私は手を伸ばす。
彼女の言葉を、
その『約束』の意味を思い出すために――
「……ちゃん、おいねーちゃんってば! アンタのこれ、すっげえうまいぞ! めっちゃうまひ! めっひゃふひゃうまっ!」
私は疲れのせいで少々ぼんやりしていたみたいである。
金髪の少女が目の前で食べ物で頬をパンパンにさせて何事かを喋っていた。
口をリスの頬袋みたいに膨らませながら食べているこの子は、さっき結界から拾ってきた行き倒れの少女。
魔女の結界はその主を倒しても、消失するまでにタイムラグがある。彼女が溶岩にドボンしないように慌てて回収したのだ。
私は万々歳の歴史と年季と油と、その他いろいろが染み込んだテーブル席に頬杖をついて、彼女の食事を眺めていたところだった。
閉店後の店内の一角だけ明かりをつけている。
彼女は連れ帰って意識を取り戻すなり、腹の虫を鳴かせた。
お腹を空かせた行き倒れの少女に、中華屋の娘がすることはいつだって一つだ! ラーメンに、炒飯に、回鍋肉に、天津飯に、焼売に、締めの中華スープまで(⁉)振る舞ってやる! それから、サービスで餃子だって付けちゃおう!
彼女は私が皿を供する端から、まるで欠食児童のようにガツガツと平らげた。
自分の料理を美味しく食べてもらえるのは、いつだってこの上ない至福だ。
「なあなあ……! ねーちゃんメシありがとな! オレ最近全然まともなメシ食ってなくてさあ! こんなに美味いもの食ったの久しぶりだぜっ、マジで! 危ないところを助けてくれただけじゃなくて、腹いっぱい食わしてくれるとか、ねーちゃんは、天使かよっ‼」彼女は胃袋が満たされてとてもご機嫌だった。
「えへへ……」褒められて悪い気はしない。
「それでなんだけどさぁ! 姉ちゃんオレのこと雇う気はねーか⁉ オレは傭兵やってんだ!」水で一息ついて、すぐに間も置かず切り出す。
「ようへい?」
「そうだよ! オレは魔法少女で傭兵なの! どんな強い魔女だって、ズガン! と一発でやっつけてやるんだ。報酬さえ貰えればなんだってやってやる。そういう契約なんだ」誇らしげに自身の肩書を語る。
「ふーん、それはすごいねっ。だけどあいにく……戦力の方は間に合ってるんだよねっ!」どちらかといえば欲しいのは、万々歳のお手伝いの方だったりして。
「ああ? ねーちゃん、オレのことみくびってるんだろ……? オレはマジで強いんだからな⁉」
「そうじゃないよ……でもね。ふふふ……。鶴乃ちゃんは、最強だからねっ!」
私はキュゥべえに太鼓判を押されるくらいには、一人で戦うのにも慣れていた。
そして、私がかつて、決闘少女として一部で勇名を馳せていたと知ったら、この子は驚くだろうか?
