かもす仏議の四天王  ~崇春坊・怪仏退治~   作:木下望太郎

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(最終話)六ノ巻エピローグ・2  悟りの先と、彼への言葉

 

 連れていかれたのは渦生の駐在所、その奥の部屋だった。思えば最初の怪仏事件――地獄の幻に引きずり込む地蔵――のときに初めて来たが、それから何度か――肉パーティやら決戦前夜の作戦会議やらで――訪れている。それなりになじみのある場所ではあった。

 ただ、それらの想い出の中には全て、崇春の姿がある。今はいない崇春が。

 

「俺ぁ仕事がある、こっちは任せた。それと、これはあいつに」

 慌ただしげに渦生が言い、百見に何かメモを渡した。

「じゃ。頼むぞ」

 そうして一人で出ていく。外からドアの鍵がかかり、急ぐような足音が遠ざかっていった。

 

 ローテーブルの前、椅子を勧められてかすみが座った後、百見も腰を下ろした。

「さてと。何の用だ、って顔だね。仏様」

 

 かすみの眉が寄る。

「……仏?」

 

 百見は表情を変えないまま、かすみを正面から見据えた。

「『仏』すなわち『如来』、その本来の定義は神の如き上位存在などではない。『真実より、かくの如く来たれる者』、つまりは『悟りを開いた人間』。古くは釈尊(しゃくそん)、つまり仏教の開祖たるゴータマ・シッダールタその人。さらにはその後継者たる十大弟子や、後の世に教えを受け継ぎ発展させた龍樹(りゅうじゅ)達磨(だるま)、あるいは空海、最澄といった数々の僧ら。そして……あなただ。現代の仏たる谷﨑如来様」

 かすみへ向かって重々しく合掌し、神妙に頭を下げる。

 

 かすみの眉がますます寄る。

「ん……え? いや……え??」

 

 五体を地に投ずるように、音を立ててローテーブルへと突っ伏す百見。

「谷﨑様ぁぁ!! どうかこの世をお救い下され、谷﨑如来様ぁぁ! 国家安泰、五穀豊穣ぅぅ!!」

 

 伏したまま手を合わせ拝んでくる百見に、かすみは半ば反射的に叫んでいた。

「ちょっ……意味が! 意味が分かりませんからーーっっ!!」

 

 起き上がった百見は眼鏡を外した。座ったまま脚を組み、眼鏡のレンズにそっと息を吹きかける。

 内ポケットから出した布でレンズを拭いた。かすみの方を見もせずに。

「君のツッコミにしてはキレが悪いね。三十点といったところか」

 

「いや、何なんですかーーっっ!!?」

 先ほど以上の大声でかすみは突っ込んでいたが。

 

 百見は眼鏡をかけ直し、気にした風もなく話を続ける。

「そんな冗談はどうでもいい、本題に入ろう。……とはいえ、さっき言ったことも嘘ばかりじゃあない。いや、むしろだいたいの部分においては本当だ」

 

「え?」

 

 目を瞬かせるかすみの方へ、百見は身を乗り出す。一つ一つ、刻みつけるように言った。

「『仏は神霊的存在ではない』『悟りを開いた、ただの人間である』『歴史上の釈迦らがそうであり』『今の君がそれだ』」

 

「……え?」

 

 いよいよ眉根を寄せるかすみには構わず、百見は椅子に背を預ける。大きく息をついて言った。

「そもそも、仏教は――釈迦その人が唱えた原始仏教は――神の如き御仏が皆を救って下さいます、なんて話はしていない。『悟れ』『そうすれば苦しみに囚われることはない』ざっくばらんに言えばそれだけだ。そしてその理屈はこう、やり方はこう……と四諦(したい)十二因縁(じゅうにいんねん)八正道(はっしょうどう)といった教えが続くわけだが。要は『そもそもの仏教は、別に神霊的存在を崇める宗教ではなく』『人間を導くための教え、いわば哲学に近い』。それを提唱したのは悟りを開いた、ただの人間たる釈迦。要は『人間のための生き方ガイド』、この世の歩き方、ってところか」

 

