燃え尽きるまで、君の隣で   作:ペンギン13

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小さな鳥の歌。優木さんの歌。魔法。

 雨でぬかるんだグラウンドをローファーで走るのは、中に水や泥が入り込んで大変に不快だし、滑って転びそうになるし、何一つ良いことが無かった。

 朝に比べると雨は随分弱まっていて、それでも身体にまとわりつくような細かな雨が降り続けている。

 ステージに辿り着くころには、制服もウィッグもマスクも、すっかり濡れそぼって、水滴で鬱陶しい眼鏡は外してポケットに突っ込む。背負ったギターケースの中身が心配だけど後回しだ。

 

「優木さん、なにしてるのっ!?」

 

 ステージ上に張られた、雨よけのビニールを除けて、マイクを手に取ろうとする優木さんの背中に声をかける。

 

「み、御崎さん? どうしてここに?」

 

 振り返った優木さんのステージ衣装には、ところどころに泥が跳ねて汚れていて、三つ編みを下した黒髪には水滴が滴っている。 

 

「窓から姿が見えたから……なにしようとしてるの?」

 

 そう僕が訊ねると優木さんは、気まずそうに俯いた。

 

「ライブを、やろうと思ったんです」

 

「ライブって、メンバーには声掛けたの?」

 

 優木さんは首を振る。

 いやいやいや。広大なグラウンドのど真ん中。バンドも従えずに、たった一人アカペラでライブ?

「やるならせめて、バンドメンバーが揃ってからやろう。リカさんたち呼んでくるから」

 

 確か、バスで寝てる、と言っていた。リカさんやバンドメンバー達を呼びに行くため、駐車場の方に駆けだそうとする僕を「ダメですっ」優木さんの声が引き留めた。

 

「ダメなんです。私の我儘ですから、私だけの責任でやらないと」

 

「……まさかと思うけど、許可取ってない?」

 

 頷く優木さんに、僕は気が遠くなる。なんだってそんな無茶を。

 

「やめときなよ、絶対に問題になるよ」

 

「わかっています。全て承知の上です」

 

「……もしかして、さっきの演劇部の娘たちのこと気にしてるの? あんなの優木さんが気に病むことじゃないって」

 

 僕たちはただ、ライブを演りに来ただけだ。

 貴方たちが来なければ、なんて学園の指示で演奏をしに来ている僕や優木さんに言われたってどうしようもない。

 文句を言うなら、くじ引きで持ち時間を決めるような適当な提案をした実行委員や、雨天でダメになる半端なステージを用意した職員室や、ライブを無理にねじ込んだ虹ヶ咲学園に言うべきだ。

 それなのに、優木さんは悔し気に顔を歪めて首を振る。髪の毛から宙に舞った水滴はまるで涙の粒みたい。

 

「私がもっと凄ければ、こんな雨なんかに負けないステージを用意して貰えるくらい、私が凄いスクールアイドルだったなら、こんなことにはなりませんでした」

 

「いや、その理屈はおかしいでしょ……」

 

「おかしくないです」優木さんは手に持ったマイクを強く握りしめる。

 

「きっとあの演劇部のお二人は……いえあの方たち以外も。この学校の全ての生徒達はこの日のために、自分たちの大好きなことのために、たくさんの努力をしてきて、私がそれを邪魔してしまったんですから」

 

 僕は言葉に詰まる。どうしてそこまで自罰的になれるのか理解ができない。

 演劇部の人たちも、この学校の生徒も、今日初めて会った僕たちには、なんの関係もないじゃないか。

 僕が冷徹なのか? そんなことはないだろう。他の誰かだって同じように考えるはずだ。

 気の毒だね。仕方ないよって。

 

「御崎さんは何も見なかったことにして、校舎に戻っていて下さい。ライブが終わったらバンドの皆さんはすぐに帰宅できるよう取り計らいますから」

 

 そう言って、優木さんは手に持ったマイクのスイッチを入れて、だけどもマイクは全く反応しなくて。まだ体調が芳しくないのか優木さんは、青白い顔でフラフラとステージ上を歩いて、並べられたマイクスタンドから新しいマイクを引き抜いて、けれども当然、音は鳴らなくて。

 

 踵を返しかけて、思いとどまる。

 僕は優木さんとは違う。

 出会ったばかりの赤の他人が困っていて、力になれることがあれば気分次第で不承不承、手を貸すくらいはするかもしれない。

 だけど、自分の立場を脅かしてまで助力するかと言えば、それは確実に否だ。そこまで僕は人間が出来ていない。

 だけど今、目の前で困っていて、だけどそのことをおくびにも出さずに、誰にも頼らず、自分一人でどうにかしようとしているのは、実行委員の生徒でもなく、屋台の準備に悪戦苦闘する生徒でもなく、あの演劇部の生徒達でもなくて、優木さんだ。

 

 僕は優木さんのことを何も知らない。

 優木さんと中川さん、どちらが素の彼女なのかわからないし、どうしてこんなにスクールアイドルに対して熱量を持っているのかも知らない。ていうかなんで正体隠してるの?

