僕がよく出入りしている、父の友人が経営するライブハウスは、プロのミュージシャンが頻繁に訪れる。
プロと言っても訪れるのは、今をときめくロックバンドのボーカルとか、音楽シーンを賑わす歌姫とか、そういう表舞台で耀く人たちではなくて、歌詞カードの一番後ろの方にちょこっとクレジットされているスタジオミュージシャンや、教則本の著者や、界隈では有名人でも一般の人は全く知らないような人たちだ。
父の友人が、もともとプロのジャズドラマーだったのが大きな理由なのかも知れない。
50歳の時に胃の3分の2もを摘出する大病を患い、現役を退いたオーナーが開いたライブハウスは、ミュージシャン時代の仲間たちが夜な夜な集まり、仕事では出来ない自分たちの好きな音楽を演奏し、酒を呑み酔っ払う。そんな悪ガキの溜まり場みたいな場所なのだ。
あるとき、そういうところに出入りしていることを、軽音楽部の友人にこぼしたとき「プロとアマチュアってさ、実際どう違うの?」と訊かれたことがある。
「音楽で収入を得ているかどうかじゃない?」
僕が答えると友人は、車に轢かれてぺしゃんこになったカエルでも見るような目で僕を見たので「ごめん今の無し」少し考えてそれから「やっぱり、音かな」そう答えた。
例えば、コード進行を決めてソロを持ち回るようなセッションで、趣味で楽器を弾く人たちの中に、一人だけプロのミュージシャンを放り込んだとする。
そして、そのミュージシャンがギタリストだったなら。一音。たったの一音だ。
趣味で楽器を弾く人たちが、コツコツ練習をして馴染ませてきた手癖やフレーズを、チョーキングの一発。たったの一音。それだけで全てを塗り潰して、バンドサウンドを丸ごと掌握してしまう。
音の説得力、なんて言うと酷く抽象的だけど、プロとアマチュアの違いを訊かれて、それ以上に思いつくことはない。
*****
ーーこれはマズイ
優木せつ菜が、歌詞の始まりの一節をマイクを吹き込んだ瞬間、きっとバンドメンバーの全員が直感した。
優木せつ菜バンドのメンバーは音楽科の俊英で構成されている。バンマスのリカさんを含めた全員が、すでに学外で仕事をこなしている実質プロミュージシャン。実力は学生バンドの域を優に超えている。
そんな人たちの作り出すバンドサウンドを、優木せつ菜は信じられないことに、ほんの一瞬で自分の色で塗り潰してしまったのだ。
歌声に引っ張られて、ドラムスのリズムが前のめりになり、バンド全体がそれに引き摺られ始める。
なにがマズイって、想定外の彼女の実力に動揺があったこともそうなのだけど、なにより、リズムがかなり走り気味なのだ。多分だけれど優木せつ菜は、生のバンドで歌うことに慣れていない。
それでいて、マイクにぶつける声量は、並みのボーカルでは話にならないくらいにパワフルなのだから手に負えない。小さな子供が車を乗り回しているようなものだ。アクセルを踏みっぱなしにサウンドは加速を続ける。
曲がサビへと差し掛かる。長い黒髪が、スカートの裾が翻る。優木せつ菜のパフォーマンスは一層の熱を帯びる。
歌がバンドが、転がり落ち始める。いよいよ修正が困難になるかと思われた、そのとき。腹を突くような鋭い低音が曲の崩壊をすんでのところで押しとどめた。
リカさんのベースだ。
4本の弦。指板を細い指が別の生き物のように這いまわる。ツーフィンガーから弾き出された歪んだ低音が、固い地面に杭を打ち込むようにして、優木せつ菜の暴走を押しとどめ、ビートの襟首を掴んで引っ張り戻し、それに他の楽器も追従する。
……あそこから立て直しちゃうんだ。しかもたった一人で。
涼しい顔でベースを弾くリカさんに内心で少しだけ引く。正直、もうダメだと思っていた。
*****
振り回されっぱなしだった僕にも、1コーラス目を終えた頃には、周囲を見渡すくらいの余裕が出てきた。
小柄な肢体を目いっぱいに使って踊り歌う、優木せつ菜の背中に、なんでそんなに動いて歌声が全くブレないのかと驚嘆したり、だけども思わず声が出そうな位に驚いたのは客席の有様だ。
客席が真っ赤に燃えているのだ。フロアも二階席も、会場中が燃え盛る炎に包まれている。それはもちろん僕が見た錯覚で、その正体は観客の持つ赤いペンライトで。数千もの赤い輝きは、優木せつ菜の歌に合わせて揺れ動き、やがてステージまで焼いてしまうのではないかと思わせるくらいに眩しく、どうしようもなく熱い。
……熱い? 何が?
