「え……」
かすみはそうつぶやいたが、その声が自分でよく聞こえなかった。まるで高所へ上り、気圧差で耳が聞こえづらくなったときのように、遠く隔たった場所の物音のように感じていた。
「どういう、ことですか」
続けて言った声も同じく、遠く聞こえた――どころか、そう口を開いた自分の行動すら、自分がしたことではないように感じられていた。透明の壁を隔てて、誰かがしていることを見ているような、そんな感覚だった――。
「どうもこうもない」
百見は泣くような目をしたまま、再びかぶりを振る。
「言ったとおりさ。崇春は死ぬ。凄まじい力を発揮し、その後確実に死ぬ」
「どういう、ことですかっっ!!」
声を張り上げ、食らいつくような顔で身を乗り出していた。透明の壁などぶち割ったような感覚を伴って。
それは確かにかすみ自身の行動だったし、その声は自分の鼓膜をもひどく揺さぶった。聞こえないだとか自分ではないような感覚だなんて、のんびりしたことはもはや言いようもなかった。
「だから、言ったとおりさ……嘘でも冗談でもない。そうであったなら、どんなにいいかとは思うがね」
大声の衝撃にか、未だ耳を押さえながら百見は続けた。
「崇春が再び目覚めたときの僕との問答。あれで何が起こったと思う」
一休さんの、屏風の虎がどうのとかいう二、三の問いかけ。この場に関係があるとも思われない問答。あれが何だったというのか。
「
百見はかすみを真っ直ぐ見、言葉を続ける。
「この問い、はっきり言って理屈や理論で分かるようなものではない。半ば不条理ともいえる、いくら考えたところでたどり着けるはずもない答え、すでに悟っている者でもなければそもそも解けるはずがない……そんな不可能性を
百見は一人うなずく。
「だから。崇春は、もう悟っている」
かすみは口を開けて聞いていた。
「……それが、何だっていうんですか。関係ない、それにっ、悟りだなんて、だいたいあんなちょっとの問いでできるような――」
問いながら頭が熱くなるのを、血が上っていくのを感じた。
――何を言っているのだこの人は、崇春が生きるか死ぬかという話をしているときに、今も上空で一人、崇春が戦っているというときに。関係ない、仏教の話だなんて。だいたいあの問答だって必要だったのかどうか――。
しかし、百見はうなずいた。
「そうだ、何でもない。何でもないんだ、悟りだなんて。普通ならこんなときに考えることでもない。だいたいもしも悟ったとして、『良かったね』で済む話だ。そのとおり、人間なら皆誰でもそうだ。――だが、崇春は『人間じゃあない』」
無表情に――おそらくそうしようと努力して、それでも時折、泣くように目元を歪ませて――続けた。
「『怪仏』だ。怪仏が悟りを開いたらどうなる。『業の塊たる怪仏』が悟りを開き、『全ての業から解き放たれたら』どうなる?」
未だ無表情に――
「死ぬよ、あいつは。全ての力を使い尽くして、死ぬ。――業、すなわち執着から解き放たれた怪仏は、もう執着しない。自らの体を構成する業すら維持することが不可能になる。全ての業を短時間の内にエネルギーとして放出し、そのまま消滅する。……特に彼は、『全人類の業』を秘めた怪仏。その莫大な力を解き放ち、それを
かすみは目を瞬かせていた。
何を、何を言っているのだ、この人は。
頭のどこかがそう考え、しかしまた別のどこかが、百見の話を理解していた。
百見は上空を見上げる。未だ続く、大日金輪と増長天の闘いを。
「この世の重大な危機に際して、最強の怪仏を最強の状態で運用し、この世を護る。それが仏教宗派としての
震えながら、言葉を継いだ。
「僕は、思い出せと――つまりは、死ねと言ったんだ。友に、あいつに、そう言った、また」
崩れ落ちるように、地にひざをついた。
「言わなければ良かった。言わずに済むものなら、言いたくなんか……なかった。この世なんか、どうなろうとも」
百見は地に手をついていた。その目は崇春に向けられてはいなかった。背けるように地面へ向いていた。土を握り締める手が震えていた。
その頃、上空で。
「――むうう!」
崇春はどうにか、迫る光の刃から身をかわした。
確かにかわした、だが。肌から毛穴から、体の芯から力が抜け出ていくようだった、たちまちに脚が崩れた。
そこへさらなる刃が迫る。
「――なんの! 【
崇春の両手から光が伸び、集まって形を取る。それぞれ別の物体を形作った。右手で長い
二振りの武器が光の刀を砕き、打ち払う。しかし崇春の武器もまた、かき消されて光の
大日はわずかに目を見開く。
「――武器だと? 君にそんなことができたのか」
そして、笑っていた。
「――それがどうした」
別の刃がまたも繰り出される。
崇春の手が輝き、新たな武器を形作る。
それを大日の二腕の刀に打ちつけ、あるいは放って巻きつけ、動きを止め。互いに砕き合ったように、もろともにかき消される。