「最強……? つるのちゃん……??」
「そう。
「へえへえ、そーかいそーかい。ふんっ。……オレは深月フェリシア」
よくよく見ると、――いや、よくよく見るまでもなく彼女の格好はみすぼらしく、普段どんな生活をしているのかが伺えた。おそらく社会との接点が希薄で、毎晩寝る場所さえ決まっていない。魔法少女をやってる子にはときどきこういう手合がいる。魔女や願いのせいで家族や友人知人、そのいずれか、あるいは全てを喪失し、しかしながら魔法少女としての能力を使って生存はしている。そんな少年兵みたいな生き様の子が。違法行為に手を染める心理的なハードルさえ超えれば、魔法少女が生き延びるのは容易い。あくまでも人間社会に寄生した上では、の話ではあるけれど……。
フェリシアは傭兵というより、どう見ても腹ペコの子供にしか見えない。だけど、金髪でどことなく異国の香りがして、名前もそうだし、外国の血が混じっているのかも知れないと思った。もし格好と身なりを整えれば、それなりに見栄えのする顔立ちをしていると思った。
「『傭兵』じゃなくて、『仲間』としてだったら、いいよ! 付き合ってあげても!」
「仲間ぁ……? オレは傭兵だからそういうヌルい付き合いはしねーんだよ! ギブアンドテイク、報酬のやり取りだけでつながるドライな関係なの! ……姉ちゃんだって、『ナナミヤチヨ』とかいうやつとはぐれて、今は一人なんだろ……」
不意に予想してなかった名前が登場し、思考にノイズが混じる。――ナナミヤチヨ。
「よく知ってるね。……やちよのこと」
「そりゃもっちろん、有名だからな! すっごい強くて、やばかったらしいな! そのめちゃくちゃな強さで西側を全部まとめてたって聞いたぜ。…………んでもさあ、最近じゃあ落ちぶれてるらしいじゃん? 新人をいびって嫌がらせをして、鬼婆みたいな厄介なやつになってるってもっぱらの噂だぜ! テリトリーの主張がうるさくて、がめついすっっげえ嫌なやつなんだって……」フェリシアは聞きかじりの知識を楽しそうに語る。「……ははっ、一緒に戦ってた仲間すら追い出したって、もう本当に自分以外はどうでもよく」
バン、という音が物音のしない静かな店内に響いた。私の手がテーブルに叩きつけられる音。茶碗がはねて硬質な音を奏でた。
「そういうの、やめてよっ! 知ったようなこと言わないで‼」
聞くに絶えず思わず手を叩きつけていた。頭がカッとなって、衝動的に手が動いていた。コップから水が溢れテーブルを濡らしている。
「いや、……お、オレは、別に……」フェリシアは突然のことに動揺していた。
ふつふつと胸の中に湧いてくるむかつきを抑えられない。考えるより先に言葉が口をついて出る。
「ごめん、……帰って。……お願いだから、今日のところは、悪いけど帰って」
「んだよ……わかったよ。……悪かったな! メシ、ごちそうさんでした‼」
フェリシアが店を飛び出していく。許せなかった。やちよがみんなにあんな風に思われているということが。フェリシアだけじゃない、魔法少女の間で噂になっているのが。
そして何より許せないのは、そんな言葉を否定する材料を何一つ持ち合わせていない、自分自身に対してだった。
……それとも私は、やちよが本当に変わってしまったという現実を認められないだけなのか……?
それから数日が過ぎた。私はいつもどおり魔女のパトロールをしていた。その過程で何度かフェリシアに遭遇した。最悪の初対面の気まずさと、それを引きずった微妙な空気の悪さがあったけれど、結界の中ではお互いに文句は言わずに協力し魔女を倒すことにした。だけど、そこで私はフェリシアがとことんチームで協力することに向いていないと思い知る。
私が何度言い聞かせても、魔女を見つけると一人で突っ走る。頭に血が上って話を聞かない、味方を巻き込む攻撃をする、言うことを聞かない。そして、約束は守らない。
魔女が憎くて仕方ないようで、魔女を見つけると目の色を変えて飛び出していくのだ。
二回ほど巻き込まれて殺されそうになったところで、これは『傭兵』なんか無理だろうと見当がついた。フェリシアが仲間を伴わず一人で行動していた理由も伺える。
「どうして、そんなに魔女を倒したいの! そうやって突っ走ってたら、いつまで経っても一人だよ⁉」