僕は疑問に思う。
だって、どれだけ量があろうとも、所詮はペンライトの光で、何もかもを焼き尽くす炎に見えてもそれは、電池とLEDで輝く偽物の灯だ。これだけ離れたステージで熱を感じるはずなんてない。ないはずなのに。それでも確かに僕は熱を感じている。
胸とお腹の真ん中あたり。臓腑の奥の奥に。どうしようもない熱を。
それはずっと昔。まだ幼い子供だった頃、初めて父のギターを聴いた時の感覚に良く似ていて……。
もしかして、歌?
優木せつ菜の、小さな背中を凝視する。
客席の炎はいよいよ勢いを増してステージに迫り火の粉が降りかかる。客の肉や脂肪や骨が焼ける匂いすら感じる。フロアを埋める群衆は皆一様に燃えていて、ペンライトは松明のようで、嬌声を上げながら、優木せつ菜の歌に焼かれている。
客席の歓声はどこか遠くに聞こえて、バンドの音すらも遠い。
それなのに、優木せつ菜の歌声だけは脳や細胞に刻み込まれるみたいに、明瞭に聞こえる。
胸とお腹の真ん中にあった熱は、いつの間にか全身へと浸食し、押弦する指が火傷したみたいにヒリヒリする。優木せつ菜の歌声が鼓膜を震わすたび、身体を内側から焼かれるような、心臓を指先で愛撫されるような、狂おしいほどの甘い疼痛が全身を焼き、叫び声を上げそうになる。
……ふと、この熱の正体を知りたくなった。きっと普段の僕ならそんなことは思わない。すっかり熱に浮かされていた。蝋燭の火に自ら飛び込む羽虫にでもなったような心地だった。
ーー感じたままに弾け。
本番前にケイコさんが、リカさんが、そんなことを言っていたような気がする。
曲はBメロを踏み台に、2回目のサビへなだれ込んでいく。
僕はギターアンプのボリュームを右に思い切り捻って、ファズエフェクターのスイッチを蹴っ飛ばした。
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唐突に絶叫するギターの音に、バンドの全員がギョッとした目でこちらを見たのが分かった。僕自身もその視線に冷静さを取り戻しかける。
今ならまだちょっとしたミスで終われる。
そう思ったのだけど、ばったり目が合ったリカさんが「い・け」そう言ったのが確かに見えた。
僕は頷いて、ネックを根本まで絞り込み、勢い任せに音符を叩き込む。スケールアウトするギリギリのライン。フレーズは次から次へと湧いてきた。全身の血液が燃料に変わってしまったみたいだ。手を止めることが出来ない。止めたらきっとこの手は、身体は、焼け落ちてしまう。
僕の暴走で揺らぎかけたバンドサウンドは、リカさんが難なく修正し、心臓を打つベースの低音が、いけ、もっといけと言わんばかりに、僕を煽る。
優木せつ菜の歌と絡み合うように、白い喉元に噛みつくように、僕は6本の弦を搔き毟った。
サビを疾り抜け、間奏、ギターソロへ。歌が途切れた僅かな瞬間。常に客席に向かい合っていた優木せつ菜がこちらを振り返った。
……さすがに怒ってるかなぁ。
辛うじて残った理性で不安を覚える。
ライブの主役はあくまで優木せつ菜な訳で、添え物のはずのギターがこれだけ好き放題やらかしてしまったのだ。きっと多分怒ってる。
ちょっと申し訳ない気持ちで、でもギターを弾く手は止めないで、僕は恐る恐る、優木せつ菜の表情を窺う。そういえば、彼女の顔を見るのはこれが初めてだ。
