夜明けを望むけものたち   作:メリケンです。

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夜明けを望むけものたち

 あれから7日経った。

 狩人は、毎夜のように死体を吊り下げていた。

 

 1人の時もあれば、10人以上が一気に殺されていた時もあった。異変に気が付いて駆けつけても、死体があるばかりで狩人の姿は見つけられなかった。

 死体を吊り下げる場所の法則性も見当たらない。その場で見つけた獲物を狩っているだけのようだった。

 

 ただ、悔しい。

 

 狩人の足取りは一向に掴めない。

 ゴードンは、狩人が起こしたであろう殺人事件の何件かは、模倣犯の仕業ではないかと睨んでいた。そうであれば、法則性が見つからないのも頷ける。

 だがブルースは即否定した。間違いなく狩人の仕業であると、ゴードンに強い口調で言ったのだ。

 何故だ、とゴードンは問い詰めたかったが、リドラーの一件以降から未来予知にも似た推理を発揮し続けている彼の言葉に、渋々ながら納得した。

 

 

「脳漿のはじけ飛ぶ様が、場違いにも美しいと思ったんだ」

 

 バットケイブにて、ブルースはバットマンの格好のままアルフレッドに告白した。

 

「見事な早撃ちだった。洗練されていて一切の無駄がない。気付いたら狩人が倒れていて、更に瞬きをした途端に死体が消え去ったんだ」

 

 アルフレッドは彼の言葉を静かに聞いていた。あの時の彼はコンタクトレンズ型のカメラを仕込んでいなかったため、アルフレッドは事件のあらましを、彼の言葉と新聞でしか知らなかった。

 

「きっと俺はおかしくなった。なぁアルフレッド、俺は最近、狩人のようになれたら楽になれると思うようになったんだ」

 

 心に燻る憎悪のまま、脳内を支配する怒りのまま、衝動に任せて殺しつくしてしまえばきっと楽に報われるだろうと。

 

 両親を失ったあの日。何もかも失ったと思っていても、ブルースには多くの選択肢があった。彼はその中から復讐のため闇に身を投じる道を選び取り、今に至った。そこに後悔はない。今までもこれからも、彼は闇に住まい影に潜むヴィジランテとして存在し続ける。そうなる運命であったし、彼もそのつもりであった。

 

 狩人に出会うまでは。

 

 確信があった。ブルースが殺人を許容してしまえば、きっと狩人のようになるだろう。

 無慈悲に、残酷に、冷酷に、それでいて無機質に。

 殺して殺して殺しつくして、完成した血だまりの中に1人で佇み、嘲笑の声を上げる。それが酷く魅力的に思えてしまって。

 

「恐ろしいんだ。あの赤い月が忘れられない」

 

 カウルをゆっくり外す。

 目元に塗った黒い塗料が、汗と雨のせいで顔全体を汚していた。アルフレッドは黙って手元のタオルを差し出し、ブルースはそれを受け取って顔を乱雑に拭った。

 

 暫く、静寂が場を包んだ。

 

 控えめに鳴る機械音に耳を澄ませる。ファンが空気を吐き出す音が心地良い。

 ブルースは黒く汚れたタオルをじっと見ていた。爽やかな柑橘類の香りが少しだけした。ドリーが選んだ、ブルースの気に入っている洗剤の匂いだ。

 

 視線を僅かに横にずらす。テーブルの上には狩人の血の分析結果が書かれた紙が置かれている。結局、ごく普通の人間の血液と何ら変わりないものだったし、一致する人物はサーバーに保存されていなかった。これ以上はどうしようもできないため、後日ゴードンに分析結果を渡す予定である。

 

 振り出しに戻った気分だった。

 溜息を吐く。僅かだったとはいえ、静かな空間にはよく響いた。

 

 ───そして、けたたましいアラーム音。

 

 視線を鋭くさせる。アルフレッドも同じで、皺の寄った目をギラリと輝かせて、光り出したモニターを凝視した。

 

「侵入者です。防犯アラームが作動した位置は───西口、此処に繋がる地下道です」

 

 モニターに表示された地図には赤い点が点滅していた。既に敷地内の奥深くまで侵入を許しており、ゆっくりとした速度でバットケイブに近付いていた。

 ウェイン邸に近付くだけの輩は警察に通報するだけで済むが、ブルースとアルフレッドしか知らない地下道を迷いなく進んでいることから、ただの浮浪者や犯罪者ではないことが窺える。

 

