かもす仏議の四天王  ~崇春坊・怪仏退治~   作:木下望太郎

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六ノ巻49話  全てから離れ、かつ全てであるその景色

 

 ――考えていた、考えていた。谷﨑(たにさき)かすみは頭の全てで。

 

『お前の心をここに出してみろ』

『父母未生(みしょう)以前のお前はどこにいた』

『ここに描かれた虎が毎夜屏風(びょうぶ)を抜け出し、暴れ回るので困っておる。どうかこの虎を退治してくれぬか――さて、如何(いか)に』

 

 ――お前の心まずそんなものどうやって出すのかいやそもそも心とは何なのかその定義とはだいたい形として存在するものではないそんなものどうやってここにそれに父母未生両親が生まれる前の自分なんて在るわけがないではないか何なのだこの問いは何の意味が何の意味もないはずそのはずだがなぜ問うたその意味はそれに虎の話に至ってはただの昔話ではないか何でわざわざそんなもの問うたどう答えろと――

 

 考えていた、考えていた。だがそれは、思えばかすみが問われたことではなかった。

 崇春が百見に問われたこと。怪仏として立ち上がる直前、倒れていた崇春が百見に問われたこと。

 

 そして今、考えているこのことは、かすみの内に響くこの声は、思えばかすみのものではなかった。

 崇春の声。崇春の思考。それが今、かすみの内で響いていた。

 

 響いていた、響いていた。鼓膜が震えてその奥の脳が、頭蓋(ずがい)が背骨が震えていた。鼓動以上に心臓に響き、呼吸に困るほど胸に響き、腕が指が、ひざが足が、つま先までもが震えていた。

 

 そして、考えていた。崇春の声はそのまま崇春の思考だった。

崇春の声に髪が揺れ、頭蓋(ずがい)で胸で反響し、体の水分全てを揺さぶる。

 そして、揺さぶられるまま。崇春の思考はもはや、かすみの思考ともなっていた。

 響く、崇春の思考が、かすみの声が。もはやそれらは区別できず、駆ける。

 

 頭の全てで考えていた。胸の内全てで考えていた。腹の底から考えていた。響く背骨で考えていた。揺れる髪で考えていた。掌で指先でひざでつま先で考えていた。骨で爪で皮膚で産毛で、細胞の全てで考えていた。それらの内の水分すらも、揺らぎながら思考していた。

 百見の問いに対する答えを。

 

 もはやその思考は声は、かすみ自身の思考で(とら)え切れる速さを越えていた。かすみ自身が(こら)え切れる量を越えていた。

 

 びき、と(きし)む感覚があった。

 

 何が(きし)んだのかは分からない、かすみの脳か、神経か細胞か骨か、あるいは思考そのものか――またあるいは、かすみそのものか。

 

 びき、と割れる感覚があった。

 

 何が割れたのかは分からない、ただ、はっきりと分かることがあった――そうする間にもかすみは思考している、震えるほどに思考している――。

 これ以上思考すれば。かすみは、死ぬ。人間が思考できる限界を越え、言葉で認識できる限界を越え、壊れる。

 

 かすみがいるのは断崖だった。思考の断崖、言葉の絶壁。

 それ以上先を思考することは不可能。それ以上先を言葉で表すことは不可能。その先へ歩を進めれば、すなわち断崖から落ち、死ぬ。

 

 迷わずかすみは跳んでいた。崇春と共に駆けて跳んだ。思考の先、言葉の先、断崖絶壁のその先へ。

 

「あ」

 

 ぼろ、と、何かがこぼれる感触があった。

 まるで大きな(あか)の塊が、自分から剥がれ落ちた感覚。

 それは頭からか胸からか、あるいはその背からか、こぼれ落ちた。

 

「あ」

 

 ぼろ、と何かが剥がれる感触があった。

 まるで巨大なかさぶたが、自分からこぼれ落ちた感触。

 それは思考からか言葉からか、あるいはかすみ自身からか、剥がれ落ちた。

 

 剥がれ落ちた。かすみ自身が、かすみから。かすみを縛っていたかすみが、かすみからこぼれ落ちた。

 

