パーカー、シャツ、キャミソールを順番に脱いでゆく。ここは温泉の脱衣所。秋こそ観光客が多そうなものだけど、今日はボクたち以外に誰もいない。右に目を向ければ、早々に脱ぎ終わって髪の毛をまとめているマヤノがいる。
「……あ、手伝う?」
大丈夫とボクは制止すると、またズボン、タイツと脱いでゆく。その下から包帯を巻いた脚が現れると、思わず顔をしかめた。何度目にしても、その白さが恨めしかった。
* * *
「ついたね」
控えめなマヤノの声。長いバス旅を経てから、少し歩いた所にあるのは温泉街の中心部にあたる湯畑。湧き出る毎分32000リットルの温泉は滝のような音を立てて熱気を放っている。秋らしい、どこか遠くで草が燃えたような匂いに混じる硫黄の匂い。登ってゆく圧倒的な量の湯気を視線で追えば、空は生憎の曇り空。
「ね、親戚の人が経営してるってお宿、もしかしてアレ?」
指さす方に目を移すと写真で見たのと同じ、白い大きなホテルが紅葉の中に佇んでいる。
「そうだね、去年買い取ったんだってさ」
「ひゃあ……もっと小さい旅館みたいなのだと思ってた……」
あれこそがここに来た理由。ボクがまたケガをして、良くなってきた所で湯治にいらっしゃい、と親戚に誘われて。
……ホントは遊んでる場合じゃないんだろうけどな、という思いは拭えない。でも、学園に閉じこもって回すトレーニングと授業のループには閉塞感を覚えていた頃ではあった。こんな時こそ一歩引いてリフレッシュも大事、トレーナーにそう言われた気がする。
チェックインまで余った時間、手をつないで温泉街を回った。
「……」
この季節は済んだ空気と引き換えにいろんな物を奪ってゆく。毎日大合唱してたセミたち、まだ明るい午後六時、復帰する有マまでの時間。ぶっつけ本番のG1だしスケジュールはギリギリ、上手くいったとしても無茶な計画だ。
隣を見やると、マヤノずいぶんと静かにしている。気を遣わせちゃってるな。いつもならついていくのが大変なほどはしゃぐのに。
「ウマスタ……撮る?」
そう提案してみるとマヤノは「あ、そうだね」と慌ててスマホを取り出す。やっぱり、らしくない。湯畑を背景にマヤノがインカメラをこっちに向けると、表情硬めのマヤノと笑顔になりきらないボクの顔が映る。一応撮ってはみても、当然盛り上がる事もなかった。
謝ろうと思った。された方が困るのかもしれないけど、この気まずい雰囲気はボクのせいだから。息を吸って、心を決めて沈黙を破る。
「ねえ、マヤ……」
「あ、トウカイテイオーだ!」
遮ったのは遠くから響いた声。すっかり意表を突かれたボクは目と耳を総動員して声の主を見つけた。小さい男の子の声だった。
「次も頑張ってね!」
ママと思わしき人に手を引かれながら、元気よくそう叫ぶその子にボクはとっさに手を振って……そして思い出した。レースを走り終えて、勝った負けた関係なしに応援してくれるファンの人たち。瞬きする度に見えるそんな光景、そして偶然居合わせた小さなファンに自然とボクは笑顔を作っていたし、背筋だって伸びた気がした。
「人気者だね」
見えなくなるまで手を振ると、表情の和らいだマヤノに小突かれた。長らく味わってなかった感覚の追想なのか、応援が素直に嬉しかったのか。どっちにせよ、ボクってけっこう単純なんだな。
* * *
「わぁ~!!」
「すごい……」
曇ったガラス戸を開くと、待っていたのは真新しい檜で作られた大浴場。宿自体の外見はそうでもないのに、ここはやたらピカピカだ。
「マヤたちだけの貸し切りだねっ!ねえねえ、早く入ろ!」
「よーし……あ、まず体洗わなきゃ」
だれもいないからはしゃいでも怒られない、でもこれを忘れるわけにはいかない。体さえ綺麗になれば、寮のお風呂の倍近くある女湯はぜんぶボクらの物。木目の光る空間は大声で「非日常」と叫んでいるみたいだ。
「なにこれ、樽のお風呂?」
「ちょっとカワイイかも!」
たくさん用意されたお風呂を一つ一つ試したり。
「マヤノなら違いわかる?」
「う~ん、こっちのほうがお肌にピリッとくるかも……?」
別々の源泉のお湯を比べてみたり。
「うひゃっ冷たっ!」
「ちょっとこれ水風呂!?」
ずーっとこんな調子で、ようやく落ち着いたのは露天風呂まで来た時だった。高層階から望む背の低い、可愛らしくも見える温泉街。それを取り囲む山々は、紅葉と針葉樹が入り乱れてグラデーションを描く。きっと太陽が出ていれば完璧なんだろうけど、ボクもマヤノもほっと一息入れて、ついつい眺め入ってしまった。
