あの悪夢じみた、オーディション紛いのリハーサルの日から数日が経ったけれども、僕がバンドメンバーに選ばれたのかどうか、結果は未だわからずにいた。
僕と虹ヶ咲学園を繋ぐ唯一の存在であるケイコさんが、あれから仕事が忙しいのか家を空けがちなもので、結果を聞くことができなかったのだ。
きっと音楽科の生徒でやることになったのだろう。なんとなくそう思った。
お互いもう二度と会わないだろう相手だから、わざわざ連絡を寄越す必要はない。もしかしたら本当に忘れられているのかもしれない。それならそれでいい。
そうやって僕は一人で納得して元通り、ケイコさんの言うところの、カビ臭い音楽に埋没する日々に戻っていった。
もう、あんな女装をしなくて済むのなら、それに越したことはないのだ。
*****
ところで虹ヶ咲学園の文化祭は土曜と日曜の2日間に渡って行われる。
規格外な生徒数と学園の規模から毎年、多くの来客が訪れ、地域を巻き込んだ文字通りのお祭り騒ぎだとか。
その2日目、最終日にあたる日曜の早朝。僕はスマートフォンの着信音で叩き起こされた。
『いまどこー? なにしてるの?』
聞きなじみのない、女の人の声。
昨日は随分と遅い時間まで、父の友人のライブハウスに入り浸っていたから、起き抜けの、睡眠不足にぼやけた頭はまともに働かず「え、なに。だれ」など、要領を得ない言葉しか出てこなくて。
そうしていると、受話口から呆れたような溜息。そして通話は切れた。
……間違い電話かな?
ちらと時間を確認するとまだ午前5時。迷惑なやつだなぁ。
寝直そう。スマートフォンをその辺に放ろうとすると、液晶が光ってメッセージアプリの通知が。ほとんど惰性で操作してメッセージを開いて表示された画像データを見た瞬間、僕の意識は頭を引っ叩かれたみたいに一気に覚醒して、慌てて着信履歴から電話を掛け直す。
『やっほー、起きたー?』
「いつの間に写真なんか撮ったんですかっ」
送られてきた画像は、先日のリハーサル中の、ギターを弾く僕の写真だった。
聞きなじみの無い声は、よくよく思い出すと、優木せつ菜バンドのベーシスト兼バンマスのリカさん。
『得意なんだよねー隠し撮り。で、そんなことはどうでもよくて。なに? まだ家いるの?』
「こんな時間、学校がある日でも寝てますよ……」
『普段は良くても、今日はマズイんじゃない? そこからだとお台場まで結構かかるでしょー?』
「お台場?」
『あー……もしかしなくても、聞いてない感じ?』
リカさんから話を聞いた僕は青くなって、通話が繋がったままなのも忘れて「僕って優木せつ菜のバンドメンバーに入ってたの!?」隣のケイコさんの部屋に怒鳴り込んだのだけど室内に、ケイコさんの姿は無くて、続いて玄関を見ると靴が無くなっている。
こんな早くに出掛けた? そもそも帰ってきてない?
ぐるぐる思考を巡らす僕を現実に引っ張り戻したのは、スマートフォンから聞こえるリカさんの声。
『リハ始まっちゃうからさ、とりあえずさっさとこっち来てよ』
「そう言われても、自分じゃ化粧とか出来ませんし……」
『この間みたいにウィッグ被って、眼鏡とマスクしとけば、なんとかなるってー』
なんとかなるのか? ていうか、ケイコさんがいないってことは、また電車に乗るの? あの格好で?
