部屋の奥までは視認することができないほどの暗がりの部屋に、装飾がほどこされた燭台や、油によって点火されてその部屋を淡く照らすランプといった様々な趣深いインテリアが装飾されている。少女は部屋の中央に置かれた木製の椅子に腰かけたまま、今しがた部屋の祭壇の前にいる男にした長話によって切れた息を整えるために、短く一息ついた。
いつもは心の奥底に、誰にも明かさず抱え込んでいたその苦しみ。その男の瞳に覗き込まれると、まるでその悩みを全て見透かされているような気がして、気が付けば自身がレースに勝てず苦しんでいることを、包み隠さず話してしまっていた。
「……それは。それは辛かったね。私はいわば、魂を救うための存在。この学園で必死に戦い続ける君たちのような悩める者たちの魂の行方を、少しでもより良い方向へと導くことだ。今日この場に君が来ることを決断して、ここに来てくれたこともまた「運命」だ。」
その言葉に、彼女は心なしか胸に重くしがみついていたその苦しみが少し和らいだように感じた。男は手に持っていた仰々しい書物を閉じて机の上に置くと、部屋の祭壇に安置されている像に視線を向けた。
「日本人、そして日本生まれのウマ娘の多くは、あまり宗教というものに関心があるとは言えない。クリスマスにはクリスマスツリーを飾り、サンタクロースにはプレゼントをねだるというのに、正月には神社や寺で初詣をして、おみくじを買うなんてこともザラにあるくらいだ。そんなわけだから、君たちのように海外から来たウマ娘たちにとってはそのギャップに悩まされることも大いにある。だから先代の理事長の取り計らいによって、この学園にはこのような施設が建てられ、より多くのウマ娘に寄り添った試みが行われたというわけだね」
確かに彼の言う通りだ。異国からやってきた自分にとっては、その存在は非常に身近なものであったが、日本に来てから聊かその存在は世間からは隔絶されているようにも思えた。
「そうだったんですね」
「……それはともかく。私は君の話を聞けて良かった。君の悩みを知れてよかった。君の心に少しでも安寧が訪れたのであれば、私がここにいる意味があったということだろう」
話をしただけだったが、ほんのそれだけのことでも彼女の心は救われていた。男に礼を言ってその場を立ち去ろうと椅子から立ち上がった。
「今日はありがとうございました。話を聞いてもらっただけですけど、凄く助かりました!」
そう言って彼女は部屋を後にしようとしたが、その背中を男は声を掛けて引き留めた。
「もしも君に、その苦しみから逃れることができる可能性があると言ったらどうするかい?」
その言葉は、まさに地獄にたらされた一本の蜘蛛の糸だった。この苦しみから、もがいてももがいても決して出ることができないと思われた、その苦しみから逃れる方法があるというのならば、ぜひ知りたい。これ以上、ファンのみんなに。そして家族をがっかりさせたくない…
「…し、知りたいです!教えてください…!」
外へ出ようとしていたその足を止め、男の方へと縋りつく。知りたい、その術を。知りたい、この苦しみの坩堝から逃れる術を。彼女の様子を、温かい笑顔を浮かべて見つめるその男は、ポケットから白い粉末の入った袋を取り出すと、その笑顔を顔に浮かべたままに言葉を続けた。
「さぁ、貴方ならきっと受難を乗り越えることができる。私はそう願っていますよ」
目のまえの男がゴールドエクスペリエンスによって攻撃を繰り出そうとしたその瞬間、突然姿を消したという事実。それはジョルノの思考を、そして行動を止め、その動きに隙を作るには十分すぎる事象だった。
「なっ……!」
どうしてこの男は自身の目のまえから忽然と姿を消したというのか。そしてそれを可能にする男のスタンド能力とは、一体何なのだろうか。
パチッ!
