ブルースは今夜、とある富豪が主催するチャリティパーティに主賓として参加する。というのも、表舞台に立つようになったウェイン家当主と交友を持つためというありきたりな理由の影に、何やらきな臭い闇を感じ取ったからだ。
とはいえ殆ど勘であり、杞憂の可能性も十分にあった。結局何もなくとも、その富豪と繋がりを作っておくことで今後の為になることは重々承知している。
結局、スーツ選びには2時間かかった。ブルース自身がスーツに慣れていないのもあるが、アルフレッドとドリーが白熱したことにも原因がある。あの熱気は凄まじく、特にドリーはあれもこれもと小物を取り出し、生き生きとブルースに付けたり外したりを繰り返していた。
彼らが本当に楽しそうだったから、結局ブルースは嫌がることなく最後まで大人しくしていた。
狩人の鐘の奇跡で疲労が完全になかった状態でも、既に疲労困憊だ。ならばその奇跡の恩恵を受けていなかったら、今頃どうなっていただろうか。
特注のポマードと香水で酔うことはなかった。アルフレッドが取り寄せたようで、爽やかな香りは全く不快にならなかった。
ネクタイや革靴はドリーが選んだものだ。スーツ同様、動きを全く阻害しない。有事の際も素早く動ける機能性に優れていて、かつ粗末さを感じさせない、優美なシルエットに仕上がった。
きっと彼らはずっと前から準備していたのだろう。ブルースがいつか前に進み、道に迷う誰かを導く者になったとき───バットマンではなく、ブルース・ウェインとして人々の希望に成り得るように。ふさわしい格好をずっとずっと考えて、ブルースが身に付けるのを心待ちにしていたのだろう。
胸の内がぽかぽかと温かくなり、目の前がやけに色鮮やかになった。
パーティは億劫だが、2人の期待に応えられるよう頑張ろう。
警備員に誘導されながら駐車する。素早く下りると、警備員はブルースの顔を見てあっと驚いた表情を見せる。ゴッサムのプリンスと名高きブルースが現れたのだからその驚愕は当然のものだが、彼はその反応が好きではない。滅多に姿を見せない珍獣みたいな扱いをされているようで、それなりに癇に障る。
駐車場は会場から少し離れているため、歩く必要がある。スッと背筋を伸ばして歩き出し、先程とは別の警備員に話しかけた。
「会場は向こうで合っているな?その、少し騒がしいが、時間までまだ余裕があったはずだろう」
「あ、え、はい、あ、いいえ、パーティはまだ始まってないです。少し前にちょっとした騒ぎがあって、多分野次馬とか、そんな感じです」
「ちょっとした騒ぎ?」
「はいそうです。何か、こう、いかにも浮浪者って感じの人間が、不法侵入しようとしてまして。仲間が取り押さえたんですけど」
先程から気になっていた騒ぎについて尋ねてみたら、どうやら野次の声だったようだ。すわ遅刻か、と少々焦ったが、違ったようで安堵した。
警備員はしどろもどろになりながらも、何とか正確に伝えようと身振り手振りを交えて続きを話した。
「警察には通報したんですよ。本当はその辺まで引き摺って放り投げるか、直接警察に連れていくかしたかったんですけど」
「引き摺るのは止した方が良いと思うぞ」
「ああ、すみません。ええと、そうしようとすると途端に暴れ出して、これが妙に力強くて。押さえつけておけば大人しくしてるんで、仕方なくそのまま、って感じです。だから人が寄ってくるんです」
「…、」
そうか、と殆ど空気となった言葉を吐き出し、軽く会釈をしてその場を立ち去った。警備員は暫く呆けていたが、あと少しすれば我に返り「あのブルース・ウェインと喋った!」と同僚と無線で自慢する事だろう。いや実際に聞こえてしまった。
だから自身は珍獣ではない。その扱いは止めてくれ。
