原作者様に届くか分かりませんが、リゼロ連載十周年、おめでとうございます!
ツイッターでなにやらファンの方々が準備されていて、衝動的に書きました。十周年記念ということで、スバルが異世界に召喚されてから十年後のお話です。今回は本編分岐ルートというより、あの『胡蝶之夢』の拡張版だと思ってもらえれば幸いです。

1 / 1
Re:ゼロから始めるための異世界生活

 ──これは本気でマズイことになった。

 

 途方に暮れる、とはまさにこのことだ。一生関わりはないだろうと高をくくっていた一文無しという肩書きが、まさか現実となって訪れるとは。

 ただ、厳密にいうならば一文無しではない。そこらへんのレストレンで食事をし、帰り際に寄ったデパートで宝くじを当て、翌日家族揃って高級寿司屋に行けるくらいの余裕はある。違った。それは金運だ。

 しかしながらそれほどの金運を以てしても、今のこの状況を打破することは、ましてや家族団欒の寿司パーティーを開くことなど不可能に近かった。

 

「うへぇ。天下の諭吉が通じないのかよ。どうなってんだこれ」

 

 目の前にあるのは果物屋だ。赤く熟したリンゴ一つ買おうとしたのだが、なぜか千円札どころか一万円札すら相手にしてもらえなかった。確かに果物屋のおっちゃんは外国人っぽい風貌をしていたし、紙幣の価値がずれているのかもしれない。

 しかし諭吉一枚でリンゴ一個買えないとなっては、円安どころの騒ぎではない。空前絶後のインフレーション、もはや一文無しと呼ばれるのもやむを得ない状況だろう。

 

 渋々諭吉を財布に戻した彼は黒い髪を無造作に掻き、ため息を漏らす。その恰好は単色のジャージ姿で、目立たない顔立ちに相応の、というより一般的な男性の散歩着だった。

 にもかかわらず、彼を物珍しそうに見つめる周囲の視線は絶えなかった。商店街を行き交う誰もが一度は彼の風貌をその目に収めては、好奇の感情を残して去っていく。冴えないジャージ姿が一文無しのトレードマークとはいっても、見物にされるほどでもないと思うのだが。

 

 もちろん、そんな一般論を語るのが無意味だということを彼はすでに悟っていた。というのも、傍を通り過ぎる彼以外のおそらくは全員が黒髪でもなければジャージ姿、もとい一般人の恰好をしていなかったからだ。地毛といっても違和感のないカラフルな髪色、時代劇を思わせる物騒な鎧等々……少なくとも日本、いや二十一世紀の地球の常識には当てはまらない不可思議な人々の往来がそこに広がっていた。

 

「つまり、これはあれだな」

 

 ここまで突き付けられてしまえば、普段はオカルトやファンタジーを信じない彼でも納得するしかない。パチン、と軽快に指を鳴らして呟く。

 

「異世界召喚もの、ということらしい」

 

 当然ながら誰にも相手されることはない。だが、好奇から怪訝に変わった周囲の目線を受け止めても、なお怯まない強靭な精神力があると彼は自負していた。

 

「いせ……その伊勢海老なんとかって、どういう意味? お母さん帰っていい?」

 

 ただ一つ、夫を見つめる妻の冷めきった瞳という弱点を除いては。

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 菜月賢一は日本が誇るごくありふれた中年男性の代表格ともいえる存在だ。世界一の嫁とその息子を家庭に持つ、という特記事項に目を瞑れば彼自身に目ぼしい特徴は無い。あとは少し社交性が桁違いで、人付き合いにおいて右に出るものはいない。その程度の男だった。

 しかしそんな彼も、とある時期を境に人が変わったように大人しくなった。失業、離婚、破産……精神的な落ち込みの理由として挙げられる一般論は数多くあるが、彼にいたってはどれでもない。

 十年前、コンビニに行って帰るだけだったはずの息子の失踪だ。

 

「つか、ここどこよ。ドッキリにしては手が込みすぎじゃねぇか」

「あら、お父さんが連れてきた場所じゃないの? てっきり新しいデートスポットかと思ったのに」

「デートスポットに異世界選ぶおっかない夫がいてたまるかよ」

 

 ちなみに、異世界に関する知識は息子の遺した本を片っ端から読み漁ったことにある。今では賢一も立派な銀髪オタクだ。その良さが何なのかは分からないが。

 気を取り直して二人で街を歩き始めたはいいものの、嫌でも意識してしまう周囲の目線と彼らの特徴には、ここが異世界だと本気で信じさせるものがあった。もしこれがドッキリだったら軽くトラウマになるかもしれない。そんなことはないだろうが。

 

「トラウマになってもいいから、むしろそうであってくれ……」

 

 切実な願いも空しく、進めど進めど現実離れした風景はどこまでも続く。あっちへ入り、そっちへ進路を折っても変わらない。やがて行き止まりに突き当たった時、それは訪れた。

 

「おい、そこのお前ら。泣いて喚くなら今のうちだぜ」低く、威嚇するような声音だった。「この路地裏に入ったが運命の尽き。大人しく金目のものを出してもらおうか」

 

 いかにも路地裏のチンピラという風貌の三人組だ。引き返すための唯一の道を遮る形で立ちふさがっている。その内の一人が構えるのはナイフ。原始的だが確かな脅威だ。さらに盤面は三対二、妻を戦わせるなど論外にもほどがあるので、実質三対一だ。真正面からやり合って勝ち目はない。

 

「いやあ、金目のものっていうか、実は俺たちも諭吉が使えなくて困ってるんだよ。つまり俺たちは一文無し同士の仲間ってわけだ。どうだ、一緒にハロワ行って就職しない?」

「なにわけの分かんねえこと抜かしてんだ、おっさん。俺たちまで勝手に文無しにすんじゃねえ。金目のものがなけりゃ珍しい着物でも履物でもよこせ」

「そうよ、お父さん。まずは銀行を探さなきゃだめでしょ。それに通帳も家に置いてきたんだし」

「さすが俺の嫁! 三対二じゃなくて四対一だったね!」

 

 やはりというべきか、中途半端な口説き文句は説得どころか逆効果を呼び起こした。このままでは身ぐるみ剥がされる、妻だけでも守らねば。そう思った瞬間のことだった。

 

「──そこまでだよ」

 

 唐突に、凛と透き通った声が路地裏を貫く。

 幻聴を疑うようなその響きに賢一は眉を寄せる。それもそのはず、声は路地の出口でも傍の建物でもなく、何もないはずの頭上から聞こえてきたのだから。

 