きっとこれが本来の楽しみ方だとは思うけど、落ち着いた分、さっきまで振り払っていた暗雲がまた心に顔を出してきた。楽しい時間は速く過ぎる、なんてよく言うけど。
「ね、テイオーちゃん」
「なに?」
トーンの下がった声は、落ち着いたというだけではなさそうだった。
「……ごめんね」
「えっ……?」
なにか謝られるような事があっただろうかと記憶を探ってみる。当然そんなのは無い。
「さっきはちょっと騒がしくしすぎたかなって……本当はもっとゆっくりしたかったのかもって、今思ったの」
「それは……どうして?」
「だってテイオーちゃん、落ち込んでたから……励まそうと思ったけど、余計だったかなって……」
落ち度があるのはボクの方だ。勝手に不安になって、それをマヤノに見抜かれて、こんなに気を遣わせて。
「そんな事ないよ」
お湯の底に見えるマヤノの手に自分のを重ねる。これ以上黙っててもいい事は無さそうだ。
「あのね――」
いくら身近な人でも……いや、身近だからこそ話しづらい事もあるか。とにかくボクは隠していた胸の内を洗いざらい喋ることにした。
ボクがくじける度に助けてくれた人たちに感謝していること。でも今回の有マばかりはあまりにも無茶だと思っていること。その不安で弱気になっていること。
「だから怖くて、素直に楽しめなかっただけなんだ。ここまで来てようやく楽しかったって、そう思えた」
ただ手を重ねたまま、マヤノは静かに聞いててくれた。素直に話せたのは温泉という場のせいか、弱い面をもう何度も見せてきた相手のせいなのか。もしかしたら両方なのかも。
話し終えた後に残るは風と、源泉かけ流しのお湯があふれ出る音。指を絡めてきたマヤノの小さい手を捕まえてぎゅっと握った。触覚はそこに集中させて、耳は二つの音に澄ませて目を閉じる。せっかく訪れたこの沈黙を、しばらくの間ボクたちは楽しむことにした。
「マヤも、白状するとね」
手を引いてマヤノが立ち上がった。沈黙を割る水音。
「最初にテイオーちゃんがケガした時、ホントは復活なんてもう無理だって思ったの。治っても、今までみたいに上手くいかないって」
少しだけ湯気をまとってちゃぷ、ちゃぷと湯船の向こう側まで歩くのを目で追う。
「でも立ち上がって見せた。何度も。三女神様がどんなにイジワルしても『ボクはここだ』って言ってるみたいに」
後ろに手を組んで、数秒の間。そして振り返る。
「だからもう疑ってないよ、テイオーちゃんは勝つって」
イヤな気持ちって、なにか別の事に没頭して払いのけるものだと思ってた。ほっとくとそれはどんどん心を蝕んでゆくし、いつもそうやって付き合ってきた。
でも今のこれは不安が溶けて無くなったみたいだ。それこそ、氷をお湯に落とすようにスッと消えていった。冷たい水が後に残っても、そんなのはもうどうでもいい。今この瞬間ボクは目の前の光景で頭が一杯なんだ。息を呑むような景色を背景に佇むシルエットに。
湯気のカーテンの向こうに浮かび上がる真っ白な背中。長い髪を結い上げて見えるうなじにへばりつく、取り残された髪。そしてボクの暗がりを一ミリ残らず照らしてくれるかのような笑顔。太陽が出てなくったって、キミがそこに立っているだけで景色は欠けたものを取り戻したみたいで。
……見返り美人って、こういう子の事を言うんだろうな。瞬きも惜しいほど、この光景に目を留めていたい。そう、思ったけど……なんだかマヤノの顔が曇った。
あれ、こっちに戻ってくる?なんだろう、誰か来たのかな、なんて止まってた脳みそを動かしているとボクの視界が何かで塗りつぶされた。「べちーん」という音とともに。
「ぴぎゃっ!?」
痛み。顔から剥がれたのはオレンジ色で、冷めた温泉の染み込んだ、マヤノのしっぽ。
「人が真面目な話してるのに、えっち!」
「まってそうじゃない!そうじゃないんだよ!」
思わず手で顔を覆った。ウマ娘のしっぽの威力は見た目以上に強い、濡れて重みを持ったなら特に。
「言い訳は聞きませーん、マヤ先出てまーす」
勘違いだと説明するためにあれこれ釈明を引っ張り出してみても、考えれば考えるほど勘違ってないような気がして強く出れなかった。ジロジロ見ていたのはまあ、そうだし……
中に通じる扉が開くのが聞こえた。
「テイオーちゃん」
振り返らなくてもわかる。笑顔の声だ。
「マヤも来年デビューするんだから、最強無敵のままで待っててよね!」