指板から僅かに持ち上げた視線の先、優木せつ菜と目が合って、僕はピックを取り落としそうになった。
だって、笑っていたのだ。
こんなにも綺麗に、無垢に笑う人を僕は初めて見た。
楽しくて楽しくて仕様がないと言うような。屈託のない満面の笑み。
彼女は、優木せつ菜は、赤く煌々と燃え盛る客席を背に、子供みたいに笑っていた。
*****
怒号のような雷鳴のような歓声が鳴りやむのを待たずに、優木せつ菜は、深い深いお辞儀を客席にひとつして、誰よりも早くステージから去っていった。
本日のプログラムは全て終了しました、一般のお客様はスタッフの誘導に従って……アナウンスとともに、会場の照明が点灯して、客席の炎はチープな赤いペンライトの光に戻り、やがてそれらも消えて、先ほどまでの狂騒が霧散する。
ステージにはスタッフがぞろぞろやってきて、テキパキと機材の撤収を始めている。
夢から覚めたような気持ちで、呆然とその光景を眺める。するとバンドメンバーが僕の肩をどついて「暴れてくれたねー」「まぁいいんじゃない? 盛り上がったし」「せつ菜ちゃんヤバかったねあれでスクールアイドルは詐欺でしょ」「かわいかったねーファンになっちゃおうかな」などと話しながら、ステージ袖へ消えていく。
僕はそれらに何の反応も返すことが出来ず、身体がすっかり萎えてしまっていて、ふらふらとギターアンプを背もたれに、座り込んでしまった。
「やってくれたねー、ロックンローラー」
そう声を掛けてきたのはリカさんで、僕を見下ろすリカさんは普段と変わらない柔和な笑顔で、だけども僕はスマートフォンを取り出して『すみません』と打ち込んで謝罪する。
頭の中が混乱している。こんな感情に引き摺られてギターを弾くことなんて今まで一度も無かった。どうして?
考えようにも、身体中のエネルギーを引っこ抜かれてしまったみたいに倦怠感が酷く、頭が全く回らない。疲労感に任せてこのまま眠ってしまえば、今までのこと全部が夢にならないかな。
そうして本当に瞼を閉じてしまおうと思ったのだけど、伸びてきた手が僕の襟首をむんずと掴んで無理やり立たされてしまって、肩から下げたままのギターが揺れて肋骨にめり込んで痛い。こんな乱暴な真似をする人に、心当たりは一人しかいない。
「苦しいよケイコさん」
相変わらず頭にお面を着けたままのケイコさんは「周りに人いるんだから喋るなバカタレ」僕の頭を小突いて「とりあえず逃げるよ」
「逃げるってどうしてー?」と僕の代わりに訊いてくれたのはリカさん。
「滅茶苦茶にやりすぎなんだよ。音楽科のお偉方が怒鳴りこんでくる」
音大出の堅物どもはこれだから面倒臭い、などと毒づきながら、ケイコさんは僕からギターをもぎ取ってケースに納めて自分で背負いながら「音楽科の講師が使う更衣室があるからそこに隠れてて。学園祭なら誰も来ないだろうから。落ち着いたらリカに迎えに行かせる」
「えぇー、わたしー?」
「リカの責任でもあるんだからね? なんのためにアンタをバンマスに据えたと思ってんだよ。学生バンドくらい完全にコントロールできなくて、これから先やってけると思ってんの?」
予想外に強い言葉がリカさんに飛んで、僕はギョッとする。ケイコさんから見ればそりゃあ粗があったのかもしれないけれど、リカさんのベースがなければ、僕が暴走するよりもずっと前に、バンドサウンドは空中分解していた。今日のライブの最大の功労者は間違いなくリカさんだ。
