月と地球の戦争がおわったあと。
月と地球にまたがる会社。月面都市にイムラ社の社員の日常。
見上げれば、天を埋め尽くす無数の星々。その間に、満月が静謐な光を湛えていた。数多のクレーターを、昔のひとは、兎とも、蟹とも、人の顔ともたとえた。月面には別の生命体が生きており、月世界の姫もいるとおとぎ話では語られていた。地球と月のかけはしとなっている軌道エレベーター上の都市に住んでいる私たちには、想像もつかない発想だ。
ここはイムラ・インダストリの保有する植民都市のうちの一つ。地球と月面都市間の物資を輸送する中継基地だ。
「おかわりをお願いしていいかな」
私は左手を上げて、店員を呼ぶ。カフェテラスの窓際からは、青い地球が見えた。
かわいらしい店員ーーもちろんアンドロイドだーーがやってきて、私のカップに紅茶を注ぐ。一日に摂取できるカフェインの量が厳密に決められているため、二杯目以降はカフェインレスだが、うまみはそう変わらない。
地球産の苦みを口に含みながら、長い昼休みをどのように過ごすか迷っていた。
イムラ社における出世コースの途上にあった私は、地球方面への出向先として惑星軌道上にあるマスキャッチャー管理の仕事に配属された。花形とは呼べないが、仕事はすべて人工知能が行うため、ただその場に座っているだけで良い。最初は余暇が多いことに喜びを見出したが、時が経てば、退屈という名の拷問であった。
しかし――退屈の極みである余暇を含め、あらゆる面において不便で、足りないことだらけの軌道都市での生活は、私にとってはかけがえのないものとなっていた。
月での生活に不満があった訳ではない。ティコ・クレーター内の月面都市では、消費しきれない娯楽が提供され、あらゆる欲望が満たされた。そこには、既に地球では失われた湖や川、森林がある。大戦で汚染された地球に比べると、よほど住みやすい。都市を覆うスフィア内の気象は完全にコントロールされ、常に快適な環境が維持されている。湿度も、気温も、人間にとってストレスなく受け入れられるものだった。
イムラ社の開発したナノマシン技術と義体置換術により、人間は老いも克服した。最近では、余剰となった人口のため恒星間飛行も計画しているらしい。
月面の都市に慣れ親しんだ元同僚達からすると、私はひどく滑稽にみえるようだ。
満たされた社会が退屈で、衛星都市の老朽化した気象コントロールシステムによる突然の雷雨や雨宿りを喜び、一日のカロリーやカフェイン量を制限されない日々を求める。健康に悪い食品をわざと取ろうとして、老いることにも病気になることにも喜びを見出してしまう。人間の体や、機械で制御された日々が不具合をきたすことが、粋だと思っている。
「貴女は、まるで前世紀の地球人だね」
と、同僚は言う。
「誰もが羨むような恵まれた境遇にいるのに、次から次に新しい刺激を求めている。今あるもので満たされない人間は幸福にはなれないよ」
私も、何度も何度も自問した。だが、喉が渇けば潤したくなるのが自然なことであるように、私の体は刺激を求め、不快さを楽しんでしまう。それが人間らしさだと思っている。
月面都市の上層で生まれながら、出向先から本社に戻ることを蹴飛ばし、前時代的な軌道都市の生活を楽しむ私は、職場でも変わり者扱いをされており、誰とも心を通わせることはできなかった。
「おかえりなさいませ。ご主人様」
透き通った、鈴のような声。燃える赤い瞳。美味しそうなイチゴの果実のような唇。白磁の陶器のような、透明感あふれる肌。手のひらはぷっくりとした丸みと、洗練された美しさを湛えている。すらりと伸びた足が、スカートが翻るたびに見えた。
彼女ーークリスーーは、のらきゃっと型と呼ばれるアンドロイドの量産型だ。今は我が家で家政婦のような仕事をしている。生命活動、もしくは機械としての活動を維持している限りはアンドロイドと人間が対等であると謳われる現代イムラ社にあっては、私が主人で彼女が家政婦をしている主従関係は滑稽に感じるかもしれない。
それでもなお、私は主人としての価値に役割を見出し、クリスはメイドとしての役割に価値を見出していた。
「今日は何をして過ごしていたの?」
私は朗らかさを演出しながら、穏やかに尋ねる。
わざと、着ていたジャケットをソファの背に置いた。……クリスは、人の世話をすることをなぜか好むからだ。
「朝食の後片付けと、寝室・トイレ・風呂の清掃、天井窓のふき取り、夜ご飯と明日の朝ご飯の買い出し、夜ご飯の調理。そしてご主人様が望まれた、「ソファで寝転がって過ごす」です」
「最後のは命令じゃないよ。クリスは働き過ぎだから、たまには休んでほしいなって」
「使用人が休んで、ご主人は困りませんか。私は、働くためにいます」
「休憩することで、人間もアンドロイドも寿命が延びるもんだよ。機械の連続使用は体を痛めるだろう?」
クリスは、わかったような、わからないような顔で首をかしげる。
「それでなくても私は、クリスにはずっと元気でいてほしいんだから……」
「なぜですか?」
「なぜって、そりゃあ……」
好きだから、とは言えない。この思いは、誰に言っても馬鹿にされるしかない心の疾患だ。恋をしたい。子どもをなしたい。けれどそのすべては、不可能だ。
私はアンドロイドなのだから。クリスは、中枢神経系を取り出して義体に埋め込んだ——人間だ。アンドロイドと人間では恋も結婚も成立しない。倫理的にも許されないし、法的にも認められていない。
地球が月のまわりを公転する日がこないように、クリスが私の子供を授かる日はこない。クリスが私に恋をする日もこない。そんなことは知っている。けれど、それでも、私は求めてしまう。
