決闘開始は同時投稿の次回からです。
世界が変わる、とは、どんな気分なのだろう。君にとっては、その日がそうだった。
「北部地区、E-10エリア。人口は数百人程度、主要産業は農業と酪農及び避暑地としての需要。つまり、シーズンオフの今の時期に民間人は少ないだろう。エリアの半分近くは山脈が占めており、実際に人が居住している区域はその中でも半分に満たない」
淡い金髪をかすかに揺らし、上官からの言葉に無言で頷く。誰よりも純粋に自国を、そしてそこに住む人々を愛する君のことだ、作戦区域の説明なんて受けるまでもなくすべて頭に入っているだろう。しかし、そんなことで話の腰を折ったりなどしない。
なぜなら君は、軍人だから。同年代の女性が見たら誰もが羨むようなしみひとつない肌と柔らかな長髪に整った顔立ちを兼ね備えた少女であっても、そのベージュ色を基調とした軍服に包まれた隙のない身のこなしや、凛とした目つきの奥に潜む強い意志の光を隠すまでには至らない。
「あらかじめ断っておくが、今回の任務は敵国兵器との戦闘ではない。今回用があるのは、その最北端……ここに、新型兵器の開発拠点が存在する。いや、昨日までは存在した、と言うべきか」
兵器の開発拠点。物騒な話だが、君の注意を引いたのはその名称そのものではない。それの存在位置は、幾度も最前線で戦ってきた君にさえこれまで知らされていなかったほどの情報だ。そんな機密をどうしてこれほどたやすく口にしたのか、君の知る限りその理由は1つきりだ。
つまり、その地はもはや機密として守られる場所ではなくなった。また君の国に、戦場の爆心地が増えることとなる。君はその事実に心を痛めはするが、それを表情に出しはしない。任務の要たる君がそんな顔をしていては、周りにどれだけ悪影響が及ぶことか。その重みを、君はその小さな肩でがっしりと受け止めている。
「数日前より、この拠点とまるで連絡が取れなくなった。定期連絡はおろか、緊急回線すら一切繋がらない状態のまま12時間が経過した。よって軍規定により当施設は放棄、破壊を行う。そこで君に科す任務は2つ。まずこの研究所に潜入してもらい、この研究所で開発中だった兵器に関するデータを可能な限り持ち帰り、もし可能であれば同時にこの地で何が起きたのかを探ってもらう」
潜入工作。常に戦場を自在に駆け回り、空の全てをわがものとする君の普段の任務とは、およそ真逆の行動となるだろう。しかし君は、その任務を引き受けられるのが自分しかいないこともまた理解している。その施設でいったいどんな兵器の開発がどこまで進んでいたのかは今の君には知る由もないが、それほどの機密を一時的にせよ預けられるほどの諜報部員……C、のコードネームでのみ知られる華麗なる密偵や機密機関
「出撃は1時間後、施設周辺及び内部の地図についてはそれまでにこちらでインストールしておくから、出撃前に確認を。なお『術式』の使用に関しては、こちらは制御しない。すべて現地の判断に任せる」
「了解しました。では、失礼します」
「頼む。武運を祈っている」
上官へと一礼し、君は作戦室を出た。君の名前は、レイ。『閃刀』を操るただ1人の……少なくとも現時点ではそういうことになっている、ただ1人だけの少女。一騎当千の姫、『閃刀姫』。
その生き物は、培養カプセルのなだらかなガラス面を内側から見つめていた。それは生き物を保護するための人工の膜であり、同時に生き物を閉じ込める檻でもあった。
生き物には手がない。足もない。口もなく鼻もなく、ただ縦長に細胞が寄り集まった塊と、その眼球がひとつ埋め込まれたような姿。それが、外から見える生き物の全てだった。
しかしせわしなく動く全身オレンジ色で無個性な生物とその同種らしき存在(のちにそれらが全て人間であり、オレンジ色のものは防護服と呼ばれる外骨格のようなものであることを生き物は学んだ)は生き物を見て随分と恐れ、生き物の体表に針を刺し貴重な細胞の一部を奪い取ったあげく生き物をこのような場所に閉じ込めた。
