『ねぇ、アイネスの事だけど』
『ん、ああ…』
『…もしかすると、根が深い問題かもしれないわ』
『……なんだって?』
秋華賞を終えた翌日、俺は午前中のチームハウスで朝のコーヒーを飲みながら庶務整理をしていたのだが、そこで最近お気に入りらしいインスタント味噌汁をマグカップで飲んでいるSSから、問題提起を受けた。
それは昨日のレースで惜しくも敗北してしまった、アイネスの事だ。
昨日はレースの後、アイネスの敗北を慰め、レコードを褒め、脚を診察して異常などもなかったことからウイニングライブも踊って、そして今日は脚を休めるためにチーム練習を休ませている。
しかし、SSはアイネスに何かしら大きな問題点を見つけているらしい。
『…詳しく聞きたい。昨日の彼女の様子を見ている限りでは大きくヘコんだり、引きずるような雰囲気ではなかったけれど…だが、俺も懸念点はなかったわけじゃないんだ。君の意見を聞きたい』
『…
『怒るもんか。はっきり言っていいよ。昨日のアイネスに君は何を感じたんだ?』
『じゃあ、はっきり言うわ────────魂が死んでる』
『………っ』
SSのその強い表現に、しかし、俺は心当たりが一切ない、そんなことはない────とは言えず、口を噤む。
昨日は確かに、アイネスは勝ちたいという思いでレースに出て、負けて悔しいとも言って、次は勝つ、と前向きな様子を見せていた。
…だが。
俺が長年の経験から、ウマ娘に感じるモノ…その、熱い想い、何が何でも勝ちたい、速くなりたい、誰かに勝ちたい、という強い、魂の嘶きの様なそれを、感じられたのかと言ったら…そうだ、とは言えなかった。
朝日杯での熱い勝利への欲求。ダービーでの飽くなき闘争心。そういったものが、感じられなかった。
『…負けてしまったのは仕方がないわ、レースに絶対はないのだから。でも、負けたというのに…あの子の魂が、全然堪えている風じゃなかったのよね。少なくとも私はそう感じた。勝ち負けにあまり興味がなくなってしまっているような……まるで、死んでしまっているような、それね…。……領域に入れないのも、恐らくはこれが原因だと私は考えているわ』
『…かも、しれないな…』
俺はアイネスの様子について改めて思い返す。
練習はやる気を持ってしっかりついてきた。数字にも表れている。
普段も楽しそうに過ごしていたし、調子が悪いというわけではない。家に掃除に来るたびに調子は上がるし、実際にレースで走った内容も、悪いものではない。そもそもGⅠでレコードなのだ。欠片も恥じるものはない。
これは俺の所感でもあるが、アイネス本人の心は、まだレースに向いているんだと思う。楽しんで、レースに勝ちたいと思っているんだと感じる。
だが、説明できない部分。
魂とも表現するべきウマ娘のその強い意志は、彼女の心に反して、まるで燃え上がっていないかのよう。
領域が出ない。
最後の直線で、限界を超えたって勝ちたい、という確固たる意志がない。
…スランプ、と表現できるものだ。
本人に自覚があるかどうかは、わからないが。
『………難しい問題だな』
『ええ、まったくね…こればっかりは、治療方法なんて確立されるはずがないんだから』
ふぅ、と俺とSSは揃ってため息をつく。
魂が死んでしまっているような…そんなウマ娘を、俺は過去の世界線で何度か見てきた。
その中には俺が担当したウマ娘も該当する。
綻びを持ったスーパークリーク。
三冠を取ったのち、シニアから不調が続いたナリタブライアン。
マチカネフクキタルも、菊花賞の後に様子がおかしくなっていった。
他にも…そう、特に多いのが、ダービーや有マ記念など…大きなレースを走った後に起きる綻びだ。
燃え尽きてしまったかのようなそのウマ娘の様子に、俺達トレーナーは苦心する。
実際、そのまま成績を残せずにレース人生を終えるウマ娘だって、珍しくはないのだ。
俺はそうした澱みを抱えてしまったかつての愛バたちに、心から寄り添い…何かできないかと探し、勝ってほしいと願い、そうして何とか克服してこれていた。
しかしそこに最適解はない。答えなどない。
これまでの世界線で重ねた経験や知識など一切当てにできない。
前の子も出来たのだから次の子だって、とはいかない。一人として同じウマ娘はおらず、同じ悩みはないのだから。
不調を抱える
それは、
