皐月賞を終えたアグネスタキオンは、何処か急いているようにジョルノには見えた。地面を力強く蹴りだし、腕を無駄なく俊敏に振り切るその姿は、まるで何処かに向かってその身を荒々しく削りながら燦燦と光輝き走る、少なくともジョルノの瞳にはそんな姿に映った。
そもそも彼女が、サボることなく真面目に朝練に参加していること自体がレアケースなのだ。一度どういう風の吹き回しなのか、心境の変化があったのか尋ねたこともあったが、真意の分からないような、正体の定まらない雲を無闇につかむようにけむに巻かれてしまったのは言うまでもない。
ハッ、ハッ、ハッ………
メトロノームがテンポを刻み付け、寸分のずれさえも許すことがないかのように、一定の間隔で彼女の吐息だけが夏の足音が彼方から響く5月の朝に響き渡る。ジョルノはそんな彼女の姿を見届けながら、ストップウォッチに視線を落とす。彼女の才能がたらしめる、およそ異常ともいえるタイムをボードに書き込みながら、ジョルノは東の空から顔を出す朝日をその横顔に浴びながら、足を繰り出す彼女へと再び視線を送るのだった。
「…おかしいです」
その言葉に、ジョルノの視線は自身の背後に注がれる…そこには、一人のウマ娘が立っているのだった。シルクのように滑らかな、キューティクルが覆った黒髪の長髪の彼女は、ジョルノと同じくターフの上を駆ける彼女に視線を注いでいた。見覚えのある彼女の顔に、ジョルノは近づいていきながら声を掛けるのだった。
「……君は確か、マンハッタンカフェだったね?」
彼女…マンハッタンカフェはタキオンの友人の一人として、何度か彼女の口からその名前を聞いたことがあった。物静かな少女で巷では人ならざるものが「見える」ウマ娘と噂されており、何処か不思議なウマ娘と認識されている彼女であるが、タキオンは彼女のことを友人として、そして「興味深い実験対象」としてよく付きまとっているようだった。ジョルノは彼女へと視線を向けると、その瞳を見据えながら言葉を続けるのだった。
「いつもタキオンがすまない。彼女はその…すこし我儘なところがあるから」
「……慣れているので問題ありません。あれがタキオンさんですから」
どうやら彼女もタキオンのことは心得ていたようだ。案外、リアリストなタキオンと、この世のものならざるものとコミュニケーションをとることができるカフェはウマが合うのかもしれないと考えていると、カフェが切り出したその言葉は、ジョルノの胸の内でくすぶっていた懐疑心、そして不安を掘り起こすことになるのだった。
「……タキオンさんは大丈夫なんですか?」
「なんだって…?」
彼女も感じていたのだ。あの走りの違和感を。ジョルノはまじまじと彼女のことを見つめると、カフェはやはり気づいていたんですね、と言わんばかりに静かに肺にため込んだ酸素を緊張から絞り出すように鼻腔から漏らすのだった。彼女の疑念を払拭することは、今のジョルノにはできなかった。その手段なんて、今の彼には持ち合わせていない。なぜならそれと同じ疑念を、ジョルノ自身も抱いているのだから。返事を窮していると、背後から突然声を投げかけられるのだった。
「……トレーナー君。君は中々どうして、モテるらしいね。また余所のウマ娘に現を抜かしているとは」
「……タキオン」
そこには渦中の人物…アグネスタキオンは僅かにその口角を引き上げながら、意図せず密談を交わしていた二人にその濁った瞳を向けているのだった。
「やぁカフェ。随分熱烈な視線を私に向けていたようだが、そんなに私に夢中ってわけかい?」
「いやそういうわけじゃあ…ただ少し気になったんです。貴方のその走りが……」
その瞬間、タキオンの瞳が僅かに揺れたのをジョルノは見逃さなかった。やはりその指摘には、彼女の深層心理にゆさぶりをかける何かがあったというわけだ。しかし彼女が見せた僅かな動揺も、たちまち普段見せる怪しい笑みに吸い込まれていくのだった。
