何か、違和感がある。
レースも半分を過ぎたところで、直感がそう囁いた。
不調の兆し、というわけではない。脚も頭も皐月賞までと同様、いやそれ以上に調子が良い。日本ダービーという大舞台を走るには、十分すぎるコンディション。
レース前にトレーナー君と決めた、向こう正面から好位につき直線で残りを交わす、好位抜け出しの策もこの調子であれば問題なく完遂できるだろう。
「……そろそろだな」
レースペースも想定を逸するものではなく、全てが想定通り。まるで勝つ為の道が示されているかのような、完璧な展開。
しかし、違和感は消えることなく思考の端をチラつき続けている。盲点や死角といった敗北の手掛かりとは異なるなにか。より本質、本能に近いなにかを見落とし、失念しているのではないかという疑念が靄となって片隅にわだかまる。
だが、例えそれが何であったとしても、今の状況ならば負ける気はしない。この脚であれば、必ずやこのレースを──。
作戦通りの展開、作戦通りのタイミング。多くのウマ娘の夢たる優駿の栄光に向け、進出を図る一歩目を踏み込む──。
ここが、答えか?
──その脚を、何かが掴んだ。
同時に感じる息が詰まるような重圧感に、踏み込んだ脚の力が霧散していく。
重圧の主は他のウマ娘でも、ましては観客席の誰かでもない。過去のどこかにさえ、二の足を踏ませ心胆を寒からしめるようなプレッシャーを受けたことは無い。そんなものを感じさせるのはモノがあるとすれば、心当たりは一つ。――私の奥にある私自身、シンボリルドルフという存在の本質そのもの。
本来私を昂らせる強者の重圧が、他ならぬ私を縛るこの状況がその証左ではないか。
ただ、謎の問いかけと共に私を威圧した理由が分からない。分からない――が、先ほどまでの漠然とした疑念はより具体に、この答えを踏みとどまらせるに足る重要な要素を拾い損ねている感覚へと変化していく。
スパートのタイミングを逸し、前から七、八番手に留まる大本命の姿に、異変を察した観客たちがざわめきはじめる。
その雑音を耳障りに感じながらも、私の意識はレースの外側、自身の内側に在った。第三コーナーを抜け、最終コーナーに向かう最中もなお、謎の声の真意を探り続ける。
答えとは何か。私は何を求めているのか。違和感の正体。チリチリと、加速と没入を進める思考が火花を散らす。
──それが、己が限界に撃ち込んだ罅であることには、まだ気付かない。
◆◆◆
「君は、君自身がどうすれば満たされるのか、分からないように見える」
控えめに、されど確証があるのだろう声色で伝えられたその推察は、私にとって天啓のようで。
──トレーナー君と担当契約を結ぶ前、何度かスカウトを受けたことがある。トゥインクル・シリーズは、トレーナー契約を結んでいる必要があり、それ故にスカウトというのはウマ娘にとって、願ってもない機会、千載一遇のチャンスと言える。
だが、スカウトしようとするトレーナー、その口説き文句として三冠や日本一といった目標が提示される中で、どこかソレをどうしようもなくつまらないモノだと感じる自分がいた。
故に私はスカウトを全て断り、練習場を走り続けた。己の脚を鍛え、時折挑まれる模擬レースにて、幾人もの競走相手を倒す。重賞ウィナーを、時にはG1ウマ娘すらも。その繰り返しの中で私の評価は『理想の高い生意気なデビュー前ウマ娘』から、『模擬レースの王』に変化していった。実力はあれど大舞台に出る勇気のない、練習試合の王様。
望む景色が異なっていただけのことをこうも悪し様に捉えるのか、と呆れながらも、私は走り続ける。
走り、走り、倒し、そしてまた走り。幾つかの季節を駆け抜ける中で、私は屍の山を築いていった。
「いつもここで走ってるんだな」