『…ひとまず、SS。アイネスも秋華賞で負けてすぐあんまり心配されすぎるのも気を遣っちまうと思う。今週は柔らかく接する程度に留めてほしい…フラッシュの菊花賞にも備える必要があるし』
『分かったわ。そうね、いきなり二人で話をしても…逆に思い悩んじゃうだけかもね』
『ああ。今週末に俺んちに家事代行で来てくれるから…その時、俺の方から少しずつ聞いてみるよ。SSにも手伝ってほしい事が出来ればすぐお願いする。けど……やっぱりアイネスは
『……OK。私はまだ付き合いも短いし、任せるわ。…けど、私もあの子たちの事は心配はしてるからね?出来ることがあれば、何でも言って』
『有難う。頼りにさせてもらうよ』
俺たちはそうして、アイネスの問題について意識を改め、共有した。
本格的に彼女の不調と向き合う時期が来たのだ。
まず、彼女の想い。それをどうすれば前向きにできるか。
そして、領域を取り戻すためには。
彼女が、彼女らしく、楽しく走れるようになるためには。
「……絶対に諦めないからな」
俺は自分に言い聞かせるように零す。
あの日、彼女が流した涙を俺は信じているから。
いつの日か風神がまた旋風を巻き起こすことを。
────────────────
────────────────
そうして週末になった。
火曜日から練習に顔を出したアイネスは、今週は脚の負担を避けてマッサージや水泳などの練習を行い、脚の調子自体は回復していた。
…いや、回復が、早かった。
それは喜ぶべきことであると同時に…レースで、全力を、振り絞れていないということに他ならない。
「~~♪」
エプロンと三角巾をつけて、俺の家の中を掃除するアイネスは、普段通りの様子を見せている。
秋華賞の負けを引きずりすぎることなく、快活な彼女の様子が現れるような鼻歌なども歌いながら、楽しそうに掃除に努めてくれている。
そんな様子を見ていると、俺やSSの考えすぎなのかもしれない…と、思いたくなってしまう。
もちろん、そうであれば最高だ。
話してみたら全然本人に自覚はなく、気のせいで、練習してたらその内に領域も取り戻し、これからも好走をしてくれる。
そうなれば、よかった。
だが。
俺のトレーナーとしての勘が。
魂にまで染みついた長年の勘が、告げている。
─────ここでアイネスから目を離したら、取り返しがつかなくなると。
「…アイネス」
「ん、なーに?
俺は掃除が終わったタイミングで、アイネスに声をかける。
彼女もだいぶこの業務に慣れてきており、今日は重点的に掃除する箇所も少なかったため、お昼まではまだ時間がある。
割烹着を脱いで、少しお茶でも…という、普段ならそんな時間に、しかし俺は彼女に真剣な表情を向けて、言葉を続けた。
「…少し、話をしたい。お茶でも飲みながら…な」
「……………わかったの、
その雰囲気で、彼女も俺の意図を察してくれたのだろう。
家事代行の仕事中にそう呼ぶ「立華さん」ではなく、「トレーナー」として扱ってくれた。
折角の休日、業務を終えたという所でこうして時間を作ってもらうのは少し気が引けるが、しかし、二人きりになれてお互いに気兼ねなく話せるタイミングとしては今が最適だった。
ソファに座ってもらい、お茶を入れて…そうして、俺は彼女の心を、少しずつ解きほぐす。
「…改めての話になるけど、秋華賞はお疲れ様な。負けちまったけど、レコードもとってるし…いい走りだったよ」
「ん、ありがとなの。私も、負けたのは悔しいけど、レース自体には満足してる。…後輩二人も、すっごい強くなってて、嬉しかったしね」
お茶を飲みながら、笑顔を見せるアイネスフウジン。
その表情は、いつもの彼女らしい、可愛らしい笑顔だ。悩みなど、無いように見える。いつも通りの姿。
しかし、俺は見落とさなかった。
彼女の耳。尻尾。
普段よりもわずかに揺れが小さい。
彼女自身、己の問題を何かしら抱えている。それを、わかっている。
「…アイネス。君のためを思って、あえて言う。……本当に、本心からそう思ってる?」
「…………ん。……………やっぱり、わかっちゃう?」
「…ああ。もう、長い付き合いだしな…今日は、遠慮しないで話してほしい。誰にも言わないよ」
俺の方からあえて、彼女に問いを投げかけると、やはりといったところか、アイネスが少し悩んでから苦笑を零し、肯定の意を返してきた。
まず、一歩踏み込んだ。
ここから、彼女の心を少しずつほぐし、そうして本音を…彼女の今の想いを、まずは確認する。