 百見はそこで肩をすくめ、かぶりを振った。

「まあ、悟った者が神通力を得るとされたり、特別な救済者とみなされ崇められたり……そういう風に話を盛られるのは宗教にありがちなことだが。その辺りは正しい教えへ導くためのきっかけとしての、まさに方便と見てもいいだろう。原始仏典には『悟りの境地は神々もこれを(うらや)む』とあってね。――つまり、仏教は神の教えを伝えるものではない。奇跡を起こす力を崇めるものでもない。神々でも手の届かない『悟りの境地』を、心の在り方を伝えるもの。そういうことだ。ああ、誤解を招くようだったが、原始仏教以外を批判したいんじゃあない。上座部仏教、大乗仏教、密教も浄土教も禅も皆、結局目指すところは同じ。同じ山をそれぞれ別の方法、別の道筋で登り、同じ(いただき)を目指している――それだけだ」

 

 かすみは目を瞬かせて聞いていたが。

 なぜ百見がそんな話をし出したかは分からなかった。突然連れてきておいて、何が言いたいかは分からなかった。

 どうでもいいと、正直そう思った。あるいは崇春なら、食らいつくように聞きたがったかも知れないが。

 その、崇春がいない。

 

 変わらない調子で百見は続ける。

「なぜそんな話をしたかというと。成り行きとはいえ突然悟りなんか開いて、困惑しているんじゃあないかと思ってね。ああ、僕自身は彼の記憶を体感したわけじゃあない。悟った人――僕の祖父――からの聞きかじりに過ぎないが、一応の説明をしておきたい。……黒田さんとあの二人、東条さんらにもいずれ、話をしなきゃいけないか。ああ気が重い気が重い」

 

 気持ちはありがたい、ありがたいが。もうこの話はやめてもらおう、そう思ってかすみは口を開きかけたが。

 

 それより先に、百見は話を続けていた。

「さて、では『悟りとは何か』? たとえて言うならそれは『全ての星座を、ただの星へと還すこと』だ」

 

 別に聞きたくはなかったが、かすみは小さく首をかしげた。悟りとか仏教と、星座とが関係あるようには思えなかった。そもそも星座というものは全く別の神話体系、ギリシャ神話を由来とするものではないか。

 

「星座っていうのはあの星座だ、獅子座とか乙女座とか、ペガサス座とかオリオン座とかのね。で、星座というものは。果たして、『星座として在るためにそこに在る』ものかな?」

 

 かすみの考えを確かめようとするみたいに、目をのぞき込んで百見は続けた。

「ギリシャ神話では、神々が英雄や特別な働きをした動物なんかを天に上げ、星座として永遠に記念とした……みたいな話も多いが。しかしまず、星座は別に永遠ではない。何千年、何万年と経てば地軸の向きが変わることで、星々の見え方は変化する。驚くべきことに、常に北を指すという北極星すらそのときはもはや北にない――地軸の方向が変わり、天の北極付近から外れてしまう――。もちろん、そのときには他の星の見え方もまるで違っている。星座も今の形から崩れ、もはや獅子や天馬や英雄の形をしてはいないだろうね」

 

 百見はそこでわざとらしく首をかしげる。

「いや、そもそも見えるかい、あれが? 天馬だとか英雄に? 確かに強く光る星を結べば、形らしきものは現れるが……四角形から三本ぐらい線が飛び出てるだけじゃないか、これどこがどう天馬なんだよ? どれが足でどれが翼なんだ? オリオン座だって砂時計みたいな形から二本線が出てるだけだ、人っぽくは見えるけど別に他の英雄でもいいだろう? だいたい星座なんて、知らない人は夜空を見ても全然分からない。ただ、輝く星々が無数にあるばかりだ」

 

 百見はかぶりを振る。力を抜いて笑みを浮かべた。

「いや、別に星座や神話をけなしたいわけじゃないんだ。ただ、要は。あれは『人間が決めたものに過ぎない』『無数にある星の中から、人間が勝手に線引きしたものでしかない』『永遠不変のものではない』。さて、星座はそういうものだとして『善』とはなんだろうね? 『悪』とは?」

 

 かすみは小さく口を開けていた。驚いたからだとか、理解しかねたのではない。

 百見の言いたいことが、響くように理解できた。言葉が口からこぼれ出た。

「つまり……それも『人間の決めたことに過ぎない』――『勝手に線引きしたこと』『永遠不変のものではない』……星座の、ように」

 

 百見は唇の端を上げた。

「さすが、理解が早い。というよりも、すでに(わか)っていることだったね」

 