会場の入り口、その少し外れた場所に、確かに人だかりが出来ていた。件の人物は良くここまで侵入できたものだ、と少しだけ感心した。もしくは簡単に侵入を許せてしまう程に警備が笊なのか。
カツンと靴音を響かせると、何名かがブルースへと振り向いた。どれも新聞やテレビで見た事があるような顔ぶれだ。皆一様に驚愕に目を見開き、隣の者の肩を叩いたりして振り向かせつつ、彼の元へ駆け寄った。
「ウェインさん!会えて光栄です!」
「ああウェインさん、本当に来るなんて!」
「ウェインさん、この間はどうもありがとうございました!」
「お久しぶりですウェインさん!」
自分は今、上手く笑えているだろうか。
作り笑いに頬が引き攣りそうになったが何とか耐える。ここまで大勢に囲まれてしまえば匂いで酔いそうだ。人々の好奇の視線が突き刺さった。
我慢だ。慣れろ。
これがあと数時間続くことに精神が病みそうになる。
ブルース・ウェインとして活動していくのなら必要なことだ。理解している。
もう帰ってしまいたい。
何かを失う訳じゃない。耐えろ。
脳内で自身との問答を繰り返し、精神状態を切り替える。
よし、と仮面を被り直したブルースは、先程より自然な笑顔を形作ることが出来た。
取り敢えず、室内で話さないかと周りに提案する。肌寒いと感じる気温だ、風邪を引くかもしれない。ブルースが。
周囲が一斉に瞬き、それもそうだとぞろぞろと入り口を目指して歩き出した。
ほっと一息吐く。手ごたえを感じて少しだけ自信がついた。
人が離れて、漸く遠くからサイレンが聞こえることに気が付いた。本日2回目のそれは、浮浪者を逮捕もしくは厳重注意するためにやってくる警察のものだろう。
そういえば、浮浪者は取り押さえられたままだったな。
疎らになった人の隙間から、ヒョイと顔を覗かせた。警備員数名が何かに乗っかっているのが見えた。随分大げさだな、と視線を下に向けた。
「はぁ?」
呆れた声が漏れた。咄嗟に口を押さえたが手遅れで、幾人かの視線が訝し気に向けられた。
その、赤い瞳だけは、真っ直ぐだったが。
取り押さえられているのは正真正銘、狩人そのものだった。今朝と変わらぬ格好で、幼い視線を向けていた。
待て待て待て。ブルースの脳内が途端にお祭り騒ぎを始めた。より正確に言うならとても混乱していた。何故奴が、こんなところで。
その混乱がつい表情に出てしまう。押さえた手の内でポカンと口を開け、更に目を見開いて狩人を見つめた。
たっぷり数秒間視線を交わす。流石に周囲も様子がおかしいことに気が付いたのか、ブルースの体調を気遣う言葉をかけてくる。
そこで漸く我に返り、周囲が余計な詮索に走らないよう、心配ないと薄く笑みを作った。
「貴公、」
石畳に押さえ付けられたままの狩人が声を発した。騒ぎの中であっても良く通る声だった。
赤い瞳からは邪な感情の一欠けらも感じない。無垢な赤子のような澄んだ瞳だった。共に瓦礫を放り投げていた時は、死んだ魚のように濁っていた筈なのに。
声を発したからか、上に乗っていた警備員の1人が驚いたように身動ぎした。その動作が恐らく狩人の肺を圧迫したのだろう、「っぐぅ、」と苦しそうな呻き声を漏らした。
ブルースは、今度は別の驚愕に目を見開いた。狩人が本当に大人しいからだ。
一夜の逢着で身に刻まれた狩人の暴力性を考えれば、この程度の拘束など容易く振り解けるだろう。だが今目の前にいる者は、見た目通りただのひ弱な病人だ。ぼんやりとブルースを見つめるばかりで、碌な抵抗もせずに大人しくしていた。
或いは、絶好のチャンスだろうか。
このままゴードン警部補にバットマンとして通報すれば、これからパトカーに乗せられるであろう狩人は、本来の手続き上ならば1日も経たず解放されるところを、一生アーカム・アサイラムで過ごすことになるだろう。
狩人がそれまで大人しくしているかは懸念事項であるが。