「…そうだな、自分から何でも話せって言うのは難しいだろうさ。俺の方から聞いていくから、答えられるところで答えてくれ。…まずは、自分の走りだな。どう、思ってる?」
「んー…練習は楽しいの。フラッシュちゃんやファルコンちゃんにも負けない様に、頑張れてるって思うし…数字は出てる。…よね?」
「ああ。これは本心だが、俺も君の練習の成果については全く心配してない。頑張ってくれている」
「んふ、ありがと。……でも、ね。何か、
アイネスが、ぽつ、ぽつ、と。
己の想いを確かめ、思いだすように、言葉を紡ぐ。
そしてそれは、自然と、己の昔を思い出すように、語り始めた。
「選抜レースじゃ、想いを籠めていた。その後、メイクデビューも、私の為に、そして家族やトレーナーの為に絶対に勝ちたいって思ってた。その後いっぱい走った重賞もそう…負けてやるもんかって。勝ちたいって。あの時は…そうね、お金にも困ってたもんね」
「だな。君も何としても早く勝ちたいって強い想いがあって、俺もそれに応えるために君の脚を仕上げた。…今だから言うけどさ。あれ、結構ギリギリの綱渡りだったんだぜ?言っちゃなんだが当時は3人の中で君の脚の事を一番考えてたよ。ジュニア期のウマ娘にかける負担じゃなかったからな」
「あは、ホント?それは悪かったの!…ふふ、うん……そう、ね。あの時は、自分の勝ちを信じて疑わなかったし…朝日杯も、楽しかったなぁ。ササちゃんとイルネルちゃん、二人に勝てて…レコードも取れて…うん、心の底から勝ちたかった。そして、勝てた」
俺たちは、俺たちが歩んだ道程を…言葉に起こしながら、辿る。
メイクデビューまでの地固め。そうして挑んだメイクデビューでの快勝。その後、ジュニア期とは思えないスパンでの重賞3連戦。そうして年末に挑んだ朝日杯。
ああ。どれも、大切な想い出だ。
勝利を分かち合った彼女との想い出が、勝利の余韻が蘇ってくる。
かけがえの、ないもの。
今は、ないもの。
「…クラシックに入って…うん、金銭的な心配はなくなって…それでも、私は走りたかった。勝ちたかった。練習して、レースに出て、勝つのが楽しかった。レースプランを組んだ時も…はは、年始のあの時はダービーに出ようなんて思ってなかったね…懐かしいの」
「だな。…けど、あの時から君は遠慮しがちな面があったな。いつもチームのお姉ちゃんとして頑張ってくれてた…思えば、我儘が一番少なかったのは君かもな。俺も、それに甘えちまった…悪い…」
「もー、何言ってるの!あたしはそんなあたしが好きなんだから、気にしないの!それに、トレーナーに頼ってもらえるのって嬉しいし。…うん、フラッシュちゃんが3冠を狙っているのは前から知ってたからね。私はその時は本当に、ティアラ路線でもよかった。マイル戦に出てもよかったし…GⅠに挑んで、勝てるなら…私らしく思い切り走れるなら、何でもよかったの。────けど。私は、フラッシュちゃんたちの走りを見て、変わった」
それは、彼女の転換点。
楽しく走り続けたいと思っていた彼女の、強い魂の嘶き。
「……勝ちたかった。フラッシュちゃんに、ダービーで勝ちたかった。ダービーで…私が勝つんだって。絶対に、勝つんだって……そう思って、これまでになく真剣に練習して、そして挑んだ………負けちゃった、けどね」
「……アイネス……」
「…あ、違うの!ダービーでの決着についてはね、これは自信を持って言えるんだけど…
俺は、やはりダービーでの敗北を内心で気にしていたのか…と思い、何と声をかけるべきか悩んでいたところに、アイネスが笑顔を作って言葉を返してきた。
しかして、それは、恐らく彼女の本心なのだろう。
俺はウマ娘が嘘をつく時は、おおよそわかる。特にこうして真剣に話しているときはなおの事。
耳の動き。尻尾の動き。
人間よりも感情表現が素直に表れる彼女たちを、1000年以上見続けてきている俺にとって、それは難しい事ではなかった。
アイネスは、本心で。
ダービーの決着を、誇っていた。
「…うん、でも………そこから、だよね。………薄々自分でも感じてた事……」
「……………」
「………絶対勝ちたい、って思って走ってるのかが、自分でもわからないの」
「……やっぱり、か。俺もSSも、感じてて…でも、この間の秋華賞で確信になった。アイネス、君は……今、楽しめて走れてないんじゃないか?」
