大学生楽玲同棲してないユニバース
楽郎くんの家にある、正方形の小さなテーブルの前で。椅子に向かい合って座る私と彼は、静かに手を合わせた。
「「いただきます」」
食前の挨拶を済ませたら、細長い和皿の上に綺麗に盛り付けられた、一口大の刺身を箸で摘む。桜鯛の切身は脂がのって、照明を反射して輝いているようにすら見えた。
少しだけ醤油をつけ口に含むと、瑞々しい身の食感と程よい脂の甘味が蕩けるように口の中に広がっていく。新鮮なお魚、それも旬を迎えた真鯛はただそれだけでほっぺたが落ちそうなくらいに美味しいのだけれど、眼の前に楽郎くんを迎えながらだとそこに幸せの味が上乗せされる。
感動的なまでの美味しさに思わず目を見張り、楽郎くんを見る。彼はそんな私を穏やかな眼差しで見つめていて、私は急に恥ずかしくなって俯いてしまった。
目を合わせられないまま、私は率直な感想を述べる。
「こ、これ。美味しい、です……!」
「ならよかった。急に送りつけられてどうしようかと思ったけど、玲さんが喜んでくれたなら呼んだ甲斐はあったかな」
楽郎くんは笑いながらそう言って、二切れ目を口に運ぶ。私は貴重な機会をくれた仙次さんに心から感謝した。
大学進学を機に楽郎くんは一人暮らしを初めた。そんな彼に仙次さんは時折、自分が釣った魚の切身を――小さい魚は丸々一尾のパターンもある――送ってくる。
そういう時はほぼ決まって、楽郎くんは私と二人で食べようとする。一人で食べても良いが、折角の美味しいお魚は二人で食べたほうがもっと美味しい、と。
家族からの贈り物を、大切に美味しく戴こうとする姿勢も。それで私を呼んでくれることも。彼の考えの全てが愛おしくて、この時間は私の至福のひと時の一つになっていた。
「んぐ。っとそうだ、無くならない内に出しておかないと」
急に席を立った楽郎くんは、キッチンの陰で取り出した一升瓶と、二人分のグラスをテーブルの上に持ってきた。
「日本酒、ですか?」
「うん。今回は晩酌セットみたい。これで慣らして今度帰った時に付き合えってとこかね」
「なるほど……」
どうやら仙次さんは魚だけでなくそれに合うお酒まで送ってきたらしい。その心遣いは嬉しいけれど、一人暮らしの大学生に一升瓶は荷が重いのではないだろうか。
そのまま一人でグラスに注ごうとした楽郎くんを見て、私は慌てて席を立った。
「あ、ま、わ、私が! お酌します!」
「え、そう? じゃあ……お願いしようかな」
私は緊張からくる身体の震えを抑え込みつつ、両手で持った一升瓶を楽郎くんが持ち上げたグラスに向けて慎重に傾ける。小気味よい音を立てながら、清く透き通った液体が注がれていく。
片手に納まる大きさのグラスの、六割程までで切り上げた。
「こ、このくらいで如何でしょうか……」
「ありがと。じゃ、玲さんの分は俺がやるね」
「そ、そんな! 私はお呼ばれした側ですし……」
「そういう堅苦しい場じゃないって。それに、俺がそうしたいの」
「で、では。お言葉に甘えて……」
私は自分の席に戻り、少し掲げるようにグラスを両手で持つ。そこへ、楽郎くんのお酒が注がれていく。私と同じくらいの量を注ぎ込んだ後、楽郎くんは一升瓶を下げた。
私と楽郎くんは、改めてグラスを片手で持ち直して。
「「乾杯」」
グラスの口同士が軽く当たり、楽器のような涼やかな音色が部屋に広がった。
口元に寄せ、まずは一度香りを楽しんでから、くいと傾ける。舌の上を日本酒が滑り、軽やかな果実の香りが鼻腔へ抜けていく。アルコール特有の喉の奥が少し焼けるような感覚と、同時に口の中に少し残っていた脂の気配がさっぱりと流れていく爽やかさが身体を包んだ。
「お、うまい」
「で、ですよね! フルーティな香りがお刺身に合います!」
どうやらこのお酒は大分良い代物らしい。どこまでも澄んだ味わいはまるで一陣の風のように、香りだけを余韻に残して胃の中に消えていく。
私と楽郎くんはしばらく鯛と日本酒を楽しみながら、とりとめのない話題に花を咲かせた。今日大学で何があったとか、楽郎くんが最近遊んだゲームの話とか。大学でも話してはいるけれど、腰を落ち着け時間を気にせず話し合うとまた違う楽しみがあった。
話の合間につまむように食べていたお刺身がようやく無くなる頃。荷が重いと感じていた一升瓶は二人で飲むと早いもので、いつの間にか殆ど空になってしまっていた。
「楽郎くん」
「………なに? 玲さん」
「最後のお刺身、食べますか?」
「………食べる」
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
一切れ残していた刺身を、自分のお皿ごと楽郎くんの前に突き出す。楽郎くんは半ば条件反射めいて、すこし緩慢な動きで刺身を食べて日本酒で流し込んだ。私は、そんな彼を正面から眺める。
外でお酒を飲む時の楽郎くんは、場の雰囲気に合わせたがるのかテンションが上がって饒舌になるけれど、こういう場所での酔った楽郎くんは寧ろ静かになる。それは、私と二人だけの時にしか見せない彼の姿。この世で唯一私だけが知っている、楽郎くんの酔い姿。
そこに優越感を覚えてしまうのは我ながら悪い性だと思うが、それを差し引いてもこのときの楽郎くんは貴重で、これまた魅力的なのだから。
楽郎くんはグラスを小さく傾け、少しずつ時間をかけて味わうように、日本酒を口に含む。少し蕩けた瞳は潤んで揺れて、頬は僅かに上気し赤みが差し、濡れた唇は妖しげに艶めく。
普段の快活さや真剣さが鳴りを潜めた物静かな態度のギャップは、私の胸を切なく締め付ける。心臓が静かに鼓動を早めて、愛情が胸の内からとめどなく溢れてきてしまう。
彼のそんな姿はいつまでも、本当にいつまでも見ていられる。今この時しか拝めない彼の貌を目に焼き付け、そしてまた普段の姿に惚れ直す。永遠に積み重なる愛情の連鎖はいったいどこまで続くのか。楽郎くんはどこまで、私を惚れさせれば気が済むのだろうか。
そんな事を思いながら楽郎くんを見つめていると、不意に楽郎くんが壁掛け時計を見上げた。釣られて私も見ると、なんともう日付が変わる頃合いだった。時間の事をすっかり忘れて楽しんでしまっていたらしい。
実家には、楽郎くんの家で夕飯をご馳走になる旨を伝えてある。帰る頃にまた連絡をすれば良いと思っていたが、これでは。
私と同じ事を考えているのか、楽郎くんが緩やかにこちらを見る。細めて流した目を、こちらの意図を問うような目を向けて、楽郎くんは―――色気たっぷりに微笑んだ。
「………泊まってく?」
普段同棲系で書いてますが、こういう下りができるので同棲してないのもアリだなと思う次第。