「なんだお前、どうやって空に浮い──ぐはっ!」

「おい、大丈夫か!? しっかりがっ!?」

「ま、待て! 降参だ! 降参するからゆるごえっ!」

 

 一人につき一つずつの断末魔。あれだけ威勢の良かったチンピラたちが膝を突き、地べたに倒れ込む。それぞれ急所を貫かれ、疑う余地もなく息絶えている。瞬く間に起こったそれは、異世界に来たばかりの菜月夫婦ですら異常だと直感できるほどに凄惨な光景だった。

 その張本人と思しき女性──桃色の髪をなびかせる少女が舞うように降り立つ。ともすれば妖精と表現するのに相応しい可憐さと神秘さを以て、しかし底知れない何かを称えた瞳で二人を見据えた。

 

「ふむふむ、なるほど。あなた方が、彼の」

「き、みは……」

 

 震える声を意に介さず、少女が賢一と菜穂子を交互に見比べては納得するように頷く。そこに直前の殺人に対する余韻は微塵も感じられない。どういう意図があって助けたのかも。

 

「ひとまず、ここを離れたほうがいい。魔女にいつ見つかるか分からないからね」

「どこに行く……行かせる気だ」

「人類に残された、最後の砦だよ」

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 その後、少女は二人を連れて近くの家屋へ向かった。外から見た時は小さく見えたが、中に入ってみると意外と大きかった。正面の扉を三つ抜けたところで階段を上って二階へ。そこから不規則な動線を描いて扉をいくつもくぐり、時には来た道を戻ったはずなのに別の部屋に通じていた、なんてこともある。

 どこまで行っても出口が、さらには窓すら見当たらない。とっくに建物の外に飛び出してもおかしくないが、一向に果てが見えない。極度に入り組んだ迷宮を想像させる複雑さで方向感覚を狂わせる。

 明らかにおかしい。まるで、扉を隔てて数百もの建物が一つに繋がっているかのような──

 

「安心してくれ。これで最後だ」

 

 意識が朦朧とするほどの眩暈を覚ます声が耳朶を叩いた。はっとして見渡すと、目の前に見飽きた扉がある。左右には悪夢のワンシーンとも見紛う果てしない廊下が。

 どれくらいの時間を歩いたのか、どこを辿ってきたのかも覚えていない。地面に足は付いているだろうか。半ば夢見心地のまま、賢一は少女の案内に従って扉を開ける。菜穂子もそれに続いた。

 

 そこで二人を出迎えたのは、薄暗い地下室のような場所だった。剥き出しの石壁に、装飾品といえば小さな灯りがぽつりと天井からぶら下がっているだけの、質素で殺風景な部屋だ。

 薄明りに照らされた部屋の中央には細長い木製の机と椅子、そしてそれを囲む者たち。十数人に至る彼らは子供から老人まで性別も年齢もばらばらだ。一様に切羽詰まった顔色を隠さず何事かを話し合っている。ただ、その目つきだけは皆同じ光を宿しているように思えた。

 彼らの視線が、一斉に菜月夫婦へと突き刺さる。射貫くような眼光、しかしそこに先ほどまでのような好奇と怪訝の色は見えない。値踏み、恐怖、嗜虐、いずれも違う。

 

「えーっと……まずは自己紹介だな。俺の名前は菜月賢一! で、こっちは菜月菜穂子! 自慢の嫁だ。気が付いたら異世界に来てて、右も左も上も下も前も後ろも分からない状況だがよろしく!」

 

 ぐっと構えるサムズアップ。転校生ばりの不慣れなテンションと気まずさを感じつつ、賢一は部屋を満たさんばかりの声量で叫んだ。

 相手が誰なのか彼には分からない。この場所も知らない。連れてこられた理由も、何もかも。

 それでも長年鍛えられた人付き合いの経験から学んだことがある。とりあえず礼儀正しく挨拶をしておけば、第一人称として悪く見られることはない。それに自分自身と、なにより妻を励ますための空元気に無駄の二文字は存在しないのだ。

 

「……ふ、ははっ」

 

 緊張感の張り詰めた沈黙を破る笑い声が、一つ。少ししてそれは隣、そのまた隣へと伝播し、やがて全員が堪え切れないといった風に肩を震わせていた。

 

「お、おお……やっぱり異世界でも俺のコミュニケーション能力は健在か。よし、決めた。俺は芸人になる!」

「ちょっと、やめてよ。それだとお母さんがツッコミ役になるじゃない。そういうの苦手なんだから」

「あれ? 俺たち二人のコンビならどう考えてもポジション逆じゃね?」

 

 場違いな会話に笑いは増していくばかりだ。さすがに大げさでは、と賢一自ら照れ臭くなった頃には、胸中を渦巻いていた重苦しさが消えていた。最初より一段と明るく見える狭い部屋の中でふと気づく。

 彼らが菜月夫婦を見つめる視線。そこにあるのは期待だった。

 

 笑い声が収まってきたところで、その切っ掛けとなった男が立ち上がる。紫の綺麗な長髪を背に伸ばし、全体的にすらりとした印象の美丈夫だ。流れるような一礼が彼の品格を物語っていた。

 

「ようこそ、ナツキ夫妻。我ら『洗礼騎士団』はあなた方を全力で歓迎します」

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 騎士団が団長、『最勇の騎士』ユリウス・ユークリウス。

 ユリウスが言うに、現在この異世界は騎士団ともう一つの勢力との衝突によって二極分化されているらしい。事態の発端は十年前、とある男が大陸東部の王国を乗っ取ったことから始まる。現在の国王は『怠惰の巫女』フェルト・ルグニカ。王とは名ばかりで、実権は男の手中に全て収まっている。

 政権の傀儡化を皮切りに隣接した帝国、都市国家、聖王国と四大に連なる大国が順に吸収された。寄る辺もなく取り残された小国は降伏か滅亡かの選択を強いられ、大陸が統一されるのに一年とかからなかった。

 解体処分を受けて一時は散り散りになった王国の近衛騎士団だが、大陸統一後、かつての騎士だったユリウスのもとに再結成が行われた。その際にユリウスは王国の名を捨て、国籍・種族・前科を問わず各地に点在していた反乱分子たちを掻き集め、まとめ上げたのだという。

 

 ユリウスは統一国の首魁と友人の間柄だったらしく、言葉少なに「友を救えなかったことにそれなりの責任と後悔を抱いている」といった。

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

『再臨の魔女』エキドナは、新生騎士団に加わった初期メンバーの一人だという。

 彼女はかなりの曰く付きらしく、歴史に埋もれた古代の魔女の生まれ変わりだそうだ。実際はもっと複雑な存在で敵か味方かも曖昧らしいが、賢一たちには理解し難いものだったため割愛する。