「真っ直ぐ此処に向かっているな。迎撃システムを作動させろ」

「承知しました。監視カメラも起動させま、」

 

 アルフレッドの言葉が不自然に途切れた。常に冷静沈着な彼が珍しい。何事かとブルースも監視カメラの映像を見遣る。

 

 ───左手に大砲を構える、コート姿の狩人の姿が映っていた。

 

 大砲は普通地面に固定して使うものだとか、左手だけで持ち上げられる筈がないだとか、そもそも片手で扱える代物じゃないだとか、ありとあらゆる思いが脳内を駆け巡り───轟音。大きな砲口から巨大な砲弾が発射され、カモフラージュの壁を突き破った。

 狩人はというと、発砲の反動で数歩下がったが、それだけだった。それだけで反動を殺し切り、何事もなかったかのように歩みを再開した。

 

 科学の結晶たる防護壁も役に立たなかった。轟音が此処まで響く。いくらカモフラージュ加工のため僅かに脆くなっていたとしても、そう易々と破壊されるほどではなかった筈だ。

 

「…流石に大砲を用いられるという想定は出来ません」

 

 顔に出ていたのだろう、アルフレッドは苦々しくそう告げた。

 アーカム・アサイラムに侵入するときも同じような手法を用いたらしいから、その時から対策すべきだったか。いやそれでも、大砲を片手で扱うなどと誰がイメージ出来るものか。

 今狩人がいる西口はあまり広くない。主にバットマンとして地上に出る際にしか用いないためだ。通常の大砲程度の大きさの兵器であれば運搬は容易ではないし、地下道に運び入れた時点で迎撃システムが作動して破壊する手はずになっている。そもそもとして、想定する必要がないのだ。

 

 電気ショックを起こす床も、ゴム弾が高速で発射される銃も、落とし穴も、縦横無尽に移動する巨大なペンデュラムも、全て避けられるか無効化される。その動きがやけに慣れているのが腹立たしい。

 

「マスタ・ウェイン?」

「迎え撃つ」

 

 一度取り外した装備を再度装着する。アルフレッドが制止するような声を上げたが、構わずにベルトを締め直す。

 

 様々な罠が効かないのなら、結局はこうするしかないのだ。

 

「下がっていろアルフレッド。出来れば上に逃げてほしい」

「そういう訳にはいきません。主人を置いて自分だけ逃げる従者が何処にいますか」

「…気を付けろよ」

「危なくなったらきちんと逃げますよ。貴方様を連れてね、ブルース」

 

 カウルは机に置いたままだ。どうせ狩人には正体がバレている。

 これ以上壁を破壊されては修理費が嵩むだけだ。ブルースは迎撃システムを止め、此処に繋がる扉を全て解放した。

 

 少し遠くに狩人の姿が見えた。左手に大砲を、右手にノコギリのようなものを持って、ゆっくりとした歩調で近付いてきた。

 砲弾を持っている様子は見られないから、もうあの大砲は使えないだろう。撃つ弾がないのなら、巨大な金属の塊と化す。振り回されてしまえば堪ったものではないが、少なくとも出会い頭に砲撃される心配はない筈だ。

 

 1分、1秒すら過ぎるのが長く感じる。

 狩人の赤い瞳を認識する。途端に背筋を奔る怖気に身を固くした。

 まだ、遠い。

 歩みは尚もゆっくりだ。

 ブルースは動かない。

 あと少し。

 

 漸く、5m程の距離まで近付いた。

 

「狩人」

 

 ブルースの顔を見ても、やはり驚いた様子を微塵も見せなかった。

 

「何時からだ」

「最初から」

 

 静かに口を開いた。

 

「ブルース。貴公のことは、最初から知っていた」

 

 大砲が消える。煙のように突然薄くなり、最初から存在しなかったかのように消えたのだ。これで突然現れたマスケットの絡繰りも解けた。何処か見えないところに隠し持っていたわけではなく、左手に持つその瞬間まで、この空間に存在していなかったのだ。

 赤い瞳が横に流れ、アルフレッドを映した。成程確かに、蠱惑的で神秘的な瞳だ、と彼は思った。だが囚われる謂れもないと、悠然とした態度でブルースの後ろに佇んだままだ。

 狩人は、やはり直ぐに興味を失くして、再度ブルースに向き直る。

 

「夜は明けたか?酷い夢だ、ゴッサムの街は。価値のない醜い獣が、当然のように跋扈する。ずっと昏い夜のままだ」

「それでも俺の街だ。お前のような異常者が口を出すなよ狩人。山に篭って、熊でも狩っていればいいだろう」

「面白い冗談だ」

 

