サクラを枯らすな! ~北の大地の線路守は、桜吹雪と共に駆ける~ 作:矢神敏一
今日の国会で、簡易軌道を廃止し道路整備による北海道の交通再編を行うとする法案が成立する見通しだ。
簡易軌道の廃止に際し職を失うウマ娘は、正規・非正規を問わず三万人ほど。
今回の法案では、これらのウマ娘に対する補償などは盛り込まれず、事実上ウマ娘たちは放り棄てられたかたちだ。
政府の無責任な対応に、批判が相次ぎそうだ。
(道央民報 昭和40年8月1日 朝刊)
「なあ、小祝内軌道の廃止後の手続きについての案内が……」
「んなことは後にしろ! 今からグロリアのレースだ!」
リョウコは蕎麦屋の店主に怒鳴り声をあげる。
店主は悪い悪いと手刀を切ると、テレビの音量を上げた。
「ああクソ、白黒じゃよくわからねえや。カラーはねえのかよ!」
「ハッ。リョウコはバカだねえ。カラー放送の競バ中継なんて、ありゃしないよ!」
「じゃあなんで東京でやってた障害競走はカラーだったんだ!」
「ありゃ東京オリンピックのバ術競技だよ。リョウコはバ術競技と競バの区別もつかないのか」
バカだねえ、実にバカだねえ。なんて店主が繰り返すものだから、リョウコは思わず灰皿を投げつけた。
「上等だ! ケンカなら買うぞ!」
「おやめなさいリョウコ! もう始まりますよ!」
先生がリョウコを一喝する。先生の希薄に気圧されて、店主は勝手に黙り込んだ。なので、リョウコは、渋々ながら席に戻った。
ファンファーレが鳴り響く。競争が、まさに始まろうとしている。
グロリアが突然いなくなり、リョウコは荒れに荒れていた。
なんの挨拶も無しに、突然消えてしまったのだから、当然である。リョウコだけでなく、他の皆も少なからぬ不満を持ってはいた。
だが他方、これでよかったという想いを皆が抱えていた。
この結末を、簡易軌道の末路を、グロリアに伝えなくてよかった。見せることが無くてよかったという想いも、確かに皆の中にあった。
この二つがぐちゃぐちゃになって、リョウコは過去にないくらい苛立っていた。
それは先生でも手が付けられない程である。と、先生は言うが、先生も先生でささくれだった感情を隠そうとはしていなかった。
誰も止める者がいない中で、時間だけが過ぎていった。
そして今、グロリアのレースが始まる。
リョウコは、もしグロリアがこれで負けたら、中央へ乗り込んでグロリアを連れ戻そうと思っていた。
そして、この街が辿る運命を、一緒に辿らせようなんて、そんなことを考えていた。
そんな想いと裏腹な言葉が、ブラウン管に向かって吐き出される。
「勝てよぉ、グロリアぁ!」
札幌記念。札幌レース場”砂”2000m 左回り。
グロリアの出走には、一部で驚きの声が上がっていた。グロリアは元々芝のウマで、砂どころかダートを走った経験すらない。
そして、なんといっても勝負弱さが露呈してしまっている。価値は難しいと、誰もが思っていた。
出走するウマ娘たちにとっても、それは同じだった。
グロリアは無駄に逃げ、無駄に体力を消耗し、そして落ちてくる。だから恐るるに足りず。
自分たちは、自分たちのレースをするだけ。もちろん、それでグロリアの一人勝ちなどさせぬように、しっかりと圧はかけながら。
ゲートが開く。
ウマたちは一斉に飛び出る。
グロリアも当然いいスタート。そしてそれこそ、ここに居る全てのウマにとって都合のいい展開の始まり。
の、はずだった。
グロリアは、良いスタートで前に行くと見せかけて、そのまま速度を緩め中団に控える。
驚いてしまったのは、他の中団のウマたちだ。
グロリアを無視してスローペースな展開を作ろうと思っていたのに、肝心のグロリアがゆっくりと自分たちの後ろをついていくのである。
―――グロリアは終わった―――
有力各バは、この状況を即座にこう読解した。
これは無理からぬことだろう。