 立ち上がり、歩きながら話し出す。

「人間それぞれの立場、慣習や宗教、主義主張、優先するもの……様々な要素によって善、悪、やっていいこと悪いこと……様々に変わり得る。法律だって国によって時代によって違う。もし絶対の正義がこの世にあるのなら、そいつをとっとと世界唯一の法律にすれば良さそうなものだが……現実に、そうはならないようだね」

 

 小さく手振りを交えて続ける。

「そして、君は見たはずだ。自分とこの世との境目のない世界、『一元の世界』を。そこにはもはや何の基準も無い。『右』も無ければ『左』も無い。右があるからこそ左があるものだからだ。右という概念が無いのに左だけがある、そんなことが起こり得るかい? ――もちろん、無い。上も無い。下も無い。重いも無い、軽いも無い。裏も無く表も無い、美も無い、醜も無い。善も無く悪も無く、僕も無く君も無い――それらは同じ、ただの一つのものに過ぎない。比較も対照もしようが無い。全てが一つたる『一元の世界』においては」

 

 まるでクラシックの指揮をするかのように、強く手を振る。

「人間に線引きされた星座――仏教でいう『分別智(ふんべつち)』、人間の線引きした基準やルールを以て見た世界――ではなく。在るがままの星々の姿――『無分別智(むふんべつち)』を以て見た世界――。君は言葉も越え、思考も越えてそれを見た。この世の本来在るがままの姿を」

 不意に大きくため息をついた。うつむく。

「その意味において、仏教は生も、老も、病も死も越える。それらはただ、『一元の世界』の一部がわずかに変化するだけ。たとえるなら大海に跳ねた飛沫(しぶき)、それがまた大海に還るだけ。その意味において生は無く、死も無い」

 

 かすみは。

 自分の顔が、嫌な形に歪むのを感じていた。

 両の拳に、言いようのない力がこもるのを感じていた。

 どこか酔ったように手振りを加えて延々と離す百見を見ながら。

 口にできない思いが、胸に詰まった言葉が、かすみの両手を持ち上げる。

 

 やり場のない力を込めて。両の拳を、ローテーブルに叩きつけた。

「死んだで……しょうがっっ! 崇春さんは……っ!」

 気づけば、そう言ってしまっていた。

 

 正確には死とは違うのだろうが。限りなくそれに近い。少なくとも、かすみにとっては。

 あるいは、かすみがもっと強ければ。あるいは黒幕を探すために、別の選択をしていれば。あるいは紫苑と紡があんな八つ当たりを計画しなければ、あるいは紡の家庭の事情が違えばあるいは紫苑の両親――と呼ぶべきか――の選択が違えば。

 それらの要素が何か違えば、こうはならなかったのか? 

 けれどもう、どうしようもない。もう、それらは起こってしまった。

 

「そうだ」

 百見が立ち止まり、深くうなずく。

「そうだ、その怒りでいい。仏教における三毒(さんどく)、人間の持つ煩悩(ぼんのう)であり苦しみの根源ともいえる(とん)(じん)()――欲望、怒り、迷妄――。悟りを得てそれらを越えた君が、再び怒るか。……だが、それでいい。『自分自身というものなど無い』『それらは執着が取った仮の形、いわば結び目のようなものに過ぎない。執着がほどければ無くなるものだ』。それを悟った先で、『再び執着を選択する』――それでいい」

 

 また歩き出しながら続けた。

「禅宗の解釈における悟りを絵にした『十牛図』というものがある。文字どおり十枚一組、牛を探して連れ帰る人に仮託(かたく)して『悟りを得る過程』を描いたものだ。一枚目から六枚目までは何てこともない、牛を探し、見つけ、連れ帰る姿が描かれているのだが。真の悟りについて表現されているのはその先だ」

 息を吸い込み、声に力を込めた。

「第七図、『忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)』。牛を連れ帰った――悟りを得た――人はいるが、牛はどこにもいない。つまり悟りにさえも執着していない。そして第八図、『人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)』。その絵にはもはや牛も人もおらず、ただの空白――つまりは『(くう)』」

 

 それはつまり、かすみが見たあの景色、味わったあの感覚。境目の無い一元の世界。

 それを言いたいのは分かった。分かったが、かすみの頬はさらに固く震える。

――そんなことをなぜ今言うのだ、言っている場合なのか。崇春がもう帰ってこない、そんなときに。親友のこの人が。

 