「……かも、ね。いつかのファル子ちゃんみたいに……わからなく、なっちゃってるかも」
アイネスが瞳を閉じて、そうして大きく、ため息をついた。
彼女の、過去を振り返ってからの、今の自分の走りに対する本心。
「…走るのは楽しい、これは本心。レースで勝ちたい、これも本心。……なのに、私の脚は動いてくれない。領域にも入れない……脚がね、止まるの。この間の秋華賞で、最後の直線……残り100mで、あたし、全力で踏み出せなかった。なんでそうなったのか、あたしにも理由が、わからなくて……」
「…あの一歩。俺ももしかすれば、って感じだったが…やっぱり、そうか……」
俺はアイネスのその言葉を聞いて、レースを思い返す。
残り100m地点での、彼女の僅かな逡巡に、俺は気付いていた。
しかし…その原因が分からない。何が彼女の脚を止めたのかが分からない。
もしかすれば、骨や筋肉に異常が…故障が発生し、その痛みで止まってしまったのか、とレース後の俺は危惧を持ったが、しかし診察して見れば
むしろ、こうして早い回復を見せる程度には…彼女の脚は、余力を残していた。
ダービーの時の、全てを振り絞って走ったときに比べれば…雲泥の差と、言える。
それでもレコードを記録していることが彼女の実力の表れでもあるのだが、しかし。
どうしても、その一歩が。
勝負を決める、最後の一歩が出ないと。
「…改めて、こうしてトレーナーが向き合う場を作ってくれたから、ね。あたしも何となくわかってきたの。今、あたし……自分で思ってることと、感じてることが違っちゃってる」
「……具体的に、聞いてもいい?」
「…うん。例えばこの間の秋華賞。悔しい、って思ったし、次こそは!って思った。けど、あたしはアタシに勝った二人に…強くなって、嬉しく感じてるの。違うよね…本当は、負けて、泣いて悔しがるはずなのに…あたしの心がそう感じてない。負けに、納得しちゃってる…!」
「…アイネス!それは違う…君は、優しいウマ娘なんだ。…姉妹みたいにササヤキやイルネルと付き合っていたからこそ、彼女たちの成長を嬉しく思ったんだ…ライバルの成長を喜ぶのは悪い事じゃない。……問題は、最後のほうだ」
「…うん、そう、そうね。その想い自体は否定しちゃ駄目だね…。…けど、そう。あたし、勝ちたいって気持ちが…ない、のかな?だから、出走するレースを決める時も…主体性がない、のかな。このレースだ!っていうのが…ない、ような。ダービーの時みたいな、強い気持ちが、
「……アイネス」
俺は、彼女の瞳から、零れ落ちる一滴の雫を、見た。
それは、自分の想いが分からない…そのことに対する、悔し涙。
どうすればいいのかが分からない。
だから、それは悩みとなる。
「……トレーナー。あたし、どうすればいいのかな?どうすれば、いいと思う?」
「…うん。まず、話してくれてありがとう、アイネス…君の悩みを、零してくれてありがとうな。自分と向き合うのって、大変だからな……そして、どうすればいいか、という問いだけど…今すぐ、答えは出ない。出せない……でもな、アイネス」
「…トレーナー?」
そこで、俺は腰を上げて…アイネスの隣に行き、座る。
指先で彼女の涙を拭ってやってから、俺の想いを……本心を、述べた。
「…アイネス、俺は君たちに助けてもらった…夏合宿の時に。俺の悩みを、君たちは…君は、掬ってくれたんだ。俺も、君たちに、そうしてあげたい」
「……トレーナー…」
「…一緒に答えを探そう。ファルコンにもそうした通り…俺は、君たちを絶対に離さないって決めたんだ。君のその悩みの、答えを、一緒に探していきたい。君を一人にはしない。君が一人で思い悩むようになってほしくないんだ。俺は……君を、助けてあげたい」
「……うん……」
肩を並べて隣に座る俺に、アイネスが体を寄せてきて…俺も、そんな彼女の体を腕の中に収めて、抱きしめる。
彼女の耳を俺の胸元に充てて、心臓の音を聞かせてやる。
ファルコンの様に、俺の様に…きっと、彼女以外の誰にも理解ができないような、いや…彼女自身にも理解が出来ない、悩みを抱えてしまっている彼女を。
少しでも、楽にしてやりたくて。
俺は俺の心の熱を、彼女に伝える。
「……アイネス。走るのが、嫌になった……って思ったなら。少し、休んだっていいんだ。…どうだい?本音で答えていいよ」
「……………ううん。あたし、まだ、