レース展開は、まるでグロリアを無視するかのように動き出す。レースを攪乱する要因であったはずの逃げウマが逃げなかったのだから、ある意味で当然である。
前に行くウマは前に行き、控えるウマは控える。
各々が自らの戦術を取り、他のどのレースでもそうであったように、落ち着いて勝ちを狙いに行く。
彼女たちの心は、平常だった。グロリアが逃げなかったぶん、拍子抜けしたようにいつも以上に落ち着いていたウマもいた。
彼女達の眼に今写っているのは、ただライバルたちの姿。そこに、グロリアの姿はない。
そして彼女たちは、グロリアのことを意識から飛ばした。
向こう正面を抜けて、最後のコーナー。
先行各バがジリジリと突き放しにかかる。
この機を逃さず、追い込みバが動く。するすると反応の良い加速で、前へ迫る。
だが、厳しい。ただでさえ先行有利のバ場、更にコーナーという追い抜きに不利な状況。
コーナーからのロングスパート勝負では、明らかに先行バに分があった。
縦長の展開で、第四コーナーを迎える。ここから先の直線は、短い。
最後の直線に差し掛かれば、もう後方のウマは差し届かないだろう。
だからと言って、このコーナーで外を大きく回して前を狙うのは、現実的ではない。
はずだった。
サクラグロリア、ここで動く。
ゆっくりとサクラグロリアの末脚に火が入る。
瞬発力とお行儀の良さだけが取り柄だったウマとは思えないほどに、ゆっくりとした加速。
だがその加速は、天井を知らない。
外を回って、中団を追い抜く。その間にも、どんどんと速度を上げていく。
第四コーナーを抜ける直前、先行集団へ追い付いた。
だが、ここでグロリアは壁にぶち当たる。
有利な展開で最終局面を迎え、末脚勝負に移行した先行バ達が、分厚い壁のようになってグロリアの前に立ちはだかる。
その途方もない壁が、グロリアの眼にはある光景にシンクロした。
それは、あの軌道レース。先頭に立つ、アヤの力走。
―――アヤさんの背中に比べれば……っ!
あの大きな背中は、どうやっても追い抜けないような気がした。
それを、グロリアは追い抜いた。
今見える先行バ達の背中は、それをすべて足し合わせたとしても、アヤの気迫には到底、及ばない。
グロリアはまだまだ速度を上げる。
第四コーナー出口。まるで遠心力で弾き飛ばされるかのように立ち上がる。
そのまま外へ外へと膨れながら、その壁に食らいつく。
ゴールまであと少し。先行バ達の壁に、穴を穿つ。
そして、そのハナを。
ゴールへ、誰よりも先に、ねじ込んだ。
「サクラグロリア一着でゴールイン!」
実況の声が高らかに、グロリアの勝利を告げた。
「勝ったか、グロリア」
しんと静まり返った蕎麦屋で、リョウコはそうつぶやくとおもむろに拍手を送った。
それに倣うように、パラパラと散発的な拍手が起こる。
「よかったな、グロリア。これでオマエは、立派な重賞ウマだ」
そう言いながら、リョウコは少し寂しかった。
きっともう、グロリアは帰ってこない。
もしこのレースに負けてたら、とぼとぼと帰ってきたかもしれない。その時は、「どの面下げて!」と大声を上げながらも、またグロリアを出迎えただろう。
でも、中央のレースで勝ったグロリアは、もう戻ってこない。
戻ってくる必要がない。
「なんか、あっけなかったな」
「そうだねぇ」
ほんの数日前まで隣にいたはずのグロリアが、急に遠くの人物に見えた。
「ホラ、グロリアのインタビューが始まりますよ」
勝利後インタビューが始まる。浜口教官がまず、一連の騒動を軽くわびた後で、グロリアにマイクが向けられた。
そこでも、今回の脱走についての謝罪があった後で、グロリアは突然、語り出した。
「皆さんに、知って欲しいことがあるんです」
札幌記念
昭和40年創設。札幌競バ場”砂”2000m左回りで開催。
夏競バの代表ともいえる重賞で、八大競争などに次ぐ注目度を誇る。