 それでも百見の話は続く。

「そして第九図『返本還源(へんぽんげんげん)』、第十図『入廛垂手(にってんすいしゅ)』。これが何より重要だ、何しろそれはどんな仏典にも語られず釈迦その人も伝えなかった、『悟りのその先』。『悟った者がどう生きるべきか』その一つの回答。……九図において、完全な空白だったそこに木々が、自然が立ち現れる。つまり悟りの、一元の世界から、自他の区別あるこの世に戻ってくる。第十図においては、完全な悟りそのものであったはずの主人公が『ただの人』としてまた現れ、同じく悟りを求める別の者と出会う。つまりこれは――」

 

 かすみは食いしばった歯を剥き、立ち上がっていた。両の拳は、止めようもなく震えていた。

「だから。だから何の話ですか、こんなときに! 崇春さんが――」

 

「言い忘れていたが」

 かすみの声に怯むことなく、真顔で百見は言った。

「戻ってくるよ、あいつは。何なら、今からでも」

 

「崇春さんがもう戻ってこない、そんなときに……え?」

 かすみは。思い切り、比喩ではなくあごが痛むほど、大きく口を開けていた。

「えぇえぇぇーーーっっ!!? 戻っ、今、戻ってってそんな、嘘、そんな、聞いてない、です、けど、えっ、えっ、え?」

 

 変わらぬ表情で百見は応える。

「言ってはいなかったからね。ああ、言い忘れていたというのは嘘――」

 大きく咳払いをしてから言う。

「いや、極めて仏教的な方便だ」

 

 かすみは空気が足りないかのように――実際吸っても吸っても脳に酸素が行っている気がしない、全くしない――何度も口を開け閉めした。

「や……言……っ聞いてな……言って下さいよーー!!? 言えよ! え、ちょ、やっ、言・え・よ!!」

 最後の方はもう、百見の肩をつかんで揺さぶっていた。

 

 百見はかすみの手を取り、肩から下ろした。

「そうもいかなかったとだけは言っておこう。はっきり言って、どうなるかあの場では僕にも分からなかった。可能性の話をして、皆にぬか喜びをさせたくなかった。ただそう、可能性はあったんだ。彼がどんな怪仏かは言ったはずだね」

 

 最後の戦いのとき百見自身が言っていた。今もまだ、崇春がそうだという実感はないが。

「『善意』の怪仏……全世界の人たちを、本地とする……でしたっけ」

 

 百見は強くうなずく。

「人間の悪意も業も、尽きることはないだろうけれど。逆に、尽きると思うかい? 『善意』が」

 例の白紙本を取り出し、開いてみせる。

 そこにははっきりと、崇春が描かれていた。増長天としての武具を身にまとった崇春が。

 あのとき、百見が封じたときには、見えるか見えないかの薄い墨で描かれていたその姿が。今は黒々と、はっきりと描かれていた。

 

「怪仏たる彼を構成する『善意』。時が経てば、それは再び集まる。自明の理だ」

 

 かすみの顔は未だこわばっていた――封印された絵を見ても、崇春がそこにいるという実感はない――が。

 自分の呼吸に、声に、高まってくる体温と震えを感じた。

「じゃあ……じゃあ。今封印を解けば、崇春さんは帰ってくる――そういうことですか。そういう、ことなんですね」

 

 百見は返答せず、ただ深く頭を下げた。

「君には、感謝してもし切れない」

 

「え、っていや、私は何も……」

 

 百見は顔を上げる。

「いいや。君は彼を執着させてくれた。悟りを開き、全ての執着から離れた彼を、再びこの世に執着させてくれた。あのとき言ってくれた一言、最後に言ってくれたあの言葉で」

 

 言われてかすみも思い出す。消えゆく崇春にかけた最後の言葉、それはありがとう、でも、行かないで、でもない。

「『目立って、ますから』……って、でも、何で、あれが――」

 口に出してみれば、思い当たることがあった。

 

 多分だが、これは。『目立つ』ということは――本当に多分だが――、『崇春を繋ぎ留めるための言葉』。『人としておくための概念であり業』ではないか。

 

 四大明王らが現れる前、シバヅキとの戦いのとき。新たな技を『思い出した』崇春に、かすみは思わず同じことを言った。崇春が喜ぶ言葉、必要な言葉として、『目立ち過ぎですから』と。

