モビーディックは、led zeppelinという今から何十年も前に活動していたバンドの、2枚目のアルバムに収録された曲だ。
led zeppelinに限った話ではないのだけど、この年代のバンドは音源とライブとで演奏がまるきり違うことが度々あって、レコードではほんの3分程度だった曲が、ライブで何故か30分近く引き延ばされて演奏されることも。
モビーディックも、そんな曲のひとつだ。
とはいえ、この曲に関しては最初と最後にギターとベースがリフをちょろっと弾いたら、後はジョンボーナムが、数十分に渡ってひたすらドラムソロを叩き続けるような曲だから、僕の出番はすぐに終わると思っていたのだけど。
ギターとベースとがユニゾンする特徴的なリフを弾ききって、さぁこれで仕事はお仕舞いとギターを降ろそうとしたところで、歪んだベースの雷鳴みたいな音が聞こえてきて、頭を張り飛ばされたような気分になる。
え、なにしてんの?
振り返ると、ベースの青年の、人当たりの良い柔らかな雰囲気はすっかり霧散して、好戦的ともとれる笑みを浮かべた彼は、ビリー・シーンばりの超絶技巧を駆使して、蟻一匹も通さない音の壁を築き上げる。
申し訳ないけれど、ちょっと頼りのない感じだったギターボーカルとの、あまりの技量の差に唖然としていると、またしても後頭部にキツい一発。スガさんの怒濤のフィルが地面を揺らして、殴り合いのセッションが始まってしまう。
曲は? モビーディックは? ていうかこんな滅茶苦茶やって、どうやって着地するつもりなの?
見かねて軌道修正のコードを差し込むのだけど、するとなぜだか低音の嵐がすっとおとなしくなって、なにを勘違いしたのか青年が、さぁどうぞ、とアイコンタクト。
イヤだよ。どうしてあんな熊の妖怪みたいなのとやりあわなきゃならんのだ。
手が6本くらいあるんじゃないかって疑わしくなる壮絶なフィルを叩き続けるスガさん相手に、僕は絶望的な気分で立ち向かう。
*****
なし崩しに始まったセッションは、次第に青年と僕とが、スガさんに挑みかかっていくような形になった。
しかし一線を退いたとはいえ元ジャズドラマー。
現役の頃はフュージョン全盛の時代に反発するみたいに、骨太なバップスタイルで国内外から評価を得たスガさんのドラムスは、アドリブに滅法強くて、はじめから勝てる気なんてしていなかったけれど、それにしたって一方的な蹂躙だった。
青年が音数を駆使した自らの土俵に持ち込もうとするも、スタジオミュージシャンとしても一流のスガさんの懐の深さには適わず、簡単にあしらわれて。
僕の方はというと、もっと悲惨で。
なにせ得意にしているが、スガさんの音楽嗜好ど真ん中なブルース寄りのオールドロックなものだから、そりゃあもうボコボコにやられた。
手癖も尽きて、ほとんどやけくそで解放弦をかき鳴らしていると、弦がバッツリ切れて、それを見た青年がモビーディックの終わりのリフを弾いて、スガさんが不承不承といった感じで合わせて、どうにか地獄みたいなセッションは終わりを迎えた。
僕は膝から力が抜けてその場にへたり込んでしまう。本当に疲れた。
窮屈そうにドラムセットから這い出たスガさんは「ガキを甘やかすんじゃねぇ」青年の肩をどついて「なんだ、ジャニスのギターはマグレか?」と不機嫌そうに鼻を鳴らしてステージを降りて、その辺のテーブルにあったウィスキーのボトルを無造作に手にとってそのまま煽った。
いや、病気で一線を退いたんじゃなかったの? 僕より長生きしそう。
「お疲れ。おっかないよね、あの人」と、青年が手を差し伸べてくれるから、僕は「ありがとうございます」なんとか立ち上がる。
「弾けるね。中学……いや高校生?」
「あ、はい。高一です」
「マジか。いやぁ最近の子って本当、ビックリするくらい上手だよね」
いや、貴方も大概ですよ? あんなベース弾く人始めて見た。
「そう? まぁギターに比べれば長いし……」
コテンパンだったけどさ。苦笑しながら青年は財布から名刺を一枚取り出して僕に手渡す。
「ここの系列でリハーサルスタジオやっててさ。学生向けにセッション会なんかもやってるから興味があったら遊びに来てよ。君くらいの年でメジャーでやってる娘も出入りしてるから、良い刺激になると思うよ」
それじゃまたね、と手をひらひら振って、青年はバンドメンバーのいる方へと戻っていった。
スタジオなんて経営してたんだ。スガさんも意外と手広くやってるんだな。
ギターと名刺をケースに突っ込んで、やっとステージを降りると、ほらお疲れさん、とタイミング良くグラスの水を手渡されて、喉がカラカラだったからありがたい、お礼を言って一気に飲み干してすぐに後悔した。
カァッと喉が焼ける感覚はアルコールのそれ。
なんだこれ。ウォッカ? めちゃくちゃ強い。
ここの連中は常識が昭和で止まっているから、僕が中学に上がった頃から、しばしば酒を飲ませてくる。
グラスを渡してきた顔馴染みのおっさんは、ケタケタ笑いながら千鳥足で去っていって、文句のひとつも言ってやりたかったけれど、盛大に咽せてしまってそれどころではなくて「大丈夫かい?」と、眼前に差し出されたグラスに今度は騙されまいと睨みつけると、そこにいたのは困り顔の父さんだった。