…なっ
それを考える前に、ジョルノは自身の身に起こった違和感に気が付くのに一歩遅れてしまった。ジョルノの身体に突如、僅かではあるが鋭い痛みが走ったことを感じた。
……これは。これはまるで、冬場に不意にドアノブを触ってしまった時に感じるような…
「…静電気?」
その瞬間、ジョルノの身体に耐え難い痛みが襲い掛かる。あたりは視界を奪うほどの強い閃光がジョルノを包み込み、彼はその中心でその閃光の攻撃を受けると、口から煙を吐き出しながらその場に倒れこんだ。
「お前の能力は分からね~けどよ~、こうしてしまえば強いもくそもないって話だよなぁ~」
トンネルの暗がりから姿を現したその男は、返事なくうつ伏せに倒れ込むジョルノの背中を脚で軽く押すと、その顔に笑みを浮かべながら口を開いた。
「俺のスタンドは「クラウディ・ハート」。一言で言えば、雲を自在に操る能力だ。俺の姿が突如消えたのは、雲を自在に変化させて俺の分身としてお前の前に出現させたからで、雲を静電気の要領で帯電させて、雷を発生させこうして攻撃することも可能だ……まぁ、最ももうお前には聞こえてね~だろうかよ~?」
男はジョルノの背中を見やると、自身のスタンドを傍に控えさせる。その容貌は、人型の容姿をした青色のスタンドで、背中にはガスボンベのような物体を背負い、そこから伸びているホースのような代物はそのスタンドの手についた噴出口に繋がっていた。
「さてはて、お前にはうちのチームにしやがったことについて、責任をとってもらわね~とな~。てめ~には悪いが、アグネスタキオンもうちのチームが流しているブツの特効薬でも開発されたら厄介だからな。そいつも始末させてもらう。」
男はそう言うと、再びスタンドから雲を輩出し、その雲は倒れているジョルノの頭上に集まっていく。その雲は途端に、キャンバスを一色に塗りつぶしていくように真っ黒なものへと変化していく。やがてその小型の雲は、腹の底がうねりを上げるような音を挙げた。
「くたばれ……!」
その瞬間、男の眼前にはにわかに信じがたい事象が広がっていた。雲が男の指示を離れ、あらぬ方向に流れていく……いや、正確には引き寄せられるようにある方向へと流れていった。
「お前は……!」
こいつには、見覚えがある。確か泉がこいつに手ひどくやられたと言っていた……
その少女はトンネルの後光をその背中に受けながら、男のことを険悪な表情で睨みつけていた。
「ナリタタイシン……だったな。俺の雲をひきつけるとは、一体どんな能力だ?泉のやつはまるで、身体が引き寄せられたと言っていたが……」
「アンタの雲を、アタシの能力でひきつけただけ。これ以上そいつ攻撃したら、たぶん死ぬから……トレセン学園のためにも、そいつには死なれたら困るし、もちろんアンタたちがいても困るの」
そうつぶやくと、タイシンはひきつけた雲をスタンドの拳で一払いすることで、いとも簡単に消失させた。
……自身のスタンドと、タイシンのスタンドの相性は、まさに最悪と言っても過言ではないだろう。自身のスタンドはあくまで、雲を生じさせて、雷や雹を降らせるといった、本来自然界に存在する雲としての範疇でできることをさせ、その応用として敵を一瞬だけ誤認させることができる分身を作り、防御するための盾としてその雲を使うといった程度のことしかできない。
そんな攻撃としての要素の雲が空中に固定できるわけではないため、簡単にタイシンのスタンドの影響を受けてしまうわけだ。これでは防御することはできても、攻撃に転じることなどできない。
「三十六計、逃げるに如かず………か」
ここで決着を強いる必要は、どこにもない。それに今回の目的は、「ここでとどめを刺す」ということではない。そこに転がる金髪の男を殺すのは、あくまでサブミッションだ。
幸い自分はトンネルの、競技場ではない反対の方向にいる。ここで雲を張ってタイシンの視界を奪ってから、会場にいるやつらにまぎれこめば一目をかいくぐることができる。そうすれば、こいつらを始末する機会などいつでもあるはずだ。
スタンドの雲を拡散させてトンネル一帯を覆いつくし、タイシンの視界をたちどころに奪い去っていく。これなら今逃げ出してもやつに気づかれることもないだろう。
「なっ……!」
どうして、どうして足が動かないんだ……!逃げ出そうとして動かそうにも、ぴくりとも足を動かすことができない。一体自身の身に何が起こったというのか。
煙幕に使った雲が霧散し、視界がクリアになっていく。自身の視界も回復した男は、その身に起こっていることをその時初めて認識した。
自身の脚が文字通り根ざしたかのように木がその脚を巻き込んで成長している。まるでその脚を少したりとも動かすことなく、何十年の月日を経て成長してしまったかのように。視覚的に自身の身に起こった状況を認識すると、途端に木が自身の脚を巻き込んでいることによって生じている激痛が自身の身体を襲った。
痛みの波が、絶え間なく身体を襲い掛かってくる。情けない悲鳴をあげながら、しかし足を巻き込まれている以上倒れることもできず、まるで海外で見かける、空気を送られてフラフラとダンスをするように動き回るビニール人形のようにもがいていた。
「な、な、なんでッ……!くそッ……!」
「痛いだろう……?だがその痛みは、お前たちがしたことによって今も苦しんでいる被害者の痛みと比べれば、まったくもって罪滅ぼしにもなりはしない。」
その声は、自身の前方から投げかけられた。額から脂汗がにじみ出て、それが目に入って鋭い痛みを発する。ちかちかする視界の中で、男が顔を上げるとそこには倒れているはずの彼の姿があった。
「貴方……「覚悟してきている人」……ですよね。人を「始末」しようとするってことは逆に「始末」されるかもしれないという危険を常に覚悟している人ってわけですよね……」
その言葉には、確かな意思と覚悟があった。町に屯するチンピラの脅し文句とは明らかに異なる、幾度となく死線を乗り越えてきた者の「すごみ」を孕んだ言葉だった。ジョルノはその足で、その意思でその場に立つと苦悶の表情を浮かべる男のことを無表情で見つめた。