 我ながら妙なタイミングで言ったものだが。百見は笑いもせず言った、『ありがとう。それでいいんだ』と、かすみに。

 そして自らも、目立ち過ぎだと崇春に声をかけた。それまで崇春の新たな技を――何かを怖れているかのように――『思い出すな』と言っていた百見、それが急に調子の良い言葉をかけていた。

 

 おそらく。崇春は危機に際し、怪仏としての秘めた力を思い出そうとし。百見はその覚醒を――崇春の消滅につながりかねないことを――怖れて『思い出すな』と言い。同じく覚醒させないために『目立っている』などと言った。そうではないか。

 

 百見は言う。

「薄々は感じているかもしれないが。『目立つこと』ことは崇春のもう一つの業。自らを構成するための業ではない、『彼を人としておくための、人と繋げておくための』もう一つの業。それが『目立つ』ことに対する崇春の執着。……こんな言い方はしたくない、したくないが、怪仏・増長天は『この世の危機において悟りを開き、強大な力を発揮し、この世を護って消滅する役割にある』……南贍部宗(なんせんぶしゅう)がそのために運用する存在。不用意に悟ることのないよう、彼はその業を――知らず知らずのうちにか――自らに課している。それを君は、再び選択させてくれた」

 

 百見の言いたいことが分かった。さっきの話で言いたかったことが。

 『十牛図』の第八図、全てが(くう)となった世界。そこから先の第九図、第十図へ、執着あるただのこの世へと、かすみは崇春を導いた。知らず知らずに。

 それが、崇春をこの世に繋ぎ留めた。だから今、帰ってこられる。

 

 あるいはかすみや黒田も、その第十図――執着を一度捨てた上で、円次へ、崇春へ、執着することを選択した――に在るのかもしれない。

 そしてまた、消えゆく前に崇春が声をかけた大日金輪。最期に紫苑と紡の存在を願った彼もまた、そうなのかも知れない。ただ、彼の場合はその上で、自らの存在には執着しなかった。

 

 百見は背を向け、再び歩き出す。閉じた本に、そ、と手をやる。

「……もちろん僕も、その言葉をかけるつもりだった。けれど君は、もっと早くもっと強く、その言葉をかけてくれた。――それがなければ、彼はあのまま消えていたかも知れない。こうして封印することすらままならずにね。そうならなかったのは、君のおかげだ。あるいは【震筆写実】によって、彼の記憶と繋がった君だからできたことか」

 

 うつむく。その手はいつのまにか、震えるほどに本を握り締めていた。

「……あいつは僕の前で一度、消滅している。僕が小さな頃、同じように。この世を護るために。そのときも、その言葉をかけたが……だめだった。消滅した。やがて一年ほどして、新たな業が寄り集まり、崇春を形作ったが……それは、新たな崇春でしかなかった。小さかった僕の知っている、幼なじみのあいつとは違った。……今度も正直、そうなってしまうと思っていた……おそらく遥か昔から、崇春が何度もそうなったように」

 

 かすみが何か言うより早く、百見はこちらに向き直る。そして深く頭を下げた。

「ありがとう。またあいつを、失わずに済んだ。二度も、失わずに。これは方便でも何でもない、そのままの意味だ……ありがとう」

 

 かすみは、何か言おうとした――何を言おうとしているのか、百見のために言うべきことは何なのか分からないままそうした――が。

 

 百見は素早く視線をそらし、眼鏡を押し上げる。さえぎるような早口で言った。

「ああそうだそうだった以前祖父が言っていたよ、参考までに君にも聞かせておこう。悟りとは『ただの人間でしかなかったものが、ようやくただの人間になること』だと。……悟ったからって、ずっと一元の世界で生きられるわけもない。僕らは『大海に散る飛沫(しぶき)一滴(ひとしずく)であり、大海と同じもの』であるかも知れない、だが『大海から離れた、ただの一滴(ひとしずく)である』こともまた現実。一元の世界を見た上で、また新たな執着を選択する。そして、生きていく。――かつて釈迦その人が悟りを得たとき、悟りの境地を人に伝えることは不可能だと考えたそうだ。だが、彼はその不可能に挑むことを選択した、自らの教えを広める道を選んだ。全ての業から離れた彼が、『善意』の業を選択したんだ。僕も崇春も、あるいは君も、その業、その選択の先にいる。つまりこれは他の例で言えば――」