「ああ、Mr.ウェイン!!」
今夜のパーティ会場である、神殿のような巨大なドーリア式の建築物。その出入り口から、小太りの中年男性がブルースに駆け寄った。
額から滝の様に流れる汗をハンカチで拭っていた。ニコニコ、というよりはニタニタとした笑みを浮かべながら、黄ばんだ歯を見せて話し出した。
「この度はご多忙にも係わらずご出席いただき、誠にありがとうございます」
「…いいえ、私の方こそ、お招きいただきありがとうございます」
「精一杯おもてなしをさせていただきますとも、ええ。ささ、此方へ」
この人物が、このパーティの主催者である富豪だった。
さっと観察した限り、足元が気にならない程度にふらついてるだけで、他には何も怪しい点はなかった。ほんの少しのアルコールの匂いから、既に酔っているのかもしれないと当たりを付けた。
───確かに怪しい点はないが、あのニタニタとした笑みは気になった。
普段ならとっとと殴って笑みの裏になにか隠してないか恐喝するところだが、その笑みが上級層特有の腹の探り合いからくるものなのかもしれないから、ブルースは判断に困っていた。
いくら内心で自分を見下していても構わない。他者の人生を滅茶苦茶にするような犯罪に手を染めてなければ、彼の出る幕はないのだから。
つまるところブルースは、自分が知らないだけで、この笑みが上級層の常識であるのかもしれないと思っているのだ。
人付き合いを始めて日が浅い彼は社交の場に未だに慣れていない。
ヘタに賢い人物よりいっそ無能を演じるべきか本気で悩んでいると、男が不審な目を向けてきた。彼がその場を一向に動こうとしないからである。
「Mr.ウェイン?あの、もしや体調が優れないので?」
直ぐに体調の心配をされるのは、病弱なせいで今まで碌に表舞台に出てこれなかったからだ、と噂が流れていたためだろう。
本当は夜な夜な犯罪者を相手に戦っている、とは誰も想像出来ない。出来る筈もない。
「大丈夫ですよ。本当に」
これ以上外にいると本気で風邪を引きかねない。ブルースは漸く足を動かし、男の少し後ろに付いた。
サイレンの音が随分近くなった。後数分もすれば、狩人は連れていかれる筈だ。ちらりと横目で狩人を見る。相変わらず、ぼんやりとブルースを見ていた。
ブルースを、見て、
「獣め」
ぼんやりとした焦点が、この一言で一気に定まった。
「何が獣だ、汚らしい鼠め」
男が吐き捨てるようにそう言った。心の底から軽蔑し、下らないものを見るような目だった。
「警備、早くそいつを連れていけ。さっきから何故押さえ付けるだけなんだ」
「いえ、先程も説明しましたが、こいつ動かそうとすると何故か暴れて、って、おい!動くな!!」
赤い瞳は男を捉えていた。
グルル、と獣のような唸り声を上げて、鋭い犬歯を剥き出しにしている。両腕を立てて立ち上がろうとしており、警備員は慌てて手に力を込め直す。それでも、狩人は徐々に身体を浮かせていた。
「獣め、殺す、許さん、殺してやる」
これは、非常に不味いのでは。
急いで男の腕を掴んで引っ張った。此処から離れなければ、狩人から離れなければ、この男はきっと殺されてしまう。
「早く会場へ、その者は危険だ」
「何を言いますかMr.ウェイン。あんな不埒者に背を向けるなんて、」
「早く!!!」
ブルースの叫びに男は肩を跳ねさせ、ブルースを凝視した。人間、突然の出来事には硬直してしまうものである。男も例に漏れず、僅か数瞬、石のように固まった。
数瞬あれば、十分な隙である。
男の姿が瞬く間に横へ流れ、大理石の柱に轟音と共に叩きつけられた。
あ、とブルースが思う間もなく、狩人はブルースの目の前に立っていた。その赤い瞳は自らが吹き飛ばした男ただ1人に向けられ、獲物を追い詰めたかのように慎重に観察に徹していた。
