ハングオーバー!!?魔法少女☆と史上最悪最後の二日酔い 作:明暮10番
──三人を乗せたタクシーは、市内にある高級フレンチ・レストランの前に停車。
しかし降りたのはステュアートのみ。彼一人分の運賃を払い終わると、車内に残っているフィルとアランに声をかけた。
「では僕はこれから、カミジョウさんと食事に行って来るよ」
「冷たい野郎だなぁ! そのカミジョウって人に俺たちも一緒だとなんで伝えなかったんだ!」
「良いか? 相手はローレンの、つまり僕の妻のご友人だ。アランを連れて行って粗相でもあったら、妻とそのお義父さんの顔が立たない」
「俺は関係ないだろぉ」
「だからってアランを一人にする訳にはいかない。そんじゃ、良い夜を! 羽目は外すなよ?」
不貞腐れて天を仰ぐアランへ、満面の笑みで以て一時の別れを告げるステュアート。すぐに踵を返すと、一切振り返る事はせずにレストランへ入って行った。
「……ケッ! ヴィラ・スイートにした事根に持ってやがる。陰気な歯医者だよアイツは」
「ねぇフィル。俺たちどうする? 帰んの?」
「安心しろアラン。さっきアプリで良い感じのバルを見つけた。ステュがお高いワインでも飲むってんなら、俺たちは安酒浴びるほどかっ喰らうぞ」
「ははーっ! 良いねぇ! この街のバーを一晩で制覇しようよ!!」
「そりゃナイスアイディアだ!……ほら何やってるドライバー! 夜は短いんだ、早く出せ! 来日記念に飲むぞーッ!!」
運転席を叩いて急かし、アプリで設定した飲み屋へタクシーを走らせた。
フィルらと別れ一人入店したステュアートは、案内役の従業員に予約者の名を告げる。
「ミスター・カミジョウが予約をしているハズだけど……」
「カミジョウ様ですね。承っております、どうぞこちらへ」
「ありがとう」
先導する従業員に続き、客席へと進む。
奥にあった扉を抜けると、そこは琥珀色の明かりに満ちた一際広いホール。段段に並んだスペースには白いテーブルクロスが敷かれた客席があり、最前にはグランドピアノが一つ置かれた扇形のライブステージが設置されている。プロの演奏を楽しみながら食事ができる仕様のようだ。
見事な内装に思わず目移りしてしまうステュアートだったが、客席で待っていた男性に丁寧で流暢な英語で話しかけられ、すぐに意識をそちらに向けた。
「あなたがステュアートさんで?」
「ああ、えぇ! ローレンの夫の……と言う事は、あなたがカミジョウさん?」
「遠路遥々、ようこそ日本へ……私が上条です」
懐から自身の名刺を取り出し、ステュアートに渡す。名刺には上条の名前が漢字とローマ字で、所属先と電話番号と共に書かれていた。
それから彼はにこりと微笑み、ステュアートと硬い握手を交わす。
「お会いできて光栄ですよドクター!」
「ドクター……ふふふ。良い響きだなぁ」
席から立ち上がってステュアートを迎え入れた、眼鏡のお洒落なナイスミドル。彼がステュアートを見滝原に招待した、「上条」だ。
「見滝原までご足労おかけしました。大変な時期でしょうに……何でも、クリニックが火事に?」
「あぁ、もうそれは大丈夫ですよ! アテが見つかっていますし、来月には再会出来そうです!」
「本当ならば空港まで迎えに行くべきでしたが……いや、仕事で都合が合わずに申し訳ない」
「いえいえ。まぁ……ある意味で来ない方が良かったと思いますんで……」
アランとフィルの顔が脳裏を掠め、苦笑いしてしまった。あの二人と会ったなら卒倒していただろうと、ステュアートは人知れず肝を冷やす。
上条はすぐにステュアートを席へ促し、控えていた従業員にコース料理を始めるよう頼んだ。
「日本にはどのくらいご滞在で?」
「向こう三週間ほど! 見滝原には一週間滞在して、週末に来日するローレンと一緒に東京に行って次に大阪、そして京都に行き、神戸へ!」
「そうですか! 特に京都はオススメしますよ。あそこは日本人でも、何度行っても楽しい場所ですから」
「ローレンも京都を楽しみにしていましたとも!……あぁ。彼女が来たら、また食事にでも行きましょう」
