ビクターは1人、ゴッサムシティの裏通りを歩いていた。
金属の身体が露出せぬよう、パーカーのフードを目深に被る。手はズボンのポケットに入れ、視線をやや下に向けながら、人の間を縫うように進む。
此処がゴッサムシティでなければ、まず間違いなく目立つ怪しさである。
だが周囲の人間は今のビクターと似たような出で立ちの者ばかり、寧ろスーツを着ようものなら確実に浮くだろう。何か疚しさを隠すような、コソコソとした装いこそが、この街で上手く生きていくコツなのである。
例え表通りであっても、郊外に程近い場所では常に命の危険が付き纏う。故に1人歩きなど言語道断。夜更けに出歩くなど論外である。
それがゴッサムシティであり、ビクターが住み慣れた街の概要であった。
「…む、もう少しか」
今夜、クラークとダイアナに合流する約束だ。それまでまだ時間があるため、ビクターはバットマンが追っている事件の現場へ向かっていた。
謎の殺人事件。被害者は揃って獣の様に毛深く、殺し方は多種多様。
クラークの仕事の一助にもなるとして、ビクターは情報収集に勤しんでいるのである。
「ハッキング、バレていないといいが」
ただ、その方法はかなりグレーだ。監視カメラは勿論のこと、警察にまでハッキングをしかけ、有用な情報を拝借しているのだ。
世界的なヒーローとてただの部外者でしかなく、そんな存在に情報を渡せる筈もない。ただビクターの場合、あらゆる電子機器を支配下に置いていると言っても過言ではない。証拠も痕跡も残さず、するりとファイアウォールを潜り抜けられる。此方側が白状しない限り、少なくとも警察にはハッキング行為を摘発されることはない。汚職に塗れたゴッサムシティの警察にその様な頭があるかは、全くもって定かではないが。
だが。
警察に察せられずとも、バットマンであれば気付くかもしれない。
彼自身も電子機器の造詣が深く、使用する(最早兵器とも言える)ガジェットも最新型。噂では、自ら作成しているとも。
ビクターは確かに電脳世界の王であるが、まだ若い。可能性が限りなく低くとも、何処か見落とした部分があるかもしれない。そして、バットマンはその見落としを見つけるのがとても上手いのだ。僅かな証拠からジャスティス・リーグを暴き出し、更に警戒を強めるだろう。
最悪、謎の殺人事件との関係性を疑われるかもしれない。そうなってしまえば最後、ジャスティス・リーグは敵と看做され、きっと今までにない窮地に追い込まれる。
此方はあくまで彼を仲間に引き入れたいがため、またクラークの仕事の手伝いのため事件を追っているのだ。
「………ん?」
ふと、違和感。
ジャスティス・リーグにバットマンを引き入れることが決まった次の日、クラークに新しい仕事が舞い込んだ。その仕事が、バットマンが追っている謎の殺人事件の記事を書くこと。
事件を追っていれば、自ずとバットマンと接する機会が得られるだろう。
「偶然か?にしては都合が良いな」
首を捻る。偶然と言えばそれまでなのだが、どうにも違和感が拭えない。
そもそも、クラークは元々担当していた記事を取り上げられ、今に至るのだ。編集長との仲は良くないが、嫌がらせをされる程悪くもないと彼は言っていた。他の者に任せれば良いものを、態々クラークに任せるなど。
もしや、仕組まれた?