「ああ、獣め、殺す、殺してやる」
「おいお前、」
「薄汚い豚め、豚は嫌いだ、その膨れた腹にさぞ大きな淀みが溜まっているのだろうよ、許さん、虫は潰す」
矢張り、ブルースなど眼中にないようだ。
狩人はゆっくりとした歩調で男に近付いていく。今すぐ止めたいが、スーツも着こまず道具も持たないブルースに止められる訳がなく。
「おい!」
しかしブルースは彼の肩を掴んだ。煩わし気な瞳に射抜かれる。
勝てないから何だ、敵わないから何だ。そんなものは理由にならない。止めなければ後悔する。だから止める。止めなければ。
「いい加減にしろ。これ以上罪を重ねるなよ」
赤い瞳に負けじと睨み返す。
「…貴公、」
スッと狩人の瞳が細められる。獲物を見定めるそれだ。氷水を頭からかけられたかのように、急激に体温が下がったのが分かった。きっと蛙は、蛇に睨まれた時に同じように感じるのだろう。そう、恐怖だ。
だが、負けられない。
只管に無言で睨む。睨み続ける。
視界の端で吹き飛ばされた男が立ち上がるのが見えた。よたよたと覚束ない足取りだったが、動けるようだ。このまま男が逃げるまで、或いは警察が駆け付けるまで時間を稼ごう。
周囲には既に人はいなかった。皆、ずっと遠くからブルースと狩人を見つめている。その光景はまるで舞台上の演劇のようで、男1人が怪我を負った事実がなければ、すっかり騙されていたことだろう。
そしてブルースにとっては大変都合が良く、周囲の目はこの光景を‘暴漢を果敢にも己の身1つで止めている大富豪’として見ていた。見世物になった気分だが、下手に狩人と知り合いだと難癖をつけられるよりはましだった。
どのくらい睨み合っていただろうか。数分、数時間、それよりもっと?
いや実際は10秒も経っていない。狩人の殺気がブルースの体内時計を大幅に狂わせる。
今、ブルースの脳内には逆さ吊りの死体が浮かんでいる。あれこそ正に狩人の狂気の発露だ。何をどうしたら、あのような発想が出来るのか。死体を吊っている最中、狩人は何を考えていたのだろうか。
どうかその狂気を仕舞っていてくれよ、と思いながら、永遠ともとれる短い時間が過ぎたとき、狩人は、
ふ、と小さく笑った。
再び面食らう。
何だ、お前はそんな顔も出来たのか。
ドンッ。
銃声。やられた。
狩人の早撃ちはコンマ1秒にも満たない。それを経験している筈なのに、ブルースは銃声が響いた直後に「やられた」と思うことしかできなかった。
ブルースに笑いかけた途端、狩人は素早く体を逃げる男の方へと向けた。正面に捉えてしまえば、後は狩人の独壇場である。どこからか取り出した古めかしいマスケットを構えた瞬間、発砲。碌な狙いもつけていなかった筈の銃弾は、真っ直ぐ男の背に当たった。
水銀で作られた弾丸は、水銀の性質上やはり威力が低いようだ。また男も念のためとスーツの下に防弾チョッキでも着込んでいたのだろう、それは男の背の皮膚を僅かに裂いて止まっただけだった。狩人と男の距離が離れていたことも幸いした。
だが撃たれたことのあるブルースだけは分かる。あのマスケットは獲物を殺すためではなく、獲物の動きを止めるためのものなのだ。
案の定、男は全身を襲った衝撃に耐えかねて膝を着いていた。
狩人はあの独特なステップを繰り出して、男との距離を瞬時に詰めた。右手を大きく引き絞って、膝を着く男の背に狙いを定めて。
ブルースは既に駆け出している。だが間に合わない。常人の足の速さではこの距離は遠すぎた。
あの時。狩人と初めて会ったあの時にブルースに対して実行される筈だったそれが、今目の前で起こってしまうのだ。
何かを叫んだ気がする。我武者羅に手を伸ばした気がする。それでも狩人を止めるには何もかも足りなくて、結局は全て無駄だったのだと思い知らされた。