「勿論ですとも! また別のレストランを予約しますよ」
二人は朗らかに笑い合った。しかし上条は次に、表情を些か曇らせて話す。
「お話はフォーン氏から色々と伺っています。テディー君の件は残念でした……」
即座に和やかだったステュアートの表情が、ぎくりとした罰の悪そうなものへと変わる。
「あーー……んまぁ、本人はあまり気にしていない様子でしたから、気の毒に思わないでやってくださいよ!」
「そうなんですか?……しかし、彼は優秀なチェロ奏者になれたでしょうに。あの子は天才だ」
「それは同感です。でもテディーはチェロ奏者じゃなく、元々外科医になる予定でしたから! 手術なんて、右の薬指一本なくても出来るもんですとも!」
「…………そうでした。テディー君には別の夢がありましたね……幸運な事で」
心配するなとステュアートが言ってやっても、上条の表情から翳りは消えない。
その訳を聞こうと声をかけようとした時、周りの他の客たちが一斉に拍手を始めた。
「……そろそろショーが始まるようで。このレストランでは月に何度か、有名な楽団の奏者たちを招いて演奏会が行われるんですよ」
「それは楽しみだ!」
ステージ上にピアノとヴァイオリンの奏者が並ぶ。
拍手が止み、ホールが完全な沈黙に付く。奏者の二人は一度互いを見合わせてから、一息と共に美しい旋律で以て沈黙を破った。
使用曲は「タイスの瞑想曲」。緩やかなピアノの調べに乗って、甘い情熱の込められたヴァイオリンの音が奏でられた。
和やかなムードの中で、料理が運ばれて来る。高級ワインが目の前で注がれ、天井に吊り下がるシャンデリアを深紅色に映した。
料理とワインに舌鼓を打ちながら、バックで演奏される楽曲にステュアートは思わず微睡む。そんな時にふと上条の方を見やると、どうにも浮かない顔の彼に気が付いた。
完璧な演奏に包まれている人の表情ではなく、とても苦しそうな顔をしていた。普通ではないと察したステュアートは、顔を近付けて訳を聞いてみる。
「……体調でも良くないんですか?」
「え?……あ、あぁ、いや……すいません、気を遣わせてしまいました」
「やはりプロの耳では、この演奏に満足出来ない、とか?」
「いえいえ、とんでもない!……彼らの演奏は素晴らしい。非の打ち所がないよ……」
「では何か……悩み事、とか?」
上条は一瞬言い淀んだ後に、「いずれ話すつもりでしたが」と前置きして悩みを打ち明けてくれた。
「……息子の話は聞いていますか?」
「えぇ、勿論! 若きヴァイオリン奏者にして、天才児! 一昨年には既に大きな賞を貰ったとか!……そう言えばその子の演奏を聴かせたいとお聞きしていましたが? いやぁ、楽しみだなぁ」
「………残念ですがその約束は果たせそうにありません」
「え? 何ですって?」
ピアノとヴァイオリンの澄んだ音色は調和と共に絡み合い、伸びやかにホールの隅から隅までを撫でるように、或いは穏やかな星夜の潮騒のように、ゆったりと流れて行き渡る。
その音の中で上条は、溺れるような苦しい顔で項垂れた。
「息子……『
タイスの瞑想曲は中盤に差し替える。
緩やかだったヴァイオリンの旋律は途端に熱を帯びた性急さとなり、合わせて穏やかな伴奏を繰り返していたピアノも早まり出す。
「今年の初めに事故に遭い、大事な左腕が不随となってしまい……」
二つの音色は沈み込むように低音へ流れて行った。
その瞬間、まるで嵐が来たかのように音色は不穏なものへと変貌する。
「……もう、二度と、動かない……」
顔を覆う上条と、呆然とそんな彼を眺めるステュアート。
二人の気持ちなど知った事ではないと、二つの音色はまた悪魔から醒めたように、穏やかな最初のメロディーへ戻った。
「……二度と動かない? そ、それは本当なんです……!?」
「……えぇ。今日、担当医から聞かされました……現在の医療では到底どうにもならないほど、左腕の……特に左手首からの神経が完全に裂け切っていると……」
「そんな……」
「……実はこの事を、まだ恭介には伝えていないんです。医師にも待ってくれと頼んでいまして……」