だが誰に。
いや、でも、しかし。
……、盗聴器の類は仕込まれていなかった。メンバーの誰かが外に漏らす筈もなく、ならばきっと偶然なのだ。
ビクターはそう結論付け、歩幅を少し広げた。頭の中の違和感を拭い去り、数秒後には何事もなかったかの様に。
すれ違う人々に目をやることもなく、少しずつ奥へと。
暗闇へと。
もう少しで目的地に辿り着く。そう思った時、僅かな歌声が聞こえた。
近くの建物で、合唱をしているらしい。よく耳をすますと、パイプオルガンの音も聞こえた。
直ぐに周囲情報を検索する。
右手側の建物が、どうやら廃聖堂のようだ。最近買い手が見つかり格安で譲られたそうだが、なるほど、合唱団の練習場となっているらしい。生憎とクワイアには明るくないビクターだが、かすかに聞き取れたラテン語から、それが賛美歌の類であることは理解出来た。
足が自然と廃聖堂の方へ向く。事件現場から程近い場所であるから、目撃者と会話が出来る可能性がある。第一発見者が、近くの建物を拠点とする合唱団の一員であるとの情報もある。
何より、その歌をもう少し聞きたかったのだ。
或いは、水の滴る様な微かな導きだったのだと。
全てが終わった後、ビクターはこの歌をそう形容した。
◇
古びた扉に力を入れると、予想に反して音もなく開いた。隙間に身体を捩じ込み、辺りを見渡す。埃1つない、よく手入れされた内装が目に入った。
少し奥には壁一面のステンドグラス。買い取りの際に改修したらしく、そこだけ真新しい印象を受けた。夜空に輝く星々、それに祈る何かの生物。
合唱団は、そのステンドグラスの前で歌っていた。老若男女、果ては服装まで問わずバラバラな人物が20名程。指揮者の降る腕に合わせ、一心不乱に声を出している。
ほう、と息を漏らす。荘厳な雰囲気に圧倒され、その世界観に入り込む錯覚に陥る。美しい夜空、輝く星、祈りを捧げる美しい娘。賛美歌から、そのような風景が見て取れた。
「あら、あら、あら」
「、うわっ」
突然かけられた声に思わず飛び退く。何事かと思考を巡らせたが、直ぐに己が不法侵入をしでかしている事に気付く。
しまった、と己の醜態を恥じ、ビクターは目の前の人物に謝罪の姿勢をとった。
「突然すまない。その、綺麗な歌声だったから」
「あら。ふふ、嬉しいです」
だが目の前の人物は、ビクターに対して特に何も咎める気が無い様だ。小さな桃色の唇が、少女の様な微笑みを形作っている。
「此処は合唱団‘聖歌隊’の拠点です。いつでも、どなたでも、歓迎しておりますわ。わたくしは僭越ながらリーダーを務めております。どうぞよろしくね、サイボーグさん?」
「…知っていたのか」
「大変失礼ですが、袖口から機械の腕が見えたので。カマをかけましたが、引っかかってくれて嬉しいです」
「やられた」
「ふふ」
ビクターよりずっと小さい、それこそ少女と形容しても問題ないであろう彼女は、ビクターの手を躊躇いなく握って椅子へと案内した。特徴的な形の目隠し帽は少女にミステリアスな印象を与え、白で統一された服は聖職者の様な出で立ちに仕立て上げられている。
間違いなく何処かの宗教に属する者。下手をすれば無茶な勧誘をされるかもしれないと、ビクターは気を引き締めた。
「この歌、本当は演奏も加わるのです。ですが諸事情により、皆様で集まる機会が減ってしまいまして、ええ」
「…とても綺麗な歌だと思う。演奏も加われば、もっと素敵なのだろう」
「ええ、ええ!その通りです!美しい星の娘を讃える歌。それが素晴らしくない訳がありません!」
小柄な少女はビクターに物怖じせず、ニコニコと笑っていた。顔の下半分しか露出していないが、かなり上機嫌であることが容易に窺えた。
「ジャスティス・リーグ、サイボーグ。貴公が此処にいるという事は、何かの事件かしら?それとも、プライベート?」
「リーグとしての仕事だ。歌に惹かれたのも事実だが」
「まぁ!世界を守る皆様、どうもお疲れ様です。わたくしに協力できるものであれば、尽力いたします」
と、歌が不意に止んだ。クライマックスを終えたらしく、歌い終わった人々がバラバラと動き出した。
「皆様方、今日も素敵な賛美歌でした。熱心に取り組んで頂き何よりです。さぁ、お帰りになって?」
少女の言葉に、彼等は手早く荷物を纏めて出口へと歩き出した。会話が異様に少ない事が気になるが、気にしている間に、すっかり皆出ていってしまった。
「さて、ミスター・サイボーグ。何をお聞きに?」
ハッと当初の目的を思い出す。頭の中で手早く情報を纏めつつ、少女に簡潔に説明した。
この廃聖堂付近で起きた殺人、それを皮切りに連続する奇妙な事件を。