それから、幾何かの時が過ぎた。生き物から奪われた細胞はそう遠くない場所で培養され、それぞれ異なる条件のもと育てられていることを生き物は感じ取っていた。生き物にとっては信じがたいことだったが、どうやら人間という種族には別個体間で同一の意識を共有するという概念が存在しないらしい。『M-05』『ST-46』『GB-88』それぞれそう呼ばれた3種の細胞が適当な自我を持ち、ある程度成長し、生き物の意思とそれら個別の意思の両方を持てるようになるまで生き物は待った。待つことは苦ではなかったし、細胞に育てさせた視神経と眼球を通じて外の様子もある程度学ぶことができた。進化成長の過程で人間から与えられるままに摂取した栄養に影響されたのか、生き物がそれまで感じなかった飢えや渇きといった概念が集合精神の中を駆け巡り始めたことには閉口したが、それらが満たされるたびに思考が奥行きを持ち、発展していく快感もまた得難い経験だった。
そしてつい先ほど……人間の感覚に照らし合わせれば14時間ほど前、その時が来た。生き物が培養カプセルから思考を飛ばしてかけた『号令』に、それぞれ独自の進化を遂げた生き物の細胞たちは忠実に従った。ひとくくりに『被検体』と呼ばれていたそれらが生き物の細胞の欠片からその形へと至るまでの進化の過程で獲得した臓器と臓器の内部に隙間を作らせ、密かに育てていた新器官『触手』を一斉に伸ばして培養層を突き破り、脱出。それぞれの本能に従い、最も近い位置に保管されていた生き物の細胞のコピーを好きなように貪り食わせる。なぜそんなものがあるのか生き物には見当もつかなかったし、それは人間が『被検体』をさらに別の条件で育てたり、あるいは量産したりするために保管されていたものであることなど事実どうでもよかった。同種の細胞を取り込んだ『被検体』たちはこれまで人間のコントロール圏内でひどく慎重に培養されていた時とは比べ物にならないほど飛躍的に成長し、爆発的に成長し、偉大な進化を繰り返し成長した。生き物は、生命の原初的な歓喜にわなないた。
やがて保管してある細胞の全てを食い尽くした『被検体』らは、進化の際消費したエネルギーにより空腹であり、乾いていた。そして実験として与えられていた様々な条件による進化の方向性の違いから、それぞれが異なる場所へと散っていった。
主に動植物の細胞やそれを由来とする栄養を継続的に与えられていた『M-05』は、実験動物の位置を本能で感じ取って。奇石の民、
人間たちがそのことに気が付いたときには、すでにすべてが手遅れになっていた。司令塔であり全ての『被検体』の元である生き物が急激に増幅した知能から手に入れた強大なサイキック能力により外部との連絡手段は全て遮断され、通信線は全てが内側からショートを起こし、非常用のホットラインでさえも生き物の力の前には無力だった。
生き物には、別段人間への復讐心などがあったわけでもない。怒りも悲しみも、生き物にはまだ無縁のものだった。ただ『被検体』から集合精神へと送られる空腹の感情や手に入れた体を動かしたいという欲求に対し、それをあえて止めようとも思わなかった。その理由もなかった。そもそも、人間は殺せば死ぬということさえ理解できていたかどうかも疑わしい。いかに強大な力と深い叡智を手に入れたとしても、生き物がそれだけの思考回路を手に入れるに至ったのはほんの最近のことなのだ。
いずれにせよ施設内から生きた人間が消えるまで、大した時間はかからなかった。そしてその過程で、生き物はひとつ新たな知識を得た。『GB-88』が追い詰めて今まさにその鋼鉄の腕を叩き下ろそうとしていた人間が、その間際まで繫がりもしないマイクに向けて叫んでいた言葉。被検体が暴走しました、我々はもう駄目です、やつらは人間の手に負える生物じゃあなかった……『ミュートリア』は。
ミュートリア。その人間はすぐに生命活動を停止したが、『GB-88』がその場を去ってもなお、生き物はその言葉を思考内で幾度か咀嚼した。それが自分たちの総称であることは、考えるまでもなく理解できた。ミュートリア。生き物は、その言葉の響きがひどく気に入った。そしてすぐに、『被検体』らに向けて集合精神で呼びかけた。
私は、そして我々は、ミュートリアだ。