サクラを枯らすな! ~北の大地の線路守は、桜吹雪と共に駆ける~ 作:矢神敏一
6駿川啓介「臨床から見るウマ娘治療の見落とし」(ウマ医学 1961)
リョウコは考えた。どうやったら”あの日”を迎える前に、アイツをここから追い出せるかを。
リョウコは首尾一貫としてグロリアをこの街から追い出そうとしている。ただ、その理由は徐々に変わってきていた。
今はただ、グロリアを余計なことで苛みたくない、傷つけたくない。そんな思いが支配的だった。
「なあ、グロリア」
なぜ、グロリアはこの街から出ていかないか、いや、出ていけないか。
「話があるんだ」
グロリアみたいな都会の人間に、田舎の暮らしは辛いはず。それでもここに居るという事は、都会に何かよっぽど辛いものがある。それ以外に、リョウコは理由を考えられなかった。
じゃあ、それを解決してあげなきゃならん。
リョウコはグロリアを呼びつけると、整備中の貨車に腰かけて二人並んだ。
「オマエさ、なんでこんなところに来たんだ?」
リョウコは少し言いよどみながらも、単刀直入に尋ねた。
「こんなとこって、ここはいい所ですよ」
「んなこたぁねえよ。東京の方がご立派さ」
耐えかねて、リョウコは煙草を吹かす。
リョウコだってこんなことは言いたくない。だが、東京で、中央のレース場で丁々発止の競り合いを見せていた彼女にしてみれば、ここは”こんなとこ”だろうよと、リョウコは思うのだ。
「アタシらみたいな野生のウマならまだしもよ、オマエみたいな”走り屋”なら、レースから離れたいなんてそうそう思うわきゃねえよなぁ?」
リョウコの言葉に、気まずそうに顔を歪めるグロリア。リョウコは更に続ける。
「でも、何かがオマエをレースから遠ざけさせた。別に無理やりソレをここで吐けっていうんじゃねえけどさ……」
ひときわ大きく煙を吐き出す。
「話してくれてもいいんじゃねえかなって思ったんだよ。その……、アタシらの、仲、なら、さっ」
言いなれない言葉をしどろもどろに言い切ると、急いで煙草を口にくわえてイッキに吸い込む。
タバコの先っぽが明るく燃えるが、リョウコの頬はそれよりも赤かった。
「ダァーーー! アタシにここまで言わせたんだ! 吐け!」
背中がむず痒くなって仕方が無くなってしまったリョウコが、グロリアの肩を殴る。
理不尽な暴力で我に返ったグロリアは、ハッとしてリョウコの顔を見つめる。
その顔は本当に恥ずかしそうだったが、まっすぐだった。
「聞いてくれますか、私の話」
こんどは口元がかゆくなってきてしまったリョウコは、微妙な顔をしながら頷いた。
「その、私、重賞を勝てたことが無いんです」
「ああ、そうらしいな」
「この間も、状況的には勝てておかしくなかったレースなのに、掲示板にも入らなくて、それで……」
「イヤになって投げだした? 違うな、オマエは、グロリアはそんなウマじゃねえ」
リョウコの眼差しは真剣だった。そして、しっかりと
「中央で勝てないなら、地方へ行く選択肢もあった。シニア二年目に向けてしっかりと調整するってこともできた。それをしなかったのは、心が折れたから? バカ言えよ」
そんなことで折れるような女じゃない。リョウコは断言した。
「勝てる勝てない、の以前にオマエが走れない理由が何かある。アタシはそう思う。オマエはどうなんだ?」
リョウコの端的で、そして正確な指摘に応えようと、グロリアは口を開きかける。それでも声が出せずに逡巡していると、リョウコがゆっくりと自分の拳をグロリアの胸に重ねた。
グロリアはその拳から、なにか熱いものが迸っていて、それが自分の身体に流れ込んでくるような気分がした。
グロリアはとうとう、それを口に出した。
「勝つことに、恐怖を覚えてしまいました」
グロリアは、慎重に慎重に言葉を選ぶ。まるで自分で自分の心にメスを入れるかのように、ひとつひとつ危険予測をしながら、ゆっくりと。
そうしていないと、切ってはいけないところを切り刻んでしまいそうだった。
「昨年の春、私はある重賞競走に出走しました。そこで、ゴール直前に大怪我をしてしまったんです」
グロリアは自分の内腿を見せた。そこには、小さいながらも手術の痕があった。
「二度目の重賞挑戦。前回はギリギリ差し届かずの二着。今回こそは、必ず重傷を制覇するんだ。そう意気込んでいました。それは、隣の枠に入った先輩も同じでした」