彼が話しかけてきたのは、そんな日々にスカウトも顔を見せなくなった頃のことであった。
中央トレーナーの免許を取って日が浅く、サブトレーナーとして走り回っていた(私の事情も知らなかったのも、話を聞く暇がない程忙しかったからだそうだ)最中、いつも走っているのを見て気になったと話した彼は、その後も合間を見ては練習場へ来ていた。
話すこともあれば、互いに互いを認識するに留めることもあり。こちらから助言を求めることもあれば、彼から指摘を受けることもあった。
実力は新人に区分されるトレーナーのそれとは思えないほどであり、指導というほどでもないアドバイスを受けた程度にもかかわらず、私のタイムは一人で走っていた時期に対して明らかに良くなっていた。
ただ、それ故に彼に対する感心は、少しずつ疑問へと変わっていく。彼ほどのトレーナーが、何故誰の担当にも就いていないのだろうか。
とはいえ、それを聞けるほどの関係性という訳でも無く、どうしても聞く理由がある訳でも無い為、その疑問を口にすることの無いまま、彼との不思議な練習関係は続いていた。
──彼が他のウマ娘の担当を断り続けていたことなど、知るよしもないままに。
その話を聞いたのは、いつものように練習場へ向かうべく廊下を歩いている最中であった。
『なんで私のトレーナーになってくれないんですか!』
近くの教室から聞こえて来る悲痛な叫び。啜り泣きながらも懇願するその声は、おおよそ他人に聞いて欲しいものであるはずがない。
ましてや、好き好んでスカウトを断っている私など、最も聞く権利の無いウマ娘の一人であろう。
出来るだけ自然に、かつ声の主に勘付かれぬよう気配を消して通り過ぎる。幸い窓からこちらが見える角度にはいなかったようで、後は知らぬ存ぜぬを通すだけ、と安堵の息を漏らすかどうかという瞬間。
「──ごめん」
覚えのある声を、同じ方向から聞いてしまった。
「僕は、君を選べない」
聞かないでおくことが正解であろうに、私は聞き耳を立ててしまう。
彼の言葉は穏やかなれど、真意は明確な拒絶の意思表示。有耶無耶にしないのは誠実さの表れだろうが、彼を求めていた彼女が、その言葉を冷静に受け止められるとは限らない。
「ごめんなさい……でも、許せません。私の手を取るつもりがなかったなら、最初から……私にアドバイスなんか……っ、二度と、二度と私の前に、顔を出さないでください!」
そう吐き捨てて、教室から飛び出す少女。とっさに物陰に隠れた私のすぐそばを、綺麗な流星が目を引く栗毛のウマ娘が走り去っていった。
「君は、誰かの担当になったりはしないのか」
練習を終え、引き上げる支度をしながらポツリとつぶやく。少しの躊躇か、思っていた程の声量で問いかけることは出来なかったが、彼には届いていたらしく控えめな笑みを浮かべていた。
「中々機会に恵まれないからね。新人トレーナーなんて、自分の人生を託すには博打がすぎるだろう」
ひらひらと手を振りながらおどけてみせるトレーナー。その態度が嘘である事を、誰の注目も浴びていないと主張する彼のその手が、その実引く手数多であることを、私は遂に知ってしまった。
「ふむ、それにしては、随分と情熱的なアピールを受けていたようだったが」
「あー……、聞かれてたのか」
「……私の教室からここを最短距離で結ぶと、丁度あの部屋の横を通るんだ。悪いとは思っているし、話の相手が君じゃなければ、素通りしていたさ」
普段から冷静さと余裕を失うことのない彼の表情が、初めて大きく崩れる。
「……彼女には、非は無いんだ。そこだけは勘違いしないでくれ」
「『彼女は悪くない』、『なら、君が悪いじゃあないか』。そう非難しそうなほど、君から見える私は蒙昧かい?」
誤魔化されたことに、私自身が思いの外気を悪くしていたらしく、放つ言葉に棘が混ざってしまう。非礼だと咎められても文句を言えない発言に、しかし彼は怒る素振りひとつ見せず断言してみせる。
