そうして。
その日かすみたちは皆、学校を休んだ。急な法事で。
いや、急な法事って何だ。かすみはそう思ったが、百見はとにかく学校にそう説明していた。実家の寺の法事に人手が足りなくなった、その手伝いにかすみたちも来てもらう、と。
もっとも、法事というのもあながち嘘ではなかった。至寂が結界を解き、全員が異界から戻った後。渦生は
そして何より、その者にこそ助けが必要であることを。
そう時を隔てずこちらへ到着した――昨晩のうちに渦生から報告と、念のため支援を要請していたそうだ――本山の
ただ、二人と怪仏が一体化している以上、怪仏のみを引き剥がすことは不可能だった。また、生命活動に支障をきたすおそれもあり、全てを完全に封じることは出来なかった。
それでもとにかく、二人は怪仏の力を行使することはできなくなり。生命力を吸い取る力も抑制された。試しに針で指を突いてみると、血の止まるのが人より心持ち早い、その程度に。
しかし今までにこのような事例の記録は心当たりがなく、確実なことは言えない、今後調べていく必要がある――そんな風にも言われた。今のところは。
怪仏と、怪仏を使う者を処罰するいかなる法も戒律もない。
もっとも、
至寂は怪仏の力と調伏師の資格を剥奪され、本山にて謹慎。今後の処置を待つ身となった。
紫苑と紡は怪仏の力の封印、紫苑が扱っていた大黒袋と、その中に在った多数の怪仏の剥奪と封印。その他には何もなかった。ただ今後、本山の手による彼らの体質の調査や、定期的な封印の確認の必要はあるとのことだった。
かすみたちが
万が一紫苑と紡の封印が解けてしまったときのため、怪仏の力を扱える者を身近に置いておくべき、というのが渦生の意見だった。
全てが元のとおりだった。崇春がいないことを除いては。
数日後。
早朝に目を覚ましたかすみは、早い時間に家を出た。人の気配のない通学路を歩く。
思えば、あの日も早朝に出た。黒幕だと目星のついた紫苑へと当たるため、皆で早朝から出発した。そして、あの戦い。そして、崇春が。
あのときから、たった数日。
うつむいて歩いていたとき、不意に声をかけられた。意外な人から。
「やー……どうも。谷﨑さんも朝練ですか、ってそんなワケないですよね。僕じゃないんだから」
黒いジャージを着込み、竹刀袋を背負った男。剣道部の黒田だった。
かすみ自身はあれから特に親しくしているというわけでもない――賀来はなぜか馬が合うのか、彼と話しているのを見かけた――が。あいさつの後、連れ立って行くこととなった。
歩きながら黒田が言う。
「あーそうだ、ちょうど聞きたかったんですけど。あれ、見たんでしょ。谷﨑さんも」
「え?」
「執着から離れた世界。開いたんでしょ、悟り」
「え……」
「崇春くんの記憶、それをあの怪仏が見たとき。同じ景色を見たはずです。でしょ?」
なぜそれを知っているのか、知っていたとしてなぜそんなことを言うのか。測りかねて黙っていると、黒田は言った。
「僕も見たんです、同じ景色。巻き込まれたんです、あなたと同じに。だから」
び、と親指で自身を指す。
「悟り、開きました。僕も」
詳しく聞いてみれば。百見が【震筆写実】で崇春の記憶を大日金輪に体験させた際、それとつながっている紫苑、紡も当然それを体験した。
そして大日金輪を構成していた阿修羅と多聞天、その
「ただ、斉藤くんや品ノ川先生にも聞いてみたんですけど、そっちはそういうのなかったみたいなんですよ。あの人たちのはどうも、至寂って人が怪仏との縁を断ち切った上で回収した、ってことらしいですね」
笑って、親指で自分とかすみを交互に指す。
「そういうことで、悟り仲間ですよ僕ら」
別に嬉しくはない。
黒田は肩をすくめた。
「嬉しくもない、って顔ですけど。ま、そーですよね。僕だって別に悟りとか開きたかったワケでもないし、急に巻き込まれて、ねえ? ……でも、なんだろう」
遠くを見るような目で言う。
「あの景色、自分のいない世界の中で、何もかもがほぐれたような……解きほぐされたような気持ちだった、縛られていた何もかもから。いや、むしろ自分こそがその、縛っていたものだったみたいな……何ていうか、『結び目』? みたいな」
「結び目?」
