夜明けを望むけものたち   作:メリケンです。

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逢着

 ゴッサムの街は眠らない。

 それは比喩でも何でもない。むしろ、本来なら眠るべき時間帯こそがゴッサムの街の本当の姿だ。

 麻薬の密売、強盗、殺人、放火、マフィア同士の抗争。大小さまざまな犯罪が、色々な悪党によって実行されるのだ。

 ブルースは、そんな街の夜に己の身一つで繰り出す。毎夜、毎夜、アルフレッドに止められようがお構いなく。仮にもゴッサムの街一番の富豪である彼が、護衛もつけずに。自殺行為ともとれるそれは、決して彼の気が狂っているからではない。

 いや、ある意味で狂っているのかもしれない。

 彼は今日も街を往く。悪を許さず、それらを悪びれもなく実行する者に執拗なまでに制裁を加える───闇を象徴する、バットマンとして。

 

 コートの者の捜査について一度打ち切り黒衣に身を包んだ主人を見て、アルフレッドは苦々しい表情をしながらも何も言わず見送ってくれた。

 リドラーの事件以降に精神的な距離が縮まったとはいえ、ブルースはあの従者への接し方に未だに悩んでいる。そしてアルフレッドも、主人への接し方に同じように悩んでいる。

 お互いに面倒くさい性格だな、と内心で思いながら、グラップネルガンを駆使してビルの合間を縫うように飛ぶ。

 途中で見つけた悪党共を取り合えず殴り、匿名で警察に通報する。加害者に罵られ、被害者に怯えられるのは常だ。

 

「ありがとう、黒い人!」

 

 だが最近になって、去り際に感謝の言葉を伝えられることが増えた気がする。

 ゴッサムの街を襲った津波の際、ずっと人々の救援活動に勤しんでいたためだろうか。確か1ヶ月前、漸く住民の避難や復興の目途が経った頃の報道で、馬鹿にされていた記憶があるが。自分の姿と名前を売り込むための、偽善に富んだ間抜けなコスプレイヤーとして。

 ブルースは感謝の声に一瞬だけ足を止めたが、直ぐにまた暗闇へと溶け込むように歩みを進めた。バットマンとしてのやり方は全く変えていない。悪人をただ殴り、蹴り、言葉もかけずにぶん投げる。被害者は基本的に放置し、双方に闇への恐怖を刻み付ける。それが、賞賛される筈がない。そう遠くない未来に、きっとまた怯えの目を向けられることだろう。

 

 再びグラップネルガンでビルの屋上へ飛んでいき、下の道路を見下ろす。蝙蝠を模したカウルに仕込んだ生体感知センサは、ビルをすり抜けて生物の体温を感知する。そうして不審な動きを探知し、彼はまた、喧騒に向かって飛び降りるのだ。

 

 

 一段落ついて見上げた公園の時計の針は、午前3時を10分程過ぎていた。

 そろそろ切り上げるか?という思いが脳をよぎった。アルフレッドに連絡してシャワーの準備を…と、カウルの耳の部位に取り付けた通信機に手を添える。

 

『はい、マスタ・ウェイン』

「戻る」

『ではシャワーの準備を。それから、軽食も用意しておきましょうか』

「ああ、頼む──────うん?」

 

 悲鳴が聞こえた。

 それ程、遠くはない。

 

「…あと1件、片付けたら戻る」

『あまり無茶をなさらぬように。せっかくの食材が腐ってしまいます』

「分かっている」

 

 アルフレッドの冗談を軽く流しつつ、ケープを翻して悲鳴の方角を見据える。

 そして、被害者が死んでしまわぬ内にと、目標目掛けて走り出した。

 

 

     ◇

 

 

 暗い路地に入ると、濃厚な血の匂いが漂ってきた。

 悲鳴の主は路地の奥にいた。だが逃げた方角は行き止まりで、引き返そうとしてもブルースが来たがために道を塞がれてしまった。

 ブルースは大通りから路地に入り、血の匂いを漂わせる被害者たちを見つめる。

 距離にして20m程度だろうか。被害者たちは五体満足であったが、この距離で血の匂いが分かる程の重傷を負っていた。

 そして顔に施されたペイントから、被害者たちが真っ当で誠実な人間ではないことも明らかだった。

 

「い、イカれた蝙蝠男…」

 

 1人がそう発すると、周囲も恐れ戦くように身を縮こませた。

 当然の反応だ。ブルースが活動を始めてから2年の歳月をかけたことで、ゴッサムの街の悪人はバットマンからの制裁を恐れるようになった。一部例外はいるが、それでも大半はバットマンがいもしない影にすら恐怖を抱くようになった。

 

「た、助けてくれ!」

 

 この言葉も想定内だ。助けを求める言い訳として、自分たちより悪い人間が襲ってくる、と述べる筈だ。自分たちを正当化させるため、相手の頭がいかに可笑しいかを叫ぶ筈だ。

 

