間違いなく絶好調。脚の仕上がりもいい。
しかし。
それは、勝利を確信できるほどのものではない。
『…悪くねェが、勝ちきれるかは展開次第だな。周りのウマ娘も同じくらい仕上がってる、拮抗しそうだ』
『海外、凱旋門の前哨戦ですものね…やはり他のウマ娘も強いんですね』
『うー、頑張れヴィイちゃーん!』
『やっぱり全力で応援なの!フランスまで声を届けるの!』
『いや大声はやめようアイネス!?応援はするけど!』
「想いは伝わるさ。応援しよう、凱旋門に挑む前に弾みをつけられるように…」
俺は、海外に挑む彼女に、沖野先輩に、これまでの世界線以上の共感をもって全力で応援するつもりだった。
なにせ、つい先日海外に挑んだのだ。そこで勝利を掴むことはできたが、無論海外遠征の準備や手配が楽だったとは欠片も思わないし、それなりの苦労を持って、奇跡を起こしている。
あれで敗着をしてしまっていたら…と考えると、空恐ろしいものがある。俺も、ファルコンも、チームのみんなも、しばらくは気落ちしてしまっていただろう。
沖野先輩にはそうなってほしくない。勝ってほしい。
「……始まるな」
ゲート入りが順調に進み、ニエル賞がスタートした。
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────────────────
(…2400m。ロンシャンの芝は深い…ダービーと同じペースで走ったら最後の脚がなくなる。スタミナ管理に気を付けないと…!)
ヴィクトールピストは、ロンシャンレース場の洋芝の上を、孤独に走っていた。
周りにいるのは、彼女以外はすべて海外ウマ娘。
それが、想像以上の寂しさを彼女に感じさせた。
先頭を走る、隼が、風神がいない。
後方から狙う、閃光が、筋肉がいない。
(っ…なに、弱気になってるの!私は、先輩たちに追いつくために、強くなるために!ここを走っているんじゃない…!)
レース展開はスローペースとなっていた。
ロンシャンレース場の2400mでは珍しくない展開だ。皆、日本の芝よりも体力を消耗するこの長い芝を走り切れるように、スピードを抑えていた。
だからこの時点では、スピードの争いとはならない。
必然的に起こるのは、牽制の仕掛け合い。
(負けない…!牽制の技術は、私も先輩達に負けてないっ…!!)
先頭を走るウマ娘と、周囲を走る、沖野トレーナーから注意しろと言われたウマ娘達に牽制、圧を飛ばして走る。
ヴィクトールピストの得意技だ。
そうしてスタミナを削り、最終直線での脚を削ろうとしかけ始める。
しかし、そんな彼女の後方から一人のウマ娘が近づいてきた。
「…ボンジュール?日本語、出来てるわよね?頑張ってるわね、遥々パリまで来て、一人で」
「っ…!!」
5番のヤングブッキングだ。
パドックの時点で飄々とした雰囲気を持っていた彼女が、まるで友人に話しかけるかのように、ヴィクトールピストに接してきた。
全力で走っている最中である。普通に考えれば、それはただ無駄に体力を消耗することにしかならない。
しかしヤングブッキングはその脚を衰えさせない。明らかに、レース中の会話に慣れていた。
「ささやき」と呼ばれる技術である。
「ねぇねぇ。先日アメリカのダートで世界レコードを取ったスマートファルコンに、貴方勝ったことがあるんだって?」
「………」
付き合わない。
ヴィクトールピストは無視をして、ペースを保った走りをキープしようとする。
しかし、『無視をしようとして』、『ペースを保たなければならない』、と考えた時点で、既に相手の術中にはまってしまっているのだ。
確かに、皐月賞ではスマートファルコンに先着しての2着を取ってはいるが、あれは芝のレースだし、そもそも自分はフラッシュ先輩に負けている。
苦い記憶のそれをつつかれて、しかしその思考はよくないと努めて振り払う。
ささやきに、侵され始める。
「ベルモントステークスは私も映像見たのよ、痺れたわね!あの走り!すさまじいレースだったわ!」
「……うるさい」
「あら、貴方はそう思わなかった?私、スマートファルコンのファンなのよ!それで、そのスマートファルコンに勝ったことがあるウマ娘がフランスに挑みに来るってことだから、楽しみにしてたんだけどねぇ…」
走っている最中に聞こえるほどに、ヤングブッキングは大きなため息をついた。
まるで、期待外れとでも言いたいかのようなその態度。
────────こらえた。
ヴィクトールピストは己の内に、自分がバカにされたことに対しての怒りが生まれるが、しかし彼女は冷静さも武器とするウマ娘だ。判りやすすぎる挑発に乗るほどポニーであるつもりはない。
このウマ娘は、自分を掛からせ、自滅させようとしているのだ。さらに言えば、自分が掛かることで周囲のウマ娘の走りも乱して、最終的に自分だけ甘い汁を吸おうとしている。
多分、この会話だって相手の本心ではない。そんな気性難なウマ娘なら出走前に雰囲気でわかるし、純粋にささやきの内容として適切な言葉を選んでいるだけ。暴言でもない、私が掛かるのを待っているだけ。
そこまでわかっている。だから、堪えられた。
でもレースが終わったら一言くらいは言ってやろう。私が勝って、こいつが負けて。それで、反省を促すのだ。
そんな風に、ヴィクトールピストは、己の心の内に生まれた怒りと…プライドを逆撫でされる話に堪えていた。
しかし、その忍耐は、彼女の次の一言で霧散する。
ささやき戦術があまり効果を生まないことを察したヤングブッキングは、標的を変えようとしてヴィクトールピストから離れていき、しかし、最後に捨て台詞を零す。
そして、そのトリガーを引いてしまった。
「…これじゃ、日本の他の子もあまり期待できないわね」
その、捨て台詞。
己の敬愛する先輩たちを軽く見積もるようなその言葉。
今、私の、同期を、バカにしたか?