 

 かすみは、何と言ってあげればいいか分からなかった。考えても、考えても分からなかった。

 それでも。今、ここで言うべき言葉だけは分かった。

「あのっ! ところでですね、崇春さんを早く、早く戻すというか、復活というか、いや何て言うのか分かりませんけど――」

 思わず身を乗り出す。

「早く! 崇春さんと会いたいです!」

 

 百見は言葉を止め、かすみの目を見たが。ゆっくりとうなずいた。

「……僕も、そうだ。僕だってそうだ。だが……すまない。元のままの彼と会えるという保証はできない」

 

「……え?」

 

 百見は目線を落とし、表情を消して続けた。

「ここに封じた彼は、あのときのままの状態でいる。つまり、悟りを開いたままで。君のおかげでいくらか繋ぎ留められたとはいえ……このまま封印を解けば、やはり彼は消滅していく」

 

 かすみは口を開けていた。言うべき言葉は、呼吸も、喉で全て詰まってしまっていた。

 

 制するように百見が片手を上げる。

「分かっている、もちろんそれでは駄目だ。方法がある、消滅させず封印を解く方法。――彼の記憶を消す」

 かすみが何か言うより先に、視線をそらせて早口で――自分自身口にしたくない、聞きたくないというかのように――百見は言う。

「広目天は『記録』の怪仏、封印した状態の怪仏に対してなら『記憶』にまで干渉できる。その力を以て塗り潰す、『悟りを開いたときの記憶』を。だがそれも完全に消し切れない可能性がある、何かの拍子に思い出す可能性が、それでは駄目だ、だから。……関連する記憶、差し当たっては『彼がこの町に来てからの記憶』。それを消す」

 

 かすみは口を開けていた。

 それでも、その口を強く引き結ぶ。そしてまた、声を上げた。

「やりましょう。それしか方法がないのなら、すぐに」

 

 ――『この人といると、不安になれない』かすみはそう思っていた、崇春といたとき。何度もそう思った。

 不安どころでは済まない危機が、思えば何度もあったはずだが。それでも、不安にはなれなかった。未知の物事を怖れるのではなく、未知のものを未知のものとしてそのまま、在りのままに受け止めることができた――まるで、悟りを開いたみたいに。

 

 だから、悟りを開いた今なら、彼の悟りを体験した今なら。

 やっぱり、不安になどなれない――在りのまま、全てを受け止めてみせる。

 

 百見は何も言わずかすみを見ていたが。その言葉を受け止めるように合掌し、頭を下げた。

「……感謝する。じゃあ、早速やろう。その前に、そうだな……彼が帰ってきたら、何て言いたい」

 

 少し考えた後、かすみは首をかしげて言った。

「……お帰りなさい? でも、崇春さんの方は、私を覚えてないんですよね……」

 

 百見は歯を見せて苦く笑う。

「いいさ、言ってやりなよ。僕もそう言いたい、お帰り、よくやった、と。あいつは自分がやったことなんか、全く覚えてないんだけどね。……そして、済まない、と。ああそうだ、渦生さんからも伝言が――」

 

 百見はポケットからメモを取り出す。渦生が出て行く前に渡していたものか。

 開いてみたそこには『車直せ』『肉パーティー、一人千円』『お帰り』。それだけが書かれていた。

 

 二人で目を見合わせ、苦笑する。

「車……そういえば、派手に壊してましたもんね」

「しかし崇春も、すぐに力を使わせるわけにはいかないだろう。ある程度日が経てばあいつの力【還元供養(かんげんくよう)】で元通り直すこともできるだろうけどね。……さて。やるか」

 

 かすみは強くうなずいた。

「はい」

 

 崇春を描いたページを開け、本をローテーブルに置く。百見はその前に向き直り、印を結んだ。

「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ――広目天、【情画顕硯(じょうがけんげん)】――【情画干渉(じょうがかんしょう)】」

 

 姿を現した広目天が、手にした筆を本へとつける。崇春を描いたページが水面のように輪郭を揺らがせた。どぷり、と音を立てて筆がページの内、崇春の内へと沈む。

 やがて引き上げた筆から、いっぱいに滴る墨を。広目天は腕を振るい、辺りへと振り()いた。部屋中、いや、その空間全体に、そしてかすみの視界にも。

 