「うるせーな! なんでもいいだろ‼ オレは魔女を倒せたらそれでいいんだよ! オマエだって取り分をわけてもらえるんだからいいだろ‼」
話が噛み合わない。
協力関係にもなっていない雑な連携で何度か魔女を倒したあと、崩壊していく結界の残り香の中で揉みあっている私たちの前に、珍しい顔が現れた。
……やちよだった。しばらく会っていない間にやつれた気がする。気のせいかもしれない。
やちよは真冬に野ざらしにされた金属製の手すりに触れたときみたいに、体の芯に響く冷たい声で言う。
「鶴乃、あなた一体何をしているの」
「うわっ、出たっ! ナナミヤチヨだ」フェリシアは妖怪でも見つけたかのような反応をした。
ねめつけるようにフェリシアを見る。それから、こちらを向く。
「鶴乃。深月フェリシアと関わるの早めたほうがいいわ」
「ああ⁉ なんだテメエ?」当然、フェリシアは噛み付く。
「『傭兵』が聞いて呆れるわ。あなた、素行が悪いって評判よ。自分勝手に戦って雇用主を巻き込む。報酬さえ受け取ればすぐに裏切る。傭兵でもなんでもないわね」
「この……好き勝手言ってんじゃねえよ!」飛びかかりそうな勢いで怒る。
「とにかく、そんなのとつるんでいるとあなたも同類だと思われるわよ、鶴乃。それとも下手な同情心でも抱いてしまったのかしら。そういうのは身を滅ぼすわよ。中途半端な善意が、一番人を蝕むの。そんな生き方をしていると、あなたいつか死ぬわよ」
眦から発せられる鷹のような視線が、私をまっすぐに射竦めた。
「ちが……べつに、そんなつもりじゃ……」
「まあいいわ……。魔法少女ってのはね、本来的に孤独なものなの。己のたった一つの『願い』のために全てを捨てて戦うのが魔法少女。誰かを救ったり救われたりとか、そんなこと、もとより望むべきじゃないの」
やちよが私を見る目は、あまりにも峻厳だった。
「"人が人を助けるってのは、簡単なことじゃないのよ"」
それだけ言って、やちよは去っていった。
あとに残されたのはずっと機嫌が悪いフェリシア、そして、呆然としている私だけ。
まるで、やちよを助けたいと思っている私の気持ちに、余計なことをするなと釘を刺されたようだった。
それからまた更に数日が経った。パトロールの前に店で準備をしていると、キュゥべえがやってきた。
「最近、深月フェリシアと行動を共にしているらしいね」
「別につるんでいるとかそんなんじゃないんだけどね……。私が結界に入るとあの子と鉢合わせることが多くてさ。たまに一緒に戦ったりしてるよ」
「ボクから一つ忠告だ。深月フェリシアにはあまり入れ込まない方がいい」
「どーいうこと? っていうか、やちよにも同じようなこと言われたよ……」なんだよ、最近は忠告するのが流行っているのか!
「深月フェリシアは厄介な連中と繋がりがあるという噂がある。それでなくても彼女は無法者だと、方々で恨みを買っている。一緒にいるとどんな火の粉がかかってくるかわかったものじゃない。……キミは一応ボクの協力者だからね。余計なリスクは取ってほしくないだけさ」
やちよも同じことを言っていたし、そう言われる根拠もわかった。
フェリシアが嫌われている理由もわかる。チームプレイなんて言葉をまるで知らずにいるフェリシア。彼女が、孤独な理由も。
「でも、キュゥべえの行ってた
「そうだね」
「だったら、フェリシアを知ることで、キュゥべえが調査したいことにも近づけるんじゃない? フェリシアは傭兵として多くの魔法少女と関わりがある。だから、フェリシアを知ることで魔法少女達の変化について知ることができる。そして、魔法少女を通じて、世界の変化にも近づくことが出来る――かも知れない。こういうの、何て言うんだっけな……」
「演繹法だね」
「そう、それ」
「たしかに
「ま、私も様子を見ながら上手くやるよ。今日も一緒に魔女退治に行くんだ」
日が沈んだ頃、私は運動公園の噴水でフェリシアと落ち合った。運動公園にフェリシアが見つけた魔女の卵があるらしい。時間はもう少し余裕があるけど、見張っておきたいとのことだった。
私は、キュゥべえにはああやって理屈を語ったが、本当のところ、段々とフェリシアがいる時間が馴染んできたのだ。誰かと一緒に魔女退治に出かけるなんて久しぶりで、だけど、そのワクワクするような感覚は、以前仲間と一緒に戦っていた頃に感じていたものと同質だった。いまの私達はとてもチームワークなんてなっちゃいない、寄せ集めの烏合の衆だけど、でも。