 軽口を叩いてみたが、狩人は笑うことも憤慨することもなかった。感情の一切が揺れることのない、凪いだままの声色だった。

 狩人はそれきり黙って、じっとブルースを見つめていた。ブルースも狩人を見つめた。瞳から感情を読み取ろうとしたが、何も感じることは出来なかった。

 

「彼女も、白いリボンをつけていた」

 

 ぽつり、狩人がそう言った。

 

「オルゴールを渡された。両親の思い出の品だったそうだ。帰ってこない父親を捜しに行った母を探してくれと、泣きながら私に頼んだ」

 

 これだ、と差し出された左手には、掌に収まるくらいの小さな木箱が握られていた。子守歌が流れるらしい。聞いてみたいと思ったら、また消えた。随分と便利な手品だと片隅で思った。

 

「彼女の家から少し離れた墓地に、父親はいた。獣を殺していた。彼もまた狩人であったから、当然だった」

 

 そこで狩人の視線が下がった。僅かばかり彷徨わせて、戸惑うような様子を見せた。

 

「だが彼もまた獣になっていた。敵味方の区別がつかず、少し前に顔を合わせた私すらも、認識できなかったようだった」

「顔を合わせた?」

「そうだ。彼女と会話する少し前、彼に助けられた。とても強かった。私なぞ足元にも及ばなかった」

 

 赤い瞳に感情が宿った。怒り、悲しみ、強い憎悪。

 

「だから彼が襲い掛かってきたとき、私は形振り構っていられなかった。失った記憶を取り戻すため、目的を達成するため、彼を殺すしかなかった。殺し切られる前に、彼を殺したのだ。説得も通じない、人の言葉も話さない、ただの獣だったから」

 

 空いた左手を懐に突っ込んだ。ごそごそとまさぐるように動かす。目当てのものを掴んだのか、徐にブルースに腕を突き出した。

 それは真っ赤なブローチだった。血のような鮮やかな赤色だ。装飾からして、間違いなく女性のものだろう。

 

「彼を殺した墓地にあった、死体の女性が身に付けていた。母親のものだった。獣に殺されて、その獣を父親が殺していたのだ」

 

 次に取り出したのは、布の切れ端だった。純白だったであろう生地は赤黒く汚れている。僅かに鉄のさびたような臭いが漂ってきて、汚れの原因は血であると悟った。

 

「母親は死んでいた。父親は殺した。彼女に母親のブローチを渡しながら告げた。酷く罵倒されて、蹲って泣いたまま動かなくなった。避難所である教会に連れていこうとしたら、激しく抵抗された。仕方がないから、教会の場所だけ告げて私は去った。」

 

 瞳に浮かんだのは、激しい後悔の感情であった。

 

「心配になって戻れば、彼女はもう家にはいなかった。だが家から教会までの間の道に、やたらと腹の膨れた獣がいた。目障りだから殺したら、腹からこの布とブローチが出てきた」

 

 見た事のない、弱り切った狩人だ。上げていた左腕が、糸が切れたようにだらんとぶら下がった。ガシャン、とノコギリのようなものが地面に落ちた。力の抜けた右手から滑り落ちたらしい。

 

「だから獣を殺す。狩りつくす。如何あっても絶滅させる。人に危害を加える愚かな獣を、誰かを悲しませる獣を、私は決して許さない。獣の総数は知らないが、最後に狩るべき獣はもう知っている。それが息絶えるまで、私は狩人として獣を狩り続ける」

「…途方もない話だ」

 

 ブルースは少しも視線を逸らすことはなかった。

 赤い瞳が揺れ動く様を見つめ、彼は狩人の感情を読み取った。先程までの無機質なものとは違う、人間らしい瞳だった。

 

「内に潜むものが獣であろうと、人は人でしかない。たった1人で殺戮を繰り返すと?お前はただ、獣という言葉を自身の免罪符として使っているだけだ」

「黙れよ、貴公。獣は死ぬべきだ。だから獣を狩る狩人がいるのだ」

「大した情熱だ。ならば、最後に狩るべき獣とは、さぞや恐ろしい、人に多大な害をなす存在なのだろう」

 

「そうだ。その獣とは、私なのだから」

 

 

 ブルースは、続けようとした言葉を飲み込んだ。

 狩人が口元を覆う布をずり下げた。中性的な顔立ちが露わになる。小さな笑みを形作っており、それが何だか泣いているようにも見えた。

 