……もういっそ、バックレちゃおうかな。
そんな僕の考えを見透かしたように『逃げたら岬ちゃんの可愛い姿が全世界にー』などと、恐ろしい言葉とともに通話が切れて、続いてメッセージアプリの通知が連続する。
「何枚撮ってんの、あの人……」
通知欄に並ぶ自身の痴態に、気が遠くなりそうになりながらも「行きます! すぐに行きますから!」メッセージを送信し、とりあえずは制服に着替えることにした。
*****
最寄りの新宿からお台場までは、どうやったって1時間以上かかる。
さらにお台場に到着してからも学園内で迷って、会場のメインアリーナへと辿り着いた頃には、既にリハーサル開始から1時間近くが経過していた。
僕一人が遅刻したところで、リハは滞りなく進行しているようで、アリーナは濃密な音楽で満たされている。
バスケットコート4面ぶんくらいの広いフロアにずらりとパイプ椅子が並ぶ。それを見下ろすように、フロア全体を囲む観客席。窓は全て暗幕で覆われていて薄暗い。煌びやかな照明がリハーサル中の演者を本番さながらに彩る。
フロアの最奥に設えられたステージの威容は、とても学園祭のものとは思えない本格的なもので、段積みになったJBLのスピーカーが唸り、低音が腹を突き、全身の骨を揺さぶる。
インカムに怒鳴り声を上げながら右往左往するスタッフの邪魔にならないように、小さくなりながら、客席でリハの様子を見物する生徒の中に、リカさんの姿がいないものかと探していると「おーい、こっち」と、大音量の隙間に呼ぶ声が聞こえて、見るとリカさんを始めとした、前回のリハで顔を合わせたせつ菜バンドのメンバーが、比較的音が小さい、アリーナの隅の方で勢揃いしていた。
「本番の日に遅刻とかいい度胸だよね」「ケイコちゃんの妹なんだし仕方ないでしょ」「血は争えないね」「顔すら見せない優木さんに比べればマシだって」
好き放題に言い合う女生徒たちを「あんまりイジメないであげなってー」リカさんが緩く諫める。
ケイコさん学校でもそんな感じなんだ。本当に教師やってて大丈夫? ていうか、優木せつ菜は当日のリハにすら参加しないつもりなの?
何かと不安になってくる僕に、リカさんは「これあげる」冊子を渡して寄越した。
B5サイズのそれは学園祭のパンフレットだった。パラパラとめくって見ると、各クラスや部活動・同好会が行う催しの紹介が記載されていて、流しそうめん同好会とか、存在そのものが気になるものがちらほらあったけれど、僕が目を留めたのはタイムテーブル。
膨大な催しの数々。上から下までびっしりと埋まったタイムテーブルには、所々に蛍光ペンでマークされている箇所があって、そこにはなぜか、岬ちゃん、と僕の名前が書き込まれているのだ。
『なんですか、これ?』僕はスマートフォンに入力して、件のタイムテーブルと一緒に、リカさんに見せる。
「見ての通りだよ。線引いてるとこが岬ちゃんの担当ねー」
どういうこと? 首を傾げる僕にリカさんは「音楽科名物ってやつだよ」そう言って、周囲のバンドメンバーと顔を見合わせてニヤリと笑った。
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虹ヶ咲学園の学園祭は、部活動・同好会の数に比例してとにかく、出し物が多い。
バスケットボール部やソフトボール部みたいな、運動部はそれぞれユニフォーム姿で、焼きそばやたこ焼きなんかの屋台を出店している。
演劇部などの文科系の部活動は、自分たちの活動の発表の場として舞台や創作物の展示を行う。
それだけで、もう回り切れないくらいの量なのに、先述の流しそうめん同好会のような変わり種も相当数あるのだから、いよいよ混沌としてくる。
そして、それらのほとんどで必要とされるのが音楽だった。
「いつくらい前からかは知らないんだけど『生演奏の方がお客さん集まるんじゃない? 音楽科にお願いしよう!』とか言い出した先輩がいたらしくてさー」と他人事みたいに言ったのはリカさん。
喫茶店同好会のジャズ喫茶での演奏。服飾同好会のファッションショーでのBGM。演劇部の劇伴。カラオケ同好会ののど自慢大会の伴奏。などなど音楽科へのリクエストは多数。
音楽科名物、というのはつまるところ、学園中のありとあらゆるクラス・部活動・同好会からの生演奏の要求にどうにか応えよう、というもので、リカさんから半ば強制的に参加させられたメッセージアプリの音楽科グループは、通知がひっきりなしに鳴り続けていて
「トランペットひとり来て今すぐ!」「弦切った!近くに持ってる人いない?」「アンプ煙吹いた誰か助けて!」などと、まさに阿鼻叫喚。
僕の方も指定された場所に向かうと「ギター弾けるならベースもいけるよね!? ルート8分で刻んでくれればいいから!」とエレキベースを押し付けられたり。
「エレキはいいから、アコギでお洒落っぽいやつ弾いてくんない?」とてもざっくりとしたリクエストを貰ったり。
「ケイコちゃんの妹? ならドラムもいけるね!」無理くりドラムセットに押し込められて、父の友人に少しだけ教わったドラムをやけくそで叩いたり。
「ギター弾けるならピアノもいけるよね!」どうしていけると思った?