いつかチームワークを物にして、やちよにその勇姿を見せたい。そんな淡い希望も生まれていた。
そうしたら、やちよだって……。
「ねえ、フェリシア、私ね……。久しぶりに誰かと戦うの、悪くないなって、思ってたんだ」
私達は広い運動公園を目的地に向かって歩いていた。風はぬるく、遠くから反響する車の走行音が聞こえるばかり。
「そうか、……オレも、悪くないと思ってたぞ」
「よかったらさ、ウチでバイトでもしない……? 少しならお小遣い出せるよ」
フェリシアは前を向いて表情が見えない。他人といることに慣れていなくて、照れているのかもしれないと思った。
フェリシアは足を止める。
「なあ。……あそこに孵化しかかってる卵があるはずだから見てきてくれねえか。オレは周りに子供がいないか、確認してくるからさ」
人の気配も希薄な夜の公園で子供が遊んでいるとはあんまり思えないけれど、しかし確認するに越したことはない。私はフェリシアに言われたとおりに、ちかちかと点滅している照明を確認した。
「なあ、オレはさ。前に言ったかな……。親ももういねえんだよ。魔女に殺されちまった。魔女をぶっ殺すしかオレにはないんだよ。だからさ……いままで付き合わせちまって悪かったな」
「いままでって、別に……」そんなことを言わなくても、きっとこれからだってあるのに。
切れかかった蛍光灯の下までも来ても変化は見つけられなかった。足場を用意して近くでよく見たほうがいいのかもしれない。付近にあったビール瓶のプラスチックケースを持ってくる。私は傘と覆いに囲まれたランプを丁寧に観察する。……あれ、おかしいな。やっぱり、何もないように見えた。
「ねえ、ふぇ……」
振り返るとそこにいたのは大きなハンマーを振り上げているフェリシアだった。フェリシアの口が動く。――ワルイナ、ユイツルノ。
私の意識は、そこで途切れた。
――――…………どれだけの時間が経過したのかわからない。ズルズルとなにかを引きずる音がした。それが私の頭が地面にゴリゴリと削られる音だと気がつくのに、しばらく時間がかかった。さっきと違って倉庫のような場所だった。薄暗く、周りがよく見えない。そもそも殴られた衝撃で視力がやられているかもしれなかった。誰かが、私の足を引っ張って運んでいる。
ズルズルと引きずられ、広い場所に放置される。その時初めて、引きずっていたのがフェリシアだとわかった。
しばらく待っていたら、もうひとりの人影が現れた。その子はフェリシアと待ち合わせをしていたようだ。赤いタイトな衣装を着た少女。上下でアシンメトリーなデザインをしている。様子から見るに、彼女もまた魔法少女だ。
「よう深月フェリシア。……助かったぜ、傭兵さんよ」
赤い少女はフェリシアに向けてにやにやと笑っていた。
段々と頭がはっきりしてくる。そこでようやく鈍った私の頭は事態を理解した。私は、嵌められたのだ。フェリシアに。
フェリシアは赤い少女に答えない。居心地が悪そうにしている。
「はん。なんだよ、後悔してんのか、深月フェリシア」
「別に……んなんじゃねえよ」
「報酬さえ貰えば、なんでもやって誰の味方にでもなる傭兵なんだろう? 心配しなくてもいいよ。そいつは、魔女の取り分を巡って新人を虐めていた、あの七海やちよの取り巻きだったんだから。いまはもう繋がりがないなんて、本人は言っていても嘘かもしれないぜ」
少女は煽るように両手を広げる。
「知ってるか? 七海やちよは魔女の取り分を増やすために使い魔をわざと見逃したりしているらしいぞ。そんな魔女を増やすようなこと、許せないよな……。ふふ、そもそもなんで七海やちよはチームを解散したと思う? 仲間の食い扶持を養っていくのが煩わしくなってたのさ。元から、
嘘だ……。そんなわけがない。やちよがそんなことをするわけがない。だけど、絶対に違うってわかっているのに、私には説得力のある反論材料が何一つない。
「オレは……なんでもいいんだよ。生きて、生き延びて、魔女を全部ぶっ殺せれば……」
フェリシアは足元を見てブツブツ呟いている。まともに話を聞いているようには見えない。
「ふふふ、心配しなくてもそいつは適当に痛めつけるだけで殺しはしねえよ。ただちょっとテリトリーを変えたくなるように、痛めつけるだけさ。……ふふ、なんだ。ずいぶんと罪悪感がありそうだな、深月フェリシア。復讐にとりつかれて、何も残ってない嫌われ者の傭兵さんよ」