 だから、きっと、油断した。

 

「あいつが来るんだ、恐ろしいあいつが!」

 

 背後から音もなく近付く者に。

 

「獣なんかじゃないし、虫だって湧いてない!」

 

 血を滴らせて近付く者に。

 

「ああ、嫌だ、あいつ、俺達を、汚物を見るような目で、」

 

 何かうすら寒いものを感じ、ブルースは漸く振り向いた。時間をかけてゆっくりと、何処か受け入れがたい事実を直視しようとするかのように。

 

 目に入ったのは、人のシルエットだ。裾がボロボロな、しかし上等なコートを着込んだ、ごく普通の人の。

 

 だがそのコートは、ブルースがバットマンとして街に繰り出す直前まで見ていた映像とぴったり一致した。脛まである裾は血に塗れ、右手には物騒な、恐らく凶器であろうノコギリのようなものが握られていた。

 頭にはトリコーンと呼ばれる三角帽子が乗っかっている。長年使い古されたのか、それともファッションなのか、つばの部分がささくれ立っていた。

 鼻の上まで布で覆い隠し、表情まで窺い知れない。

 だが僅かに見える赤い瞳は、ギラギラとブルースの後ろを見据えていた。

 

 間違いない。

 

 殺気を隠すことなく距離を詰めようとするコートの者を、左手で制す。

 今気付きましたと睨みつける相手の様子に閉口する。本当に今気付いたようだ。邪魔をするなと視線で訴えてくる相手を、臆することなく睨み返す。

 

「お前は昨夜、少女以外の人間を殺したな?」

 

 相手が犯人だと確信しての発言だった。

 知らない、という言い訳は通用しない。この事件は、発生から1日しか経っていないにも関わらず、ゴッサム中に知れ渡っていた。そしてこのワードの並びから、絶えず犯罪が起こるゴッサムの事件でも1件しか掠りはしない。

 

「獣だ、殺す」

 

 だが相手が発した答えは、あまりにも端的であった。

 

「つまり、獣であるから殺してもいいと?」

 

 相手が発した声は中性的で、男とも女ともとれた。背格好もしかり。身体的特徴から性別を読み取ろうと全身を見たが、ベストやシャツをこれでもかと着込んでいるため不可能だった。ただそれだけ着込んでも細身のシルエットなので、本来の体躯はもっと細いのだろう。

 先入観で性別を決めつけておかなくて良かった、と思い、ブルースは再び相手を睨む。

 

「獣は殺す」

「彼らはクズだが、人だろう」

「邪魔を?」

「当たり前だ、殺人は───」

「ならば貴公にも虫が湧いているのだな。死ね」

 

 突然左の脇腹に重い衝撃が走り、ブルースは壁に叩きつけられた。

 特殊な装甲で作ってあるバットスーツの上からでも、相当な衝撃であった。スーツが無ければ胴体が真っ二つになっていたのではないか。

 相手を見ると、思っていた結果ではなかったのか驚いていた。きっとあの一撃でブルースを葬り去るつもりだったのだろう。振りかぶったノコギリのようなものを再度強く握りしめ、視線を完全にブルースへと向けた。

 

 風が一陣、強く吹いた。

 

 ブルースは今まで培った技術を駆使し…というより完全に野生の勘を発揮させ、素早く体を伏せた。途端に響く甲高い金属音。どうやら相手の攻撃を上手く避けられたようだ。

 まさかこの攻撃まで避けられると思っていなかったのか、相手が一瞬だけ硬直したのが分かった。すぐさま足に蹴りを入れ転がし、マウントを取ろうと体を起こす。だが既に10歩程離れた場所まで後退されており、追撃を負わせることは叶わなかった。

 

 ブルースを見つめる目は、手負いの獣を追い詰める猟師のそれであった。

 

 また風が吹く。相手が高速で移動するがために起こるそれは、ブルースに危機感を察知させることに大いに役に立った。

 

 相手の攻撃を避ける。拳を繰り出す。避けられる。その繰り返しを1分ほど続けたところで、両者はお互いに静止して相手を見定めた。

 

 相手は確かに高速移動をする。だが実際の速度は、ブルースでは簡単に目で追えるほどであった。

 見た事もない独特なステップを、緩急をつけて繰り返すことであたかも瞬間移動をしたかのように見せるのだ。仕掛けさえ分かってしまえばなんてことはない。所詮は初見殺しの代物だ。

 だが‘目で追える’と‘対処できる’というのは、残念ながら全く違うものだ。

 実際に戦ってみて理解したが、相手はブルースよりも遥かに高い対人戦術を持っていた。独特なステップは移動も回避も仕掛けるタイミングも完璧で、するりと攻撃の合間を縫ってくる。そして馬鹿げた力で右手の武器を振るってきた。何とか避けられてはいるが、バットスーツの表面は既に何ヶ所か削り取られている。