 黒く染まった視界のうちにいくつか、墨の薄まった箇所が見えた。モニター画面のように四角く。

 それらの内では墨で描かれたように、モノクロの映像が映し出されていた。昔のニュース映像のように、画面に灰を散らしたように乱れた画像で。

 

 それらは全て、想い出だった。崇春の、彼と一緒にいたかすみたちの、想い出だった。

 ――謎の地蔵に襲われていたかすみ、そこを間一髪助けた崇春。

 ――百見と共に転校してきた崇春と、教室での再会。

 ――怪仏たる地蔵を追い、戦い。賀来とも出会い、怪仏の本地たる斉藤を救い。皆で肉パーティー。

 ――賀来と共に新たな怪仏を追い、円次と出会い。肉パーティー。

 ――さらに新たな怪仏を追い、黒幕を探し。

 ――まさに黒幕たる紫苑、紡と対峙し。

 ――四大明王との戦い、至寂の裏切り。

 ――最後の戦い、その中で悟りを開き、紫苑と紡を救った。

 

 百見がつぶやく。

「こうして見ると肉パーティーの印象、妙に強いね」

 

 かすみは笑って。それから、流れ出していた涙を拭った。

「……でも、こうして見ると。まだ短かったんですよね、崇春さんと、皆と出会ってから」

 

 百見は重くうなずく。

「……だが、かけがえのない想い出だ。そうだろう」

 

 かすみはまた涙を拭い。思い切り、笑ってみせた。

「また、素敵な想い出が作れますよ。これからも一緒なんですから。……さ、早く」

 

 百見はうなずき、印を結び直す。

「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ、オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ、オン・ビロバキシャ――」

 

 広目天が筆を(ふる)う。そのたびに墨が(ほとばし)り、崇春の記憶、そのビジョンの上に黒くかぶさった。

 さらに墨が浴びせられ、黒く黒く塗り潰され、それは辺りの闇に紛れた。まるで、初めから何も無かったかのように。

 一つ、また一つと塗り潰され、消えていく。消えていく。

 全てのビジョンが消し去られ、空間が闇に沈んだ。

 

「広目天。【返本還元(へんぽんげんげん)】」

 百見の声が静かに響くと同時、広目天が腕を振るう気配がした。

 

 全ての墨は渦を巻いて筆へと集まり、そこからさらに腕を振るう。

 筆から放たれた墨は一ヶ所で大きく長く渦を巻き、ある形を取っていく。横たわる、人影のような。

 

 気づけば。幕が開かれたように、辺りは元の部屋に戻っていた。ローテーブルの上、白紙のページを開いた本を胸に載せ、目をつむった崇春が横たわっていた。いつもの僧衣姿で。

 

 かすみは何も言えなかった。

 百見は身じろぎもしなかった。

 崇春はやがてまぶたを震わせ、瞬きをした。

「……む、むうう……?」

 

「崇春、さん……!」

 かすみは思わず声を上げたが。

 

 身を起こし、辺りを見回した崇春は眉根を寄せた。

「むう? ここはいったい……おう、百見。こちらの人はいったい?」

 

 百見はわずかに口を開け、それから、しわり、とほほ笑んだ。

 優しく言う。

「崇春。覚えていないか、斑野(まだらの)町という所に、怪仏事件の解決に向かう話。ここがそうだ。そして、そちらは――」

 

 かすみは口を開けたままでいた。

 お帰りなさい、そう言ってあげたい。けれど、今の崇春に、それは――

 

 崇春は立ち上がり、かすみの顔をのぞき込む。首をかしげた。

「むうう? はて、お(んし)……どこかで()うたかの? ……いや、すまん、わしの思い違い――」

 

 かすみは笑ってみせた。胸を張って。

「私も! ……私も、どこかで会った気が、します。だから」

 

 かけてあげたかった言葉とは違うけれど。今ここで全身全霊、かけてあげたい言葉はこれだった。

「こう言ったらいいんですよ。――また、会えましたね」

 

 崇春はほほ笑み、うなずいた。

「おう! また会えたのう!」

 

「はい! また会えました! また!」

 かすみは崇春の手を取った。

 目をそらさず笑った。

 顔中で泣きながら、体中で笑った。

 

 ――全ては、それでよかった。

 

 

 

 

(了)

 

 

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