「私こそ、狩らなければならない獣なのだよ。だが死なない。貴公も見ただろう。私は死ぬが、その死がまるで夢であったかのように失われる。なかったことになるのだ。酷い話だよ、本当に」

 

 な、とブルースは目を見開いた。死体を偽装する何かしらの特殊能力を持っていると思っていた。だが正体は全く別の、それこそ世界の理を無視する冒涜的な神秘だった。

 死をなかったことにする。大抵の人間はその能力を喉から手が出る程欲しがるだろう。歴史を紐解いても分かる。歴代の権力者は、皆一様に死を恐れて不老不死を求めた。狩人のような能力を、何が何でも手に入れたいだろう。

 

 ブルース自身も、バットマンとして活動している最中に死にかけることなど多々あった。様々な運が彼を助け、奇跡的に死ぬことはなかったが。

 その度に思う。冷えていく身体も、力の入らなくなった四肢も、だんだんと遠ざかっていく感覚も、もう二度と味わいたくないと。

 

 だから理解できる。そのような不死性など、死んでも御免だ。

 

「私は死が怖い。あらゆる感覚がなくなっていくのに、それが無かったことなってしまうから。また、夢に目覚めてしまうから。貴公は死が怖いか?」

「───自らの死を、怖いと思ったことはない。死ねばそれで終わりだから」

「そうか。そうだろうな。うらやましいな、貴公」

「羨ましい、か。普通の人間の感覚なら、お前の方を羨ましく感じるだろう」

「それこそ愚かだ。私なぞ、結局は何かを殺すことしか出来ない畜生だよ。血塗れで、醜くて、淀んで、汚れていて、何もかもを無駄にしてしまう。何も成せず、誰も助けられない」

「あの家族を助けた」

 

 囁く様な声は、狩人の耳にきちんと届いたらしい。それでも、狩人の価値観は揺らがなかった。

 

「貴公がいなければ、助けられなかったよ。私はてっきり、もう死んでいると思っていたんだ。彼女の母親のように、もう手遅れだとばかり」

 

 全てを諦めているような表情だった。口元は小さな笑みを浮かべながら、眉尻は下がっている。細められた瞳は、涙を堪えているように見えた。

 

「狩人になんてなりたくなかった。なっても意味がなかった。最初は信じていたさ、獣を狩りつくせば、永い永い夜が明けて、死ねるのだと。だが獣は増え続けるし、夜はまだ明けることがない」

 

 そうか、と瞼を閉じた。

 狩人を獣狩りへと突き動かしていたものが、ブルースに分かった。分かってしまった。

 憎しみも、怒りも、興奮も、全て飾りでしかない。

 

 強烈なまでの自殺願望。

 

 彼も、かつて抱いていたものだ。

 

「獣が絶えることはない。夜も明けない。だが私には殺すことしか出来ない。だから獣を殺す。獣狩りの夜だ。決して明けない昏い夜だ。獣に死を。人を害する獣に死を。…殺すことしか出来ない最も野蛮な獣に、死を」

 

 狩人の赤い瞳から、とうとう大粒の涙が零れた。

 

「私がゴッサムの街を夢見るのも、きっとこの街も似たようなものだったからだろう。だから貴公に聞いた、夜は明けたか?と。どうか答えてくれ、ブルース。ゴッサムの街に、夜明けは齎されたか?」

「…いいや」

 

 少しだけ間を置いて、正直に答えた。

 狩人が‘獣’と称するような犯罪者は、ゴッサムに掃いて棄てる程いる。無害な市民は常に奴等の脅威に怯え、街全体の空気をどんよりとした陰鬱なものにさせていた。すると外から更なる犯罪者が目を付け移り住み、更に犠牲者が増え───。

 悪循環に陥っている。バットマンとして戦っていても、与える影響は微々たるものであった。その影響が悪い方向に転じることだってある。その度に感じる遣る瀬無さは、言葉では形容できない程に苦しい。

 

 狩人の瞳から徐々に感情が失われる。絶望したのだろう。この街もまた、明けない夜に囚われていると。狩人の望む結果は得られないのだろうと。

 

「だが」

 

 ブルースが1歩踏み出した。狩人は突然の出来事に肩を跳ねさせ、1歩下がった。

 その反応に溜飲が下がる。常に彼の前を往く狩人の鼻柱をへし折った気分だった。

 