 本当に何も知らないんだ。関係性を問われれば、赤の他人と答えても違和感は無い。

 けれど、彼女には僕が初めて虹ヶ咲学園に行ったとき、道に迷っているところを助けてもらった。

 それなのに僕は、全てが僕の責任でなかったとしても、結果的に彼女のことを騙し、その厚意を仇で返す形になった。

 ……息を吐く。覚悟を決める。

 もし、これから始める行為を咎められ、僕の正体が明るみになれば、色々と、それはもう色々と僕自身も、僕以外も、大変面倒なことになるだろう。

 だけども、ここで優木さん一人残して、言われた通り回れ右して、のこのこ校舎に戻るのは、こんなふざけた格好をしているとはいえ、男としてどうかと思うから。

 僕はステージに手をかけてよじ登る。

 

「ちょっと貸して?」

 

 驚いた様子で振り返る優木さんの手からマイクを取って、ステージ上を見渡して、上手の袖の奥に目当ての物を見つけて歩み寄る。

 しゃがみ込んで見てみると、だいぶ年季が入った外見だけど幸いにも、うちで使っている発電機と同じ機種だった。

 しばらく前に父の仕事の手伝いをしたときに、教えてもらった手順を思い出しながら、燃料コックを開き、チョークを引いて、スイッチをオンにする。

 

「わかるんですか?」

 

 心配気に訊いてくる優木さんに、多分、と返しながら、スターターハンドルを思い切り引っ張る。

 一回では起動せず、本当に動くのこれ? 不安になりながらも、何度か同じ動作を繰り返していると、エンジンが咽るような音を鳴らして、チョークを戻していくとエンジンが始動した。

 発電機の唸り声のような低音に、優木さんの肩が跳ねる。

 続いて発電機の近くに置かれていた、ラックケース入りのパワードミキサーの電源を入れる。

 グラウンドのどこにもPAブースが見当たらなかったときから、薄々感づいてはいたけれど、このステージの音響はステージ上だけで完結している。

 本当に準備の時間がなかったのだろう、ステージの外に音量のバランスなどを操作してくれるスタッフがいないのだ。

 当然、バンド演奏に耐えられる環境ではなく、良くてカラオケ大会レベルの音響設備。

 それでもリカさんたちならば、どうにかしてしまうのだろうけれど……。

 だけれど、今はこのシンプルすぎる機材がありがたかった。これくらいなら僕でも弄れる。

 マイクをミキサーに接続して、音が問題なく出ることを確認して優木さんに手渡し、手早く自分のギターの準備に取り掛かる。

 ライブを始める前に誰かに気取られたら面倒だ。急がないと。

 ギターケースを開くと、うわぁやっぱり中に雨水が染みてる。ケースのポケットから同じように濡れているファズエフェクターとシールドケーブルを取り出して、アンプに繋ぐ。とりあえずは音が出るから大丈夫そう。

 

「あの……良いんですか?」

 

 チューニングをしていると優木さんが訊いてきた。

 

「なにが?」

 

「一緒にステージに立っていただけるのは凄く心強いですけれど、迷惑をかけることになってしまうかと思いますので……」

 

「まぁ、きっとなんとかなるよ」

 

 先のことは後で考えればいい。

 僕はステージ袖に見つけた丸椅子を持ってきて、一脚を優木さんに勧めて、その対面に腰かける。どうせ客はいないんだ。

 組んだ脚にギターを構えて、どの曲を演ろうか? 訊ねようとして、自分の手が酷くかじかんでいることに気が付いた。

 

「……ごめん、少しだけ指慣らししても良い?」

 

 ステージの幌だけでは、未だ降り続ける細かな雨を遮ることは出来ず、冷たい雨が足元を濡らしている。

 優木さんが頷くのを見て、僕は濡れたファズエフェクターのスイッチを蹴っ飛ばし、ギターアンプが咆哮を上げかけるのを、ギターのボリュームノブを絞って抑え込む。

 すると音色は鈴の鳴るようなクリーントーンへと、魔法のように変容する。

 この円盤系のファズがなければ出来ない、ギターの弾き方と一緒に、子供のころに教わった魔法。

 ピックを振り下ろし、左手で指板を探る。

 ウォーミングアップに弾くのはいつもこの曲だ。初めて弾けるようになった曲。父が教えてくれた曲。ギターの神様が産み落とした、おとぎ話みたいな小さな鳥の歌。

 

 星を散らすギターの音色に、低い歌声が紛れていることに最初、僕は気が付かなかった。

 それは優木さんの地面を這うような低音のハミングだった。

 歌詞を伴わない感情を剝き出しにした歌声は次第に熱を帯び始め、曇天を割る雷光を思わせる鋭いシャウトとフェイクが飛び出し、僕は追い立てられるようにギターのボリュームを上げて、ネックを絞り上げ、ピックを叩きつける。

 

 2分程度の短い曲はあっという間に終わった。

 優木さんと僕との間に、きらきらと瞬いて見えるのは、雨粒か、音の残滓か、それとも飛び立った小さな鳥が落としていった羽だろうか。

 指先はすっかり温まって、優木さんの方も青白かった顔に、心なしか血色が戻っているように見える。

 

 曲はどうしようか?