「そんな事はない」
「……すまない。少し、質が悪い言葉だった」
だが――と、言葉を続ける。
「君がなんで誰の担当にもならないのか。その理由は前々から気になっていた。君が良ければ、教えてはくれないだろうか」
――落ち着いて整理してみれば、その理由にも気付けたのだろう。この時の私はやはり、冷静さを欠いていた。
「君だ」
「……なに?」
「君が、僕が誰の担当にもなっていない理由だよ」
彼が告げる予想外の理由に、今度はこちらが固まる番であった。
──誰もいなくなった時から、その可能性を考えることなんて無かったが故に。
「走りの質は随一なのに、いつもたった一人で練習場を駆けている、その事情を知らない以上、言うわけにはいかなかった。けれど、──僕は君を担当したい。君のトレーナーとして、君の輝く様を見たいんだ」
いや、しかし――と、反射的に否定材料を引き出そうとしてしまう。
「だが……だが、君ほど優秀なトレーナーなら、他にも素質のあるウマ娘を選べるだろう?」
少しの間助言を受けただけではあるが、彼の実力は確かなものだ。それこそ先ほどの栗毛のウマ娘だって、彼の指導があればクラシックで勝ち負けができる位の素質はあった様に見える。
「選ぶ……? いやいや、それこそ選ぶなんて話じゃないだろう」
その疑問を、彼は考えるまでもないと否定する。
「その、心は?」
「僕の目には、君が一等高く見える。デビュー前の娘たちだけじゃない。これまで会った、どんなウマ娘の中でもね」
「……目標もない、模擬レースの王様がかい?」
そりゃ大した問題じゃないだろう。と笑う。
「目標は夢の中継地点だろう。君が見失っているのは夢か……あるいは、欲じゃないかな」
──君は、君自身がどうすれば満たされるのか、分からないように見える。
すとん。と彼の言葉が腑に落ちる。
私は自分の満たし方を知らない。どれだけ走ろうと、どれだけの目標を見せられようと、それが己を満たすモノだと思えない。
手段と目的の逆転など話にもならない、目的の消失。到達点も見定めないままどんな過程を提示されたところで、心躍らないのは当然だろう。
「確かに、私には夢と言えるものはない。これまで受けた幾つかのスカウトで、私に託すべく示された夢のいずれも、私にとって心の動くものでは無かった」
そんなつまらないウマ娘に、一体何が成せる。俯き、そう吐き捨てた。
他人より走るのが巧い自覚はある。しかし、それだけなのだ。夢の一つも持てない競争者に、意味などあるものか。
そんな思考を遮るように、肩に手を添えられる。反射的に前を向いた私の眼に映ったのは、こちらを向いて、私をじっと見据える新人トレーナーの双眸であった。
「──そうじゃない。僕はつまらないなんて思わない」
咄嗟に顔を背けようとする私を、彼の言葉が縛る。
「君は、自分の夢が見えなくなっているだけなんだ。君自身の中にはきっと、僕が想像もできない程の夢が深く刻まれている」
本当に夢も何もないなら、ずっと走り続けることだって、走りを見るだけで人の──僕の心を躍らせることだって、できやしない。そう彼は言って。
「僕は、そのまだ見ぬ夢が見たい。そしてその夢を、叶えたい」
紡がれた言の葉と共に、彼の眼が私の眼を撃ち抜く。真っ直ぐ、真摯なその眼差しは、先ほどまでの言葉に嘘が無いことを雄弁に語っていた。
彼は本当に、私が夢を無くしていないと信じ、本当に私の走りに魅入られたのだろう。
その思いを反芻していく内にいつしか、私の心の奥底で揺らめくモノを感じていた。
──私の夢は、本当にあるのではないか。小さく灯ったこれは、夢の一欠片ではないか。
「……私は」