溜め息と共に顔を上げる上条の瞳は、微かに潤んでいた。表情もさっきより幾分か疲れているようにも見える。
「……恐ろしいんですよ。テディー君と違い、恭介の夢はプロのヴァイオリン奏者……本番ウィーンへの留学も視野に励んでいた矢先の不幸だ……あの子が絶望し、全てを投げ打ってしまうんじゃないかと……」
「しかし、カミジョウさん」
ステュアートは毅然とした態度で指摘した。
「だからと言って、黙り続ける訳にもいかない。彼は、自分の身体について知る権利がある」
「………………」
「カミジョウさん、恐れてはいけませんよ。僕も、虫歯で神経が死んだ患者に報告するのは辛いですが……しかし、隠したって仕方ない」
「…………そうですよね。あぁ、そうだ……」
上条は納得したように頷いた。
途端、辺りで盛大な拍手が巻き起こる。演奏がいつの間にか終わっていたようだ。
「……ありがとうございます、ステュアートさん。少し気が晴れました……明日、正午にも恭介に伝えようと思います。あの子とも、これからについて話さなくては……」
「えぇ! その方が良い!」
「すいません。こんな暗い話をしてしまい……ワインが不味くなるでしょう」
「いやいや。僕としても、頼って貰えて嬉しいですとも! 何てったって、ドクターですから?」
チャーミングに笑ってみせるステュアートを見て、上条もやっとホッとしたように微笑む。
拍手が止み、奏者たちが一礼の後に一度舞台裏へ下がる。それを見送り、ワインで口を湿らせてから、上条は思い出したかのように語り出す。
「……知っていますか? この街、見滝原の噂を」
「見滝原の噂?」
「何でもこの街、行方不明者に自殺者……不可解な事件、事故の件数が他の街よりも明らかに多いそうなんですよ」
上条は背凭れに身体を預け、暗い目で俯きがちとなる。
「だから、こう言われる……」
彼は上目遣いでステュアートを見つめ、真剣な表情で続けた。
「……『見滝原は全てを呑み込む』……希望と、未来さえも……」
この時のステュアートは、どこかこの忠告を「自分には関係のない事だ」と思っていたが…………まさかこの言葉の真髄を、後々に思い知る事になるとは、予想だにしていやしなかった。
だがステュアートはこの言葉を聞いてどうにも、「ベガスに心を置いて来た」「バンコクに囚われる」と言った、自分たちが酷い目に遭った街の格言を思い出し、嫌な予感だけはしていたようだが。
街灯がチカチカ瞬く公園の中で、一人の少女がキッと「小さな存在」を睨み付けて言う。
「何度も言ってんだろ。『アイツ』は魔法少女にならねぇ……とっととマミんトコ戻りやがれ」
少女に突っぱねられたその存在は、諦めと呆れを含めさせて首を振った。
『君があの子に入れ込む理由は理解出来るけど、少し過保護じゃないかい? それにあの子には──』
「まだあたしらの前から消えねぇってんなら……」
『相変わらず血気盛んだね、君は……分かった。今日は諦めるよ』
「二度とアイツに話しかけんじゃねぇ」
小さなその存在はくるりと旋回すると、タタッと駆けて宵の中へ消えた。
後ろで少女はずっと戻って来やしないかと見据え続け、足音と気配が無くなったと確認すると、首だけを振り向かせた。
「…………ほら。行くぞ」
幾分か柔らかくなった声で背後にいた誰かに呼びかける。
その誰かは座っていたベンチからあどけなく飛び降り、トテトテと駆け寄った。
翌日目を覚ましたステュアートの表情は、晴れ晴れとしたものではなかった。
「……羽目を外すなと言ったよな僕は?」
「記憶は飛んじゃいない! 頭は痛いがな……」
「痛いのは頭よりそっちじゃないかい?」
忌々しげにアスピリンをペットボトルの水で流し込むフィル。彼の左手は包帯でぐるぐる巻きだ。
「仕方ないだろぉ? あのバーは酔っ払いばっかで、しかも壁が鏡張りだったんだ!」
「それで酔っ払いに押されて、君も酔っ払っていたから盛大にすっ転んで壁の鏡にぶち当たって、割れた破片で左手を怪我したと? 面白い連鎖反応だ」
「チクショー……六針縫ったぞ」
フィルはポケットから、外した結婚指輪を取り出した。