 

 あの曲にしましょう。

 

 わかった。テンポはこれくらいでいい?

 

 僕は指を鳴らす。

 

 はい。

 

 じゃあカウント4つで。

 

 ミュートした6本の弦にピックをぶつける。

 

 1、2、3、4

 

 優木さんが息を吸い込む音。弦のスクラッチノイズ。

 

 吐き出された優木さんの歌声に、僕はただ圧倒される。

 こんな歌い方も出来るんだ。幸福なときに零れる溜息のような。残雪を溶かす春の陽光のような。

 普段の烈火のような、強烈な光を伴う歌声とはまるで違う、温かくて優しい歌声。

 

 優木さんの歌は不思議だ。

 聴いていると胸の奥がじわり熱くなって、気が付けば身体中は焼けるような甘い痛みを伴う熱に包まれていて、それなのにその痛みはどうしようもなく心地よい。

ステージでは彼女の一挙手一投足から目が離せない。

 客席に向けて腕を振り上げた瞬間。手をグッと握りこんだ瞬間。呼吸で肩が上下する瞬間。

 どれかひとつでも見落とせば、彼女の音楽から振り落とされてしまうから。

 

 今みたいな、ふたりきりの状況ではなおさら。

 優木さんをじっと見据える。艶のある唇がマイクのグリルに触れる。細い指先がケーブルを握りこむ。シャウトの瞬間、身体がくの字に折れて、白い首に血管が浮き上がって、泥で汚れたブーツの足がぐっと持ちあがる。

 押弦する手元を覗き込む必要はなかった。ギターを弾く両の手はオートマチックに動いた。僕のギターの音は、優木さんの歌声に溶け込んで、混ざりあって、ふたつの音の境界線が曖昧になって、そうしてひとつの音になる。

 優木さんの星空みたいに輝く瞳の中に、僕のシルエットを見る。ふと彼女の眦が緩んだ。歌声と同じ優しい笑顔だった。もしかしたら僕の方もそんな顔をしていたのかもしれない。

 

 優木さんの歌は不思議だ。

 優木さんの歌に寄り添っていると、意味を持たない僕のギターが、なにか意味のあるもののように感じられるから。

 

 

*****

 

 

 いつ曲が終わったのかわからなかった。

 僕と優木さんの間には、音楽の気配がまだ濃く滞留していて、優木さんの呼吸の音と僕の呼吸の音とが、もしかしたら鼓動の音までもが、先ほどまで鳴っていた音と同じ、全く同じ、ひとつの音に聞こえて。

 魔法にでもかけられたみたいだった。無音の中にまだ音楽が続いているような。

 だけれど、次第に魔法は解けていく。

 最初にギターアンプから漏れるノイズの音が、次に発電機の低い駆動音が、遠くを走る車のタイヤが地面を踏み潰す音が。

 現実の音たちは僕らの音楽に浸透して、音楽の魔法は塗りつぶされて、やがて消えてしまう。

 最後に雨が地面を打つ音が聞こえた。とても強い音だ。また、降り出したらしい。

 だけど、グランドの方に目をやると、どうやらそれは雨の音ではなかった。

 

 ステージの真ん前に、制服姿の女生徒がひとり。

 大きなリボンで結った長い髪の毛は雨ですっかり濡れてしまって、ぽたぽたと雫を落とす前髪の奥の、爛々と輝く空色の瞳は僕らをまっすぐに見上げて、彼女の一生懸命に打ち鳴らす拍手が、なるほど雨音の正体だった。

 雨音はさらに勢いを増す。

 僕らは驚いて校舎の方を振り向く。

 開いた窓にはたくさんの人の姿があった。彼らの振る色とりどりペンライトの、淡い光が校舎を彩る光景は、どうしようもなく非現実的で、美しくて、優木さんとふたり顔を見合わせる。まさか本当に夢の中にいるんじゃないだろうか?

 

 瞬間、クラッシュシンバルの痛烈な一撃が、僕らの呆けた思考を完全に現実へと引き摺り戻した。

 ベースのグリッサンド。歪んだギターのコードストローク。火花が弾けるようなドラムスのフィルとともに、軽快なビートが疾走を始める。

 昇降口から何人もの人たちが、傘もささずに、ステージの方へと駆け寄ってくるのが見えた。

 野太い8分音符を刻みながら、リカさんが曲名を叫ぶ。

 僕らはバンドサウンドに背中を叩かれて、丸椅子を蹴倒して立ち上がる。

 優木さんは雨に濡れることも気にせず、ステージの先端まで歩み寄り、小さな拳を力いっぱいに突き上げた。

 優木さんの拳の先の、歓声に揺れる校舎の奥に見える雨空の向こう側に、曇り雲が割れて陽の光が幾筋か差し込むのが見えた。

 

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