かもす仏議の四天王  ~崇春坊・怪仏退治~   作:木下望太郎

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六ノ巻32話  紡と紫苑、真なる昔日(せきじつ)(後編)

 

 それからどれほど経っていたか。

 スクリーンは灰色だった。

 スクリーンは灰色だった。

 

 それでも、なぜか、いつしか。

 鈴下紡は、その向こう側を感じていた。

 

 

 

 何かが顔に当たっていた。滴り落ちる液体の粒。

 それを紡は感じていた。

 感覚が、じわり、とそこから広がるように、体の内に戻っていく。

 紡はあお向けに横たわっていた。水の溜まる庭、芝の生えた地面の上に。

 

 目を瞬かせた。

 視界に入ったのは少年の顔――先ほど、鬼みたいなものを背後に浮かべ、剣を手にしていた少年。斑野(まだらの)高校のジャージを着た、同い年ぐらいの――。

 彼が、歯を食いしばり。頬を歪め、目に涙を溜め。紡の顔をのぞき込んでいた。

 その体全体が、紡の胸に突き当てた両手が、必死に上下に動いていた。紡の胸に突き刺すように、その内側を揺り動かそうとするように。

 その動きが何かは、知識としては紡にも思い当たった――心臓マッサージ。

 

 そう気づいて、今さら紡の体は揺れを感じた。少年が紡の心臓へ、自らの体温を鼓動を生気を、突き立てるかのような上下動を。

 

 涙を溜めてしゃくり上げながら、必死に体を揺らす少年の顔から鼻汁が垂れ。濡れそぼった肌から、雨水とも汗ともつかないものが垂れ。歯を食いしばった口の端から唾液(だえき)がこぼれた。

 それらは多分、さっきと同じく。紡が初めて、彼を感じたときと同じく。紡の顔に滴り落ちた。

 

「きった……ねぇな……おい」

 紡の肺が、久方ぶりに空気を吐き。洩らした言葉がそれだった。

 

 とたん、少年が、紫苑が身を震わせた。

 紡の胸から手を離す。腰を落とし、地べたに両手をつけ、深く息を吐く。

「よかっ、た……」

 

 うなだれた、紫苑の肩が震えていた。泣いているのだと、紡は思った。

 ――でも何で泣くのだろう。だいたい何で、この人はここに来たのだろう。紡の家、父が母と紡を殺そうとしたその夜に、何で。それにあの鬼みたいなもの、父とこの人の背後に浮かんでいたあれは、いったい――。

 

 考えているうちに、紫苑がうなだれたままつぶやいた。

「……いや。ごめん。こんなことすべきじゃなかった……君を、死んだままにしておくべきだった」

 

 そのまま、額を地べたにつけた。しゃくり上げ、息を詰まらせた後で彼は言った。その声には鼻水をすする音が混じり、湿っていた。

「ごめん……ごめんなさい、僕のわがままだ、君を、地獄に引きずり込んだ。ごめんなさい……っ」

 その肩が、背が震えていた。

 

 紡は目を瞬かせ、どうにか身を起こした。

 ――何を言ってるんだこの人は。よく分からないけど、助けてくれたというのに――。

 

 そこまで考えて思い出した。そうだ、母さんは、父さんは。もしかしたら、この人が助けてくれて――

 

 父がいた辺り、母が倒れていた辺りを見回す。

 そこには何もなかった。自宅からの明かりがこぼれる中、芝が乱れ、赤黒く汚れているのみだった。父が手にしていた大振りなナイフ――紫苑に刺さっていたものと紡に刺さっていた、二振り――が、転がっているだけだった。

 

「言っただろう。地獄に引きずり込んだ、と」

 紫苑は顔を上げていた。その背に黒くもやが浮かび、鬼神の形を取っていた。

「申し訳ないが、勝手に憑けさせてもらったよ。怪仏を、僕と同じ力を。……同じ力を」

 

 紫苑の差し出した手から、紡の手へともやが伸びる。

 紡の中から、ぞ、と何かが引きずり出される感覚があった。

 