「縫う時に邪魔だからって外しちまったな」
「おめでとう。独身に返り咲きだ」
「馬鹿言うな! 戸籍上じゃまだ夫婦だ……不吉な事言うんじゃない」
「あぁそうだった……悪かったよ」
その時に奥の風呂場から、ブーメランパンツ一丁のアランがのしのしと姿を現し、ステュアートに話しかけた。
「ねぇ。お腹空いたんだけど?」
「………………バイキングは八時から」
「そんなに? 腹ペコで痩せちゃうよ」
「と言うか……なんで、パンツ一丁なんだ? バスローブは使わないのか?」
「ここのはコットン百パーセントだ」
「……だから?」
「俺マイクロファイバー派」
当たり前と言わんばかりの真顔でそう言うと、アランは服を着替えに寝室へ歩いて行った。
呆然と彼を見送ってから二人はまた、会話を続ける。
「……まぁ、お大事に」
「どうもどうも、ドクター様……イテテテ……また検査するから夕方、病院に来いって言われたが……面倒になって来たな。ここ先進国だし、感染症とかはないハズだろ。やめとくか」
「いや行きたまえ。化膿するかもしれない……どうせ暇だ。僕らも付いて行くからさ」
「クソ……バンコクでは撃たれて、ここでは鏡で手を切って病院行きかよ。幸先悪い」
「日頃の行いが悪いんじゃないかい?」
「そんならクリニックが燃えた、どっかの歯医者さんもそうだろ?」
言い返されたステュアートは苦々しく笑った後、水でも飲もうかと冷蔵庫の方へ歩き出した。
その先、まだブーメランパンツ一丁のアランが冷蔵庫の扉を開けて立っている。
「今度はなんだ?」
「身体を冷やしてる」
「………………」
「ロシア式サウナだよ。バーニャ」
開きっ放しを警告するアラームがピピピと、延々鳴り続けていた。
朝日が登り、太陽が頂点に付くと、後は西へ沈むだけ。
放課後すぐに病院へ来たさやかは、引き戸を開いて病室へ。
「『恭介』!」
室内のベッドで一人夕陽を眺め黄昏れる、「恭介」の傍へ笑顔で寄る。
彼女の手には、クラシック音楽のCDが握られていた。
「今日もCD買って来たからさ! またあとで──」
「さやかは、さ」
「……え?」
恭介は澱んだ、光のない目でさやかを見やる。
「……僕をいじめてるのかい?」
怪我をしたフィルを連れて、約束の時間通りに市内の病院へと来た三人。
緑豊かな芝生の庭を進み、フロントで受付を済ませてから、精密検査を受ける為に検査室へ向かう。
「あー痛ぇ……骨は大丈夫だって言ったのに心配性だな、あの医者。検査代踏んだくるつもりか?」
「まぁまぁ……日本は医療大国と聞くぞ?」
ステュアートかそう言った隣で、アランはポケットからメモ用紙を取り出し、そこに書いてある文を読み上げ始めた。
「医療品質レベルの世界ランキングで、一九五ヶ国中、日本は十一位を獲得している。これはアジアではトップクラスであり、また医療設備の科学技術についてもドイツと並ぶ水準だ。その他、日本はアメリカと違って国民皆保険制度を導入しており、健康保険の加入が義務付けられ、これによって誰でも簡単に医療を受けられるように」
「もう良いぞアラン」
「国民全員がインポの治療を受けられるなんて最高だね!」
「分かった分かった、最高だな……まぁそう言う訳で、日本にいる以上は治らないものなんて無いんだ。だから君はしっかりと、医師の言う事を聞きたまえ」
ステュアートにそう諭されたフィルは、車椅子の老人とすれ違いつつ、皮肉に満ちた笑みを浮かべる。
「そうかいそうかい。そんならその、世界十一位の医療とやらを受けに行こうじゃないか」
面倒臭そうに話を切り上げ、フィルはまだ微かに痛む左手を庇いながら足速に検査室へ向かう。
とっとと済ませてまた飲みに行こうと考えていた。そんな彼の足を止めたのは、通り過ぎようとした扉から飛び出して来た少女だ。
「うおっとぉ!?」
少女はフィルにぶつかっても謝る事も、振り返る事もせず、一目散にどこかへ駆けて行く。その後ろ姿をフィルは鋭く睨み付けた。
「なんだぁ、あのガキンチョ!? ぶつかっておいて謝りも無しか! 医療よりも教育水準を高くした方が良いぞ全く!」
憤る彼をステュアートがすかさず宥めてやる。