 断崖の先は死ではなかった。かすみを縛っていたものの死に過ぎなかった。

 

 その先でかすみは見た。思考も言葉ももはや無く、在るがままを見た。

 見たものは世界だった。この世そのもの、それをどこまでも見た。どこまで見ても、その世界にかすみはいなかった。どこまで探しても、自分などというものが無かった。

 

 当たり前だった。かすみ自身が世界だった。

 たとえるなら海の波が、どこに自分を探そうとも。そこにはどこまでも一つの、大海が在るばかりであるように。

 

 世界をどこまで探しても、かすみ自身はいなかった。

 世界のどこを探しても、かすみでないものなどなかった。

 それらは今融け合ったのではない。最初から、あるいはかすみが始まる前から、ただの一つのものだった。

 そのことにただ気づいた。今、ここで。

 

「あっ」

 

 不意に、百見の問いへの答えが浮かぶ。崇春が口に出さなかった、二つ目の問いへの答え。

 父母未生(みしょう)以前にも自分は在った。その以後にも今も、自分は無い。その二つは同じことだった。

 

 この答え、この言葉自体はどうでもよいのだと、かすみは思ったが。

「あ。あーあーあーあー、はいはいはいはい。あー、これが……」

 かすみは、すとん、と(わか)っていた。

 

 気づけば。かすみの前、目の前には体を半ば裂かれた崇春――怪仏として、真に覚醒する前の崇春――が横たわっていた。

 崇春はかがみ込む百見を――問いを投げかけていた彼を――見上げ。

 うなずいて、笑っていた。

「――なるほど。すとん、と(わか)ったわい」

 

 そうだった、今さら思い出した。百見の、広目天の力【震筆写実】。その力でこの時の崇春の記憶を追体験した、そういうことか。

 しかしなぜこの記憶を。それにこの技は大日金輪に向けて放たれたようだが、なぜかすみまで。だいたいこれを体験させたところで、どうやって相手を倒せるというのか。

 

 倒す? いや、そうではない。最初から崇春は言っていた、戦ううちにも何度も言っていた。

 救う、と――。

 

 

 

「あ……」

 立ちくらみのような感覚があり、かすみが足を継いだとき。

 そこはもう、記憶の中ではなかった。今、ここだった。

 

 薄れゆく姿の崇春が、倒れたまま身を起こし。傍らの、大日を見ていた。

 

「――あっ」

 立ち上がっていた大日は、そうつぶやいた。

 目を、口を(まる)く開けていた。何かに気づいたように。すとん、と、たった今気がついたように。

 

「――あ。あっ、あぁ。あーあー、あぁ……」

 そして。つぶやくその体から、()えるような光が昇る。自らをも焦がすような勢いで天へと立ち昇る。

 

「こいつッ……!」

「まだ、やれんのかよ畜生……!」

 円次が、渦生が顔を引きつらせて身構えるが。

 

 大日は変わらぬ表情のまま、我が身から上がる光を呆然(ぼうぜん)と見ていた。その体はまるで自身の光に焼かれ、力を吸い取られていくかのように、薄れ、消えかかっていた。

「――な……これは、何……だ」

 

 応えるように百見が口を開く。

「【震筆写実】、その力は追体験を越えて感覚さえも、観た者へと共振させる。崇春の記憶と感覚を体験し、あなたも――悟ったはずだ」

 眼鏡を押し上げて続けた。

「悟りを開いた怪仏がどうなるか知っているか。『業、つまり執着の塊たる怪仏』が『全ての執着から解き放たれたとき』自らの体を構成する業を維持することすら不可能になる。『悟りを開いた怪仏は、全ての力を短時間に放出し』――『消滅する』」

 

「――な……に……」

 その言葉を聞いても、大日は身じろぎもしなかった。ただ、ゆっくりと瞬いていた。

 

 あるいはこのまま、全ての執着から解放され――紫苑らの八つ当たりで世を歪めるという執着も。その歪んだ願いを叶えるために現れた自らを、その存在を維持する執着さえも手放し――、消えてゆくのか。