大日自身の腕で振るう、さらなる二刀が目の前に迫るが、崇春はなおも武器を現出させていた。日本刀のような反りを持った、二振りの小太刀。
タイミングはぎりぎりだった、それでも確かに間に合っていた。肩へ腕へと繰り出された刃を、がちり、と小太刀は受け止めていた。
なのに。小太刀だけが一方的にかき消され、光の
そして青黒い光の刀が、刀身の幾分かを散らしつつ崇春の肉体へと食い込んだ。
「――ぐぬ……!」
崇春は無理やり身をひねり、斬り込まれる刃の軌道をそらせた。宙を
傷口に手をやる。決して深い傷ではない、体の表面を浅く裂かれたに過ぎない。
だが、治療のための力を使おうとしたとき。ひざが揺らぎ、片膝をつくように体勢が崩れた。いつの間にか呼吸が荒く、肩が大きく上下していた。
大日は変わらずほほ笑んでいた。
「――なるほどなるほど。増長天は他の神仏と違い、定まった
いっそう優しく笑ってみせる。
「――もう一度言おう。それがどうした」
崇春は肩で息をしていた。両足は風を吹き上げ、宙で踏ん張ってこそいたが。背は丸められ腕は垂れ下がり、汗まみれの顔はうなだれていた。
それでも崇春は笑うように、鼻で、ふん、と息をつく。
「――どうしたもこうしたもあるわい。わしは
顔を上げる。光るような目――
「――実践、方便、それこそ究極。たとえその全てが効果を発揮するわけではないにせよ、あらゆる手段で救うてみせる。いや、救いを見せちゃるわい――救われておると、気づかせちゃる」
大日が顔をしかめる。
「――いい加減にしつこいぞ、その
崇春のまなざしは変わらない。視線は揺るがない、振りかざされる刃を追ってもいない。ただ、大日の目を見据えていた。
「――しかしまあ、何ごとも実践してみるもんじゃ。頭の悪いわしも、おかげでようやく分かってきたわい。
しゃりん、と澄んだ音がした。見ればその右手から光がこぼれ、先端にいくつもの
「――そんなもの、今さら手にしたところで――!」
六つの刃が振り下ろされ、六つの方向から斬り込まれ。
今。その刃がそれぞれ、崇春の前髪に袖の布に鎧の表面に靴底に首筋にまつ毛に、触れた。
次の瞬間、刃は
その全てが、
「――東条、遅し」
その結果に大日が意外の表情を浮かべる、その動きよりも早く。
崇春は背中合わせに、大日の背後にいた。その背と背をひたり、とつけ、気づかうように振り向いていた。
そして。小太刀の峰で、ぽん、と大日の首をはたく。
「――な……っ!!」
大日が振り向きざま、さらなる六腕を繰り出すも。
「――鈴下、遅し」
崇春はまたもそこにはおらず。
大日の背後で背を向け、振り返っていた。
「――な! な……」
言葉を失い、よろめくように距離を取る大日に。
崇春は地に杖をつくように、しゃりん、と
「【
それ以上を聞こうとはせず、大日は両手を広げていた。
「――受けよ、【全て消えゆく無常の光】!」
その背に
それらが飛び交い、ひしめき合い。崇春の上下左右前後、丸く取り囲むように満ち。一斉に、崇春へと殺到した。
崇春の表情は変わらない。
「【
いつの間にか右手の
左手の小太刀の刀身を、汗でも吹いたように結露が覆う。そして、それに合わせたかのように辺りの空間に霧が立ち、
大日の放った光塊はその雲の中に飛び込み、かき消しゆくもかき消し切れず。むしろ、いや増し湧き上がる雲に押し包まれ呑み込まれる。
そのとき、雲の奥で崇春の右手の小太刀が光る。
同時。雲は、
その中心で、崇春は小太刀の柄頭で氷を軽く一つ打つ。
高い音を立て、氷はその内に呑んだ光塊もろとも砕け落ち。雪片となって流れ落ち、風にさらわれて消えていった。
光塊を放った体勢のまま、力なく口を開けた大日に向かい。崇春は両手の小太刀を消し、さらなる
「――【
左手から放ったのは、先に
「――があ……っ!」
縄が大日の片腕に絡まり、電撃がその身を打ち据える。
しかし大日は光を放ち、雷電と縄を消し飛ばした。
その間に崇春は飛び込んでいた。
「――【
不動明王が持つものにも似た大振りな直剣。そこには音を立てて燃え盛る業火が宿っていた。全ての業をも焼き尽くそうとするかのような火が。
その刃が、真っ直ぐに振り下ろされる。
未だ電撃の痺れが残るのか、震える体を無理に動かし、大日が両手を振り上げた。
「―― ぐ、ぬおおぉぉおおっ!」
眼前に迫る刃を、真剣白刃取りのように挟み、押し止める。刀身から上がる炎に掌を前髪を頬を焦がされながらも、両手から光を放つ。
剣は刀身の中ほどをかき消され、支えを失った切先がぽろり、と落ちた。
その時にはすでに、崇春は次の
「【
その
地に突き立ったそれは地を揺らし、震わし。大地が、殻を破るように立ち昇った。
怒龍の如く隆起した細く高い山が、今。真下から大日を打ち上げ、吹き飛ばした。