「まぁまぁ、落ち着けフィル。別にスラれた訳じゃないだろ? きっと何か理由があったんだ。トイレとか!」
「お股から血が出たんだ。間違いない」
真面目な顔で断言するアランを心底呆れた顔で見るステュアートだったが、すぐにその視線は開け放たれた戸の先の室内へ向けられた。
「ほぉ……驚いた。ここの病室は個室なんだな」
「マジぃ? ナース連れ込み放題じゃんか」
「アーラーン! 見滝原は英語を話せる人が結構多いからそう、あまり変な事を言わないでくれ!」
「日本人はナース嫌いなの?」
怒りがまだ残っているフィルは、二人を無視してさっさと検査室に行こうとする。
だが偶然足元に落ちていた物を見付け、すぐに歩を止めて拾い上げた。
「あ? さっきの無礼なガキンチョの物か?……なんだなんだぁ。やけに渋い趣味してるな」
「さっきの女の子の落とし物か?」
「だろな……おい見ろよ。女房の親父さんが趣味で集めてた、古いクラシック音楽のCDみたいだ。もはや骨董品だぞコレ」
「……なに? クラシック音楽?」
フィルに促されてステュアートもその、落ちていたCDを確認する。
ジャケットの所々が褪せた、恐らく中古品でかなり古い代物。タイトルは日本語なので読めなかったが、ヴァイオリン奏者がアップで撮影されたジャケットの写真からして、確かに弦楽器系のクラシック物だと察する事は出来る。
「…………ヴァイオリン……」
ステュアートはふと、昨夜の上条との会話を思い出し、ハッと顔を上げる。
すぐに部屋番号が振られたプレートへ目を向け、その下に貼られていたネームプレートを確認。
入院患者の名前は漢字で書かれていたものの、すぐにステュアートは上条から貰った名刺を取り出し、そこに書かれてあるものと照らし合わせた。
そしてネームプレートの漢字と、名刺にある「上条」の字と一致していると気付く。
「……なんてこった。すると、あの子が……」
「どうしたステュ? 知り合いか?」
「ステュって、タイとかベガスとか知り合いめちゃくちゃ多いよね。オチンポで繋がった人もいるけど」
余計な事を言うアランを一度睨み付けてから、ステュアートは彼が誰なのかを説明してやる。
「……彼は、ローレンの知り合いの息子さんだ。昨夜、僕が会った上条さんの……彼は天才ヴァイオリン少年だったらしい」
「だからこんな古臭いCD持ってんだな」
「あぁ……だが可哀想に……事故に遭って、左腕が動かなくなったそうだ。そして……今の医療じゃ、到底治せないとか。もうあの子はヴァイオリンを弾けない」
「さっきステュ、日本にいる以上は治せないものはないって言ってなかった?」
「誇張表現だ。間に受けるんじゃないよ」
アランの横槍に対応している隣で、フィルはCDと少年とを交互に見つめていた。
最後には出て行った少女が消えた廊下を見てから、察したように、そして呆れたように首を横に振る。
「……そう言う事か。そんで自暴自棄にでもなって、『ガールフレンド』に当たった訳か」
「あの様子じゃ、上条さんはもう治らない事を伝えたようだ……あんな項垂れて、部屋を覗く僕たちにさえ気付いていない」
「…………」
「フィル。僕は、そっとしておいてやるべきだと思うぞ。第一、僕らは赤の他人だ」
部屋に入ろうとしたフィルの肩を掴み、引き留めながらステュアートは言う。
フィルは一度溜め息を吐いてから、拾ったCDを見せつけながら彼を流し目で見やる。
「……CDを届けるだけだ」
その返答を聞いたステュアートは、困ったように眉を寄せながら微笑む。
「……なら、僕も行こう」
「じゃあ俺も」
「君は駄目だ。そこにいろ」
付いて行こうとするアランをステュアートが止めさせてから、二人は病室へ入って行く。
不服そうに口を尖らせるアランの後ろには彼を物珍しそうに見つめる、男の子の患者がいた。
「なに見てんだよクソガキ。ママのオッパイでもしゃぶってろ。英語分かる?」
男の子はアランに中指を立ててから去って行った。
傍らの台に積まれていたCDは、激しくひび割れて床に散乱していた。そしてCDを叩き付けたであろう少年の左手の甲は切れて、傷口から血が流れている。