 異世界が一色に塗り潰された際、彼女は大陸の向こう側に島を浮かせて支配から逃れた。今こうして彼らがいるのも大陸を囲むようにして浮かぶ諸島の一つだ。加えて魔法や戦術に関する知識を提供しており、もはや騎士団に欠かせない一員だとのこと。

 

「彼が大陸統一なんていう暴挙に及んだのは、さしずめあの魔女が原因だろう。しかし、それが切っ掛けで全く共通点の無かった人材が集まった。この結束がどう転ぶか、彼がどのような反応を示すのか、実に興味深い」

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「エキドナさんも言っていましたが、こうして僕たちが国境を越えた一つの団体になったのは奇跡に近いです。早くこの状況を打破して、また彼の横っ面を殴ってやらないと気が済まないですよ」

 

 騎士団が兵站参謀、オットー・スーウェンの言う通り、騎士団──平たくいうならば反乱軍だが──の全容は組織としては生半可だった。人員、土地、資金、ありとあらゆる要素において不利。そもそも結成自体が薄氷の上にあるといっても過言ではない。

 両手で数えきれないほどの種族を束ねるのは至難の業だ。ましてや敵対勢力は世界を文字通り支配する大陸そのもの。団員たちの士気を管理するも一苦労らしい。

 オットーの側近、秘書たるフレデリカ・スーウェンはこう付け加える。

 

「なので、私たちは騎士団内で役割を分担していますの。組織的に動けるよう最低限の統制はありますが、基本的には独立した部隊が各部隊長を中心に活動するという形ですわね。この戦争が終わったら、またいつか……いえ、以前の彼はもう、戻ってこないのでしょう。ただ、それではあの子があまりにも救われない」

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 第一軍、突撃部隊が切り込み隊長、『青き雷光』セシルス・セグムント。

 ならびに指揮官、『賢鬼』ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアの言。

 

「実は僕、彼との面識は特に無いんですよね。世界の花形たる僕が、ただ強い敵と戦って活躍できればそれでいい。もし出会った時代や場所が違えば、事情によっては彼の側についていたかもしれませんが……いざ、剣聖と華麗なる決着を」

「かつては剣に人生の全てを捧げましたが、今や私もしがない老木。培った経験と知識で出来る限りの助力をしましょう。……彼には返しきれないほどの恩がある。それを返上せずして、死ぬわけには行きませんのでな」

 

 真っ白に染まった髪を整えながら、ヴィルヘルムは花束を手に取って歩く。行き先を問うと、墓参りだと答えた。大陸が支配された今、騎士団の血縁の墓は別の島に新しく作られたらしい。

 もちろんそこに骨は無い。名ばかりの墓石が立ち並んでいるだけだ。それでもヴィルヘルムは空いた時間に墓地を訪れる。黄色く鮮やかな花を添えて。

 

「こんな体たらくでヴァンを名乗っていては、妻も呆れていることでしょう。しかし、私は戦わなければならないのです。この名は、私ではなく孫が背負うべき呪いですから」

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「そう。あなたが彼の……いえ、申し訳ございません。この失言、どうかお忘れください」とは、明るい桃色の髪にモノトーンのメイド服が似合うメイド長──ではなく、第二軍、魔法部隊が副隊長、『一角の鬼神』ラムの言葉だ。

 彼女は額に立派な角を携えており、メイド服も相まってとにかく目立つ。魔法部隊という名に相応しくその角も魔法器たる代物らしい。

 これに隊長──というには小学生高学年あたりの少年にしか見えないが──、「魔神」ロズワール・M・メイザースが説明をしてくれた。

 

「いやいや、すみませんねーぇ。あの子、妹と彼に関してはとても敏感でして。まあそれは私もですがーぁね。本当に、彼には世話になりましたよ、ええ。魔神なんて大仰な名前も、彼がいてこそのもの……過去に白黒を付けさせてくれるのには、感謝してますよ」

「そうですね。ラムも、この覚悟を持たせてくれたことには感謝しています。いつも軽薄で、呑気で、調子に乗ってばかりでしたけど……肝心な時に、間だけは良い男でした」

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 第三軍、遊撃部隊が部隊長、『救世の乙女』ペトラ・レイテは語る。

 

「彼は、私の初恋の人。……最初で最後、最愛の男性です」

 

 長い髪を肩から胸元にかけて巻いた、美しい女性だ。歳は二十代中盤といったところか。それでも今まで出会った騎士団員の中では最も大人びているように思えた。儚く、ともすれば硝子のように砕けてしまいそうな、繊細な輝き。

 

「あの幸せだった時が、夢みたい。実際、今でもたまに夢に見るんです。まだ何も知らない田舎娘だった私を助けてくれたこと、お屋敷で働いていた時のこと。普通の男の子なのにいつもいつも突っ走って危ない目に遭うから、どれだけ心配かければ済むんだって思ってました。でも、そこが好きでした。ううん、今も好きです。多分、一生引きずるんでしょうね。もし私が殺しても、私が殺されても、結局私は後悔を抱えたまま死ぬ。そういう運命なんです。……おいで、ベアトリスちゃん」

 

 彼女が手招きすると、金髪の幼い幼女が駆け寄ってきた。ペトラとお揃いの巻き髪を揺らしながら彼女の膝上にちょこんと座る。一見したところエキドナと同等かそれより幼い容貌だが、聞いた話によると最年長組らしい。先ほどのロズワールといい、外見と実際の年齢のギャップが凄まじい。

 そして、彼とは特別な関係にあったという。

 

「二十数年しか生きてないくせに、随分と貫禄のあることをいうかしら。ベティーはペトラをそんなふうに育てた覚えはないのよ」

「ふふ、そうだね。ベアトリスちゃんが私を育てたんじゃなくて、私がベアトリスちゃんを育てたんだから!」

「むきゃー、かしら!」

 

 わきわきとベアトリスの髪を掻き乱しながら笑うペトラは、そこだけ切り取って見ると年相応だ。ベアトリスに関しても、彼女とじゃれ合う姿からはとても人外の力を持つ存在には思えなかった。

 

「私は他の人みたいに強くありません。救世なんて呼ばれてるけど、それは騎士団結成後に、彼と面と向かって話をする機会が一度あっただけで……脅威だと認識されていないからこそ、最も近くまで迫ることができる、ただそれだけの理由なんです」