その可能性を信じて良いのか分からずに言い淀む。柄にもなく言葉に詰まりながら、彼へと問いかける。
「私は、満たされるような答えも、夢も目標も無い。……だが、何かが心の奥で揺らめいているんだ。
だから、私は挑みたい。本当に夢なんてないのかもしれないし、在ったとしても君の夢とは重ならないかもしれないが、私は私の答えを追い続けたい」
彼の眼を、今度はこちらから射抜く。彼は驚いた、もしくは慄いたように息を呑み、目を閉じてゆっくりと息を吐く。
もう一度目を開いて見えた彼の瞳は、私と同じ熱に浮かされているように見えた。
「ルドルフ。君の夢は君のモノだ。僕の夢を押し付けるものじゃあない」
だからこそ、と彼は手を差し伸べる。カッコつけたような、ただ思いを伝えただけかのような言葉に苦笑しつつも、その手を取る。
「君が満たされる答えが見つかるまで、僕らは挑戦し続けようか」
「……そう、だな。いつか私を満たせるものが、答えが見つかる時を、隣で見ていてくれ」
思い出話はここで終わり。
未だ夢見えぬ私よ。もう一度問う。
ここが、答えか。
◆◆◆
追憶は終わり、現実に意識が戻る。レースは最終コーナーを抜け、いよいよ最終直線という場面。
最後の追い比べの前に、答えるべき問いにけりを付ける。
「ここが答え、か」
――確かに、少々戯れ言が過ぎた。
このレースを確実に勝利する道。それは多くの研究と歴史を以て導かれた集大成であることに違いはなく、その道を進むに足る能力を持つこと自体が優れたウマ娘である証明であることも確か。
されど、その多くの先人によって踏み固められた道を通ることは、即ちダービーを目的地、あるいは終着点と見做すも同義なのだ。
それが答えかと問われれば――答えは、否。
それが答えであるはずも、そんな答えで満たされるはずもない。第一これで満たされる己など、私自身が願い下げだ。
舞台に飲まれ答えを見誤りかけるなど、誰一人として許さないだろう。──それこそ、シンボリルドルフという名、その魂すらも。
――さあ、辿り着け。
ダービーウマ娘の座でも、世代最強でも、日本最強の名でさえ、私を満たすには至らないはずだ。
「──まだ、足りない」
私のただ一つ欲しいもの。唯一にして最大の欲。
己の最奥、根底へ、深く深く潜る。莫迦らしいと投げ捨てながらも、大切に抱え込んだ
──最深に、手を掛ける。
「
ぽつりとこぼれた願望は、無邪気な稚児のようで。
己の欲望でありながら、分かるわけがあるかと呆れ果てる。
されど、膨大すぎるが故に見えなかった欲の輪郭は、極限の状況下にて遂に全貌を晒した。
あらゆる強者、あらゆる歴史──その全てを。
皇帝の名で喰らい、塗り替える大業。
「これが、答えだ……っ!」
ただ一つの全てをこの手に収める、荒唐無稽な夢物語こそ、私の答えであり、誰一人並ばせることのない私だけの頂なのだ。
はっきりと
限界に打ち込んだ罅が稲妻の様に広がり、その奥の何かを垣間見た。
最終直線残り200m、前には三人。
向こう正面、次の脚を踏み込まなかった時点で、"道"は既に潰えている。
――それが、どうした。
脚はまだ残っている。獲物は既に捉えている。
挑戦はもう、目の前にある。
沸き立つ衝動のままに自然と笑みが浮かぶ。末脚は土を抉り、地を蹴り抜いていく。
身体は雷轟のごとく空間を割き、意識は
我が成すは
天馬を墜とし、怪物を伏せ。完璧を崩し、神を討つ。
"前人未到"に、元より道などあるものか。
なればこそ。
「道は自ら──切り拓け!」
勇往邁進。
道なき道へ、限界の奥へ。
挑戦せよ、没頭せよ。
優駿の冠なぞ、天下無双の足掛かりに過ぎないのだから──!
レース後イベントとジャパンカップ、有馬記念はもしかしたら書くかも。
領域に入ったルドルフを見て領域の手がかりを掴むウマ娘という幻覚。