あれから30分程狩人を探し回ったが、痕跡すら見つけることは出来なかった。
ならばと今度は追われていた彼らを探したが、ブルースが見つけたときには既に死体であった。
両足を縛られ宙づりにされていた。加えて両手首を縛られ、頭は真下の地面に安置されている。
「正気の沙汰ではないな…」
暫く肉は食べられそうにない。
警察に匿名の通報を入れ、漸く帰路に就く。その頃には、既に空が白んでいた。
「おかえりなさいませ、マスタ・ウェイン」
「…なぁ、その呼び方はやめてくれ。前のようにブルースと」
「いいえ、ウェイン家の当主に恥じない行いを始めるようになった今、そのような呼び方は出来ません。シャワーの準備は出来ているので、どうぞ」
「はぁ、分かった。…ありがとう」
「当然のことです」
アルフレッドが言う‘ウェイン家の当主に恥じない行い’とは、きっとウェインの名をふんだんに使った慈善活動のことだろう。
今まで引きこもりだったブルース・ウェインが、新市長就任と共に表舞台に顔を出すようになった。それだけでも特大ニュースなのだが、それに加えて、ウェイン家の財産を使って復興の支援をするだけに飽き足らず、今後ゴッサムの未来にウェインの人間として貢献できるよう尽力するとまでスピーチを行ったのだ。
父の唯一ともいえる汚点───自身の弱みを握った記者の殺害については、既に誰もが知っている事実だ。そのことを引き合いに出し、揶揄する者も一定数いる。
それでも、ブルースが諦めることはなかった。
いつの日かゴッサムの街に真の意味で夜明けを齎し…バットマンが、不要となる日が来るまで。
あの津波で学んだのだ。
復讐だけでは何も変えられず、何も乗り越えることは出来ないと。
とはいえ2年かけて夜行性となった生活リズムを簡単に変えられる筈もなく、日中の活動時間は1時間で限界を迎えるのだが。最早闇夜に慣れた目では太陽光にも耐えられず、新聞に載るブルース・ウェインは常にサングラスをかけていた。
濡れた髪を乱雑に拭いながらバットケイブから出て、花瓶に花を挿し込むドリーへと声をかけた。
「ドリー、あー、その花は?」
「はい、スノードロップでございます。季節外れですが、温室で咲いているのを摘んでまいりました」
「そうか、その、」
「ふふ。マスタ・ウェイン、ペニーワースさんが彼方でフルーツを用意している筈ですから、どうぞ召し上がって下さい」
「あ、ああ、ありがとう」
にこにことドリーに見送られ、むず痒い気持ちのままリビングへと向かう。会話が上手く出来ずに四苦八苦している様を、従者たちは面白がって見ているだけだ。或いは、微笑ましく見守っているとも。
「こちら、新鮮なフルーツです」
ブルースの姿を確認するなり、アルフレッドは銀製のトレーを差し出した。
「ああ。…やはり、凝っている」
アルフレッドは手先が器用で、この美しい飾り切りも彼の仕業だろう。ほんの少しだけ顔を綻ばせて、ブルースはフォークでイチゴを刺して口に運ぶ。酸味の利いた、しかし甘いイチゴだ。
「飾り切りも問題なく出来るようになったんだな」
「ええ。ですから申しているでしょう、もう問題ないと。ところで先の件についてですが」
次はどのフルーツ食べようか、と迷っていた視線が一気に鋭さを増す。先の件、といえば間違いなく狩人についてだ。
その鋭さのままアルフレッドを睨みつける。早く続きを、と圧をかける様子は、バットマンの時と何ら変わりない。
ふぅ、と勿体ぶるように溜息を吐く。アルフレッドは、ブルースが狩人を探している時間で実施した、出来た限りの捜査の報告を行った。
「まずお相手が持っていたマスケットについてですが、解析したところ…装飾から、19世紀頃のヴィクトリア朝のものと見て間違いないかと」
「100年以上も前の?」
「その通りです。よく手入れしなければ使い物にならないようなものを、如何して好き好んで使用しているかは分かりませんが」
「トリコーンも、ヴィクトリア朝の少し前くらいに流行っていた帽子だったな」
ブルースは、あの特徴的な三角帽子を思い出す。今でも決して珍しくはないが、式典などの特別な日に軍人や警察が被る程度だ。流行最盛期の18世紀には民間人も被っていたらしいが、今時普段使いをする人間はいないだろう。
何だかやけに古い様式に拘る者、と結論付け、アルフレッドの言葉を待った。
「そしてバットスーツに付着していた弾丸の破片を分析しましたが、成分の大部分はHg、つまり水銀です」
ブルースの顔が益々強張る。