「てめっ……! オマエに何がわかるんだよっ‼」フェリシアは拳を握り震わせる。「オレはな、朝起きたらなんにもねーんだよ! ボロボロのベッドで、目が覚めたらそこは廃墟で! 温かいベッドで寝てたはずなのにっ! ぬいぐるみと一緒に寝てたはずなのにっ! どんな幸せな夢を見ても現実に引き戻されてさッ! 起きたらとーちゃんもかーちゃんもいねーんだよっ! オレにはもう! 復讐しかねえんだッ! 復讐しか……復讐しか……オレにはもう、何も残ってねーんだよっ……‼」
魔法少女はたった一つの『祈り』のために契約をする。だけど、わたしはついぞフェリシアの願いを聞いたことがなかった。どうして家がないのか、どうして両親がいないのか、それすら知らなかった。ちゃんと、話をしておけば、こんなことにはならずに済んだのかもしれない。
「オレには願いも何も……ないんだよ」
フェリシアの祈りは一体何なのだろう。それを、先に聞いておけばよかったな。こんなことになるのなら。
「最初から、『希望』も願いも、なかったんだ、……オレは」
「へえ、じゃあそのまま『希望』を知らずに死ねばいい。『絶望』を生み出す前にな」
赤い少女は懐から取り出した日本刀でフェリシアの腹部を刺し貫いた。
「あっ……、てめッ……!」
「はっきり言ってさー、七海やちよは邪魔だったんだよ。新西に目立つやつがいるとこっちまで取り分が減るからな。だから、七海を殺る前にその懐刀を封じておく必要があった。……由比鶴乃ってのも、なかなか厄介だったからな」
赤い少女は最初から目的の為にフェリシアを利用するつもりだったのだ。
倉庫の片隅には魔女の卵があった。少女はそれを指し示す。
「ほら、これ見ろよ、わかるだろ? 魔力で封印されているがもうすぐ孵化する。……こう見えて私は自分で手を下すのはあんまり趣味じゃなくてさあ。……あんたらは孵化したこの魔女に食われて、殺られた証拠も何も残らないってわけさ。いやー、助かったぜフェリシア。ぜーんぶお前のおかげだ」
「オマエ、魔女まで利用すんのかっ……クソっ。……サイアクだ……なんで、こんなことに……」
フェリシアは涙をこぼす。目頭いっぱいに涙を貯める。魔女を倒すために、そのために生きていると思っていたのに、魔女を利用するやつなんかにいいように使われて、最悪だろう。いくらなんでもあんまりだ。どうして『希望』を願ったはずの魔法少女の末路がこんなことになるんだ。ただ『希望』を叶えたかっただけなのに……。小さな奇跡が欲しかっただけなのに。
私は茫洋とした意識で、上を向いた。魔女の卵は今にも孵化しそうだ。どくんどくんと瘴気を増すように鳴動している。その上に、一筋の隙間を見た。隙間……? しかし隙間としか形容できない。その隙間は空間中のなにもないところに空いているように見えたが、向こう側から白い光が差していた。光は指向性を持つはずはない、ただ漏れてくるだけのはずなのに、私の方へと向かって差している。光が、私を向いていた。それは不思議な感覚だった。私の傷が、痛みが和らいだのだ。回復するほどじゃないが、動くことはできそうなほどに。それなら、戦うのには、――充分。
私は鉄扇を自分を中心に同心円状に広げるように投げ、そこから炎が吹き出した。即席の目くらましだ。向こうは完全に油断していて、一瞬こちらから視線を切った。だから、こっちの現在位置を正確には把握していない。代わりにこちらは、直前まで向こうの位置をしっかり把握している。その優位をすかさず利用する。間髪入れずに炎の壁の中を突っ切り、そいつ目がけて鉄扇で一撃、切り裂いた。致命傷まではいかないが、数日は戦闘できないだろう程度に。「ぐぅっ……」少女はうめき声をあげてよろける。躊躇せずに蹴り上げる。倉庫のガラス窓を突き破り、そいつは外へと吹き飛んでいった。
「う、ぐっ……!」
痛みが走り、足が萎えて膝をつく。体のダメージは幾分沈静化したとはいえ、完全に治ったわけじゃないらしい。肋骨、呼吸器系の損傷が激しい。息が苦しい。しかし休んでいる暇はないのだ。直にそこの魔女が孵化してしまう。
もう、……ダメかもしれない。
シャッターの一つから破壊音がした。誰かが突き破って入ってくる。まさか、もう戻ってきたのか……?
