誰も何も言わなかった。誰もが息を呑んで聞いていた、至寂の話を。崇春と百見でさえそうだった――初めて聞かされたのだろう――。
ただ一人、渦生だけが顔を背け、苦味に耐えるように目をつむっていた。
やがて、紫苑が息をつく。
「人殺し。と、いうわけか」
目を伏せ、笑みを含んだ顔で――なぜか寂しげな笑みで――そう言った。
「てめえ……!」
目を剥いてにらむ渦生を、しかし至寂は手で制した。目を伏せたまま。
「善いのです……善いのです。真実、そのとおりです」
顔をしかめ、大きく舌打ちをし。紫苑から顔を背け、渦生は言った。
「仕方がなかった、他にやりようもなかった……放置もできなかった、さらに言やあ怪仏事件、司法や警察で扱えはしねぇ――そうなると怪仏の存在から証明しなきゃならねえ、科学で証明不可能な怪仏を――」
片手で顔を覆い、つぶやく。
「……どうしようも、なかった」
変わらぬ表情で紫苑は言う。
「勘違いしないでほしい、僕は責めているわけじゃない。親近感を抱いたんです」
表情の消えた顔で、まっすぐに至寂を見る。
「僕と同じだ。僕と紡と」
至寂が口を開ける。しかし、言葉はその口から発されはしなかった。
百見が口を開く。
「それは、どういう――」
紫苑は手で言葉をさえぎる。
「見てもらった方が早いだろう、君の力でね。さて、お話に時間を取られた。急ごうか……ああ、僕の話だが、動画なり通話なりでそちら、至寂さんらにも見聞きしてもらっていい。……そうしてくれ」
背を向ける紫苑を先頭に、かすみたちは再び歩き出した。
ただ、至寂はその場に立ち尽くし、渦生もそのそばに立っていた。
渦生が煙草を取り出し、くわえる。至寂にも一本取って差し出す。
頭をかがめた男たちの煙草を、百円ライターの火が同時に焦がす。
やがて二本の白煙が細く昇るのを、振り返ったかすみは遠目に見ていた。
「さて、これでいいかな」
会議用といった風に長机が四角に並べられた、斑野高校生徒会室で。カーテンを全て閉め、東条紫苑はそう言った。外から見とがめられないよう、明かりはつけていない。
「ええ、ですが――」
百見は出入口の錠を外す。
「施錠はしないでいてもらいましょうか」
紫苑が言う。
「いいのかい、もし誰か入ってきて君の力を――」
「そのときは、即座に力を消してすっとぼけますよ。そちらの方がずいぶんマシだ、黒幕と同じ密室にいるよりはね」
紫苑は肩をすくめる。
「好きにしたまえ。さて――」
椅子を抱えると、机が四角く並んだうちの、真ん中のスペースへと入った。窓の側を背にして端の方に椅子を据え、腰かける。
百見は長机一つ分ほどの距離を取り、その前に立つ。そばには守るように崇春もいた。かすみは迷った後、二人の後ろに立つ。
鈴下は真ん中のスペースには入らず、壁際で立っていた。自らを抱くように、片手でもう片方の腕をつかむ。その手は制服の袖を強く握り締めていた。
うつむいたその顔は、壁の方へと向けられていた。紫苑から顔をそむけるように。
平坂は彼女を警戒するように、距離を取って壁際に立った。
東条紫苑はひざの上に片脚を載せ、その上に両手を載せて指を組む。くつろぐかのような様子で後ろにもたれた。
そこでなぜか、鈴下の方を見た。
「構わないかい、紡」
鈴下はそちらを見ず、うつむいたままだった。
「……ええ。あなたの、望むように」
紫苑は何も言わず、うなずく。
百見に向き直り、笑いかけた。
「よろしく頼むよ」
そして、目を閉じた。
百見はうなずきもせず、印を結んだ。
「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ――【
そして、傍らに現れた広目天が、紫苑の額に、そ、と筆先をつける。水面のように紫苑の輪郭が揺らぎ、筆はその奥へと沈んでゆく。
「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ。オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ、オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ、オン・ビロバキシャ――」
百見の唱える真言が響く中、広目天は筆を抜き出し、空間へと振るった。
辺りが、室内の空間自体が、墨を浴びせられたかのように黒一色に染められる。
その中で、壁のうち一面から墨が流れ落ちた。白く四角く切り取られたようなそれは、映画のスクリーンにも似ていた。
その手前にはいくつも、黒いもやの塊が漂っていた。奇妙なことにその小さな雲のようなものは、広目天の墨より黒く見えた。
「これは……」
百見がつぶやくと、紫苑は薄く目を開いた。
「大暗黒天の力さ。プライバシーというものがあるのでね、無関係な部分は我が暗黒で塗り潰させてもらったよ」
以前、斉藤の記憶を見たときも黒幕の姿は黒くもやがかかったようになって見えなかった。そのときと同じ力ということか。
紫苑は微笑み、広目天とスクリーンの方とを見比べる。
「いやしかし、これが広目天の力か……興味深いね」
百見は取り合わず、漂うもやの群れを指差す。
広目天が筆でそれをかき分けると。一つだけ、もやのかかっていないものがあった。空間に白く切り取られた、小さなスクリーンのようなものが。そこには墨で描かれたような、モノクロの人影が映っていた。
百見がうなずくと、広目天は小さなスクリーンを筆先で捕らえる。それを、壁のスクリーンへと放った。
壁には大写しになる、古い記録映像にも似て、砂が舞うかのようにちらついた映像が。東条紫苑の過去が。