 紡の手が、肩が、体が黒いもやを上げていた。それは宙で濃く集まり、一つの形を取る。天女のような姿を。

 

 紫苑の声が続く。

「怪仏・弁才天。水と音楽、弁舌の神仏(かみ)にして福神。――僕の大暗黒天と同じく、福神」

 

 立ち上がり、辺りを歩き回り出す。授業でもするみたいに淡々と声を続けた。決して紡の顔を見ずに。

「それらは『三面大黒天』として一体にすらなり得るほど関係の深い神仏。一説には夫婦、また一説には同体とされることすらある。ゆえに、君の弁才天には。僕の一部、大暗黒天の一部を同化させることができた」

 

 天女が、弁才天が、しなだれかかるように首をかしげてみせた。細い手が豊かな黒髪をかき上げる。

 その髪の下、後頭部には。紫苑が自らの上に現出させたものと同じ、鬼神の顔が牙を剥いていた。

 

 紡は目を瞬かせていた。ただ口を開けていた。

 

 ――何だこれは。何だ、これは。

 いや、何なのかなんてどうでもいい、私が聞きたいのは――

 

「あの。どこ。母さんと、父さん」

 重たい唇を開き、どうにかそれだけ言えた。ひどく小声だった。

 

 紫苑は決して、紡の顔を見なかった。

「……言っただろう。地獄に引きずり込んだ、と。君も。君の多分両親も。僕と同じ力のせいで、大暗黒天のその力で」

 

 紡の視界が揺らいだ。そして切れ切れに情景が浮かぶ――そのヴィジョンがかすみにも見えた――。

 ――家族の歯ブラシを新しいものに取り替え、古い方を別々のビニール袋に密封する光景。スマートフォンで、DNA鑑定会社のページを見ながら。

 ――男性と手を、指を絡める光景。父ではない男性と、何度も。蛇が戯れ合うかのように、粘度を持った動きで、何度も、何度も。

 ――雨の中傘も差さずに歩く、ふらつく足取り、頭蓋の内に響く悪酔い。手にしたくしゃくしゃの書類にまた目を落とす。血縁関係なし、との鑑定結果へ。

 ――玄関から呼ぶ声がして、そちらへ言ったとたん。ずぶ濡れの夫が、よろめき、倒れ込むようにして。腹を刺してきた。

 

 紡は口を押さえていた。脳みそをかき回されたかのように視界が揺らぎ続け、足下もまた揺らぎ、痛むほどに鼓動が頭の内で響き渡り。吐き気がした。

 

 紫苑が言う。

「……正直手遅れだった、命を与えるにはそれしかなかった。君も僕と同じになった。……大暗黒天の力は、死にゆく君の両親の命を奪い。肉体も何もかも、君と混ぜた。……おそらくは、ぎりぎり既に死んでいた君と、無理やりに」

 

 動きを止めた―ー頭の中は変わらず揺らぎ、渦巻き続けている――紡に構おうとはせず、紫苑は言葉を続けた。

「そうしてできた君のその肉体に、生命に。大暗黒天――正確にはその一部を宿した弁才天――もまた、自らを一体化させた。そうして、その君ができた」

 

 紫苑は歩みを止めた。ようやく、紡の顔を見る。

「初めまして。僕の名は紫苑。父の――君と同じ意味で、自らの一部である者の――用意してくれた名で、そう名乗らせてもらっている。そして君は――誰だ」

 

「だ、れ……」

 未だ紡の頭の中では、いくつもの情景が渦を巻いていた。足下までその渦に巻き込まれたかのように、未だふらついていた。

 

 ――私、私は。鈴下、紡。か? ――

 

 思いっ切り吐いていた。身を折り曲げ、中身を全部絞り出そうとするかのように吐いた。

 胃の中身は、一度も口にしたことのないアルコールのきついにおいがした。父がよく呑んでいた、洋酒の。

 体は痛んだ。紡の刺された腹だけではなく、母の刺された胸も、何ヶ所も何ヶ所も。

 

 

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