その血が白いシーツを赤く汚して行くが、もはや知った事ではない。深い深い絶望と他への恨みが、彼の心を閉じ込めてしまった。
昼間に神妙な顔でやって来た父と担当医から告げられたのは、左腕はもう動かない事と、今の医療ではどうしようもない事……そして、ヴァイオリンは諦めろと言う事。
いつか治ると信じていた自らの希望は打ち砕かれ、ヴァイオリン奏者となる夢が消えた。
あの事故は彼の未来のみならず、邁進を続けたこれまでの経験全てを踏み付け、否定した。その事実を受け止め、切り替えられる人間はいない。
元気付ける為に、さやかがいつもいつも音楽ショップから見つけて来ては聴かせてくれたクラシック音楽のCD。
弾けなくなった今となっては、ジャケットに映る奏者を見るだけで忌々しい。加えて何も知らずにまたのこのこ届けに来た彼女さえ、憎悪の対象と見做してしまった。
見ていた夢も、厳しくも楽しかった経験も、想像した輝かしい未来も、動かない癖に痛む左手と一緒にどうでも良くなる。
考える事も面倒になり、その内憎たらしいほどに照る夕陽を虚しく眺めた。
開けっ放しの窓から風が入り、カーテンを踊らせる。
何もかもがもうどうでも良い。希望を呑まれ、絶望を通り越し、虚無へと陥った彼はその内、瞳を閉じた。
「……邪魔する」
閉じかけた思考は、誰かの声でまた引き摺り出される。
男の声で、しかも英語だ。少なからずそれに驚いた彼は、ハッと目を開けて隣を見た。
視線の先には、二人の白人が立っている。一人は顔立ちの整った男で、もう一人は真面目そうな眼鏡の男──フィルとステュアートだ。
フィルは廊下で拾ったCDを見せてから、少年──恭介に話しかける。
「英語は、分かるか?」
「…………ええと……少しなら」
ウィーンへの留学を視野に入れていただけに、語学の勉強も欠かさなかった。
重点的にしていたのはウィーンの公用語であるドイツ語だが、父の方針で英語もある程度理解出来るほどに学んではいる。尤もこの勉学も無駄に終わったなと、誇らしさよりも徒労感の方が今は強いが。
とは言えある程度英語が分かると知ったフィルは、遠慮をやめたように話しかけて来た。
「これは君のだろ? 部屋の前に落ちていた」
「…………あげますよ、ソレ」
「あいにく、趣味じゃないんだ。君は好きだと聞いたが?」
「…………いきなりなんですか? と言うかあなたたち、誰?」
すかさずステュアートがフィルよりも前に出た。
「やぁ、恭介くん! 僕はドクター・ステュアートで、こっちは友達のフィルだ。僕は君のお父さんの知り合いでね……ローレンか、テディーは知ってるだろ?」
「…………テディー君って、あの薬指を切った?」
ステュアートとフィルは思わず同時に顔を背けてしまったが、すぐにまた恭介と向き直る。
「と、とにかく……昨夜、君のお父さんとレストランで食事したよ。色々と君の事も聞いた……ホント、何と言えば良いのやら……」
「慰めならもう良いです……すいません。出て行って貰えませんか?」
「せめて何か、差し入れでも……」
「出て行ってください」
困り果てて口元を押さえ、押し黙ってしまったステュアート。
すると次に前へ出たのは、フィルだ。彼はベッドの隣にあった椅子を寄せてから座り、恭介と目線を合わせて話す。
「そんな長居はしない。五分……いや、三分だけで良い。話をさせてくれ」
「………………」
肯定の沈黙と捉えたフィルは、「Thank you」と言ってから続けた。
「今回の不幸は、本当に辛い事は分かる。会ったばかりの俺なんかが同情し切れないほど、とても辛いハズだ」
「みんなそう言って慰めますよ」
「だろうな。だから慰めは無しだ。その代わり、励まし兼ねてめちゃくちゃ面白い話をしてやる」
「…………はい?」
てっきりこれまで、家族や友達から耳にタコが出来るほど聞かされた慰めを言われるのかと思っていた。それだけにフィルの「めちゃくちゃ面白い話をする」は意表を突かれた。
フィルはニヤリと笑うと、その「面白い話」を始める。