「ペトラの強みは戦闘力じゃないのよ。でも、本当の意味でこの世界を救えるのはペトラなのかしら」

「それは、どうして?」

「なんてったって、ベティーの契約者だからに決まっているのよ」

 

 誇らしげに胸を張るベアトリスの頭に赤いリボンを結びながら、ペトラは淡く微笑む。

 世界を救う、悲恋の乙女。絶望に抗う希望の象徴として丁度いいのかもしれない。

 しかし、もしも仮に彼女が世界を救ったとして、彼女自身が救われることはあるのだろうか。

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 騎士団が副団長兼亜人部隊が指揮官、『帝国人』ヴィンセント・ヴォラキアは多忙のため顔を合わせる時間が取れなかった。ただ、菜月夫婦が騎士団に招かれたことは知っていたみたいだ。亜人部隊が部隊長、『カララギの遊び人』ハリベルから伝言があった。

 

「なんや言いたいことが多過ぎて困っとったなあ。確か『あれは弱い男だ。誰よりも自身が弱いことを自覚していながら、常に誰かの手を取ってやろうと躍起になっている。あれは愚かな男だ。現実を直視することを恐れ、無知無謀を誇りと履き違えている。精強という言葉から最も遠い男であろう。しかしあれは、あれはー』あー……なんやったっけな。馬鹿な男だとかなんとか、そんなことゆーとった気がするなあ。あの元皇帝さんが苦笑するもんやから、冗談か思うてよう覚えとらんわ。まあ、なんや事情があるんやろ。知らんけど」

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 その他にも、実に多くの人々が彼についての想いを語ってくれた。それらは殆どが、十年前までの彼に関することだった。

 

「生きてたんだな、お前」

 

 その日の夜、賢一は客室のベッドに座ってそう呟いた。特に考えがあったわけではなく、零れ落ちるように乾いた声が出てきた。菜穂子は傍で横になって顔を伏せている。

 

「生きて、たんだな」

 

 なんと言えばいいのか、分からない。異世界は分からないことだらけで、まだこれが現実だという確証も持てていない。何をどうすればこの気持ちが収まるのか。この感情をどこに向ければいいのか。

 皆が語った彼の存在について、菜月賢一と菜月菜穂子は何も知り得ない。所詮は人伝に聞いただけの情報だ。直接、この目で見るまで答えは分からない。

 

「母さん。あいつ生きてたんだってよ。信じられるか? 異世界に家出だぜ。なあ、母さん。聞いてる? 生きてたんだって……なあ、菜穂子」

「……うん。聞いてるわよ、あなた。だって一緒に聞いたでしょ」

「そうだよな。ああ……そっか。生きてたのか」

 

 どんよりと、何も見えなかった日々に光が差し込んだ気がした。それは希望のようでいて、不安にも似た衝動。

 生きている。ただそれだけで安心できてしまうのが情けなかった。

 

 震える妻の身体を抱き寄せる。

 夜が明けるまで、この手を離さないと賢一は固く誓った。

 

「──ただいま」

 

 しかし『彼』は、それを気長に待てるほど辛抱強くない。

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「敵襲──っ!」

 

 深更の満ちたころ、基地内に怒号が鳴り響く。天井に張られた魔鉱石のラインが各部屋の明かりを起動させ、微弱な振動により簡易的な指令が行き渡る。

 エキドナいわく、彼には一切の情報戦が通用しない。騎士団は所在地以外の情報を無理に秘匿せず、襲撃を受けた場合の対策に力を注いでいた。基地の至る所に最新の状況を同期化させる装置が備えてあるのはそのためだ。

 

「はあ……これでいいかな」

 

 だがそれも、足りない資金で最低限の有効活用をしただけにすぎない。侵入者の一振りでラインは絶たれ、魔鉱石に刻まれた術式は力を失う。

 消灯後、即座に再点灯した予備電源を見て赤髪の男はため息を吐いた。一目見れば忘れられないほどに整った顔立ちだが、その表情は暗い。

 

「ただの一振りで基地内の全ての主電源が断たれたか。君がいると、あらゆる仕掛けが不発に終わるから嫌になるよ。今代『剣聖』……いや、『憂鬱の棒振り』だっけ」

 

 そこに現れたのは小柄な少女、エキドナだ。小手先を封じられたことへの失望なのか、そもそも期待すらしていなかったのか、どちらともとれない無表情を湛えて歩み寄る。

 対して男は気にも留めない素振りだった。そのまま傍を通り過ぎようとする男の目の前にエキドナが立ち塞がると、ようやく目が合う。

 

「用があるのはあなたじゃありません。そこをどいてください」

「残念だけど、逆だね。用がないからこそワタシが止める必要があるんだよ。知ってるかい? 魔鉱石のラインが切断された場合、循環するはずだったマナが逆流して貯蔵庫を圧迫する。設計上はどれだけ早く司令室まで直行しても、到着する前に起爆するようになっている」

「しかしそうはならない。僕の体質がマナの流れを狂わせているからでしょう」

「そうだね。ただし、それもこの周囲に限った話だ。壁の向こうは違う」

「だからなんだと言うのですか? たかが魔鉱石の爆発くらいで、僕たち七ツ星近衛騎士団は──」

「怯まない。ああ、そうだとも。大陸を制覇した粒ぞろいの精鋭たちが、白鯨の死体処理くらいしか用途のなかった小細工にやられるはずがないだろう」

 

 露骨な時間稼ぎに嫌気が差したのか、男の表情に苦いものが混じる。危険信号だ。これ以上引っ張っても強引に突破される。そう判断したエキドナが次の手段に移った。

 

「こんなことをいうのはなんだが、君たちの中には確か、剣にも魔法にも恵まれなかったごく一般的な男の子がいるんじゃないか? そう……他人から愛されることにのみ特化した、ただの人間が」

「何を言い出すかと思えば……くだらない。力づくで通らせてもらいます」

「良いのかい? ──彼は今、戻れないのに?」

「──っ!」

 

 息を呑む音に威圧感が覆い被さる。男の手から放たれた銀閃は、寸分の狂いなく少女を両断した。胸から迸る血が床を濡らし、淡い光を反射する。辺りは一瞬にして静まり返った。

 どこか現実味のない風景。違和感の答え合わせは、エキドナの死体が蜃気楼のように消え去り、反対側の通路から新たに姿を現したことで明らかになる。傷一つない、健康体そのものの姿だ。

 色、音、気配に至るまでのあらゆる認識要素が魔法によって攪乱されている。周囲のマナを乱す男の体質を以てしても、それを前提にあえて歪められた術式を解く術はない。

 

