日差し、シーツの肌触り、鳴ってない目覚まし、口元までやってきた自分の髪。そういう情報が一気に意識に流し込まれると、今日もボクは起きたんだと気づかされた。冷房の温度が高かっただろうか、背中のあたりが汗ばんでいる。
また一日が始まったんだ。
スマホを取ろうとすると、ナイトテーブルまで這っていく必要があった。ボク一人にダブルベットは大きすぎる。午前七時八分、リマインダーが一件「迎えに行く 四時」とだけ浮かんでいた。
「……やりますかぁ」
今日一日こなすタスクに「迎えに行く」がきっちり組み込まれれば、躊躇う理由はなくなってしまう。さあがんばれ、ボク。
トレセン学園でのアスリート生活を終えて、卒業して。大学に入ってしばらく一人暮らしなんかした後、この生活がスタートしたのが三年前くらいか。
今のボクは両親のビジネスを手伝っている。やりたいと心から思ったわけではなく、そこに席が空いていて、ボクに座ってほしいという人たちがいただけ。子供の頃から色々聞かされていたけど、この事業は思ったよりも大掛かりだった。実際に働く日は不定期で、今日は休み。時間が空くと昔のことを思い出すなんて、ボクも年をとったなぁ、と思う。でものんびり思い出してる場合ではない。「Breakfast」という単語の文字通りに、トーストと残り物の野菜炒めをさっさと胃袋にしまって、コーヒーで目を覚ます。仕事はなくとも家事はある。
都内のアパートなんて広くはないから掃除機は楽だ。実家みたいにメイドを雇う事もない。掃除機を出して、適当に音楽をかけながらやれば終わる。
「ふぅ」
ものの二十分でピカピカになった床に寝転んで一息。天井はいつも通りLEDの電灯と火災報知以外は真っさらだ。
掃除をするのには丁度よく狭いけど、キミがいないと広すぎるよ。
ボクの同居人は仕事で一ヶ月くらい日本にいなかったりするので、こういう時家を守るのはボクの役目なわけだ。大学を出てからずっとやってるんだから、慣れてくるけどさ。
「……エサやらなきゃ」
一人、なんて言ったけど正確には一人と一匹だ。リビングの角の棚に乗る小さな水槽。中には、クジャクを思わせる鮮やかなヒレをもった魚が一匹。ボクが顔を近づけると、エサをおねだりしているのか寄ってくる。
「ほーらお食べ」
ベタという種類の魚。マーヴェリックという名前がついてる、この家唯一の男の子だ。
「そう、今日だよ。キミの名付け親なんだからちゃんと出迎えなよ」
ガラス面をつつきながらそんな事を言ってみる。マーヴェリックは気にせずパクパクとエサをつついていた。
大学時代の一人暮らしで気づいた事だけど、ずっと一人で過ごしてるとボクは独り言が多くなるタイプらしい。独り言よりは、ペットに話しかけてるほうが傍から見れば健全かもしれない。誰も見てないのだけど。
でも、たまにボクはキミの事を呼んでみることがある。「マヤノ」って。そうしたらひょっこり寝室から顔をのぞかせるんじゃないかって。そんなわけなくても、つい試してしまうんだ。
洗濯機が止まると、ベランダに出て洗濯物を干す。ここはちょっとした高層マンションなので、眺めに関してはすごくいい。六本木ヒルズもレインボーブリッジも東京タワーも、みんな見える。
湿気を含んだ八月の空気を胸一杯に吸い込んで、肩の力を抜く。しばしばボクはこの景色をぼーっと眺めることがある。この景色。大人になったボクらが自分たちで手に入れた景色。かつてレースを走って歓声を浴びた時、ステージのセンターで歌った時、そんな刺激に満ちた景色は戻って来る気配もない。今のボクは流された先で「生活」をやるだけのウマ娘。それが悪い事なわけないと、わかっているはずなのだけど――
「あ……」
汗がつぅ、と鼻筋に沿ってたれてきたので我に返った。こんな夏日に外で何やってるんだ。風呂掃除もついでにやってしまおうと朝思っていたじゃないか。
室内に戻ったボクは適当にお昼ご飯にサンドイッチを作って、重曹がまだ残っていたか思案している最中に全部飲み込んでしまった。
風呂掃除は三十分ほどで終わった。気になってたお風呂のぬめりは落ちたし、ついでに普段届かないところのホコリも取った。
「うん、ぴかぴかだ」
リビングで仁王立ちになって眺める。これ以上にないくらいキレイなボクらのお城。誇らしいね。
スマホを取り出すと、午後三時四十分。もうちょい時間がある。晩ご飯のお米を炊飯器にセットしとこう。今のボクは、空き時間に家事を詰め込む天才だ。
通知でスマホが揺れる。
「迎えに来て〜」という文字のあとに、唇をとがらせる顔文字。今香港あたりで乗り継ぎを待っているのだろう。
言われなくてもわかってるよ。
玄関に置いてある車のキーを取る。キミが欲しがったオレンジ色のフィアットのキー。
「行ってくるね」
マーヴェリックにそう伝えてドアを開けた。それだけの事で、ボクの口は少しニヤニヤし始めていた。
†
日がすっかり沈んだので、帰ってきた頃には早速電気をつける必要があった。
「たっだいま〜!」
天真爛漫な声。キレイなだけだった部屋を輝かせる、最後のピースだ。同居人、まあ、それ以上の関係だけど……マヤノトップガンが、帰ってきた。