「いつか成してみせる。父と母が愛したこの街を、俺が生まれ育った街を、絶対に夜明けへと導いてみせる」

「その見た目で?ふざけた蝙蝠の格好で、街を救えると?馬鹿げた発想だ。貴公、冷静になり給えよ」

「お前に言われたくない───いいや論点はそこじゃない。いいか狩人、明けない夜など存在しない」

「口では如何とでも言える。そうか、私はどうやら貴公を買い被って、!?」

 

 狩人の胸倉を乱暴に掴んだ。狩人の方が身長が低いせいか、引き寄せるとつま先立ちになった。

 ふん、と鼻を鳴らし、ブルースはぐっと顔を近付けた。

 

「人は夜に絶望する。同じように、朝に希望を見出す。俺もつい最近まで理解していなかった。お前の言う獣───犯罪者を殴っていくだけでは、絶望が拭える筈がなかったんだ!」

 

 赤い瞳が憎々し気に歪んだ。少ない遭逢の中で知ったことだか、狩人がこうするときは大抵人が死ぬ。狩人が殺す。

 構うものか。ブルースは思いのまま叫ぶように言い放った。

 

「夜に眠って、夢を見る。だが必ず朝に目覚める。それが当たり前なんだ、狩人。どれだけ昏く、永い夜だろうと、必ず明ける瞬間が来るんだ。いつか、絶対に。例え何か大きな存在が朝を隠していたとしても、それを打ち倒し夜明けを齎す英雄(ヒーロー)が現れるだろうさ。ああ、絶対に」

「夢物語だ、笑えてくる。絵本の見過ぎだよ。…ならば貴公が、ゴッサムにおける英雄(ヒーロー)となるのか?」

 

 尚も食い下がる狩人。左手には既に古めかしいマスケット───獣狩りの短銃が握られている。狩人の早撃ちの速度と精度を考えれば、ブルースの頭は今すぐにでも弾け飛ぶだろう。

 それでも、狩人の言葉に鼻で笑ってやった。不快そうに顔を歪めていたが、無視をして続きを話し出した。

 

英雄(ヒーロー)が特別な存在だと勘違いしているな。愚かで、馬鹿馬鹿しい考えだ。俺はヒーローではないし、なるつもりもない」

「意味が分からない。貴公も言ったではないか。夜明けを齎す者が───」

 

 1つ息を置き、ブルースは狩人の瞳に吐き捨てた。

 

「特別な力を持つ者では務まらない。ただ、手を差し伸べられる人間が、英雄(ヒーロー)なんだ。英雄(ヒーロー)には、誰でもなれる。絶望する者に手を差し伸べて、まだ終わりじゃないと笑いかければいい」

 

 大きく目を開き驚愕する狩人を突き飛ばした。数歩フラフラと下がっていき、ブルースを力なく見上げた。

 

「俺はきっかけであればいい。いつか皆が立ち上がり、夜明けを齎すために動き出す。そんなきっかけであれば、それでいい」

「…黙ってくれ、頼む」

「黙らない。いいか狩人、繰り返すぞ。明けない夜は、決してないんだ。人はそれを、希望と呼ぶのだから」

「───人は、希望を求めずにはいられない、か」

 

 狩人は今度こそ座り込んだ。

 

「…ロケット」

「ロケット?」

「そう、ロケットだ。小さな真鍮のペンダントの。大切なもの、だった気がする。多分、記憶をなくす前の、唯一持っていたもの。失くしてしまった」

 

 ブルースは瞬きをした。

 少し間を置いて、やがて狩人は、再び静かに涙を流した。だがそれは悲しさではなく、安堵からくる涙だった。

 体全体を震わせている。ああ、と息を漏らし、ブルースを優しげに見上げていた。

 

「それが、私にとっての希望だと、思う。でももういい。どうせ見つからないし、今の私は価値を感じないだろう」

「それでも、」

「いいんだ、ブルース。何故だか、今は晴れやかなんだ」

 

 狩人が立ち上がる。向けられた表情は、共に瓦礫の山を掘っていたときのような、心からの感謝の言葉だった。

 

「有難う。貴公と出会えて本当に良かった」

「…そうか」

「そして済まない。私と貴公は精神構造が何処か似ているからか、貴公も随分と獣性が上がっているようだ。放置しておくと何時か私のようになるぞ。これを飲め」

 

 虚空から取り出した小瓶を投げ渡される。

 小瓶に満たされた液体は鮮やかな青色で。何処かで見たような、と悩んでいると、アルフレッドが焦った様子で耳打ちしてきた。

 