「あなたは、一体どこまで」

「何から何まで……と言いたいところだけど、生憎とワタシは好奇心を満たすことでしか生き甲斐を見つけられなくてね。ひたすらに考えただけさ。もっとも、彼の特殊性を知っている身から現状を鑑みればそう難しい推測でもない。むしろワタシとしては君が知っていることの方が驚きだ。心でも読んだのかい?」

「──。そんな、ことは」

「まあどちらにしろ、あの忌々しい魔女もこの局面では彼を救えないということだ」確証を得た少女の笑みに底知れない闇が差し込む。「ふふ、面白いね。本当に、彼はワタシを飽きさせてくれない」

 

 そう言って彼女は立ち尽くす男に弁明の機会も与えないまま、背を向ける。ゆえに懐かしむような色が瞳によぎったことを、男は知り得ない。

 基地はパニック状態に陥っていた。騎士団のもれなく全員が狭い基地内を奔走しているこの状況で、しかし尋常ならざる雰囲気を纏った二人の近くには人が寄らない。意識的に遠ざけているわけではない。視野が無意識に狭まり、本能的に回避しているのだ。

 

「それじゃ、選手交代だ。これは老婆心からの忠告だけど、憂鬱の演技なんてやめた方がいいよ。どんな思いで国を滅ぼしたのかは知らないが、君は半端な正義感で判断を誤る人間じゃないはずだ。自責なんかで正当化するより、いっそ開き直った方が彼としても気が楽だろう」

 

「それと、起爆の話は嘘だよ」と言い残すや否や彼女の姿が再び消える。張り詰めた空気が弾け、代わりに慌ただしい足音が近づいてきた。聞き慣れたそれは二人分だ。

 

「ラインハルト」

 

 しわがれた声に応えるべきか、逡巡する。直前の忠告を思い出してラインハルトは顔を上げた。

 その名前を呼んだ老人と、背後に立つ中年男性。すっかり老け込んだ二人の顔に思わず安堵が零れた。

 

「僕は」

「うるせえ、黙ってろ。どうせろくでもないことほざくに決まってる。……親父、ここは俺に任せてくれ」

「だが、ハインケル……」

「──親父。俺ももう大人だ」

 

 エキドナは消えた。しかし、剣に人生を狂わされた三人の男が向かい合うのを、邪魔するものはどこにもいない。

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 直接的な殺し合いの火ぶたが切って落とされたのは、そこから少し離れた会議室だった。

 

「しぃぃっ!」

 

 鈍い輝きが眼前を切り裂く。空気が泣き叫んでいるかのような風切り音を背に、セシルスは駆け出した。

 一歩目で最高速度に達し、その勢いのまま腰から刀を振り抜く。光しか追いつくことを許されない斬撃に沿って青白い軌跡が揺蕩う。

 雷鳴を思わせる衝撃と共に、火花が散った。僅かにずらされた刀は次の瞬間には鞘に収まっている。そしてまた、居合の不気味な音が鞘から迸るのだ。

 凄まじいまでの切り替えの速さ、瞬発力だが、その分戦闘のパターンに彩りが無い。最終的な攻撃手段が斬撃だと分かっているなら、肉眼で捉えられずとも予測が追いつく。

 

 迎え撃つのは凛とした長身の女性だった。流線的な美を宿した肉体で男物の服装を着こなし、その獰猛さをも己の内に落とし込んでいる。特に目を引くのは、黒く隆起した右腕──筋肉では到底説明がつかない発達具合で、先端も獣の爪に酷似した歪な形状だ。それは伝承上の竜の風貌に通ずるものがあった。

 

「竜に頼り切りの王国を変える、とか息巻いてたって聞きましたけど、これがその結果ですか?」セシルスに言わせれば、相手を特徴で推し量るのは無意味極まりない行為だ。「まあ、所詮は堕落した悪役……僕に倒され、僕を際立たせる踏み台には変わりありませんよ、『憤怒の戦乙女』ナツキ・クルシュさん」

 

 クルシュが圧し潰さんと振り下ろした巨大な腕、そこに刀の腹が当てられる。受け流される、そう判断してさらに力を込めたクルシュを責めることはできない。

 セシルス・セグムントという剣客は定石を意図せず外れる。武人として相手するのに最も性質の悪い部類だ。

 

 寝かせていた刃を立たせることで、触れていた面が限りなく細い線に変わった。それが意味するのは攻防の逆転。刀がしなっていると錯覚するほどの重量が、そのままクルシュ自身に牙を剥き、黒い鱗のような肌がひび割れる。

 

「引くと思ったか? 私は押し切るぞ」

「いいですねえ。竜退治の英雄譚、悪くないです。僕の伝説に新たな名場面が刻まれる」

「腑抜けたことを! 私は、私を取り戻してくれた彼の力になる。そのための努力は惜しみません」

「なんか安定しない喋り方ですね。まあ、そう慌てないでください。圧勝だとつまらないので、良い感じに倒してあげますよ──っと」

 

 その時、背後の壁が爆発する。セシルスは咄嗟に身を屈めたが、そのせいで力の均衡が崩れた。クルシュの腕が抵抗を押し退け、刀もろとも床を陥没させる。刀はめり込み、確認するまでもなく折れていた。

 それに悲嘆する暇も与えられなかった。セシルスが飛び退くと、その場所を覆い隠す勢いで何かがなだれ込んできたのだ。壁を壊した原因、いわゆる横槍だがセシルスは気を害したふうにも見えない。

 むしろ、その両目には闘志が煮え滾っていた。

 

「死体の兵士ですか。なるほど、皆お揃いのようで」

 

 セシルスを襲った犯人、それは全く面識のない人間だ。しかもその数、およそ百を下らない。共通点としては、その瞳に生者の活力が欠けていることだろうか。

 死してなお戦う兵士たちに分かりやすい殺意はない。あまつさえ動きが素人同然とあれば、警戒するに足らないだろう。かつての亜人戦争で猛威を振るった不死王の秘蹟が相手ならば、セシルスは一網打尽に吹き飛ばす自信があった。

 しかし現代の屍兵使いは違う。容易に近づいてはいけない理由を事前に聞かされていた。

 

 屍兵を繰り出した本体、『死の招き猫』フェリックス・アーガイル。体内のマナを操作する治癒術を以てすれば、ただ動くだけの死体とは桁違いの質と量で攻め入ることができる。

 

「──ならば、わっちらも同じ数で相手をするほかありんせん」

 