「…そっか。じゃあ、走ろう。走って…その中で答えを見つけよう。もしかしたら、より深く悩んでしまうかもしれない、答えはすぐには出ないかもしれない……けれど、さ。俺は君がこの悩みの答えを見つけられるまで、絶対に寄り添うからな」
「………うん。…キミが、一緒に悩んでくれるなら、走れる。……トレーナー…」
そうして、一度胸から耳を離して、至近距離から見上げてくるアイネスの瞳を、俺は正面から見据えた。
いつしかファルコンが、そしてかつての世界線で担当したウマ娘達が見せた、熱の籠った表情。
「……ねぇ、キミを…あたしの、走る理由に……しても、いい……?」
「………アイネス………」
俺はその問いかけに、即答できず…しかし、少しずつ、顔が近づいてくるアイネスに、ただならぬ雰囲気を察する。
む。
いかん。
これは……過去の世界線でもたまに見た、あれだ。
「……立華、さん────────」
俺はそっとアイネスの腰に腕を回して、それをどう捉えたのかアイネスが瞳を閉じたところで、俺は────────
────────ぐりっ。
アイネスの、ウマ娘の尻尾の付け根の上のあたり。
安心沢さんから教わった、
「────みっぎゃぁ!?!?」
そうしたことでアイネスが目をかっ開いて、尻尾をぴーん、と伸ばして体をビクンと痙攣させた。
漫画みたいにそのままぱたん、とソファに横になるアイネス。俺との距離が離れた。
うんうん、たまにあるんだよな。
あれを放っておくと、そのまま何故か俺を押し倒したりし始めるからな。感情が高揚するというか。なんでそうなるのかよくわかってないんだけど急に来る。
危ない危ない。押し倒される前に何とか処置できた。
掛かり癖は本当に癖になりやすいからな。レースにも影響が出るし早い段階で矯正しておかないとマズい。
ループが始まる一番最初の世界線で安心沢さんにそういうのを解消するツボを教えてもらったこともあって、掛かり気味になったウマ娘達にはぐりっとやらせてもらっている。
俺がこうしてやる事で落ち着かないウマ娘はいなかった。
「……………すっごい。今、あたし、驚くほど
「落ち着いたか?よかったよかった」
「蹴っていい?」
ゼロ距離から彼女の豪脚を繰り出されたらたまったものではない。
俺は慌ててソファから脱出して机の対面に逃げた。
苦笑を零して悪い悪い、と謝ったところ、アイネスもはーぁ、とため息を一つ零して、つられて苦笑を浮かべてくれた。
「…うん、そうね。抜け駆け禁止なのに、雰囲気に飲まれちゃ駄目なの。落ち着かせてくれてありがと、トレーナー」
「よくわかってないけど、どういたしまして。…ああ、君が、走る理由を…俺に求めてももちろん構わないよ。…でも、いつかきっと、君は自分が一番心から納得できる、そんな理由を見つけられるって信じてる。…それまでの仮に、だな」
「ふふ、そうね。トレーナーの為に勝ちたいって気持ちはあるけど、でもいつか、あたし自身が心から納得する、そんな理由を…熱を、取り戻してやるの!」
「その意気だ。……頑張っていこうぜ、アイネス。一緒にな」
「うん!……へへ、トレーナーに悩みを零せてすっきりしたらお腹減ってきちゃったな」
「ん、そうか?それじゃ昼飯にするか、いい時間だしな」
そうして話も落ち着いたところで、俺は改めて昼食を作ってやることにした。
今はトレーナーとしてアイネスと応対しており、業務云々…なんて細かい話は気にしない。
まずは、悩みを共有できた。そうして、その悩みを解決していこうと、前を向くことが出来た。
今日はこれでいい。この話はおしまいだ。
もちろん、まだ解決したわけではない。
これから、練習でも、私生活でも…もちろんレースでも、彼女が本気で、全力で走れるように、俺は尽力するべきだろう。
何度でも誓う。俺は彼女たち、愛バ達の為に全てをかける。
アイネスのこの悩みが、走りの問題が解決するまで……俺も、彼女に寄り添っていこう。
「じゃあ、何食べたい?今日は和風ハンバーグとチャーハン、親子丼とかかつ丼もできるぞ。パスタも行ける」
「あー……その中ならハンバーグで!今日はお腹いっぱい食べたいの!」
「おっけ。コンソメスープとサラダも添えるよ。30分くらいで出来るからな、オニャンコポンと遊んで待っててくれ」
そうして俺はキッチンに立ち、いつもの彼女との週末…日常に戻り、共に昼食をとって舌鼓を打つのだった。