返事を待たずに、ゴムパッキンを鳴らして扉は閉まる。風とお湯の音だけの世界が戻ってきた。
「……アイ・コピー」
自分だけに言い聞かせるようにつぶやいた。まったく罵られたり応援されたり、ボクって忙しいや。胸の内で笑いながら、ボクは口元までどっぷりお湯に浸かった。
有マの不安は当分戻ってきそうにない。
* * *
『だからもう疑ってないよ、テイオーちゃんが勝つって』
『最強無敵のままで待っててよね!』
お風呂でマヤノが言ってくれたことは力強かった。ホテル部屋(和室だった!)に戻って、豪華な晩御飯も食べて、浴衣に着替えて寝る準備を終えた今でもはっきり思い出せる。そりゃもう、温泉の匂いと併せて鮮明に。
「えへへ、テイオーちゃん好き~♪」
だからあんなに勇ましい事を言ってたマヤノが、ブンブンしっぽを振ってボクにべったりと甘えているのはある種、衝撃的。温度差でカゼ引いちゃいそうだよ。
経緯、といってもお布団の上に座ってスマホをいじってたら飛びついてきて、というだけ。でもこれは今日突然始まったわけじゃなくて、ボクが今回ケガして、気持ちが落ち着いてきたあたりからするようになった事。一緒に寝てる間、脚にのっかられたら悪化するかもしれない。そんな懸念もあって別々のベッドで寝てたら、ある日「テイオーちゃん成分が足りなくて寝付けない!」とマヤノが遠慮がちにも抗議してきたものだから大変。代わりに今はよく寝る前に……その、いちゃいちゃしている。
でも嫌かと聞かれたら「そんなわけないじゃん」と間違えなく答える(恥ずかしいからそもそも質問は止して欲しいけど)。ボクだけが見ることのできるマヤノの一番かわいい所。飽きることなんてないし、ちょっと優越感もあるかも。だからできるだけ付き合っている、今みたいに。
ぐりぐりと胸元に押し付けられるマヤノの頭を両手で包み込んで、大きな耳に唇を添わせる。
「ボクも好き」
できるだけ優しく、そう囁いた。消え入りそうな声でもウマ娘には十分だ。一瞬くすぐったそうにすると、マヤノは満足げにぎゅうっと抱き着く力を強めてきて、ボクの胸が一層高鳴る。
……ふと思った。これからマヤノがデビューしたらどうなるんだろう。勝つ喜びも負ける悔しさも知って、きっと精神的に大きく成長する。ライバルだってできたりして。勝負の世界はウマ娘を変える。すっかり大人になって、甘えてくる事もなくなっちゃうかな?そう思うと胸に秋風のようなもの寂しさが吹き込んだ。
それ以上に、夢破れたり……ケガだってするかもしれない。
マヤノの体が離れて、目を瞑ったまま顔をこっちに向けてキスをねだってくる。でも応えようとしても、ボクの脳みそが流す悪趣味な映像が邪魔をした。傷だらけになって倒れたマヤノの姿に、開けて欲しいのに開かない目。
「……どうしたの?」
瞼を開けて問うマヤノ。答える代わりに、体温を確かめるようにボクはキミを抱き寄せる。そうだ。もしそんな事がキミに起きたら、今度はボクが助ける番だ。何があってもぜったい側にいるよ。腕に力を込めながら、そう頭の中でうるさいほど誓った。
「ありがとう……」
湧いて堆積していった言葉は入り混じり一つの言葉になって、ぶっきらぼうに口を出た。いつか必ず全部伝えるから、今はこれで許してね。
「……はい、もうおしまい。寝るよ」
「え~!」
マヤノはやっぱり離れたがらないけど、ボクがこうでもしないとキリがないのは本当で。止めなかったら一時間は平気で甘え続けられるのがマヤノだ。いくら明日も休みだからって寝ないと体に毒だ……そう、思ってたんだけどね。自分の布団の枕を見ると、顔面にもらったしっぽの一撃を思い出した。
「ねえマヤノ」
「なーに?」
返事が返ってきた頃にはもう枕はボクの手を離れていた。振り返った顔に完璧に命中したものだから、ボクは邪悪な笑いを上げてみせた。
「あー!やったな~!」
「お風呂の時の仕返しだもんね~!」
「テイオーちゃんがマヤをイヤラシイ目で見てたからでしょ!」
「今更恥ずかしがる事ないじゃんか~。わ、ちょっと、ボクケガしてるんだよ!?」
「顔は平気でしょ!ほ~ら、FOX3!」
突如勃発させた枕投げが照れ隠しのつもりだったのか、今では自分でもわからない。心配事だって、ただ一時的にうやむやになっただけかもしれない。
でも信じてくれる人がいる限りボクはきっと立ち直れる。今はそれでいいのかもしれない。いや、今楽しまないのはもったいない。ちょっとだけ目を閉じて幸せに浸ろうとしたけれど、飛んできた枕に小難しい思考は遮られた。