「なるほどねぇ。つまり君は私の研究に協力してくれるわけか。じゃあ試したい薬を早速…」
「……いえ。そういうわけじゃあ…私はただ貴方の研究が「あの子」に追いつくための要素になると思っただけです…それだけなので。よく考えれば、私には関係のないことですね。それでは」
そう言いながらカフェはその場を立ち去ろうとしたが、数歩踏み出したところでタキオンは去ろうとする彼女の背中を引き留めるのだった。
「関係ないってことはないさ。君には私の未来の一部を賭けているんだから」
「……え?」
彼女のその言葉には、どこか「含み」があった。タキオンの瞳には、その目標を成し遂げるためにはすべてを犠牲にしても構わないという気高き覚悟が……あの漆黒の意思が宿っていた。カフェはおびえたような視線をタキオンに向けながら、絞り出すように言葉を漏らすのだった。
「……私を巻き込まないでください」
カフェはそう呟くと足早にその場を立ち去るのだった。残された二人の間には、しばしの沈黙が流れる…その沈黙を打ち破るかのように、タキオンは徐に口を開くのだった。
「さて、練習はこれくらいにしよう。私には今日やるべきことがある」
「やるべきこと…?」
「なんだい?少女のプライベートをあれこれ詮索するのが君の趣味ってわけじゃあないだろう?ちょいとした野暮用だよ。取るに足らない、ね」
練習を早めに切り上げたタキオンは、とある場所へと足を繰り出していた。先ほどジョルノに言ったように、ちょいとした野暮用を済ませるために。
……確か彼女が言っていた受け渡し場所はここか。
デジタルの調査によって判明した、恐らく毒牙に掛かったであろうウマ娘の内の一人を捕まえて質問したところ、商品の受け渡し場所の内の一つが判明したので、こうして足を踏み入れているのだった。もしジョルノにそのことを話せば、きっと私のことを何が何でも止めてくるだろうが、私にもやらねばならぬ事情がある。彼女たちが使っているものを手に入れて、その成分を解析しないことには、治療薬を作ることは叶わない。何が何でも、私にもそこへ赴く理由があるのだ。
そこは、校舎裏の一角であった。まるで人目を避けるように日陰や草木がカモフラージュの効果を果たし、日夜問わずそこには人は滅多に訪れない。もしかしたら受け渡しの際に少しでも地面に落ちたかもしれない、などと都合のいいことを期待しながらタキオンが辺りを見回していると、突然後ろから声を投げかけられるのだった。
「タキオン……」
咄嗟に後ろを振り向くと、そこには見覚えのある一人のウマ娘が立っているのだった。およそ平均的なウマ娘の体躯よいも随分小柄であり、サファイアのように青い瞳をこちらに向けるのだった。
「……おやおや」
「ナリタタイシン君。何か私に用かな?」
ナリタタイシン。前回の皐月賞を制した、「鬼脚」という異名を持つウマ娘。その小柄な体躯からバ群にもまれるような走法ではなく、後方で脚を溜めて最後にその恐るべき加速力で一気に前方へと躍り出る彼女の走りは多くの人を魅了し、同期のビワハヤヒデ、そしてウイニングチケットと共にクラシック路線を賑わせたことによって彼女は「BNW」の一角としてその名前を連ねるようになったのだった。
「……君、呼吸も安定していないし、視線も定まっていないね…大丈夫かい?」
そう言いながらタキオンは様子の可笑しいタイシンから少しずつ距離を取るために、後方へと下がっていく…今のタイシンの様子には、覚えがあった。恐らく彼女は、既に以前のウオッカと同じで……
その瞬間、タキオンは急いでその場を立ち去ろうとする……しかしその瞬間、既に自身が彼女に術中に嵌ったことを悟るのだった。
「そんな……そんなまさか」
タキオンの眼前には、ありえない光景が広がっているのだった。