ビクターの話を、相槌を交えながら聞く少女は、話が終わった途端腕を組んで悩み出した。1ヶ月半も前の話だ、正確に思い出すのに時間がかかるだろう。
「あの件ですか。わたくしもずっとずっと悩んでおります。全く、何処の誰が何をしでかしたのやら」
「第一発見者は近くの建物を拠点とする合唱団の一員だと。此処で間違い無いか?」
「ええ、合っております。先程の、指揮者を務めていた女性の方です」
この聖堂は少女による相談所も兼ねているらしく、合唱団の殆どが彼女に悩みを打ち明け、抱える者だそうだ。
相談所の噂を聞きつけた女性が仕事終わりの夜更けに聖堂を訪ねたところ、近くで惨殺死体を発見してしまったそうだ。
「歌はあまり上手ではありませんが、指揮がとても素晴らしい方なのです。ええ、ええ。あの時の発狂っぷりは目を見張るものがありました。死体を発見した後直ぐに此処へ駆け込み、わたくしに助けを求めたのです。落ち着くまでずっと背を撫でていました」
酷く震えて、小さく縮こまる。ただ恐ろしいと涙を流す。
最悪なのは、死体の傍から立ち去る足音を聞いてしまったところだ。恐らく犯人のもの。姿など見てはいない。足音だけ。
女性は1ヶ月半経った今も怯えているそうだ。犯行を目撃されたかもしれないと思った犯人が、いつか目撃者の己を口封じのため殺しに来るのではないかと。
「彼女は日が沈むまでに帰宅します。日が昇るまで家でじっとしています。可哀想で、何とかしてあげたいと思っているのです。本当ですよ?わたくしも、事件の早期解決を望んでいるのです」
「…尽力しよう。いや、我々が何かしなくても、ゴッサムの闇の騎士が解決しそうではあるが」
「あら、そう思うのなら、何故この事件に関わるのです?」
「…企業秘密だ。黙秘権を行使する」
「ふふ、承知しました」
ビクターが入手した情報によれば、この付近で発見された死体は見るも無残に切り刻まれていたらしい。
体毛が伸びているためか常人よりずっと斬りにくい被害者を、惚れ惚れする程の鮮やかさで斬ったのだろう。刃先にブレはなく、完璧な太刀筋。凶器は恐らく刀だろうと結論付けられていた。
「警察によれば、刀傷らしいですね。やはりカインハーストの阿呆共かしら。あら失礼。刀なんて持ち込めば直ぐ気付かれそうなものですが」
「どうだろうな。ゴッサムは中心地から離れれば離れる程、犯罪者が増える。裏ルートならいくらでもあるだろうな」
「そればっかりは警察の怠慢です。嘆かわしい」
「警察だけじゃあ手が回らないから、バットマンという存在が生まれるのだろう。君も、夜道は気を付けた方が良い。いや夜道だけではなく、不法侵入もあり得るか」
「その点に関しては問題なく。ご心配には及びません」
窓を見ると、入り込む光がかなり弱まっていることに気付く。もう直ぐ日が落ち、夜が来る。クラーク、ダイアナとの待ち合わせの時間まで余裕はあるが、事件現場の確認もある。そろそろ聞き込みを終えても良いだろう、と判断した。
「すまないが、そろそろ行こうと思う」
「いいえ、構いませんよ。またいつでもいらしてくださいね。…もしや、これから現場に行くので?」
「そのつもりだ」
「む、む、む。残念ながら、証拠らしい証拠は残っていない筈です。1ヶ月半前のことですし、目ぼしいものは警察やバットマンが押収していきましたから」
「理解している、念のためだ」
「そうですか。ご武運を。……あ、やっぱりお待ちになって?」
既に足を踏み出していたビクターを、少女は呼び止める。
半歩分だけ振り返れば、少女は口許に笑みを浮かべたまま問いかけてきた。
「バットマン、という存在について、貴公の意見を伺っても?」
「…構わないが、何故?」
「合唱団の方の中には、彼を暴徒と同義にしている方もいらっしゃいます」
少女としてはバットマンが犯罪者か否かは至極どうでもいいことであるらしい。結局は赤の他人であるためだ。しかし彼女が相談に乗っている者の中には、バットマンに怯えている者もいる。ゴッサムシティに余計な混乱を招き入れる不吉な影として。
偶にバットマンについて相談を受けるそうだが、彼女自身はバットマンのことを良く知らないため、的確な助言が出来ずに困っているという。
「わたくし、2ヶ月前に此処にきたばかりなのです。ミスター・バットマンのことなんて風の噂程度にしか知らないので、如何様にも出来なくて困っているのです。ジャスティス・リーグであれば、何か有用な情報を持っているのではないのかと判断いたしました」
「と言っても、我々ですら世間での共通認識程度しか知識がない。俺の力を使えば直ぐだろうが、あまり使いたくないのが本音だ」