 

 しかし、崇春はつぶやいた。

「――ええんか、それで」

 

 大日がゆっくりとそちらを向く。

 それを遥かに越える速さで、百見が崇春を見る。大きく目を見開いて頬を引きつらせ、(とが)めるように。

 

 崇春は構わず、大日へ言っていた。

「――お(んし)らのしようとしたことはそもそもが八つ当たり、間違いだと自身で分かっておること。そこへの執着が消えた、それは善い。じゃが、そこまででええんか。全ての業が消え去って後、もう一度選び取る執着は無いんか。……のう、東条。のう、鈴下」

 

 大日は、またゆっくりと目を瞬かせた。

「――そう、だ……そうだ。この我は消えゆくも()む無し、だが……お前たちまで、消えて欲しいとは思わない。紫苑、紡」

 胸の前で合掌した。

「――かつて紫苑が生まれ出るとき、その両親が命の限り願ったように。かつて紡が命を落としたとき、紫苑がなりふり構わず鼻水垂らして願ったように。この我も今……ここで願おう」

 そうして、ほほ笑んだ。寂しげに。

「――永遠に在れとは願うまいが。とてもお前に、死ねとは願えない……東条紫苑。せめて健やかに、鈴下紡。……お前たちは、願われて在る。元より、願われて在った」

 

 合掌した手を広げる。その上に小さく浮かんだ怪仏らの姿は、大日金輪を構成する七宝と阿修羅、そして多聞天――吉祥天――。

 

 それらが光の尾を引いて飛び、還った。大暗黒天は倒れ伏している紫苑に。弁才天は傍らで寄り添う紡に。

 毘沙門天と吉祥天がかすみの中に飛び込み、阿修羅は黒田の体へと戻った。他の七宝はただそこに漂った後、かき消えた。

 

 やがて紫苑が、紡が身を起こす。目を瞬かせ、辺りを見回し。大日を見上げた。

 

 体の全てが薄れ、わずかにもやのように漂うばかりだった大日金輪が、二人の目を見た。

 うなずく。そして、(ちり)のようにこぼれる光をわずかに残し。かき消えた。

 

 宙へ立ち昇り、散りゆく光の粒子を、紫苑と紡はずっと見ていた。

 

「――ふ……これにて、一件、らく、ちゃ……く……」

 崇春がそのつぶやきを残し、どう、と地に伏していた。その体もまた大日のように薄れ、消えようとしていた。

 

 弾かれたようにかすみは駆ける。

 かがみ込み、その手を取ろうとして。まるでもやをつかもうとしたように、かすみの手は空を切るばかりだった。

「崇春さん……!」

 

 今にも消える、消えてゆく、崇春は。

 せめて今声をかけなければ、永遠に何も伝えられない。何を言えばいい何を言いたい何を伝えればいい、行かないで、か、ありがとう、か、いや――

 

 目をつむって叫んだ。まぶたの端から涙がこぼれた。

「崇春さん、今! 目立ってます、めちゃめちゃ凄く! 最っ高に、目立ってますからーっっ!!」

 

 崇春は(まる)く口を開け、それから笑った。

「――おうよ……わしこそは目立ち者、目立って目立って、目立ちまくったるんじゃい……!」

 そうして、伸ばした手が。今度は実体を持って、確かにかすみの手をつかんだ。

 だが、それもまた薄れ、薄れ、消えてゆく。

 

 そのとき。

「……広目天! 【神筆写仏】!」

 百見の声と共に広目天が筆を(ふる)う。

 

 消えゆく崇春の姿が崩れ、(もや)となって筆に吸い込まれる。

百見が広げた愛用の白紙本に、広目天は縦横(じゅうおう)に筆を(ふる)った。

 やがて、そのページには。ごく薄い墨が引かれていた。目を凝らさなければ見えないほどうっすらと、今にも消えてしまいそうに、まるで水で描いたように。増長天の、崇春の姿が描かれていた。

 

「怪仏・増長天――これにて、封じた」

 はたくような音を立て、百見が本を閉じた。

 

 

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