ズブリ。右腕が男の身体に埋まった。
スーツも、防弾チョッキも、皮膚も、脂肪も、骨も、何の防護にもなりはしなかった。
獣の爪のように見立てた右手は信じられない程の強靭さを持っていた。男の身を守っていたものを、紙のようにくちゃりと破った。ねちゃねちゃと、粘着質な音を立てていた。
そして、引き抜いた。
ズルリ。右手が何かを掴んでいた。
何か、なんて形容しなくとも理解する。内臓だ。内臓を引っ掴んで引きずり出したのだ。
背の傷口から大量の血が溢れだした。当然ながら正面の狩人をどんどん汚していく。
血が。
血だ。
出血の勢いが良かったのか、存外近くにいたブルースにも数滴撥ねてしまった。せっかくアルフレッドとドリーが仕立ててくれたのに、と思うのは、きっと現実逃避の為なのだろう。
茫然と見ていた周囲は、ここで漸く悲鳴を上げた。
◇
「ふ、はは、ははは、はっはははははははは!!!!」
哄笑。
全身に血を浴びた狩人は獰猛な笑みを浮かべて、響き渡るような大きな笑い声を上げた。
「ああ、醜い獣め、見ろ!!貴公の腹の中には虫が3匹もいた!!酷い淀みだ、汚いなぁ!!長よ、私は今日も虫を見出し、潰すとも!どうか照覧あれ、獣喰らいの長よ!!」
引きずり出した内臓を足元に叩きつけ、何度も何度も踏み潰した。執拗なまでのその行為は狂信さえ感じられる。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、連続的に耳に入る粘着質な音。周囲は大混乱の真っ只中だ。我先にと逃げ場を求め、最早混沌と化していた。
「生きる価値などない獣め、こんなにも淀み、穢れ、それでも人の皮を被っているなど、愚かしいにも程があろう!!」
剥き出しの骨を掴んで引き抜いた、ぶちぶちと繊維の千切れる音がする。
更に悲鳴が上がる。猟奇的かつ狂気的なその行為に、とうとう失神者まで現れたようだ。
「潰す、潰す、潰す潰す潰す───ああ、そういえば長は死んでいたな。私が殺したから」
スン、と狩人が狂気を潜めた。
「ならば女王に穢れを捧げるか───いや、女王も肉塊にしていたな」
先程までの狂人っぷりは何処へやら。
耳元まで裂けていたと錯覚させるほどに上げられていた口角は真一文字に戻り、剥き出しだった鋭い犬歯は唇の奥へと隠された。
血で染まっていなければ、数分前までの大人しい病人のようだった。
ブルースは信じられない光景を見て、緩く頭を振った。
彼は、狩人が人を殺す瞬間を漸く見ることが出来た。今までは狩人の獲物の末路しか見られなかったが、この場で狩人の殺人───否、‘狩り’を、目にしたのである。
この瞬間までの狩人に対する考察を全部吹き飛ばしてしまう程の衝撃だった。
───まるで、獣じゃないか。
ゴッサムの犯罪者は例外なく狂っている。食料を買い込むような気安さで重火器を買い込み、雑草を刈るような気軽さで命を刈る。だがそんな彼らでも狂‘人’と称される。人の枠組みからは絶対に外れない。どんなに精神異常者であっても、根底にある思いは人間らしい感情だ。
しかし、先程の狩人の一連の行動は、どう考えても人のそれではなかった。獣に対する憎しみはあれど、狩人を突き動かす衝動は全く別のところにある。寧ろ、免罪符として憎しみを用いているようにも見える。
それは何だ。何が狩人を突き動かすのだ。
狩人のことを形容するなら、‘人’より‘獣’の方がより近いだろう。ただ効率良く、ただ正確に、ただ速く、ただ純粋に、狩りを実行するだけの存在。
それでいて、狩りが終わった瞬間には‘人’に戻る。二重人格だとか、性格の切り替えが出来るだとか、その程度の話ではない。狩人は‘人’と‘獣’を、相反するはずのそれらを、平気でぐちゃぐちゃに混ぜ捏ねているのだ。一方を切り捨てることをしない。どちらかに偏ることもしない。ただただ平等に存在させている。