「これは今から二年前。ある四人の男が、ラスベガスで経験した──」
「おいフィル!? その話をするのか!? なんでよりによって!?」
「あいつの反応は気にするな。んで、この話のタイトルは『消えた花婿と史上最悪の二日酔い』と言うんだが──」
それからフィルの口から語られたのは、まるで映画のような小噺。
親友の結婚祝いにラスベガスで行った男たちは記憶が飛ぶほど豪遊し、目が覚めれば二日後に結婚を控えた親友が消えて、風呂場に虎が、部屋には知らない赤ん坊がいる変な状況に立たされていたそうだ。
最初は聞き流すつもりだった恭介だが、フィルの巧みな話術に釣られ、ついつい先が気になり始めてしまう。
時間はとうに三分を超過していたが、約束はすっかり忘れていた。
「……ありえませんよ」
「いやマジだって! そこのドクターは自分で歯を抜いたし、知らない女と結婚しかけたんだぞ?」
「あのなぁ? そう言う君こそ盗んだパトカーで歩道乗り上げるわ、警察を脅すわでめちゃくちゃだったが?」
「写真を見る限り結構ハッチャけてたのはお前だろぉ?」
「あの写真の話はしない約束だっ!!」
どれだけ話しても、恭介から無気力な返答しか返ってこない。それでもフィルの話の節々でクスッと笑う姿は確認出来た。
「……それで結局、消えた花婿はどこにいたんです?」
「最初に乾杯したホテルの屋上だよ。見つけた時は全身日焼けで死にかけていて、マジウケたな」
「俺もめっちゃ笑った」
この場にいないハズの声が聞こえ、フィルとステュアートは曇った表情で振り返る。
廊下で待つよう言っていたアランが、部屋の隅で何食わぬ顔してジュースを飲んでいた。
「……おぉい、アラン。お前は待ってろって、ステュから言われてただろ?」
「あの人は?」
「まぁ、あいつもとある四人組の一人だな」
「そして全ての元凶」
ステュアートはそう言い切ると、アランの方を向く。
「すまないがアラン、ちょっとフィルの邪魔をしないでくれ」
「ベガスの話してるなら、俺もいなきゃ駄目じゃん!」
「君はフィルと違ってオブラートに包めないからな」
「オブラートに砕いた精神安定剤包んで飲んだ事あるよ」
「そう言うトコだぞ」
微妙な顔を見せる恭介を見て「マズい」と察したステュアートは、アランに黙らせる為に役目を与えようと考え直した。
そこで彼は開けっ放しの窓を指差し、お願いをする。
「あー、アラン。少し……風が強くなって、寒くなって来たなぁ。窓、閉めて貰える?」
「窓? 俺がぁ?」
「今窓の向こうにクジラがいるぞ」
「クジラ?……嘘、マジじゃんクジラじゃん!?」
クジラを模した飛行船が夕焼けの空を飛んでいた。すぐにアランは開いた窓の方へ行き、クジラへ手を振る。
途端に一際強い風が吹き、巻き上がった粉塵がアランに降りかかった。
「うわっ!? ペッペッ!! 砂だぁ!! 上着が汚れちゃったじゃん!! これママに買って貰ったお気にの奴なのに!!」
「アラン静かにしろよ!」
フィルの注意を受ける手前、アランは砂のかかった上着を脱いでパタパタと仰いでいた。埃がもうもうと舞っていて、恭介とステュアートは顔を顰める。
それを呆れながら見てから、フィルは再び恭介に話しかけた。
「……まぁ、騒がしくなって悪かった。どうだ? 元気になったか?」
「……どうでしょう。元気になっても、腕はもう治りませんけど」
「そこなんだが、恭介君」
待っていたと言わんばかりに、ステュアートが口を挟んだ。
「医療と言うのは、日々進化している。昨日治らなかったものが、今日から治ると言った事も良くある」
「……治せないまま今に至るものもあるじゃないですか」
「その大抵は病気。君のは、怪我だ。そして腕はまだ繋がっていて……希望はあるんだ」
「………………」
「近い内に神経を修復する技術が見つかる。その時は……最高の外科医になる予定のテディーに任せようじゃないか」
続いてアランが何か思い付き、上着を叩きながら提案する。
「作曲してみるのはどう? 指揮者とかも面白そうじゃない?」
「そんな簡単に……」
フィルは笑いながら、ずっと持ったままだったCDをやっと、恭介の膝の上へ置いて返す。