グロリアは、無意識のうちに自分の身体を抱いていた。そうでもしないと、何かが壊れてしまうとでも言いたげに。
「私は後方からの追い込み。先輩は好位につけての先行逃げ切り。最終コーナーを越えて、私と先輩が並び一騎打ちの叩き合いになりました」
グロリアの手に力が入る。
「美しくて、カッコよくて。憧れの先輩でした。あんな風になれたら、ってずっと思っていました」
悔しそうに、唇を噛む。
「勝ちたかった。勝って、先輩に褒めて欲しかった。先輩のように、速くて強いウマになりたかった。その想いが、強すぎたのかなと思います」
グロリアは、自分の傷に手を触れた。
「ゴール板直前。どちらともなく転倒しました。私が足を滑らせたのか、先輩が体勢を崩したのか、もはや釈然としません。ですが、至近距離で根性比べをしていた私たちは、もつれるようにしてその場に倒れました」
グロリアの肩が、苦しそうに上下する。
「あの時、私が勝気を出さなければ。余計な根性を出さなければ。そうすれば先輩は―――」
「もういい、グロリア!」
リョウコは大声でグロリアを現実に引き戻すと、激しくその身体を抱きしめた。グロリアの身体は、少しだけ震えていた。
「悪い。そんなつもりじゃなかったんだ。アタシはただ、悩みがあるんだったら相談に乗ってやろうと……」
「わかってます。リョウコさんは、優しい人だから」
グロリアは、リョウコの身体を抱き返した。
「あの時から私は、勝ちに行くことに恐怖を覚えるようになりました。他のウマを追い越そうとすると、あの時のことを思い出してしまって……。だからしばらくは逃げ/先行策をとりましたが、それでも最後の直線に入ると―――」
リョウコを抱く力が、少しだけ強まる。
「怖くなって、身体に力が入らなくなるんです」
だから、逃げました。走ることから。
グロリアは、声にならない声でそう言った。
でもそれから、グロリアはちょっとだけ表情に明るさを取り戻した。
「こっちにきて、やっぱり私、走ることが好きなんだなって思いました。リョウコさんの言うように、やっぱり私、走り屋なんです」
それに、とグロリアは続ける。
「アヤさんたちと走って、久しぶりに感じたんです。勝ちたいって感情が、バチバチって頭の中を駆け巡って、心臓がバクバクしちゃうあの気持ち」
グロリアは笑顔だった。
「無我夢中に前の背中を追いかけて、追い抜いて、隣を走る誰よりも先に抜きんでて、最初にゴール板を通り過ぎる。ただ、そうしていたかった。そんな気持ちを思い出すことができました」
「そうか」
リョウコは少しだけ、安心した。グロリアの深刻な問題が、少しずつ快方に向かっているという事が、何よりも彼女を安心させた。
「今はまだ、公式レースには出れません。でも、あともう少しで、レースに戻る勇気が出ると思うんです」
そうしたら……。
グロリアがそこまで言いかけて、リョウコは思う。
そうしたら、グロリアはこの街を出ていく。
そこに一抹の寂しさのようなものがよぎったが、それでも今のリョウコにとっては、グロリアを”あの日”の前にこの街と別れさせることが大事だった。
だから、次のグロリアの要求を、リョウコは簡単に了承した。
「そのためにも、ここに居たウマ娘さんのことを教えてください」
リョウコはちょっとびっくりした。彼女がそのことを、知っているとは思わなかったからだ。
「さすがに気になるんです。この街に、前に居たサラブレッド。とても速くて、強いウマ娘。皆さん、その方と私が似てるっておっしゃるから」
リョウコは頭をポリポリとかいた。
「私思うんです。その人みたいになれたら、私、強くなれるんじゃないかって。今までをきちんと整理して、変われるんじゃないかって」
だから、とグロリアは言葉を続けた。
「教えてください。そのウマ娘さんのこと」
「ああ、いいぜ」
リョウコの表情は、懐かしそうで、どこか寂しそうで、そして嬉しそうだった。
「教えてやるよ。サクラ―――、サクラボンドのことを」
重賞レース
パターンレースのこと。(パターンレースの項を参照)
パターンレース
重賞レースのこと。(重賞レースの項を参照)
毎年繰り返し開催される特定の競争。
「重ねて」開催されることから重賞と呼ばれる。