そうして、ただっ広い学園中を右往左往して、多種多様なステージをこなしていると、天辺にあったはずの太陽は大分傾いて、いつの間にか優木せつ菜のライブまで幾許かという時間になっていた。
*****
メインアリーナの関係者口から、楽屋へと向かう。
学園祭も佳境。楽屋代わりのロッカールームは大変な賑わいで、ステージを終えたらしい女生徒たちが衣装のまま興奮気味に言葉を交わし合っている。
女生徒たちは通路まで溢れ、ステージで何かミスをしたのか蹲り泣きじゃくる生徒を励ます姿や、抱き合いこれまでを称え合う姿や、純度100パーセントの青春を横目に、なんとなく居心地が悪い僕は知っている顔が無いかと探していると、ある意味で一番会いたいと思っていた人物、頭にキャラクター物のお面なんて着けて、お祭り気分丸出しのケイコさんを見つけた。
向こうもこちらに気が付いたようで、おっす、気さくに声を掛けてくる。
『おっす、じゃない! 僕がどれだけ苦労したと思ってんだ!』叩きつけるようにスマートフォンの画面をタップして、入力した文字をケイコさんに見せる。
ケイコさんは目をパチクリさせてから、押し付けられた様々な楽器を背負う僕を見て「可愛そうに、音楽科名物に巻き込まれたんだな。でもそれなら文句はリカに言えって」
『ち・が・う! 僕が優木せつ菜バンドのメンバーになってたってどうして教えてくれなかったのさ!』
「言ってなかったっけ?」
言ってないよぉ……。全く悪びれないケイコさんの様子に怒りを通り越して脱力する。すると、いまさらになって疲労と空腹がどっと押し寄せてきた。そういえば朝から何も食べてないじゃん。
ケラケラ笑いながらフランクフルトを齧るケイコさんが恨めしい。こちとらマスクが外せないから、楽屋前に並んだケータリングを失敬することも出来やしない。
じっとりとした視線をケイコさんに向けていると、ステージの方からひと際大きな歓声が聞こえた。
優木せつ菜のステージを除いた、全ての演目が終了したらしい。
ステージを降りた演者たちがやってきて、女生徒たちから、お疲れ様、良かったよ、と次々と声をかけられる。
その中から数人が輪を外れて、タオルで汗を雑に拭ったり、ドリンクを煽るように飲んだり、それは見ると優木せつ菜バンドのメンバー。ずっとステージに上がっていたのか、いつもは柔和な笑顔のリカさんの表情もどこか険しい。
ケータリングを掻き込んでいたバンドメンバーのひとりが僕に気が付いて「岬ちゃんじゃん」それから何人かが寄ってきて「音楽科名物どうだった?」「なにその恰好、一人でバンドやんの」「めちゃくちゃ頑張ってたらしいじゃん」とライブの興奮を引きずっているのか、肩を組んできたり偉くフレンドリーな様子で、僕はタジタジになる。
ベンチに腰かけたままのリカさんは水を一口飲んでから「ケイコちゃん、せつ菜ちゃんは?」
「ん、ちゃんと来てるみたい。さっき生徒会の……中川ちゃんだっけ? が言ってた」
バックレなかったか。本当に存在したんだね。
メンバーが軽口を叩き合っていると、実行委員らしい生徒が駆け足で寄ってきて、バンドの皆さんはそろそろステージにお願いします、と言った。
「さー行こうか」緩く気合を入れたリカさんのあとにメンバーが続いて、僕も不要な楽器をケイコさんに押し付けて後を追う。
ステージの方から、アンコールを求める声と手拍子が漏れ聞こえてくる。
岬。背後からケイコさんの呼ぶ声が聞こえて、振り返る。
「なんか感じたら、感じたまま、そのままに、アンタらしく弾きな」