 その一言で、ふわりと雰囲気が一変した。倒壊した基地の砂ぼこりの代わりに甘い香りが漂い、心なしか圧迫感が薄れる。瓦礫の山に足を掛けて婉然と煙を吐くのは、夜の支配者たる麗人だ。

『魔都万物の恋人』ヨルナ・ミシグレ、および彼女率いる特選亜人部隊の登場により戦場の熱気が渦巻く。

 

「『魂婚術』の真髄……わっちらの愛の力、魅せつけてやるがいいでありんしょう」

「舞台が整ってきましたね。いいでしょう。さあ、こちらも本領発揮ですよ──ムラサメ、マサユメ」

 

 剣客セシルスは、竜を前に刀を抜いて笑う。

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 戦場は過熱する。

 

「ほれ、妾の前に跪くがよい。貴様らに童の道となる栄光をくれてやる」

「あら、それだけじゃ勿体ないわ。骨の髄……いえ、五臓六腑を愛でてあげる」

 

『傲慢の花嫁』ナツキ・プリシラ。

『色欲の腸狩り』ナツキ・エルザ。

 

 日の出にしてはやや早計とも思えるほどに、眩しく華々しい女性だった。その出で立ちは露出こそ控えめだが、世の男たちを虜にする魔性の色香を纏っていた。

 二人の通った跡には、烈火に焼かれた死体と腹を裂かれた抜け殻の山が出来上がる。その肢体に触れようものなら、それが指先だろうと矛先だろうと、元の形を保ってなどいられない。

 まさしく傾城傾国、どんな不夜城をも一晩で焦土と変える滅びの誘手にほかならなかった。

 

「それは是非とも勘弁してもらいたいところだーぁよ」

 

 戦場を練り歩く絶世の美女、その相手としてはいささか奇怪に過ぎる男だった。いや、この対面で男と呼ぶのも不自然だ。まだ伸び切っていない背に高い声音、それらを鑑みれば少年が相応しい。ただ一つ、奇抜な白化粧を除けばの話だが。

 死屍累々の地獄絵図を作り出した二人の美女が、年端もいかない少年と向き合って足を止める。

 

「なんじゃ、道化。陽剣の灰塵になりなくなければ疾く立ち去れ。妾の慈悲が燃え尽きる前にな」

「おや。こんな小僧に情けを下さるとは、傲岸不遜のお姫様も随分と丸くなったものですね。これも彼の影響かな?」

「は。──死ね」

 

 一瞬にして熱を失ったプリシラの視線の先から業火が巻き上がる。夜の静けさに沈んだ大気を焦がし、その跡には骨も残らない。目に見える全てを焼き尽くしてもなお消えず、微かな月光さえ呑み込まんと燃え盛る嚇怒。

 それが不意に掻き消え、薄く立ち上る煙幕の向こうから死んだはずの少年、ロズワールが歩み出る。エルザは感心したふうに口笛を吹き、プリシラは嫌悪に顔を歪めた。

 

「生きてよいと許してやった覚えはないぞ」

「おっと、怖い怖い。先ほど『道化師』の相手をしたばかりなんでね。小柄なこの体には荷が重いよ」

「あやつが死ぬとは思えぬ。ハッタリも大概にせよ、小童が」

「──誰も、殺したとは言ってないからね」

 

 冷淡な声と共に、ロズワールの背後から気配もなくエキドナが現れた。恭しく首を垂れるロズワールを傍目に彼女は続ける。

 

「要は肉体ではなく精神を半殺しにすればいい。やりようならいくらでもあるさ」

「ふん」

 

 つまらなそうに鼻で笑うプリシラだが、相手側の手駒が減ったのは事実だ。それもかつて騎士だった人物。彼女の性格を考慮すれば本気でどうとも思っていなさそうで怖いが。

 

「時に、いつも君にべったりだったあの娘は一緒じゃないのかい?」

「彼女は彼女で、ケリをつけるべき者がいますので」

 

 件の人物、ラムは敵襲の報せを悟るや部屋を飛び出していった。部隊の副隊長としてあるまじき独断行動だが、生憎とロズワールにはそれを咎める気がなかった。

 歴史に名を残さぬ『虚飾の鬼』の正体を知る数少ない人間として、なおさらに。

 

 エキドナは「ふうん」と興味なさげに、というより最初から知っていたかのような反応を示す。すでに彼女の意識は別の方へと向けられており、その一言が合図なのだと遅れて気付く。

 横に並んだロズワールは苦笑して両手を広げた。左右の指に一つずつ、合計十に及ぶ濃密なマナの塊。傍から溢れ出る膨大なマナの奔流に術式を崩されないよう、見栄を張りつつ眼前の敵に臨む。

 魔女とはいっても今は仮の肉体に魂を宿しているだけだ。かくいうロズワール自身も、十年前の激闘で一度肉体を失った。かつての対応力と持久力は頭から捨てた方がいい。

 

「私も戦います!」

「母様が戦っているのに、ベティーを除け者にしようだなんて許さないかしら!」

「ペトラ!? どうして君が」

 

 ムラクの魔法で軽々と跳躍をして入り込んできたのは、鎧を着込んだペトラとベアトリスだ。七ツ星の大罪との戦闘は避けるようにとあれだけ言ったのに、よりによってこの戦場に来るとは。

 

「他の敵はクリンドさんとアーラム兵団で食い止めてます。ナツキ夫妻は……きっと、取り込み中でしょうから」

「君は、それでもいいのかい?」

「ロズワールさん。私はあなたのことが大嫌いです」

 

 要領を得ない突然の悪口に出鼻を挫かれるロズワール。呆然とするその道化顔にペトラはぐっと顔を寄せ、色の違う両目を捉えて放さない。逃れられない。

 

「あなたにメイドとして仕えていた時から今までずっとです。もし彼が最初に許してあげてなかったら、とっくに毒殺でもなんでもしてました」

「────」

「無理だと思いますか?」

 

 冷徹な双眸で見下ろす彼女に、ロズワールは何も言い返せない。

 

「私も大人です。あなたの腐りきった性根に意見する権利も、自分の意思で戦う覚悟もあります」毅然としたその決意を、ペトラが言い放つ。「──自惚れないで。愛に命を捧げるのは、あんただけじゃない」

 

 姿勢を正し、引き抜くのは腰に下げた剣。魔法器として造られたその剣にはマナを増幅させる機構が備わっている。魔法戦において確実な戦力になるだろう。

 傍目に見ればペトラ以外は少女、少年、そして幼女といういかにも頼りない組み合わせだ。しかし、文字通り年季の入り方が違う。合計で千年を超える知恵と経験が四人の背後に屹立していた。