 

 そもそも相手の動きを読めるのはあらゆる武術に精通しているブルースだからであって、路地裏に住むチンピラでは影すら踏ませることなく殺されるだけだ。

 

 次はどう来る、と観察に徹していると、ふと相手は両腕から力を抜いた。傍から見れば諦めて降伏するのではといった様子だったが、ブルースはこれが次の行動への予備動作であることを容易に見抜いていた。

 そのままふらりと前に倒れようとする。あ、と思ったとき、相手は既にブルースの後ろにいた。

 

「な、」

 

 完全に、目で追えなかった。

 本当に瞬間移動したような。

 今まで攻撃を予測することに役立てていた風もなかった。声を上げたとき、相手は既に武器を振り上げていた。

 

 嘘だろう、と思う間もなく、右肩に重すぎる衝撃が迸った。

 

 重い鉄骨で直に殴られたような威力だ。ゴキリと嫌な音が路地裏に響く。骨が砕けた訳ではないが、脱臼したようだ。あらゆる衝撃を吸収するよう設計したバットスーツも、繋ぎ目への衝撃は流石に弱い。

 

 苦悶の声を上げ倒れこむ。相手はチャンスとばかりに2撃目を叩き込むべく右手を振りかぶる。

 

「やられっぱなしは、性に合わなくてな」

 

 だがそこは百戦錬磨の黒い影。攻撃の瞬間が一番の隙だということを、よく理解していた。

 ピンを外して相手の顔目掛けて投げる。途端にそれは眩い光を発し、暗い路地裏を瞬く間に照らした。閃光手榴弾だ。威力は、間近で直視したら視力を半日失う程度。

 

 今度は相手が苦悶の声を上げた。思わず武器を手放し、獣のように呻きながら両手で目を覆っている。

 すかさず左拳を相手の頬に叩き込む。漸くまともに入った攻撃は、相手を後方へ吹き飛ばしていった。

 更に蹲る腹に蹴りを入れ、壁に叩きつける。相手は未だに目を覆っており、加えて予測不能な攻撃により酷く混乱しているようだった。

 

 相手の狂暴性は理解した。そのため、警察に引き渡す時も抵抗が出来ないようにと、ユーティリティベルトから頑丈で太いワイヤーを引き出す。人一人が藻掻くどころか、戦車同士で綱引きをしても決して切れない代物だ。

 

 右肩の骨を乱暴にはめ込み、拘束すべく近寄る。のた打ち回る相手を気絶させるべく、顎がある辺り目掛けて拳を繰り出し、

 

 ドンッ。

 

 銃声。

 ブルースの腹に近距離で発射された銃弾が直撃し、彼は堪らず膝を着いた。スーツのお蔭か銃弾は表面に食い込む程度だったが、その代わり全身に衝撃が走り麻痺を起こす。痺れが、彼の身体を拘束した。

 

 そうか、攻撃の瞬間が一番の隙だったな。

 

 見ると、硝煙を上げる銃口が目に入った。

 いつの間にか手にしていた銃は、武器というよりは美術品としての価値の方が高いようなアンティーク調のマスケットだ。銃口にぶれはなく、かなり使い慣れていることが分かる。

 

 赤い瞳を怒りで満たしながら、ブルースを強く見据えた。既に視力は回復しているようだった。

 

 痺れは取れていない。

 

 ゆっくりと近づかれる。

 

 まだ動けない。

 

 右手を大きく引き絞った。

 

 抵抗できない。

 

 

 ああ、死ぬな、これは。

 

 

 ───突然相手は弾かれたように路地の奥を見て、次いでギリギリと歯を食いしばる音が響いた。

 歯が割れるのではないか、と思考の片隅に浮かんだそれを振り払い、漸く動くようになった身体を無理矢理動かして何とか距離を取った。

 

 何故、攻撃を途中で止めた。

 

 同じように路地の奥を見ると、そこには誰1人いなかった。

 ああ、と納得する。どうやら戦っている内に逃げられる隙を見出し、脇にある更に細い路地へと逃げたのだろう。

 狩りの邪魔をしたブルースより獲物の方が大事だったのか、相手はコートを翻して大通りへと小走りで向かっていった。

 

「待て、」

 

 そちらは反対方向だろう、と言いかけたのを飲み込んで、ブルースは言葉を重ねた。

 

「お前は、何だ!」

 

 だが相手は答えない。追いかけようにも、身体が思う様に動かない。

 

「獣狩りの夜とは何だ、赤い月とは何だ、お前は何故!」

 

 曲がり角に差し掛かった時、漸く赤い瞳が此方を見た。

 

「何故、獣を殺す」

 

 ほんの少しだけ目元を歪めて、相手はさも同然かのように告げた。

 

「私が、狩人だからだ」

 

 そうして、狩人は闇へと融けるように消えていった。

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