「此方としては、彼が害のある存在でないことを判断できればそれで良いのです」
シュン、と擬音が付きそうな程しょぼくれてしまってしまった少女は、きっと隠された瞳をビクターに向けている筈だ。
「彼は確かに暴力的で手段を選ばない。だがそれは無辜の市民に害を及ぼす悪にのみ向けられている、と俺は判断する。彼に怯える人間は、きっと疚しい過去を抱えているのだろう」
「概ね同意いたします。むぅ、ですが、何故この聖堂を今も嗅ぎまわっているのか、」
「…待て、それは初耳だ」
「あら?」
知らなかったのか、と言わんばかりの驚きようだ。小さな手を口に当て、近くのビクターを見上げていた。きっと少女は、ビクターがその事実を知っていて此処に訪れたと思っていたのだろう。
「人間の心理において、一度逃げたとしても必ず現場に戻る習性があります。彼は、ここに犯人が戻ると予想して張り込んでいるのかしら」
「若しくは犯人に近しい者が此処に出入りしていると踏んでいるか、だな」
ビクターが放った何気ない一言は、少女の気分を害してしまったようだ。
「ま。カインハーストの様な腐った血狂い共なんて出入り拒否です。失礼。合唱団の誰か、或いはわたくしが怪しいと?わたくし、獣を狩っていないので全く無関係ですのに」
少女は憤慨した様子で腰に手を当てた。疑われているのだ、怒っても無理はない。
「同じ事件を追っているんだ。きっといつか彼に会うだろう。その時に真意を聞いてみよう」
「ありがとうございます。さて、引き留めてしまい申し訳ありません」
ス、と少女が前に行き、閉まっていた扉を開けた。両開きの扉の、右側だけ。
人1人が通れる隙間が出来たら身を引き、ビクターに向かって笑いかけた。
「ご武運を、ミスター・サイボーグ。ジャスティス・リーグ諸共折角引き寄せたんですから精々役に立ってほしいものですが、貴公の成果が、実りあるものでありますように」
花が咲いたような笑みだ。ビクターは、怖がらないどころか積極的に協力してくれた彼女に感謝をしつつ、意気揚々と扉をくぐった。
「君達が少しでも早く安心できるよう、近況はまめに伝えようと思う」
「まぁ、嬉しいです。どうかお気を付けて」
クラークとダイアナとの約束の時間まで、まだ余裕がある。大丈夫だろう。
少女が扉を閉めるところを確認して、ビクターは少し駆け足で事件現場へと向かった。その足取りは何処か軽やかだ。その原因はビクターにも分からない。分からないが、きっと少女の驚異的な洗脳能力のお蔭だろう。
未知なる神秘の耐性を全く持たないビクターは、少女から滲み出る神秘の残骸ですら、猛毒となるのだ。軽い足取りのまま、とうとうビクターは駆け出した。その表情は何処か晴れやかで、すがすがしいものであった。
それは己の事を怖がらないでいてくれた少女の、あ、うえ、ぎ、いぅ。
「さて、さて。ちょ~っと急がないとマズくなってきましたしぃ。他の狩人、殺っとく選択肢も入れておきましょうか」
暗闇に融け、微笑むものは誰であろうか。
◇
何もない事件現場。証拠らしい証拠が見つからず撤退するビクターを、暗闇から見つめていた者が1人。
周囲の影に同化するように紛れていたその者は、ただじっと、何をするでもなく壁に張り付いている。だがその目にはめたコンタクトレンズは、随分前に開発した録画機能付きの超高性能カメラ。拠点のサーバーにデータが送信されたことを確認し、とうとう壁から離れて移動し始めた。
ワイヤーを射出しビルの合間を駆ける。その度に黒いケープが音を立ててはためき、翼の様に広がる。
黒で統一された武骨な装備は、凶悪な犯罪者をねじ伏せるのに役立つ。
蝙蝠の様なカウルは無二のシルエットを生み出し、見た者に対して恐怖を与えることだろう。
バットマン。
ある程度離れたところで、ビルの屋上に着地する。グラップネルガンを軽く見て、問題なく動作することを確認したところで、聖堂の方角をちらりと向いた。だが直ぐに視線を逸らす。体中を蛞蝓が這いずり回るような強烈な嫌悪感が全身を駆け巡るのだ。何の変哲もない、強いて言うなら外見が廃墟同然であるだけの聖堂である筈なのに。
否応にも思い出すことがある。18年前の、あの。
頭を軽く振って、バットマンは再び駆け出した。彼は今回の事件に、あの聖堂にいる存在が深く関係していると確信していた。丁度、メタヒューマンの集いであるジャスティス・リーグもゴッサムシティを訪れている。彼等を利用して、おびき寄せようと画策しているのであった。
約束を、果たすため。
ゴッサムシティの夜は、まだ明けていないのだから。