「水銀は確かに強い毒性を持つが、常温常圧だと液体だ。弾丸に出来る筈がないだろう。何か特別な凝固剤を使用したのか?」
「他には血液の成分が検出されました。間違いなく人間のものです。」
「更に意味が分からない。他には?」
「いいえ、水銀と血液のみです」
水銀もそうだが、血液も意味が分からない。
アルフレッドの言い方からして、弾丸型の容器に水銀と血液を入れていた、という訳ではないだろう。その容器の破片が全く残っていないというのはあり得ないのだから。しかし本当に水銀と血液のみで弾丸など形成できるはずがない。
ブルースが受けた衝撃は確かに鉛の銃弾が被弾した時と同じか、それ以上だ。実は水銀によく似た、これまた未知の物質であった…の方が、まだ納得出来る。…いや出来ない。
───例えばその血が、人間は人間でも宇宙から来た神秘によって改造された人間のもので、水銀と混ざって凝固する性質を持つのなら、きっと話は別なのだが。
馬鹿げたSFだ、とブルースは頭を振った。
「後は残念ながら何も分かりませんでした」
「…何も?」
「ええ、何も。分からない、ということだけが分かりました」
「そうか」
何処か予想出来た答えだったが故に、落胆はそれ程なかった。
現場にいたブルースが痕跡すら見つけられなかったのだから、映像解析と採取した弾丸の成分解析しか出来なかったアルフレッドにはブルース以上の成果が得られないのは当然のことだ。
遣る瀬無さを感じて、フォークをオレンジに突き刺した。果汁が飛び散ったが、気にせず口へと放り込む。
「そして、マスタ・ウェインが帰還される10分前に、お相手に関するとある情報を手に入れました」
「どうやって?」
「どうやら通信時の電波が混線してしまったようで、偶々傍受してしまいました」
「偶然だと?本当にか」
「ええ本当に偶然ですよ。うっかり操作ミスでサーバーに保存までしてしまいましたが、本当の本当に偶然なのです」
思わず嘘だろうと言いかけて、やめた。目の前の執事の目を見て、真実偶然なのだろうと納得した。しかし通信内容の保存は絶対に故意だ。操作ミスを年のせいにしているが、ブルースはアルフレッドのこういう茶目っ気が気に入っていたので、そのまま流されることにした。
「私からすれば、警察の通信を文字通り傍受する貴方様に言われたくはないのですが」
「何か言ったか」
「いいえ。そして内容ですが、アーカム・アサイラムに狩人が出現したとのことでした」
「アーカム・アサイラムに?」
アーカム・アサイラム、若しくはアーカム精神病院は、名前の割に事実上の刑務所である。正気を失った凶悪な犯罪者が収容されており、一度服役すれば二度と出られない地獄として有名だった。3ヵ月前にゴッサム中を震撼させた事件を引き起こしたリドラーも、ここにいる。
脱獄に成功したものは今のところいない。
「玄関を大砲のようなものでぶち破り、中に侵入して獣のように吠え立てたようです。『獣を匿うな、出せ』と」
「あそこの警備は厳重だろうに。よくもまあ侵入できたものだ」
「警備にあたっていた者は何名か切り刻まれてしまったようです。どうやら犯罪者を‘獣’と見立てて、殺しまわっているようですね」
「何というか、狩人の‘獣’に対する執着と憎悪は狂気の域に達しているな」
まるで、恐怖と復讐に囚われたかつての自分のようだ。
急に押し黙ったブルースを敢えて無視し、アルフレッドは続けた。
「ですが、いくら人外の如き動きをしてみせても、多勢に無勢。数分の奮闘の末、呆気なく射殺されたようです」
「……、」
「流石に最新重火器の集中砲火は堪えたみたいですね。死者は警備員が6名、重軽傷者は20名程。狩人が狙っていた犯罪者は誰一人死なず、また騒ぎに乗じて脱獄する者もいませんでした」
呆気ないな。
ブルースの感想はそれに尽きた。
死んでしまえば、狩人が犯した罪を認めさせるのも、罰を受けて罪を清算させることも不可能だろうに。
だがアーカム・アサイラムから脱獄者が出ることがなくて本当に良かったと思う。収容者は例外なく狂っており、殺人を全く厭わない。もし彼らが再びゴッサムに現れたら、間違いなくもっと多くの人間が死ぬだろう。
「…そうか。ならばもう狩人を追う必要がないのか」
「ああ、いえ、そうではなく」
何故かアルフレッドが言い淀む。いつも物怖じせずはっきりとした口調の彼が珍しい、とまじまじと見てしまった。
やがて意を決したのか、コホンと1つ咳払いをして口を開いた。
「狩人の死体が消えたそうです。まるで夢であったかのように、跡形もなく」