声は、発することは出来なかった。
恐怖と驚愕のあまり、声の出し方をすっかり忘れてしまったのだ。
狩人は暫く死体を見つめ───何を思ったか、血で染まった自身の右手を舐め上げた。
獣の毛づくろいのように、ごく自然な動作だった。何度か繰り返して右手を綺麗にし、左手の血も同じように舐めた。
色付く肌は決して見間違いなどではない。気分の高揚が原因で血流が良くなっている証拠だ。
こいつ吸血鬼か何かか、とブルースは1歩引いた。すると狩人の頬の赤みは直ぐに引き、ゆっくりと彼の方を向いた。
「動くなっっ!!」
ゴードンの怒声が響く。ブルースは狩人の視線が彼を通り過ぎたことで、ゴッサム・シティ警察がその場を取り囲んでいたことにやっと気が付いた。
彼の肩を必死にたたくのはマルティネスだ。早く安全な場所へ、と口が動いている。だが足は引いた1歩以来全く動かない。魔法をかけられた訳でもないのに、地面に縫い付けられたようだった。マルティネスは彼のそんな様子に気付き、狩人から庇うように前に立ってくれた。勇敢なところは有難いが、しかし今は寧ろ状況を悪化させないか心配だった。
警察らと狩人の距離は2m程度だ。前列にいる者は全員銃を構えている。安全装置は解除されていて、ゴードンの号令が響けば直ぐにでも狩人を蜂の巣に出来る。
「左手の銃を棄てて手を上げろ、早く!!」
だが狩人は動かない。
裾のよれた服から血が滴ったまま、狩人は押さえつけられていた時と同じようにぼんやりとしているだけだった。
抵抗する気はない、と判断したのか、ゴードンは狩人との距離をじりじりと詰めていった。彼だって人を撃ちたくはないだろう。無抵抗でいるのならそれで結構だった。
「貴公、」
だが突然狩人が言葉を発したため、ゴードンは動きを止めて銃の照準を狩人の頭に合わせた。それでいて意識は古めかしいマスケットに注がれている。妙な動きを見せた瞬間に発砲できるよう、全神経を集中させる。なんせ近くにはあの‘ブルース・ウェイン’がいるのだ。彼を守らねばという意志が、ゴードンの精神を揺るがぬものにしていた。
そんなゴードンの行動を狩人は気にも留めず、ぼんやりとした視線をブルースに向けていた。興味のないものはとことん無視を決め込むらしい。あの夜の遭逢と同じだった。
「名を」
ブルースに名を聞いているらしい。
ゴードンはその意味を理解するのにたっぷり数秒使った。頭の中で意味を吟味し、理解し、今更何を聞くのだと怒鳴ってやりたかった。そしてマルティネスの「何で知らないんだよ」という呟きは、残念ながら空気に融けていった。
ブルースはひっそりと息を吐く。
鮮血を浴びて真っ赤な狩人の肌は、元は病人のように青白かった。血の気が引いていて生気がなく、まるで全身の血液を抜かれたような風体だった。
ならば全身の血液は、何処にいったのだろう。
赤い瞳を見遣る
綺麗な赤色だ。血のようだ。動脈を流れる、鮮やかな赤色の。
「ブルース」
シンと静まり返った空間に、彼の声がいやに反響した。
視線が一気に集まる。普段ならば居心地が悪く感じられる環境であるにも関わらず、ブルースは一切を気にしていなかった。
彼の目は、狩人の瞳しか映していない。赤い、血のような瞳を。
月のような神秘的な瞳を。
赤い、月。
「ブルース・ウェインだ」
言い切った途端、どっと疲労が押し寄せた。
極度の緊張状態に晒され続けたからだろうか。体が重い。今すぐ足を畳んで座り込みたかったが、深く息を吸って耐えようとする。異変に気付いたマルティネスが、咄嗟にブルースの肩を掴んだ。
「そうか、ブルース」
再び、小さく笑った。
「話せてよかった。有難う」
狩人は見事な早撃ちの技術で、自身の頭を撃ち抜いた。
誤字報告ありがとうございました