「おかえり」
後から入ってきたボクが言うのは、少し変な感じ。
「わ〜、すごいキレイじゃん!お掃除ありがとね、テイオーちゃん!」
出会った頃よりは落ち着いてきたとはいえ、まだまだマヤノは元気な子だ。ボクは、とりあえずドヤ顔で応える。
「お風呂もしっかりキレイにしたからね〜。お風呂とご飯、どっち先にする?」
「じゃあ……テイオーちゃんで」
「ご飯にするね」
「え〜わかったよぉ。あとで背中流してね、あっちじゃシャワーしか無かったんだから」
キッチンに向かう。
「今夜はにんじんハンバーグだよ」
「いいねいいね、テイオーちゃんのにんじんハンバーグっ」
料理をしながら、マヤノの海外での話を聞いた。インターネットも無い辺境の地での出来事。自分の飛ばすヘリコプターからの景色。発生したトラブル。饒舌に語るマヤノに、ボクはただ耳を傾ける。これが毎回の恒例行事になっている。
「あーっ、マーヴェリックまたアタシを威嚇してる〜」
手を拭いて水槽の方に行くと、ボクらのペットはヒレとエラを思いっきり広げて自分を大きく見せていた。
「一ヶ月もいなかったらやっぱり忘れちゃうんだね」
魚なんだから仕方ない。ボクはマヤノの肩に手を置く。
「ご飯できたよ」
「うん、やっぱりテイオーちゃんの手料理が一番だね!」
「作った甲斐があるなぁ」
海外の食事、それも仕事先の食堂で済ませることがほとんどだから手料理は嬉しいのだという。
心から美味しそうにハンバーグを頬張る姿に、思わず顔が緩む。胸の奥にある鍋がふつふつと湯気を漏らすように。わき上がってくるこれは、きっと愛情なんだと思う。
刺激がなくたって、キリがなくたって、一人ぼっちでも。帰って来るキミのためなら、ボクはこの生活をいくらでも繰り返してみせるよ、マヤノ。
「ねぇテイオーちゃん」
花咲く雑談の合間だった。
「なに?」
キミは真剣な顔になって、
「一人で平気だった?」
と、まっすぐに問う。軽口だと勘違いする余地もなく。
「うぅん、大丈夫……ちょっと退屈になるくらい」
ボクは、まっすぐに返せなかった。マヤノががんばって就いたパイロットの仕事を、ボクの感情でどうこうさせたくない。
「そっか……」
それ以上、マヤノは踏み込まなかった。
食事は終わり、二人分のワインを用意する。
「umazon primeで今配信してるってさ、『進撃の魚人』」
「やたっ、観たい!」
ソファでくつろいで、晩酌をしながら一緒に映画を観る。これもマヤノがいる時の恒例行事。今回はおかしなパロディ映画をチョイス。勤務地には映画館もなかったようで、マヤノにとっては一ヶ月ぶりの映画。
ワインもアテのサラミも用意して、視聴体勢は完璧だった。
完璧だったけど……隣り合って座ると、ボクの手がキミのに触れた。懐かしくなるほどに久しくて、完全に忘れるほど離れ離れではなかった温もり。ボクの中で張り詰めていたなにかが止まらず溢れてきて。
「ん、テイオーちゃん?」
体が、ほとんど自動的にマヤノに寄りかかる。
「やっぱり……」
ボクもわかっていたはずだ。マヤノに隠し事はムリだって。強がっても良い事はなかったのに。
「やっぱり、寂しかったよ」
そこに間違いなくマヤノがいて、すぐどこかに飛び去らないという事。思考でわかっているはずのそれを確かめるように、マヤノを強く、強く抱きしめていた。
「……ごめんね」
謝らせてしまった。
「いつまで居られる?」
「来月の十七日まで。それまでは一緒だよ」
マヤノの腕がやってきて、抱き返してくれる。
「アタシね、国内の仕事先探そうと思ってる」
「まって、それは――」
ボクのために仕事を変えなくても……驚いて離れたボクの口に人差し指が添えられ、そこまで言えない。
「仕事は楽しいけどさ」
「海外生活は大変だし、家の事テイオーちゃんに任せっきりだし……」
見つめられて固まるボク。
「マヤもね、寂しい」
それは、出会った頃のマヤノが使った一人称。
「だから……」
頬にやわらかなものが当たる。優しくて、愛おしいくて、ボクの渇きを全部癒してしまう魔法。
一ヶ月と五日ぶりのキスは、それほど劇的だった。
とても言葉にはできない感情の激流……でも、言葉にしなくたってキミにはわかっちゃうのだろう。説明しようとするのはあきらめて、唇にキスを返した。
「もう、アタシの事好きすぎでしょテイオーちゃん」
「どっちがさ……」
「ダメ、マーヴェリックが見てるよぅ」
「変な事言わないでよ!」
今のボクには人生の目標も、アスリート時代の名声も刺激もない。何をどうしたいかすら見えない。
でもキミを、マヤノトップガンというウマ娘を絶対に離したくないという事。これだけは何があっても変わらないし、そのためには生活でもなんでもやってやる。
手の届く距離の事を、それもキミと一緒にやっていけばどんな道でも幸せはあるだろう。
出したワインはすっかりぬるくなっていた。
夏コミ(C106)にて頒布した『テイマヤ合同』に載せた作品になります。
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