それなのにリカさんは「……うん、ごめんなさい」素直に謝ってしまって。なにか庇う言葉の一つでも出てくれば良かったのだけど、場を搔き乱した張本人の僕に言えることは何もなくて、ただただ居たたまれなく、情けなく俯いていることしか出来なかった。
*****
ケイコさんの言う更衣室は、メインアリーナからそれほど離れていない場所にあり、音楽科名物に巻き込まれて一日中学園中を走り回った甲斐もあって、多少迷ったけれども、なんとかひとりで辿り着くことができた。
優木せつ菜のステージに立ったためか、マスクをしていても顔が知られてしまったらしく、道中声を掛けられることがしばしばあった。愛想笑いでどうにか切り抜けたけれど、内心気が気ではなく、目的の更衣室を見つけると、ノックもせずに転がり込むみたいに中に入ってしまって、それが良くなかった。
「きゃっ」と、か細い声が聞こえて、僕の方も悲鳴を上げそうになる。
反射的に声のする方を見てしまって後悔する。更衣室だ。着替え中だったらどうしよう。慌てて目を背けて、視界の端に制服の女生徒の姿が見えて、小さく安堵の溜息。下着姿とかだったら罪悪感で生きていられなかった。
更衣室は普通教室の半分くらいの大きさで、壁面は全て縦長のロッカーで埋まっている。中央には背もたれのないベンチが設えられ、女生徒はそこに腰かけていて、僕はそれが見知った顔であることに気が付いた。
女生徒の方も僕の姿を認めて「あっ」声を漏らす。
アンダーリムの銀縁眼鏡と、三つ編みのおさげ。理知的な雰囲気。確か、そう。中川菜々さん。先日、初めて虹ヶ咲学園に来たとき、道に迷っていた僕を助けてくれた生徒会の副会長。
この間会ったときはきちんと着こなしていた制服が少し乱れていて、着替えの途中だったような様子で、本当に危なかった……。
人と遭遇するのは想定外だったけれど、知っている人で助かった。先日のお礼を伝えなければとポケットからスマートフォンを取り出して僕ははたと気が付く。
ーー音楽科の講師が使う更衣室があるからそこに隠れてて。学園祭なら誰も来ないだろうから。
ケイコさんがそんなことを言っていたような……。
どうして中川さんがここに? 普通科って言ってたよね。サボりかな。いや生徒全員の名前を覚えているような、真面目な人が?
手にしたスマートフォンに何をどう打ち込んだものかと思案していると「あの」と、中川さんが立ち上がり「通信課程1年の、御崎岬さんですよね?」固い声音で言った。
はい。先日はどうもありがとうーー。スマートフォンに打ち込もうとして、背筋に冷たい物を感じる。中川さんの僕に向ける視線がなんというか、まるで不審者に対して向けるそれなのだ。
僕は直感で、逃げなければ、後ろ手にドアノブを取ったのだけど、予想外に機敏な動きで僕に近づいて来た中川さんの手が、ドアノブごと僕の手をむんずと掴んで、小柄なのに意外と力が強い、というか距離が近い! 制汗剤の甘い香りがして、僕は反射的に後ずさって、だけどもそこには当然、ドアがあって、逃げ場がない。
ちょうど頭一つ分くらい、僕の胸元辺りの至近にある中川さんの、眼鏡の奥の瞳には明らかな敵意のような物が宿っている。
中川さんは僕から視線を一切逸らさず、握る手をさらに強く掴んで
「御崎岬さん。あなたは何者ですか?」低い声でそう言った。