「ほら、紐の『結び目』ってあるけど、『結び目というもの』があるわけじゃないでしょ。ただ紐がそういう形になってるだけで、ほどいたらどこにも無くなる。『自分』っていうのもそういうものかなあ、って。……僕自身も、執着やら人からの影響やら経験やら、そういう結び目をほどいていったら。『僕なんてもの』はどこにも無くなる。……実際、そうやって無くなったんだ。あのとき、僕は」
かすみはうつむいていた。
黒田の言う感覚は理解できた、ほとんどそのまま。そうだ、そのときはそうだった。執着が無い、自分が無い、自分とこの世の境目が無い。まさにその感覚だった。
それでも、今のかすみはそんな感覚とはほど遠かった。
その感覚を体験した後の今、かすみの中を占めるのは。いなくなった崇春のことだけ。
――あの戦いの後、誰もが崇春の安否を気づかった、百見に尋ねた。消え去る前に封印した崇春を、元に戻せるのかと。
百見は視線をそらすようにうつむき、首を横に振った。
悟りを開いた怪仏は消滅する。今はそれを無理やり封印したに過ぎない。封を解けば、その瞬間に崇春は消滅する、と――。
いっそう顔をうつむけるかすみを気にした風もなく、黒田は話を続けていた。
「けどですね。結び直したんです」
「……え?」
目を瞬かせるかすみに目をやることもなく、黒田は拳を握っていた。強く。
「……勝ちたい、あいつに。円次に。まあそもそも、その執着があったせいで怪仏なんて
ほほ笑んだ。
「でも、やっぱり。『自分で結んだ、その想いこそが僕自身』なんだと思うんです。だから、その執着の結び目だけは。固く固く結び直した」
黒田は両手に目を落とした。その手はまるで紐を引き、固く結び目を作ろうとしているかのように、強く握り締められていた。
「……勝ちたい。勝ってみせる、あいつに。そして――」
そこでかすみの視線に気づいたように口を開け、視線をそらして首の後ろをかいた。
「あー……いや、ごめんなさい、何か一人で……」
かすみはまだ目を瞬かせていた。
――そうか。それでも、いいのか。執着をまた、選び取っても。
視線をそらせ、話題を変えるように黒田が言う。
「そういえば、あの二人とも話したんですけど」
「あの二人?」
「東条さんと鈴下さん」
かすみの顔が正直引きつる。
「……そ、そうですか」
その二人。よりによってその二人、一連の黒幕。
あの日以降、かすみたちは彼らと関わっていない。結果として崇春の死の――限りなくそれに近い状態の――原因となった彼らと。
あるいは間違っているのかも知れない、崇春が言っていたように彼らをこそ救うべきなのかも知れない。少なくとも、もし崇春が生きていたなら、彼は真っ先に二人と話しに行っていただろう。
それでも、少なくともかすみは、彼らと向き合えてはいない。
「いや、だって悟りとか何これ、って思うじゃないです? だから、同じ体験をした人の話聞いとこうと思って。そもそも本当に同じ体験なのかも確かめたかったし」
屈託なく黒田は話していたが、そこで顔をうつむけた。
「……謝ってました、二人とも。最初から分かってた、って。ただの八つ当たり、執着するような、ましてや実行していいことじゃない、って。皆を、崇春くんを、巻き込んですまない、って」
かすみが何か言うより先に、黒田が足を止めた。真っ直ぐかすみへと向き合う。
「僕も以前、崇春くんに救われました。その意味じゃ、あの二人と同じです。……僕の場合は最終的、助けてくれたのは円次だったけど」
はにかむように視線をそらせた後、再び向き合う。
「崇春くんは。彼は、いい男でした。……お察しします」
それだけ言って、深く頭を下げ。足を止めたかすみを置いて、足早に去っていった。
そのまま立ち尽くして、どれほど経った頃か。
かすみの立つその道を、猛スピードで走ってくる車があった。小型のパトカー。
ブレーキ音も高く、かすみの真横で急停止したそれから渦生が足早に下りてくる。
「谷﨑! こんなとこにいたか、乗れ!」
かすみの腕をつかみ、強引に後部座席へと押し込める。
「ちょ、え!? 何、何ですかいったい」
「悟りを開いたにしては落ち着きが足りないね。
隣の座席でそう言ったのは百見だった。かすみの顔も見ないまま、無表情で続ける。
「谷﨑さん、急な法事だ。手伝ってくれ」