けれど、それはさっきのやつとは体格が違った。そこにいる人影には見覚えがあった。青いロングスカートに、長い槍を携えている。
「鶴乃。あなた何をやっているの」
「あっ、……やちよ……」
「いい加減にして頂戴。あなた今の神浜の状況がわかっているの? 弱い子達はどんどん死んでいるのよ。それだけ厳しい状況なの。人の都合に口を突っ込んで、返り討ちにあってどうするの? 自分のテリトリーのことも自分でできないでどうするのよ。私はこれでもあなたを信頼して任せたつもりだったのよ、それなのにあなたは……」
師匠が助けに来てくれた嬉しさは、その眉間の皺の厳しさによってすぐに打ち払われた。私は、また余計なことをしてしまったのだろうか。
「オイ! 青いヤツ‼」叫んだのはフェリシアだった。痛みに顔を歪めている。
「コイツはオレのこと、今まで助けてくれてたんだよ! アンタだって助けに来たんだろ⁉︎ そんな言い方、しなくてもいいじゃねーかよ‼ ――ナナミヤチヨッ!」
「助けに来て逆にやられているようじゃ意味なんかないでしょう。元より自分の身を守れない戦いに口を挟むべきじゃないのよ。もういいわ……。魔女は私が倒しておくからさっさと帰りなさい。そして二度と煩わせることのないようにして」
やちよは孵化したばかりの結界の中に姿を消していく。またしても私たち二人だけが残された。
「けっ、なんだよあいつ。やっぱりナナミヤチヨって、かんじ悪い鬼婆じゃねーか」
「きっと、やちよも何か考えがあるんだよ……」
私はそう信じたい。でも、やちよの考えなんて、私にはさっぱりわからないんだろうな。
「いーや、性根からひん曲がっているに違いないね、あの鬼婆」
フェリシアはもう既にやちよの評価を決めてしまったようだった。
「まあ………………やちよがちょっとだけ面倒くさい所あるのは、……そうかも」
「だろっ‼⁉」
フェリシアの声のあまりの迫真さと必死さに、私たちは視線がかち合い、どちらともなく吹き出した。
少なくとも、今日は運良く生き延びた。私達が死ぬのはまだもう少し先らしい。……やちよが戻ってくる前に撤収しなければいけない。おそらくそんなに時間はかからないだろう。だけど、あとちょっとだけ休まないと体は動かせそうにない。
私達は、資材や廃材の積まれている薄汚れた倉庫に寝転がる。やちよが切り裂いたシャッターの隙間から月明かりと星が見えた。
「なあ、オレ……」フェリシアは物を壊して怒られるのを待つ犬みたいにしゅんとしていた。
「今晩はウチに泊まりなよ。それでこれからのことをゆっくり話そう」私は意外にも、自分でも驚くほど怒りがなかった。落ち着いた声で、普通に言った。
これで終わりじゃない。私たちに時間はまだ、たくさんあるはずだから。
「ありがとな、ねーちゃん……」フェリシアは、申し訳無さそうだった。
私は決意する。これから、フェリシアをウチへ連れ帰って、シャワーを浴びさせてやろう。風呂嫌いの大型犬を洗うみたいに丁寧にピカピカにして、髪からふんわりいい匂いがするようにしてやろう。
そして、今晩はうちに泊まるといい。これからのことはわからないけれど、今晩くらいは私のベッドを使わせてあげよう。それくらいは、いいだろう。お風呂に入って綺麗になった後なら、私の大切な首長竜のぬいぐるみに抱きついて寝ることだって、許してあげよう。
そうして一つの戦いが終わり、私たちは『仲間』になった。
気位の高い三日月は沈み、風に揺れる月見草が見守っていた。