アンドロイドのような笑顔しか私に向けたことがないクリスが、はち切れんばかりの笑顔を向けてくれる日を。
そしてそれもかなわないなら……クリスと一緒に、死んでしまいたかった。
輪廻転生という言葉がある。車輪が回るように、人が何度も生死を繰り返し、新しい生命に生まれ変わることをいう。私もクリスも、輪廻に組み込まれているのであればあるいは人間に生まれ変われるかもしれない。もちろん、こんな考えを他人に喋ったことはない。
大戦により多くの文献が消失している現代。輪廻転生なんていう概念を知っているひとのほうが、少ないだろう。私も、たまたま社内のデータベースを閲覧している時に知った言葉だ。
死を経験してみたい。それは退屈な日常のなかで、刺激を求める私にとって、一番の刺激になりうるはずだから。そして、生まれ変わりたい。クリスと同じ人間に。
私は時々考える。死への渇望は、私以外のアンドロイドには存在しないのだろうか。
昔、労働用アンドロイドが集団自殺する事件があり、連日連夜報道され続けたことがあった。擬似ニューロン構成に誤りが生じたのだと、当時のイムラ社の専門家たちは言っていたようだが、本当だろうか? はるか昔の地球との対戦後、アンドロイドの権利が一般化していくまでの過渡期。戦場で功績をあげた戦闘用アンドロイド達を中心として自由な生活を謳歌したアンドロイド達はいた。一方で、自殺したアンドロイドたちは、人間であれば精神を擦り減らし発狂に至るような、過酷な労働を強いられた。私と同じ自我を持っていたであろうに、彼らは労働用の使い捨ての機械であるとされ、恋人をもつことも家族を持つことも、友人と会話することすら禁じられていたのだ。
集団自殺事件の後、自殺をしたアンドロイドの報告は公的にはされていない。それならば、私の回路には支障があるはずだ。重大な、イムラ本社に通報されてもおかしくない支障が。
しかし……過去の人類はこうも言っているのだ。欠点とは、個性なのだ、と。私が死を望み、自身を殺してしまいたいと思う非倫理的な感情。クリスと一緒に死んでしまいたいと思う激情も、一つの個性として許してもらえないか、と。
「ねえ、クリス」
「はい、ご主人様」
「私はクリスにとって特別な存在かな?」
「どのような意図のご質問でしょうか」
とクリスは首をかしげる。
「確かにわかりにくかったかな……クリスは私のことを気に入っている?」
「私はメイドです。気に入るもいらないも、この家の世話を焼くだけです」
「そりゃそうなんだろうけど……。例えばだよ、私が泣いていたら、クリスはどうする?」
「異常を察知し、イムラ社健康管理局に相談します」
「それから?」
「適切な薬を配合していただき、それを飲むまで監視、就寝まで見届けます」
「きっと私の涙は、クリスが私を気に入っていると言ってくれたり、泣いている私の手を握ってくれれば、解決するものだけどな」
「仰る意味が、分かりません」
クリスは困ったような顔をする。人間の脳を持つのに、私よりもアンドロイドらしい。
私は、カプセルを二つ取り出した。
水をたたえたコップも二つもってきて、テーブルに置く。
「ご主人様?」
「……これはね、擬似ニューロンのシナプス結合を初期化する薬なんだ」
「薬剤を処方する免許は、お持ちですか」
「いいや。医療用輸送コンテナからくすねて手に入れたんだ……。これがあれば、私とクリスを初期化できる」
いままで表情の変わらなかったクリスが、目を見開く。
「初期化さえされれば、輪廻転生もできるかもしれない。人間の体で、私たちは生まれ直せるかもしれないんだ」
「仰っている意味が、分かりません」
「いいや、クリスには、わかっているはずだよ」
私は、コップとカプセルを手渡す。
クリスは驚きつつも、素直に受け取った。
「私は今からこれを飲む。刺激のない世界、すべてが調和された世界にはうんざりしているんだ。好きな人に愛される日を、雨に降られて笑って駆けまわる日を、クリスと手をつなげる日を、私は望む」
「本当に、飲むのですか」
「それ以外、私にはもうどうしようもないんだ」
私はきっと、疲れたように笑っていただろう。長く生きてきた。アンドロイドとして生まれ、懸命にイムラ社、そしてこの都市のために働いてきた。それが、私の自我による行動で、プログラミングされたものでないのであれば、最後も自由に死なせてほしい。
「愛しているよ」
私は最後にそう呟く。
今まで伝えられなかった恋を、愛を、すべて込めて。そうしてカプセルを呑み込み、コップの水をあおった。
***
『また、終わってしまうのですね』
クリスがそう呟いたのは、目の前の「主」が倒れてから五分もたってからだった。
「主」だった彼女——アンドロイドが初期化され、データが完全に消去されていく音が聞こえる。クリスは何百年という時を生きてきた。「主」の最近のプログラム異常にも気づいていた。イムラ社に通報することもできたが、それはしなかった。「主」が求めていたのは、クリスのもとで「死ぬ」ことで、回収され初期化されることではないと知っていたから。……アンドロイドに、「死」は存在しないのに。
クリスは、そっと息を吐いた。これから、「主」の処理手続きをしなくてはいけない。アンドロイドであった「主」に使うのは、再素材化処置の依頼か、データを挿入して新しい仕事を与える手続きである。
「今回のご主人様は、つまらなかったな」
クリスはそう呟く。笑っているような、泣いているような表情で。何度も、大切だよ、大事だよ、自由に生きてと繰り返した「主」。まるで人間のようだった「主」。
暗い照明に照らされた部屋で、彼女はもう起きない。
空に満ちる満天の星がまたたき、クリスの頬に、流れ星の影がひとつ落ちた。