 

「ねえ、そろそろいいかしら? 私、さっきから体が疼いてたまらないの。皆で楽しい夜にしましょう?」

 

 昂った声が凶刃に吸い込まれる一拍の静寂の後。

 魔法の極光と、灼熱の炎と、妖しげな刃の燐光が夜を照らし出す。

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 戦場はさらに激化する。

 

「ちょいちょい、お二人さん。彼の最後のお願いやからって、派手に暴れすぎなんやないの? ウチら別に戦争とかしに来たわけとちゃう……あーらら。あかんわ、もう歯止めが利かんくなっとるやん」

 

 やや頼りない身長をつま先立ちで補いながら、烈火の地獄を遠目に眺める少女がいた。いや、置いてけぼりにされたという方が正確か。

 淡い紫色の長髪と特徴的な白い襟巻きが、背中をすっぽりと覆う形で後ろに広がっている。そのため一見すると丸っこい毛玉だ。特に襟巻きは九方向に枝分かれしており、妙に躍動感を覚えさせる先端はどこか狐の尻尾に似ていた。

 

「それで、ウチの相手は……」

「無論、私ですよ。アナスタシア・ホーシン様」

「うん。ま、そんなとこやろなって思っとったわ。名前間違うとるけど」

 

 そう言って微笑む少女、『強欲の半精』ナツキ・アナスタシアとユリウスが対峙する。

 両手を腰の後ろで組み、首を傾げるアナスタシアに敵意の類は見えない。

 

「しかしなぜ、今になって襲撃を?」

「うん?」

「大陸全土を支配した彼にとって、浮かぶ諸島などやろうと思えば簡単に撃ち落とせたでしょう。それなのに十年もの間私たちは生かされ、放置された」

 

 それはユリウスだけでなく、騎士団の全員が一度は抱いた疑問だ。しかし答え合わせの不可能な問題で、なおかつ他に考えるべきことが山積みだったせいで後回しにしてきた。部下のほとんどは己の幸運に感謝する程度で済ませていた。

 なぜこの期に及んで大規模攻撃を仕掛けてきたのか。それが不思議でならなかった。

 

「そないに警戒せんでもええで。ウチは危害を加えるつもりはない……こうして話し合うのが目的や」

「時間稼ぎ、ですか」

「そそ。でもまあ、ウチらの間柄ならもおちょい深部まで入ってもええと思わん?」

「私としては、それ以上の信頼を築いてきたつもりでしたが」

「あちゃー、それ言われるとウチも耳が痛うなるわ。堪忍な?」

 

 アナスタシアが片手を挙げて謝罪の意思を示す。口調、仕草ともに以前の彼女と全く同じだ。ただ、その胸中に潜む愛情と欲望の対象が変わってしまっただけ。

 

「彼はこの日のために十年を捧げた。でもこんな世界や。数字だけ見れば、他の面々に比べて少ない方や思うかもしらん」

「そんなことは」

「ええで、別に。実際のところ、ウチもその十年が彼にとってどの程度のもんやったのか……知る術はないんやから」

 

 意味深な発言だ。彼女自身も正確なことを知り得ない以上、詮索も無意味だろうが。

 ユリウスは唇を噛んで次の問いを投げかける。

 

「貴女の目的は、ひとまず分かりました。それで彼の目的は?」

「そうやね。再会、といったところやろか」

 

 それを聞いたユリウスに表情の変化はない。アナスタシアも気付いたが何も言わずにニコニコしている。

 この問答、そもそもが不毛な茶番だ。ユリウスら騎士団は今日の出来事を予見した日から彼の目的に感付いていた。ただ、誰も口に出さなかっただけ。

 

「彼、悔やんどったで。ユリウスともっと上手くやれたんちゃうかって」

 

 

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 戦場は、そして最終局面を迎える。

 

「ただいま」

 

 月明かりが差し込んだ部屋の静寂を、破る声が一つ。

 どこからともなく現れた人影に賢一は驚愕の顔をする。ただし、そこに浮かぶ色は恐怖ではなかった。

 

「無知蒙昧にして、天魔不滅の風来坊──ナツキ・スバル、ここに参上!」

「昴!」「昴、なの?」

 

 彼は物語に出てくる王様のような恰好で扉の前に立っていた。それでいながら指を天に掲げ、大げさな動作で自分をアピールする。

 記憶の中よりやや大人びた顔立ち。身長はさほど変わっていないが、立ち振る舞いや声質が十年の成長を実感させた。

 だが、賢一と菜穂子の二人にはそんなことはどうでもよかった。

 

「うん。俺だよ。父さん、母さん。ナツキ・スバルだよ」

「本当に……夢じゃないよな?」

「昴!」

 

 スバルの顔をまじまじと見る賢一をよそに、菜穂子が飛び起きて抱き付く。肩に顔をうずめ、その身を震わせる母親にスバルは抱擁を返した。優しく背中を叩くが一度決壊した涙は収まらない。

 抱き合ったまま、静かな時間が過ぎた。その間も賢一はスバルの顔をじっと見つめている。スバルも目を逸らさずに向き合っていた。

 

 やがて、彼にも限界が来る。

 宥めるはずの手が震え、湧き上がる感情が行き場を求めてさまよう。抱き寄せた母の背を強く掴んだ。

 

「ごめん……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「昴。大丈夫だから。ね?」

「ごめんなさい、ごめんなさい。……ありが、とう」

「もう、昴ったらどこ行ってたの? 母さん、心配したんだから。ついでに父さんも」

「コンビニに……と思ったら、知らない場所にいて……異世界、に、連れて来られて。怖かった。寂しかった。泣きたくなって、何回か泣いたけど、それでも怖くて……」

「うん」

「もう、二度と帰れないって思った。なぜだか知らないけど確信があったんだ。一方的な、自己満足の別れしかできなかった」

「うん、そうね」

「だから、二人を……俺が行けないなら、二人を連れて来ようって、ある日思いついた」

 

 それが、十年前。孤独と絶望に打ちのめされ、立ち上がり、決意を固めた運命の転換点。

 

「二つの世界を渡るには魔女の力が必要だった。王国の頂点を取って神龍に会って、他の国も魔女教も全部調べ尽くして、魔女因子を集めて……世界を支配した」

 

 聞くだにぞっとするような覚悟も、世界中を脅かした執念も、母の胸に受け止められる。いつの間にか頭を撫でられていたスバルは拳を握り、泣き崩れる。

 