────────ブチ切れた。
────────────────
────────────────
「……厳しいな。マークされちまった」
俺はその瞬間をタブレットの映像で見ていた。
差しの位置で走るヴィクトールピストの横にぴったりとヤングブッキングが張り付いて、口を動かしているのが見えた。
何を話しているかはわからないが、恐らくは囁きの技術を持っているのだろう。
彼女を掛からせるために、耳障りな言葉を投げかけているのだと推理できた。
俺はそれを姑息な戦術だと思わない。レースとは文字通り、出来ることの全てを振り絞って勝利を掴むものなのだ。
性格的にこういった戦法が合わないウマ娘もいれば、得意なウマ娘もいる。
もちろん、話す内容は淑女的な部分を越えてはいけないが、囁くこと自体は戦術として有効なものとなる。
ヴィクトールピストはそのささやきに耐えながら走っている様だ。
表情でわかる。何か、頭にくるようなことを言われたのだろうか。
しかしこらえている。彼女は冷静さを武器とするウマ娘だ。通じないとわかればあのウマ娘も標的を切り替えるだろう。耐える時だ、頑張れ。
そうして、ヤングブッキングが少しヴィクトールピストとの距離を放した。
漸く諦めたのだろう…と、俺はそれを見て、しかし。
最後に彼女の口が動いたのを見て。
そして、ヴィクトールピストが。
『……!?ここで!?』
『わ!☆ウソ、ヴィイちゃんも来たの!?』
『何、あれ……山?霊峰…ものすごく大きいの…!』
『……あの山……セザンヌの絵で見覚えがある、ような…』
『…ぶっは。オイあの表情、ブチ切れてんじゃねぇか!アタシが
────────領域に目覚めていた。
どうやら、よっぽど頭に来ることを言われたようだ。
その激情が彼女の魂を動かしたらしい。
大きな山…雰囲気としてはヨーロッパにあるような霊峰が彼女の心象風景として浮かんだ。
我ら世代のウマ娘がまた一人、領域に目覚めた。
「………っ、なるほど、そういう領域か…!」
俺はヴィクトールピストを注視した。
彼女の目覚めたその領域、その力を見極めるためだ。
もちろんこれまでの世界線でも彼女の領域を見たことはある。
確か彼女の領域は、高みを目指すその心象風景を元に、そこそこ速度を上げて、そこそこスタミナを回復するといういい所取りの領域だったはずだ。ただしその加速と回復はその効果を専門とするウマ娘の領域ほどではない、柔軟な戦略をとれる彼女らしいそれ。
しかし、この記憶はだいぶ古いものだ。それに、ウララの様に、まったく別の領域に目覚めるウマ娘も珍しくない。
そして今目にしている彼女の領域は、明らかに初見。
今は全力で応援している彼女だが、しかしいずれは、いや、今もうちのウマ娘と鎬を削りあっている仲である。
彼女のこの世界線での、過去に見た領域とも違うそれを見極めようとして─────そして、理解した。
────────────────
────────────────
「…ハ!そうそう、そうこなくっちゃあ!」
ヤングブッキングはヴィクトールピストが1000mを越えた地点で領域を展開したのを見て、にやりと笑顔を作る。
どうやら、彼女のプライドは己自身へのそれではなく、同期のウマ娘を虚仮にされたことで刺激されたようだ。
その激情のまま、領域に目覚めている。本来は恐らく、1000m地点で発動するような、スマートファルコンのタイミングに近いそれなのだろう。
共に走るウマ娘が領域に入る、そんな状況は本来であれば望むべきところではない。
ヴィクトールピストのそれは急加速をするタイプではないようで、じわり、じわりと加速を始めていた。
加速性能はそこまで高いものではないようだ。もしかすればスタミナも回復させるタイプのそれか?