「これは、その、狩人が最初に引き起こした事件で、」

「被害者の少女に飲ませたもの」

 

 人の記憶を消す疑いがある薬を易々と投げ渡すなど、なんてことを。

 何の意味があるのか、とギロリと睨むと、狩人は軽く肩を竦めて見せた。

 

「その薬は脳を強く麻痺させる。それ以外にも、記憶の混濁や意識の消失などの効果を齎すが、効果が切れると後遺症も残らない。飲ませた少女も特に何の異常もなかった筈だ」

「ではなぜ事件の記憶が消えていた?」

「‘秘儀’を使った。あの家族に使用した‘聖歌の鐘’と同じような───いや、これ以上は‘啓蒙’を齎す。止めておこう」

 

 聞けば、この薬は見た目そのまま‘青い秘薬’というらしい。精神麻酔の一種で、その効果からよく人さらいが用いていたそうだ。狩人はそれを自分が服用するために持ち歩いているとのことで、実際に飲んで見せてくれた。

 

 常人が飲んでも脳が麻痺するだけだが、狩人は違う。己の強靭な遺志によって意識を保つため、主作用を引き起こすことがない。

 だから、副作用だけを利用できる。

 ブルースは一瞬たりとも狩人から目を離さなかった。しかし、途端に狩人の姿が搔き消えたのだ。またあの高速移動か、と辺りを見渡しても何処にもいない。アルフレッドにも見えなかったそうだ。

 

「私は動いていない。よく目を凝らせ」

 

 声が聞こえた。言われた通り、狩人がいた場所を睨むように見た。

 やはり何もいない。

 

 いや、いた。存在が希薄だが、間違いなく狩人がそこにいた。

 此処に侵入するときも、この薬を用いたそうだ。これは気付けない。深く侵入されて初めてアラームが鳴ったのも、システムの不具合ではなかったようだ。

 

「貴公の意志は常人よりは強靭だ。1本飲んだとして、半日意識を失うだけで済むだろう」

「半日…、飲む必要が?」

「あるとも。放っておくと獣性に呑まれるぞ。私の瞳に魅入っていただろう?」

 

 図星を突かれて、ぐっと押し黙った。

 居心地が悪そうに視線が下がるのを見て、狩人はおかしそうに声を上げて笑った。

 

「私の瞳は特別なんだ。その昔、人が月に魔性を見出したように、私は月に魅入られているから。だから脳を麻痺させてリセットしろ。赤い月は、人と獣の境を曖昧にさせる」

 

 ほんの少しだけ寂しそうだった。

 

「あと、これも」

「これは…鐘?随分と小さいし、古いものだ」

「‘狩人呼びの鐘’だ。何か本当に、とても恐ろしい───人間だけでは太刀打ちできないような強力な化け物が出てきたら、鳴らせ」

 

 ───狩人は、言外に、別れを告げていた。

 黙ってアーカム・アサイラムに行けと冗談を言ってやりたかったが、止めておいた。

 きっともう会うことはないだろう。狩人は元居た場所に戻って獣を狩り、ブルースはゴッサムを守るために尽力する。なにもかも、出会わなかった頃に元通りだ。

 毅然とした態度を崩さぬよう、赤い瞳を強く見返した。

 狩人の赤い瞳は、不器用な温かさがあった。包み込むような、柔らかな温かさ。

 動揺する。見守るようなそれに戸惑い、悟られまいと眉根を寄せた。

 

「もう行く。二度と会うことはない。この世界には、既に頼りになる狩人がいたのだから。さようなら、ブルース。どうか精一杯生きて、この街に夜明けを齎し給えよ」

「言われずとも分かっている。…ゴッサムは案外強いのだから、俺にも出来ることはきっと出来てしまうだろうが」

「自信を持ち給えよ。頼りになる者もいるだろう」

 

 ブルースは僅かに振り向く。アルフレッドが嬉しそうに、綺麗なお辞儀をし返した。

 

 狩人の姿が薄れていく。悪い夢であったかのように、存在そのものを消している。

 最後まで、視線は逸らさない。夢と片付けさせるものか。狩人は確かに此処にいる。多くの人を殺し、街を恐怖のどん底に陥れ、でも希望を探して彷徨うだけの迷い子だった、そんな者が、此処にいるのだ。

 

「お前の罪は忘れないし、許すこともしない」

「そうか、嬉しいな」

 

 それでは、貴公に血の加護が───、

 

「いや、…ブルース。従者と共に、末永く元気で」

 

 狩人の姿は、夢のように掻き消えた。




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