「……まぁ、だからと言ってすぐには無理だよな。打ち込んで来たものが無駄になったって気付いた時ぁ、とんでもなく絶望する。そっからすぐ諦めろたって、諦められる訳がない」
「…………」
「だからって、周りを呪うのは違うだろ? このCDを届けたあの女の子だって……信じたかったハズだ。良いか恭介、女を泣かせるのは駄目だ」
そう諭すフィルの目は、さっきの朗らかだったものから寂しげなものへと変わっていた。
「……その子は、お前を追い詰める為にこれを持って来たのか?」
「…………それは……違います……さやかはそんな子じゃない……」
「……これからを考える前に、まずはあの子と和解した方が良い。一度突き放したら人間ってのは、時間が過ぎるほどに離れちまうもんだぞ?」
まるで自らにも問うているかのような口調だった。今のフィルの脳裏には、喧嘩別れをしてしまった妻の顔が滲んでいた。
そんなフィルの感情が恭介にも伝わったようだ。彼は少し俯き、チラリと床に散乱したCDを見た。
唇を噛んでから、また顔を上げる。
「…………また明日、話してみようと思います」
「それが良い」
「…………いや、明日じゃ駄目だ……さやかは僕の為に、いつも……なのに僕は……!!」
意を決し、恭介は身を乗り出してフィルたちに頼み込む。
「そ、そこに車椅子があります! 案内するんで、彼女の家まで連れて行ってください!」
「え、マジぃ?」
「ちょっとそれは急が過ぎるぞ!?」
恭介の決意にアランとステュアートは愕然とした様子を見せた。
頼みを聞き入れれば、病院側に迷惑をかけるし、後から何を言われるのか分からない。到底、断るべきだろう。
しかしフィルは一人、面白そうにニヤリと笑った。
「……よっしゃーーッ!! 地の果てまで連れて行ってやるッ!!」
「フィルぅ!? さすがにマズいって……!」
「馬鹿野郎ステュ!! ベガスの時を思い出せ! 俺たちに出来ん事はないッ!」
「思い出したくない記憶だよ!」
「良いかッ!? 恭介がまず一歩踏み出したんだ!! これを大人が乗ってやらんなら何とやらだぞ!?」
未だに渋るステュアートを押し退け、アランは部屋の脇に置いてあった車椅子を持って来ていた。
「乗りな」
「アラン! お前がいてくれて本当に良かったッ!!」
「あぁ、もう……! 分かった分かった! 付き合ってやるが、僕はもう知らないからな!?」
即座にフィルとステュアートが力を合わせて恭介を運び、車椅子に乗せる。
「ありがとうございますフィルさん!」
「なんだなんだ恭介! 意外と立ち直り早い奴だな!」
「なんか今は……気分が良いんです……!」
「その調子だ少年ッ!!」
そして四人は顔を見合わせ、病室を飛び出した。
太陽は落ちて、夜が顔を出す直前。決意を固めた彼らに、怖いものなどどこにもないのだ。
廊下を進み、外へと目指す。その時の皆の表情は、とても晴々しいものだった。
暗闇に堕ちるばかりと思われた恭介の胸には、一筋の光と未来への希望が、芽生え始めていた。
車輪は回る、男たちは行く。
誰も彼らを、止められない────
────フィルは、寝ぼけ眼で顔を上げた。
ホテルの高級絨毯の上でうつ伏せとなり、身体中は痛くて髪はボサボサだ。
「…………あ?」
ふらふらと身体を起こし、辺りを見渡す。
場所自体は自分たちが宿泊している、ユグドラシル見滝原のヴィラ・スイートルーム。
しかし部屋は荒れ放題。椅子やテーブルは全て横倒しで、カーテンは破れ、割れたカップやグラスが散乱し、部屋中に酒の匂いが充満している。
覚束ない足取りながらもやっとの事で立ち上がり、フィルは窓際へよたよた歩く。
夜に向かっていたハズなのに、今の外はあさぼらけ。小鳥が窓の前を飛び回り、白っぽい空が遠く彼方まで続く。
ガツンと何かが足に当たって、視線を落とした。
上向きに倒れた、見覚えのある車椅子がそこにあった。
「………………」
フィルは絶望し切った表情で、頭を抱える。
「…………何があったんだ……?」
どれだけ脳を絞っても……夕べの記憶は、全くない。