前方や後方、彼女の周囲のウマ娘がスピードやスタミナを奪われているといったこともない様子。
恐らくはそういったもの…だ、と推理して、そしてヤングブッキングが彼女を追う。
「ふふ、でもそのまま気持ちよく走らせるわけにはいかないのよねぇ…!」
追走しながら、ヤングブッキングは己の意識を集中する。
彼女は牽制、特に囁きの技術を得意とするウマ娘だ。
強烈な加速で戦うタイプではない。どちらかと言えば、周囲にデバフを撒いて足を引っ張るほうに特化したタイプだ。
ラビットとして出走することもある。だが、今日は彼女自身、勝利の為に走っている。
そうして、今日のこのレース。勿論、自分が勝つために……周り全ての足を引っ張る。
(領域に目覚めてくれてありがとう、ヴィックちゃん……それで私の勝機が生まれる!)
ヤングブッキングが、ヴィクトールピストに続くようにして己の領域を発動させた。
────────【
その領域は、誰かが己の近くで領域を発動した際に、それをトリガーとして発動するタイプの領域。
物騒な名前を付けたその領域は、完全にデバフに特化したそれ。
先日アメリカで走ったマジェスティックプリンスのそれよりも範囲は狭いが、しかし効果は高い。
周囲のウマ娘、全員の脚を、スタミナを一気に削る。
その領域の圧がまき散らされ、彼女の周囲を走っていた他のウマ娘の脚色が明らかに衰えた。
(大成功!貴方なら領域に目覚めると信じてたわヴィックちゃん!私の為に領域に目覚めてくれてありが────────ちょっと、待って?)
作戦通り、事前に目をつけていた有力ウマ娘をかからせ、敵対心を刺激し…そうして領域に目覚めさせることに成功して、己の領域のトリガーを引いて全員を範囲に巻き込めた。
だから、ここからはスピードを削ったウマ娘達との勝負。
無論、それはヴィクトールピストも例外ではない。徐々に加速を始めた彼女もまた、その脚を衰えさせる。
はずだった、のに。
(……待って。なんで、加速が落ちてないの?)
ヤングブッキングが信じられないものを見るような眼で前を走るヴィクトールピストを見る。
彼女の走りは、己の領域の範囲内にいて、圧を受けてもなお。
徐々に、確かに、加速を続ける。
(まさか、効いてない!?ウソでしょ!?これで堕ちないウマ娘なんていなかったのよ!?)
ヤングブッキングが慌ててヴィクトールピストの脚を止めようと、領域ではない、純粋な己の技術である牽制をぶつける。
視線による圧。
足音による圧。
位置取りによる圧。
呼吸による圧。
それら全てを試して、しかしなお。
その山は、微動だにしなかった。
(っ────────)
ヤングブッキングは、ヴィクトールピストの領域、その内に顕れた心象風景を見た。
大いなる霊峰。
それは、フランスのウマ娘であれば知っている。この国にある、偉大なる山。
────────【
その山の名は
彼女の、ああ、その魂に刻まれた、勝利の山である。
その山が、霊峰が、彼女を守る。
頂に立つヴィクトールピストに、あらゆる牽制が、圧が、位置取りの仕掛けが通用しない。
ただ己の道を、勝利への道程を辿る。
僅かな加速と回復と、そして。
今、この瞬間に。
このレースは、彼女のタイムアタックへと変化した。
「────────うわあああああああああああああああ!!!!」
この距離の直線なら、私は負けない。
あの閃光を除いては、誰にも負けるつもりはない。
逃げの戦法を取っていたウマ娘を残り300mで交わし、そしてなお加速を続ける。
あらゆる牽制に影響されずに最終直線を迎えたヴィクトールピストに、追いすがれるウマ娘はいなかった。
道中でヤングブッキングの領域を受けた影響もあり、脚色が落ちる。速度を維持できない。
無論、それはヤングブッキングも同様だ。
(ついてない!こんな、相性の悪い領域が相手だったなんて……ちく、しょぉ…!)
決して速く走る事が得意ではないヤングブッキングは、それでも全力で脚を前に出すが、距離が縮まらない。
勝負は決した。
『日本から来たウマ娘が止まらない!やはり怖かった!!今年の日本は化物だ!!ヴィクトールピストが後続を突き放しっ!!今、ゴーーーーーーーーーーーーーーーールッッ!!!』
一着、ヴィクトールピスト。
7バ身の差をつけて勝利した彼女の表情は、道中で感じていた怒りなど吹っ飛んで、随分とすっきりした笑顔だった。
※余談
キッドナッピングは実際に某勝利の名を冠する馬とニエル賞で走ったお馬さんです。
名前の意味ヤッバ…→ってことは恐らくデバッファーか?という発想で書きました。
ちょっと口撃が激しいですが、オベだって近いことはしてたし許してクレメンス。
なお今後特に出番はないです。