「全く、もうそういう時代じゃあないだろうに」
ほら、と促されて僕は、ありがとう、グラスを受け取って、冷たい水を流し込むと、父さんが「ギター、上手になったね」と言うから僕は驚いて、また咽せそうになる。
レコーディングエンジニアやライブPAという職業柄、父さんは音楽に関しては人一倍厳しくて、簡単には誉めてくれない。
というか、本当の昔に「小さいのによく弾けるね」と誉めて貰って以来きっと初めて。
「ツェッペリンは酷いもんだったけど、ジャニスの方はなかなか堂に入っていた」というやや酷評混じりの講評はなんだかむず痒くて、けれど嬉しいもので、少し浮かれて。
だから父さんの陰に幽鬼よろしく佇んでいた母さんが「格好良かったよ。お父さんにそっくりだった」と言ったのには、顔面に氷水でもかけられたような心持ちで。
さすがの父さんもギクリとした様子で、母さんを見て。
どうしてこの人は、いつも・・・。
頭が熱くなったのはアルコールのせいか、怒りのせいか。
わからないけれど、僕はまだ少し水が残ったグラスを振りかぶりかけて、けれど「せつ菜スカーレットストーム!」と、どこからともなく聞こえてきた突拍子もない大声にずっこけそうになる。
声のしたほうを振り返ると、人ごみの中に、にょきっと中川さんの姿が生えていて、慌てて駆け寄ると、行儀良く? ちゃんと靴を脱いで椅子の上に乗った中川さんが、グラスを手にしたままで、何かヒーローのようなポーズをして、それを老人達が、いいぞもっとやれ、と囃し立てていて、すんごいカオス。
「ちょっと中川さん、危ないって」老人達を押しのけつつ言うけれど「御崎さん!」とこちらを向いた中川さんの様子が少し、いやだいぶおかしい。
ふらふら危なっかしい中川さんに手を貸して椅子から降ろして座らせる。ありがとうございます! と笑う中川さんの笑顔は普段の優木さんのそれよりもピカピカしていて、電球というか最早、高輝度のledの明滅みたいで、あれなんか顔が赤い?
まさかと思って、両方の手で大事そうに持っているグラスをひったくって、ぱっと見オレンジジュースの中身をひと舐めしてみると、思い切りアルコールの風味。
「だれ、飲ませたの?」
自分でもビックリするくらい低い声が出て、さすがにマズいと思ったのか「無理矢理飲ませたわけじゃ」「間違えて飲んじゃったんだって」「テーブル中、酒ばっかなんだから」しどろもどろに言い訳をするから、僕は嘆息する。
確かに故意ではないのだろうけれど、それにしたってさぁ……。
「中川さん大丈夫? 気持ち悪くない?」
「御崎さん!御崎さん!」
「なに?」
「凄いです! 御崎さんが3人います!」
「……そりゃあ凄いや」
中川さんの普段以上に無垢な笑顔を見ていたら、つい先程まで怒っていたのも、なんだかどうでもよくなって。
ふらふら椅子に座ったまま左右に揺れる中川さんの、タイツのあんよにスニーカーを履かせてやっていると、奥の方からやってきたスガさんが「なに騒いでやがる」それから中川さんの様子を見て眉間に皺を寄せて、そこら辺にいる常連の老人達を「バカ野郎ども。ガキに呑ませんじゃねぇ。店が潰れるだろうが」と言ってどついて見せる。
出来たら僕が呑まされるときも、そのくらい怒ってくれないもんですかね、半目で見ていると、ジロリとこちらを睨んだスガさんが寄ってきて、おもむろに取りだした財布から何枚か万券を抜いて、僕のシャツの胸ポケットにねじ込んだ。
「タクシーでも掴まえて、ガキどもはさっさと帰れ」ぶっきらぼうに言うと、僕に荷物を押しつけて、ほとんど無理矢理、中川さんとふたり追い出されてしまった。
外に放り出される間際「お正月は帰ってくるの?」という母さんの、か細い声には聞こえなかったふりをした。
防音扉の向こう側は恐ろしく冷え切っていた。
それもそのはずで、地上への急な階段を上りきった辺りで中川さんが、わぁっと声を上げる。
「御崎さん雪! 雪です!」そう言って外へと駆け出す。
薄汚れたガラスドアの向こう側に大粒の雪が降っているのが見えた。
そりゃあ寒いわけだよ。
おっかなびっくり外に出ると、顔に突き刺さる冷気に面食らう。
思っていた以上に降っているようで、アスファルトが薄く白く化粧されて、すでに無数の足跡あって、それをくるくると、踊るみたいに、はしゃぐ中川さんの小さなスニーカーの足跡が上書きして。
車道を慎重なスピードで行き交う車の、ヘッドライトやテールランプが雪の粒に反射して、中川さんを照らして、なんだかスクールアイドルのステージみたい。
ぼんやり眺めていたけれど、スニーカーで雪の上を動き回るのは、どうしても危ういことに、はたと気がついた
ビルの傘立てにあった、古びたビニール傘を1本失敬して「ほら、危ないって」中川さんになだめるみたいに手を差し伸べるのだけど、その手をむんずと掴んだ中川さんが「行きますよ!」思いがけず強い力で引いて歩き始めるから、僕はつんのめりながらも、なんとか着いていく。
「行くって、どこに?」
「わかりません!」
通りの信号がちょうど青になった。中川さんは僕の手を掴んだまま、ずんずん歩いていく。
雪は絶え間なく降って、僕らのあとに残った、ふたりぶんの足跡を覆い隠していく。