なにそれ? 僕が首を傾げると「アドバイスだよ」ケイコさんはそう言って、食べかけのフランクフルトを頬張った。
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アンコールを求める観客の地鳴りのような歓声の中、僕らは照明の落とされたステージに上がる。
ちらと客席を見て、やっぱり見なかったことにする。
当日は満員、なんてリカさんは言っていたけれど、本当に満員だよ……。キャパ5000人くらいだっけ。そんな場所でのライブ、観に行ったこともなければ、当然演ったこともない。前から後ろまで、ぎっしりと埋まった客席は破裂する寸前の風船みたいに、今か今かと優木せつ菜の登場を待ち望んでいる。
さっきまで演奏をしていたリカさんたちと違って、僕の方は何一つ用意が出来ていないから「どうしてこんなギリギリに来るの!」と怒るスタッフさんに、手伝って貰いながら楽器のセッティングをする。
少しギターの音が鳴っただけで客席がどよめくのだから、大変心臓に悪い。
意識しないよう客席に背中を向けて準備を進めていると「ビビってるー?」唐突に耳元で言われて、驚いてひっくり返そうになった。振り向くとリカさんの顔がすぐ近くにあって、耳元で話さないとロクに会話できないのはわかるけれど、異性にこう近づかれると僕だってさすがに気まずい。
「まぁ多少は、こんな人数の前で弾いたことないですし」どうせ周囲には聞こえないだろうから、僕は言葉に出して言う。
「そこは強がりなよー男の子」
「今の僕は女の子ですから」
「心まで女の子にならなくてもー」緩く笑うリカさんは肩から下げたエレキベースを背中の方にやって、僕の肩に腕を回す。だから近いって。
「上手く弾こうとか考えなくていいからさ、感じたまま、岬ちゃんらしく演ってよ」
「励ましてるんですか? この間はめちゃくちゃ煽ってきたくせに」
「えーそうだっけー?」
しらばっくれるリカさんに僕は嘆息する。
感じたままに。僕らしく。さっきケイコさんも言っていたけど、どういう意味なんだろう。ギターを弾くのに、僕らしくもなにもないだろう。他の人はともかく、僕の弾くギターはそういうものではない。
そういえばと思い出してリカさんに「どうして僕ってメンバーに選ばれたんですか? もうひとりの娘の方が上手かったじゃないですか」そう訊ねる。
「ああ、それはね……」リカさんの言葉は、背後から上がった爆発音みたいな歓声で掻き消された。
何事かとリカさんと二人して振り返ると、まだ照明が焚かれていない、薄暗いステージ上に先程までは無かった一人の女の子の小柄な背中。薄明かりの中でもはっきりとわかる艶めいた黒の長髪。制服のような、だけども目が覚めるような赤と白を基調に、フリルやリボンで装飾されたそれは、どこからどう見てもアイドルの衣装。
彼女が優木せつ菜?
そんじゃ、頼んだよ。そう耳打ちして、リカさんは自分の持ち場へと戻っていく。
もはや怒号か悲鳴みたいな歓声を、真正面からたっぷり浴びた優木せつ菜は、リカさんの方に目配せを。リカさんは頷いて、ドラムスの女生徒に合図をする。
唐突に、優木せつ菜が、天に向かって拳を突き上げた。
すると、客席の狂騒は嘘みたいにピタリと止んで、それはまるでオーケストラの指揮者みたいで。
息をすることすら躊躇われる、世界が終わった後のような静寂。一瞬の、永遠のような静寂にハイハットの4カウントがひびを入れ、優木せつ菜がマイクへと吹き込んだ歌声で、それは木っ端みじんに砕け散った。