「でも、皆を裏切ることはできない。俺一人のエゴで、わがままに巻き込まれた皆に申し訳が立たない。死んでも償い切れない。だから俺は全てを十年前に置いてきたんだ」

 

 やり直す時は必ず十年前に戻るように魔女と契約した。それで幾度となくやり直し、数え切れないほどの年月を束ねた末にようやくこの時が訪れたのだ。

 菜月賢一と菜月菜穂子を異世界に招き、無数の障害を乗り越え、再び相見えるこの瞬間が。

 

 もし今何かの拍子で命を落としてしまえば、十年前からやり直しだ。間違っても失敗は許されない。

 ただ、目的を遂げようと遂げまいと、結局はやり直すことを前提としている。つまりこの再会もいずれは無かったことになる。

 だが、ここで交わしたことは確かな現実だ。墓所での幻想とは違う。それがせめてもの救いだった。

 

「ユリウスたちには悪いことをした。召喚される場所が分からなかったから、どこに現れてもいいようにあいつらを利用したんだ」

 

 スバル本人が最初に見つけられていれば最善だった。こうして強引に攻め入ることもなかったはずだ。

 大罪を犯さなければ、彼らは喜んで二人を引き合わせてくれただろう。しかし二人を呼び出すには、大罪を犯す必要があった。ゆえにスバルは振り切ったのだ。十年の誓いを免罪符に掲げて。

 

「大勢の人を殺した」

 

 多くの命と未来を奪った。

 

「俺が人類の半分くらい虐殺したら、俺のこと見捨てるって父さん言ったよな」

 

 当の賢一は何のことかと眉を寄せる。心当たりがないのも当然だ。その言葉は、夢の世界でしか語られていないのだから。

『死に戻り』による記憶の齟齬と似たものを感じ、スバルが苦笑する。「なんでもない」と首を振って立ち上がった。

 

「昴……」

「大丈夫だよ、母さん」

 

 菜穂子の肩を掴み、優しく離す。改めて向き合うのは賢一の方だ。

 二人にとってスバルの姿が十年の月日を経たものだとしたら、それは逆もまた然りだ。スバルの前にいる賢一と菜穂子は彼の記憶の姿より十年老いている。いや、もしかするとそれ以上かもしれない。

 

「痩せたな、父さん」

「おう。おかげさまでな。そういうお前だって細いぞ。ちゃんとご飯は食べてるのか?」

「そりゃあもう。なんたって世界の支配者だぜ、俺」

 

 違う。こんな会話がしたかったわけではない。

 

「ああ、最後なのに。言葉が出てこねえや」

「最後って、どういうことだ」

「言っただろ。十年前に全部置いてきたって。これが終わったら、俺は……」

 

 言いかけて、やめた。興奮して忘れていた理性をぎりぎりで取り戻す。

 胸が弾けるように痛い。言い淀んでよかったという思いと、一度でも口にしかけた衝撃に動悸が鳴り響く。

 

 正気か、ナツキ・スバル。

 何をやっているんだ。今、何を言おうとした?

 

 ──まさか、両親を前にして、自分が死ぬつもりだと言いかけたわけではあるまい。

 

「どうした昴。何があったんだ?」

「なんでも、ない……ほんとに。俺、もう」

「ファーザーヘッド!」

「とりうみこうすけっ!?」

 

 ヘッドと思わせての踵落としを装った頭突きが炸裂する。男と男の額が固い音を立ててぶつかり、俯きがちだったスバルは体を仰け反らせた。

 これが正真正銘、真・ファーザーヘッドだ。

 

「絶対何かある顔しといて『なんでもない』って言っていいのは、この世で付き合う前後の彼女だけなんだよ!」

 

 賢一は勢いのままスバルの胸倉を掴み、ぐっと引き寄せた。

 控えめだった態度はどこへやら、吹っ切れたような鬼の形相をして迫り来る。

 

「お前……お前が世界の支配者なのか人殺しなのか知らねえが、それ以前に俺と俺の嫁の息子だろうが! なんでもないわけないんだよ! 俺たちに会うためだとか、そんな言い訳で人生無駄にすんな!」

「──無駄、じゃ」

「無駄だよ! こんなことして俺が喜ぶとでも思ったか! 俺とお母さんがお前に望むのは、医者になって稼いだ金で石油王になって、老後にハワイでバカンスさせることくらいなんだよ! 贅沢言ってんじゃねえ!」

 

 外の騒ぎに劣らぬ声量で言い放つ賢一に、スバルは瞠目する。

 

 ああ、そうだった。

 自慢の父親、菜月賢一はこういう人間だ。緊張しておどおどして、言葉を選んだところで損をするのはスバルの方だった。

 

「はは……やっぱ敵わねえや」

「当たり前だ。何年お前の親やってると思ってんだ。いい加減、職業欄に父って書くのも飽きたぜ」

「そうよ。お母さんからすれば、昴もお父さんも赤ちゃんみたいなものなんだから」

「え、俺も?」

 

 一度は消えたはずの笑い声が響く。三人揃ってこうして笑うのは、いつぶりだろうか。

 思えば異世界に来る前も、不登校児になってからは心の底から笑えていなかったかもしれない。それが世界まるごと支配してようやく叶うのだから、運命は一体どれだけスバルのことを弄べば気が済むのか。

 その後も笑い声は絶えず、しばらく三人で他愛のない会話をした。

 

「そうだ。俺、好きな子できたんだ」

「知ってた」

「それに、俺みたいなのを好きだって、そう言ってくれ──は? え? 今なんて?」

「バレバレなんだよ。親の観察力なめんな。……だから今度は、俺たちじゃなくてその子のために頑張れよな」

「……ああ」

 

 ナツキ・スバルは一生どころか何万回生まれ変わっても二人に勝てない。

 この世のどんな服よりも価値のある国王の衣装を脱ぎ捨て、賢一から奪い取ったジャージの袖に腕を通した。

 

「うん。やっぱりこっちの方がしっくりくるな」

 

 出来るならば、現実の両親にも制服姿を見せたかった。だが存在しないものは仕方がない。

 いつもの見慣れた格好に戻った昴は扉に手を伸ばす。黒い影に覆われた扉は明らかに異質な雰囲気を放っており、そこを抜けた先が廊下でないことは賢一と菜穂子にも分かった。しかし、彼を止めようとはしない。

 ただ、最後に一つだけ。

 

「いってらっしゃい」

「頑張れよ。期待してるぜ、息子」

 

 手を振る二人に、菜月昴は、同じく手を振り返しながら目一杯の笑顔を送った。

 

「──いってきます!」



▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。